第40話 最後の残敵
燕が滅び、残るは代の残党と、東の大国・斉のみとなった。
政は天下統一へ向けた最後の征討を命じ、大将には王賁を据えた。副将には将軍位へ復帰した李信、そして蒙恬が加わった。
楚で苦い経験をした三人が、今度は同じ軍を率いて北へ向かう。
最初の標的は、代だった。
◆
代を治めていたのは、趙王家の血を引く公子嘉だった。
趙が滅びたあと、北方へ逃れた彼女は代王を名乗り、旧趙兵や秦への服従を嫌った者たちを集めて抵抗を続けていた。
だが、その勢力はかつての趙とは比べものにならない。
兵は少なく、土地も狭く、頼れる同盟国もすでに残っていなかった。
王賁は正面から軍を進める一方で、蒙恬に周辺の道を押さえさせ、李信には逃走路になりそうな北東側の監視を任せた。
以前の李信なら、敵が退けばそのまま追い続けたかもしれない。
だが今は違う。
「止まれ」
代兵が崩れ、北へ逃げ始めたところで、李信は自分から兵を止めた。
「追わないのですか?」
部下が尋ねる。
「あの先は道が細い。伏せられたら面倒だ。斥候を回してから行く」
しばらくすると、案の定、道の先に小さな伏兵が潜んでいることが分かった。
李信は笑いもしなかった。
「右から回れ。正面は放っておけ」
迂回した秦兵が側面へ出ると、伏兵は戦わず退いた。
王賁はその報告を聞き、何も言わず地図へ視線を落とした。
ただ、蒙恬だけが少しだけ李信を見た。
楚で共に戦った時とは、動きが違う。
そう思ったが、口には出さなかった。
◆
代の抵抗は長く続かなかった。
秦軍は城邑を一つずつ押さえ、逃げ道を塞ぎながら中心部へ迫った。公子嘉も最後まで兵をまとめようとしたが、残っていた部隊だけでは王賁の軍を止められない。
最後の拠点が囲まれたあと、公子嘉は捕らえられた。
「代王、公子嘉を捕縛しました」
その報告が咸陽へ届いた時、扶蘇はしばらく黙っていた。
趙が滅びた時、まだ北には代が残っていた。
だから、どこかで完全に終わったとは思わずに済んでいた。
だが今、その代もなくなった。
扶蘇は目を閉じた。
思い出したのは、邯鄲の土だった。
牢の中で殺された李牧。
彼女を逃がすため最後まで戦った司馬尚。
そして、城の外で蒙恬とともに掘った穴。
あの時、自分の手で李牧を埋めた。
趙王を直接動かしたのは郭開だった。
それでも、趙の宮廷へ金を流し、李牧を失脚させる策を最初に口にしたのは自分だった。
あの策がなければ、結果は違っていたかもしれない。
(李牧。俺の策も、あなたの死へ繋がった)
それを忘れるつもりはなかった。
趙は今度こそ消えた。
李牧が守ろうとした国も、司馬尚が命を懸けた国も、もう存在しない。
扶蘇は目を開いた。
残る国は、一つだけだった。
斉。
◆
斉は、これまでほとんど秦と正面から戦っていなかった。
韓が滅び、趙が崩れ、燕が逃げ、魏が水に沈み、楚が六十万の軍に敗れていく間も、斉は東方で国を保っていた。
その理由の一つが、宰相の后勝だった。
后勝は以前から秦と通じ、多くの金品を受け取っていた。斉王・建もまた、秦との戦争を避ける道を選び続け、他国が秦と戦っている間にも大軍を送ろうとはしなかった。
秦軍が斉へ迫れば、戦わず降る。
少なくとも后勝は、そのつもりだった。
「ここまで来れば、戦う必要などございません」
斉の宮廷で、后勝は王へ進言した。
「秦は韓、趙、魏、楚、燕をすべて取りました。今さら斉だけで抗って、何ができます」
斉王・建は黙っていた。
「民を死なせぬためにも、秦王へ従うべきです。王のお命についても、私から秦へ話を通します」
「……本当に、命は助かるのか」
「そのために、これまで関係を築いてきたのです」
斉王・建はしばらく考えたあと、弱く頷いた。
その場にいた者たちの多くも、反対しなかった。
戦えば負ける。
それを皆が理解していた。
だが、その中で一人だけ、顔を上げた男がいた。
田儋。
斉王家に連なる田氏の一族であり、軍を預かる武将でもあった。
「王よ」
田儋が口を開く。
「本当に、戦わず降られるのですか」
后勝が眉を寄せた。
「田儋。すでに決まったことだ」
「私は王に聞いている」
男の声は大きくなかった。
それでも、広間にいた者たちは一斉に彼を見る。
この国では男は少ない。
まして王族に近い家の男なら、本来は戦場から遠ざけられてもおかしくない。
だが、田儋は自ら軍に入り、兵を率いてきた。
「韓は戦った。趙も戦った。燕も楚も、最後まで兵を出した」
后勝が遮る。
「だから滅びたのだ」
「そうだ」
田儋は后勝を見る。
「だが、斉は何をした」
「国を残した」
「他国が滅びるのを見ていただけだろう」
宮廷の空気が変わった。
「田儋!」
「秦から金を受け取り、他国が助けを求めても動かず、最後には自分たちも戦わず降る。それで国を守ったと言うのか」
后勝の顔が険しくなる。
「言葉を選べ」
「選んでいる」
田儋は今度こそ斉王を見た。
「王。私は秦に勝てるとは申しません。今の斉だけで秦を退けられるとも思っていない」
斉王・建は何も言わない。
「それでも、一度も戦わず国を渡すことだけは認められない」
「では、民を死なせるのか」
王が尋ねた。
田儋は少し黙った。
「戦えば死者は出ます」
「なら」
「だからといって、王も臣も何もせず降ることが正しいとは思いません」
后勝が前へ出た。
「お前一人の意地のために国を巻き込むつもりか」
「国を売った者に言われたくない」
「何だと」
「秦から受け取ったものを、ここで全部並べてみるか?」
后勝の顔から色が消えた。
斉王・建が手を上げる。
「もうよい」
二人が黙る。
「私は、秦とは戦わぬ」
田儋の目が細くなった。
「王命ですか」
「そうだ」
「……分かりました」
田儋は頭を下げた。
后勝が息を吐く。
だが、田儋はそのまま続けた。
「ならば、私は王の兵を使いません」
斉王・建が顔を上げる。
「何を言っている」
「私に従う者だけで戦います」
「許さぬ」
「許しを求めておりません」
周囲がざわめいた。
「私は田氏の人間です。秦へ降るために生きてきたわけではない」
田儋は深く一礼した。
「これより先、私の戦は私の責任で行います。敗れた時は、私一人を逆賊として処分されればよい」
そう言い残し、男は広間を出た。
斉王・建は呼び止めなかった。
后勝も追わせようとはしなかった。
少数の兵で秦軍に挑んだところで、すぐに潰される。
二人とも、そう考えていた。
◆
だが、田儋のもとには思ったより多くの者が集まった。
秦へ降ることに納得できない兵。
他国を見捨て続けた朝廷に不満を持つ者。
田氏への恩がある者。
数は秦軍には遠く及ばない。
それでも一軍を作るには足りた。
田儋は集まった兵たちを前にして、最初に言った。
「正面から戦えば負ける」
誰も声を上げなかった。
「秦は強い。兵の数も、武器も、補給も、こちらより上だ。だから、大軍同士の戦などしない」
地図を開く。
「道を使わせるな。荷を運ばせるな。休ませるな。戦う場所はこちらで決める」
部下の一人が尋ねた。
「秦軍を追い返せますか」
「分からん」
田儋は即答した。
「だが、何もせず門を開くよりはいい」
それだけだった。
◆
代を平定した秦軍が斉へ向きを変えた頃、最初の異変が起きた。
「補給隊が襲われました!」
報告を受けた王賁は地図へ視線を落とした。
「どこだ」
「北東の街道です。荷車十数台を焼かれ、護衛にも被害が出ています」
「斉軍か?」
「旗は田氏のものだったとのことです」
李信が腕を組む。
「王は降るんじゃなかったのか」
「そのはずでした」
蒙恬が答えた。
「王命ではない兵でしょう」
王賁は周囲の将を見る。
「数は」
「多くありません。襲撃後、すぐに散っています」
「面倒だな」
李信が言った。
その日の夕方には、別の場所からも報告が来た。
斥候が襲われた。
橋が壊された。
夜になれば小さな部隊が陣へ近づき、矢を放ってすぐに退いた。
どれも大きな被害ではない。
だが、一つ一つ対応すれば軍の足が止まる。
「名は?」
王賁が尋ねた。
「田儋という男です。斉王家に連なる田氏の者で、王命に背いて兵を集めたとのこと」
李信が鼻を鳴らした。
「男なのに、自分から戦場へ出たか」
蒙恬が隣から言う。
「あなたもそうでしょう」
「俺は昔からだ」
「なら、珍しがることでもないのでは」
李信は一瞬だけ蒙恬を見る。
「……そうだな」
表情は変わらなかった。
だが、その声は僅かに低かった。
王賁は二人を見たが、何も言わず地図へ戻る。
「正面の斉軍だけを見ていると、後ろを削られる。明日から補給隊の護衛を増やす。斥候も単独では出すな」
「了解」
李信が答える。
「承知しました」
蒙恬も続いた。
秦軍は、斉の国境へ進み始めた。
斉王は戦うつもりがない。
それでも、戦は始まった。
その相手は王でも、斉の朝廷でもない。
田儋という一人の男と、彼に従った者たちだった。




