第41話 斉滅亡
田儋の抵抗が始まってから、秦軍の進みは明らかに鈍くなった。
斉王・建は戦う意思を示しておらず、斉の正規軍も大きく動いてはいない。それでも田儋に従った兵たちは、秦軍が通る道を避けながら小部隊に分かれ、補給隊や斥候ばかりを狙ってきた。
夜になれば陣の外へ矢が飛び、夜明け前には別の街道で荷車が焼かれる。追えば散り、追わなければまた別の場所へ現れるため、兵力では圧倒しているはずの秦軍が、なかなか決戦へ持ち込めなかった。
「また逃げたか」
李信が報告を聞き、地図の上へ手を置いた。
「はい。こちらが到着した時には、すでに林の中へ」
「追跡は?」
「二里ほど追いましたが、道が三つに分かれたため打ち切りました」
「それでいい。深入りするな」
以前の李信なら、そこでさらに追わせていただろう。
だが、楚で失ったものは大きかった。
自分の前から退く敵を見ると、身体は今でも追えと訴える。それでも一度立ち止まり、周囲を見る癖だけは身についていた。
その変化を、蒙恬も見ていた。
軍人としての李信は、以前より強くなっている。
それについて異論はなかった。
ただし、それと自分への感情は別だった。
◆
数日後、軍議の席で李信が地図の東側を指した。
「田儋は、この辺りを通っている」
細い谷と林が続く場所だった。
「補給隊を襲ったあと、北へ逃げたように見せて、実際には東へ回っている。次に出るなら、この谷を使う可能性が高い」
王賁が地図を見る。
「兵を置くのか」
「ああ。ただ、大勢を入れれば向こうも来ない。少数で塞ぐ必要がある」
李信は少し間を置き、蒙恬を見る。
「蒙恬の隊がいい」
蒙恬は表情を変えなかった。
「理由を伺っても?」
「斥候の扱いがうまい。奇襲を受けても崩れにくい。それに、谷を抜けられれば田儋の退路を一つ潰せる」
説明だけを聞けば、筋は通っている。
だからこそ、蒙恬はすぐには反論しなかった。
「承知しました」
王賁が二人を見比べる。
「兵数は私が決める。予定より多めに持っていけ」
「ありがとうございます」
軍議はそれで終わった。
陣幕を出たあと、蒙恬は一度だけ振り返った。
李信はすでに別の将と話している。
何もなかったような顔だった。
それが、かえって気になった。
◆
東の谷は、蒙恬が予想した通り、守るには厄介な場所だった。
左右に高い斜面があり、道幅も狭い。兵を多く置けば動きづらく、少なければ左右から攻められた時に逃げ場がなくなる。
「前だけ見るな。斜面の上にも斥候を置いてください」
「はい!」
「退路も二つ確保します。本道が塞がれた場合は南側へ抜けます」
部下が少し驚いた。
「奇襲を想定しているのですか?」
「ここなら、私でもします」
蒙恬は淡々と答えた。
さらに谷の出口にも小隊を置き、連絡役を増やした。
準備を終えた翌朝、斜面の上から角笛が鳴った。
「敵襲!」
ほぼ同時に矢が降ってきた。
木々の間から斉兵が現れ、谷の前後へ回ろうとする。
「盾を上げて! 前へ出ないでください!」
蒙恬は馬を進めながら、斜面を見上げた。
正面に見える兵は多くない。
本命は後ろだ。
「後衛、南へ寄せてください! 入口を取らせないように!」
命令が伝わる。
斉兵が谷の出口へ殺到したが、先に伏せていた秦兵が槍を並べて迎えた。
田儋は攻める場所を変えた。
「中央へ!」
斉兵が斜面から駆け下りる。
狭い谷で接近戦になった。
蒙恬は前線を支えながら、後方へ合図を送る。
「一隊ずつ南へ抜けます。走らせないでください。前の隊から順に!」
全軍を一度に退かせれば崩れる。
前で受け止めながら、一隊ずつ抜く。
田儋もそれを見ていた。
「逃がすな! 出口を先に取れ!」
斉兵がさらに押し込む。
秦兵にも倒れる者が出たが、蒙恬は隊列を崩させなかった。
最後の部隊が南側へ抜けたところで、自身も馬首を返した。
「退きます!」
谷から出た秦軍は、そのまま追撃を受けながらも開けた場所まで下がった。
そこまで出れば、斉兵も深く追えない。
田儋は距離を取ったまま、秦軍を見ていた。
「……あれが蒙恬か」
隣の兵が頷く。
「はい」
「いい将だな。もう少し慌ててくれれば、半分は取れた」
田儋はそれ以上追わず、再び兵を散らした。
◆
夕刻、蒙恬は本陣へ戻った。
損害報告を済ませると、その足で李信のもとへ向かう。
「李信将軍」
「何だ」
「東の谷ですが、予想通り田儋が来ました」
「そうか。損害は?」
「あります。ただ、隊は維持しております」
「なら問題ない」
李信は地図を見たまま答えた。
蒙恬はしばらく黙ってから続ける。
「見事な配置でございました」
そこで初めて、李信が顔を上げた。
「嫌味か?」
「いいえ。軍事的には理に適っています。私の隊なら持ちこたえられるという判断も、間違ってはいませんでした」
「なら、何だ」
「ただ」
蒙恬は声を変えなかった。
「私を嫌うのは構いませんが、そのために兵を巻き込むのはおやめください」
李信の顔から、僅かに表情が消えた。
「何の話だ」
「分からないのであれば、それで結構です」
「勝手に決めつけるな」
「では、私の考えすぎなのでしょう」
蒙恬は一礼した。
「次も命令には従います。ただし、部下を無駄に死なせるつもりはありません」
そのまま去ろうとしたところで、後ろから声が飛んだ。
「……お前はいつもそうだな」
蒙恬が足を止める。
「何でしょう」
「正しい顔をしている」
李信は低い声で言った。
「楚でもそうだった。お前は止めた。俺は進んだ。結果は知っての通りだ」
「それを今、私に言われても困ります」
「分かってる」
返事は早かった。
「分かってるから腹が立つんだ」
蒙恬は振り返った。
李信自身も、口にしてから少し驚いたようだった。
そこへ別の声が入る。
「そこまでにしろ」
王賁だった。
いつから聞いていたのか分からない。
王賁は二人の間へ来ると、まず蒙恬へ目を向けた。
「谷での判断は聞いた。よく持ちこたえた」
「ありがとうございます」
次に李信を見る。
「以後、各隊の配置は私が決める」
李信の眉が僅かに動いた。
「俺が私情で配置したと?」
「そうは言っていない」
「なら」
「疑われる配置を続ける必要もない」
王賁の声は平坦だった。
「今は斉を落とす。お前たちの昔の話は、そのあと勝手にやれ」
李信はしばらく黙ったあと、視線を外した。
「……了解した」
蒙恬も一礼する。
「承知しました」
それで話は終わった。
少なくとも、表向きには。
◆
田儋の遊撃は、その後も続いた。
だが、王賁は追い回すことをやめた。
街道沿いに小さな拠点を増やし、補給隊には必ず護衛をつける。橋や渡し場を押さえ、田儋が兵を集められる集落には先に秦軍を置いた。
一度に捕らえようとせず、動ける場所そのものを減らしていく。
田儋も黙ってはいなかった。
小さな秦軍拠点を襲い、夜のうちに道を壊し、秦兵が集まる前に別の場所へ移る。時には追撃隊を逆に伏兵へ誘い込み、損害を与えた。
それでも、使える場所は少しずつ減っていった。
「西の村も秦軍が入りました」
「南の渡しもです」
「兵糧を出してくれる邑も、もうほとんどありません」
報告を聞いた田儋は、地図の前で腕を組んだ。
「朝廷は?」
「変わりません。王は降伏の準備を進めています」
「そうか」
それだけ答えた。
最初から分かっていた。
斉王も后勝も、自分を助けるつもりはない。
それでも、ここまで戦った。
「兵は何人残っている」
「まとまって動けるのは、二千ほどです」
「なら、まだ動けるな」
部下の一人が顔を上げる。
「まだ戦うのですか」
田儋はその問いに少し笑った。
「降るためにここまで来たと思うか?」
◆
最後の戦いは、斉東部の小さな平地で起きた。
王賁は田儋が移動できる道をほぼ塞いだあと、三方向から兵を寄せた。逃げ道を完全に断てば死兵となって暴れるため、東だけはわざと薄くしてある。
「東へ逃がすのか?」
李信が尋ねる。
「ああ」
王賁は答えた。
「斉王を取るのが先だ。ここで何日も潰す必要はない」
「逃がせばまた来るぞ」
「来たら、その時に討つ」
李信は少し考えてから頷いた。
「分かった」
秦軍が進む。
田儋は正面から迎え撃った。
数では圧倒的に不利だったが、最初から勝ち切るつもりではない。兵を小さく分け、秦軍の隙へ入り、包囲が閉じる前に位置を変える。
蒙恬の部隊とも一度ぶつかった。
「前へ出すぎないでください!」
蒙恬は追撃を止めた。
斉兵が退く。
その先へ秦兵は入らない。
田儋は遠くからそれを見て、舌打ちした。
「どいつも追ってこなくなったな」
秦軍も学んでいる。
特に楚で大敗した者たちは、罠を知っていた。
午後になる頃には、斉兵の数は半分近くまで減っていた。
田儋も腕に傷を負い、鎧には血がついている。
「将軍、東が空いています!」
「分かってる」
「罠でしょうか」
「だろうな」
「では」
「それでも行く」
田儋は馬を東へ向けた。
「ここで死ねば、それで終わりだ。生きていれば、また兵を集められる」
残った兵をまとめ、秦軍の薄い場所へ突っ込む。
秦兵も止めようとしたが、王賁から深追いするなという命令が出ていた。
田儋は包囲を抜けた。
追ってくる兵がいないことを確認すると、一度だけ振り返る。
遠くには秦軍の旗が並んでいた。
「……斉は、ここまでか」
隣の兵が何も言えずにいる。
田儋は手綱を引いた。
「行くぞ。俺はまだ降らん」
そのまま東へ消えていった。
◆
田儋が戦場を離れると、斉に組織だった抵抗を続ける者はいなくなった。
秦軍は斉の北から南へ進み、都へ迫った。
斉王・建の宮廷では、后勝が秦から届いた条件を読み上げていた。
「王の命は取られません。王族についても、抵抗しない限り処刑は避けられるとのことです」
「……本当だな」
「はい」
斉王・建は何度も同じことを尋ねた。
城外からは、秦軍が近づいているという報告が続いている。
「もし戦えば?」
「勝てません」
后勝は迷わなかった。
「田儋があれだけ動いても、秦軍を止められませんでした。今から正規軍を出しても同じです」
「民はどうなる」
「城内戦になれば、多く死にます」
斉王・建は長い間、俯いていた。
やがて顔を上げる。
「門を開けよ」
それが斉王として最後に出した大きな命令となった。
◆
秦軍が都へ入った日、大きな戦闘は起きなかった。
斉兵は武器を置き、城門は開かれた。
王賁は先頭に立って宮へ入り、斉王・建の降伏を受ける。
李信も、蒙恬も、その場にいた。
斉王は王冠を外し、秦軍の前へ進み出た。
「斉王・建、秦王に降る」
その言葉が伝えられると、広間にいた斉の臣たちは次々と頭を下げた。
誰も歓声を上げなかった。
秦兵も、勝鬨を命じられてはいない。
五百年以上続いた戦乱の最後の国は、大きな決戦を経ることなく秦へ降った。
◆
斉王降伏の報告が咸陽へ届いた時、扶蘇は政の近くにいた。
使者は床へ膝をつき、深く頭を下げる。
「斉王・建、降伏。斉都は秦軍の支配下に入りました」
広間が静かになった。
扶蘇も、すぐには言葉が出なかった。
韓が滅びた。
趙が滅びた。
魏が滅び、楚が滅び、燕も代も消えた。
そして今、斉が降った。
自分が生まれてからずっと続いていた戦争が、ようやく終わったのだ。
政は玉座に座ったまま、しばらく何も言わなかった。
群臣が王の言葉を待っている。
やがて政が口を開いた。
「これで、六国はすべて秦に帰した」
声は落ち着いていた。
「韓、趙、魏、楚、燕、斉。その王はすべて失われ、天下に並び立つ国はない」
群臣が一斉に頭を下げた。
「王よ、天下統一、まことにおめでとうございます!」
声が広間へ広がる。
扶蘇は、その中で母を見ていた。
政は笑っていなかった。
喜んでいないわけではない。
ただ、長く求め続けてきたものを手にした直後とは思えないほど、静かだった。
扶蘇には、その理由が少し分かる気がした。
ここまで来るために、多くの人間が死んだ。
桓齮。
李牧。
司馬尚。
荊軻。
韓非子。
昌平君。
項燕。
秦側にも、名を知らない兵が数えきれないほどいる。
それらすべての上に、今の統一がある。
「扶蘇」
呼ばれて、扶蘇は顔を上げた。
「はい、母上」
「終わったぞ」
その言葉だけは、王が群臣へ告げるものではなかった。
母が息子へ言った言葉だった。
扶蘇は少しだけ間を置いてから頷いた。
「はい」
戦国の世は終わった。
秦が天下を統一した。
扶蘇が前世の歴史で知っていた、始皇帝の天下が、ついに現実になった。
第1章 了




