第39話 再起
楚が滅び、秦の前に残る大国は斉だけとなった。
だが、天下統一を名乗るには、まだ北に二つの残敵が残っている。
一つは燕だった。薊を失った燕王・喜と公子・燕丹は遼東へ逃れ、そこでなお兵を集めている。
もう一つは代。
趙滅亡の際に逃れた公子嘉が北方で代王を称し、旧趙の兵や民をまとめながら秦への抵抗を続けていた。
政は、その二つをまとめて平定するよう王賁へ命じた。
そして、出征する軍の名簿には、扶蘇がよく知る男の名があった。
李信。
ただし、その名の横にある役職は、将軍ではなかった。
千人将だった。
◆
「李信が、自分から従軍を願い出た?」
扶蘇が尋ねると、報告に来た官吏は頷いた。
「はい。千人将として一隊を預かり、燕・代征討へ加わりたいとの願いが出され、認められております」
楚で二十万を失った責任を問われ、李信は将軍位を剥奪された。
かつてなら何万もの兵を動かしていた男が、今預けられているのは千人だけである。
それでも、辞めなかった。
地位を失ったからといって軍を去ることも、戦場から離れることもしなかった。
「……そうか」
扶蘇は、それだけ答えた。
以前の李信なら、千人将への降格など耐えられなかったかもしれない。
だが今は、その千人を率いて戦場へ戻ろうとしている。
何を考えているのかは、聞かなくても少し分かる気がした。
◆
遼東へ入った秦軍に対し、燕側は街道と山地を利用しながら防衛線を作った。
すでに国の中心部を失っているとはいえ、ここまで逃れてきた兵たちは簡単に降るつもりがない。正面の道を固めるだけでなく、小さな部隊を周囲へ散らし、秦軍の側面や補給隊を狙おうとしていた。
王賁は軍全体を急がせなかった。
「前へ出すぎるな。敵は追わせるつもりで兵を見せている」
その命令を受ける側に、李信もいた。
以前なら、目の前で退く敵を見ればすぐに追ったかもしれない。
今は違った。
「止まれ」
部下が前へ出ようとしたところを、李信が止める。
「追わないんですか?」
「道を見ろ」
李信は馬上から前方を指した。
敵兵は少ない。
だが、その先の道は次第に細くなり、左右には林が広がっている。
「ここへ入ったら、横から来る」
「では、どうします」
「斥候を回せ。正面だけじゃなく、右の林の奥まで見ろ」
返事をした兵たちが動く。
しばらくして戻った斥候は、林の奥に燕兵が潜んでいることを報告した。
「やっぱりな」
李信は表情を変えなかった。
「左へ回る。あいつらが待っている場所には入らない」
正面の敵を追わず、別の道から進む。
伏兵を避けながら側面へ出ると、今度は燕軍の補給路が見えた。
兵そのものは多くない。
だが、荷車が細い道へ並び、後方から食糧と武器を運び込んでいる。
「そこだ」
李信が言った。
「兵を半分だけ出す。荷を奪ったら戻れ。奥まで追うな」
部下が一瞬だけ李信を見る。
「追わないんですか?」
「聞こえなかったか?」
「いえ!」
秦兵が動いた。
補給隊を守っていた燕兵は、まさか林を大きく迂回して秦軍が現れるとは思っていなかったらしく、対応が遅れた。
短い戦闘のあと、荷車の多くが秦軍の手に落ちる。
逃げる兵もいた。
だが、李信は追わせなかった。
「戻れ。目的は終わった」
かつての部下たちなら、耳を疑ったかもしれない。
今の李信は、自分から止まった。
◆
補給を削られた燕軍は、次第に防衛線を維持できなくなった。
王賁は正面から圧力をかけ、守りの薄くなった場所を少しずつ崩していく。その中で李信の千人隊は、主力同士がぶつかる場所ではなく、伝令路や物資の集積所、敵が退いた後にできる隙を狙って動いた。
目立つ戦い方ではない。
それでも、よく効いた。
「また李信の隊か」
報告を受けた王賁は、地図を見ながら呟いた。
「今度は北の道を押さえたそうです」
「深く入ってないだろうな」
「入っておりません。敵兵が退いたあとも追わず、その場を固めています」
王賁は少しだけ目を細めた。
「……学んだな」
それ以上は言わなかった。
やがて燕軍の守りは大きく崩れた。
遼東の中心部へ秦軍が入り始めると、燕王・喜と燕丹もさらに逃れようとしたが、すでに道は限られていた。
王賁は各方面へ兵を出し、逃走路を塞いでいく。
その一つを担当したのが、李信だった。
「前に王の馬車があります!」
斥候の報告を聞いても、李信はすぐには突っ込まなかった。
「左右は?」
「燕兵が少数」
「後ろは?」
「こちらへ来る部隊は確認されていません」
「よし。両側を先に押さえろ。逃げ道をなくしてから行く」
千人が左右へ分かれる。
燕兵は抵抗したが、すでに戦意も兵数も足りなかった。
道が塞がれたことを確認してから、李信は中央を進んだ。
逃げようとしていた馬車が止まる。
その前に兵が並んだ。
「武器を捨てろ!」
燕兵はしばらく構えていたが、周囲を秦兵に囲まれていることが分かると、少しずつ槍を下ろした。
馬車から降ろされた二人を見て、李信は息を吐いた。
一人は燕王・喜。
もう一人は、公子・燕丹だった。
「二人とも、生きたまま連れていく」
部下が頷く。
李信はそれだけ命じた。
勝ち誇ることもなかった。
楚へ向かう前の自分なら、この場でどれほど大声を上げていただろう。
今は、そんなことを考える余裕もなかった。
◆
燕王・喜と燕丹を捕らえたという報告は、すぐに王賁へ届いた。
「李信が?」
「はい。逃走路を先に塞ぎ、その上で捕縛したとのことです」
王賁は報告書を読み、しばらく黙った。
やがて李信本人が二人の虜囚を伴って戻ってくる。
「燕王・喜、ならびに公子・燕丹を捕らえた」
以前のような誇示する口調ではなかった。
事実だけを伝える。
王賁は二人を確認してから、李信を見る。
「よくやった」
「まだ代が残ってる」
「分かってるなら休め。兵も疲れてる」
李信は少しだけ笑った。
「そうする」
その返事を聞き、王賁も何も言わなかった。
◆
遼東の平定後、燕王・喜と燕丹は咸陽へ送られた。
李信も復命のため宮へ戻った。
朝議の場で、王賁から正式な戦功の報告が読み上げられる。
敵の補給路を断ったこと。
複数の退路を押さえたこと。
そして、燕王と燕丹の捕縛。
いずれも、千人将として挙げた功だった。
「李信」
政が呼ぶ。
「はい」
以前と比べ、李信の返事は落ち着いていた。
「楚では、お前に二十万を預けた。それを失った責任は消えぬ」
「承知しております」
「だが、その後も軍を去らず、千人将として務めた。今回の戦功については、王賁からも十分な報告を受けている」
政は少し間を置いた。
「将軍位へ戻す」
群臣の中に小さなどよめきが起きた。
李信は顔を上げたが、すぐに頭を下げた。
「ありがとうございます」
「次は、同じ失敗をするな」
「はい」
短いやり取りだった。
それでも十分だった。
扶蘇は列の中から李信を見ていた。
楚へ向かう前の男とは、少し違って見える。
勢いを失ったわけではない。
前へ出る力そのものは残っている。
ただ、止まることを覚えた。
それが一番大きな違いだった。
◆
李信が退いたあと、御前には燕王・喜と燕丹が残された。
二人とも縄を打たれている。
政の視線は、燕王よりも燕丹へ向いていた。
「久しいな、丹」
燕丹が顔を上げる。
「……そうだな、政」
王と虜囚という立場になっていても、そこだけは昔と同じ呼び方だった。
「最後に会った時には、こんな形になるとは思っていなかった」
「私は、少しは思っていた」
政の眉が動く。
「だから荊軻を送ったのか」
「そうだ」
燕丹は否定しなかった。
広間が静かになる。
「お前が秦王になった時、私は嬉しかった。邯鄲で一緒にいた者が、生きて秦へ帰り、王になったのだから」
政は黙って聞いている。
「だが、秦が韓を取り、趙を取り、燕へ近づくにつれて、喜べなくなった。私が知っていたお前と、燕を滅ぼしに来る秦王が、同じ人間だと思えなくなった」
「だから殺そうとした」
「怖かったんだ」
燕丹は静かに答えた。
「お前が私の知っていた政でなくなることが、ではない。たぶん最初から同じだった。私は、自分がそれを認めたくなかっただけだ」
政の表情が僅かに変わった。
「燕を守るためか」
「それもある。ただ、それだけならもっと別の方法もあったかもしれない」
燕丹は視線を落とした。
「友だったお前に国を奪われるのが嫌だった。だから、先にお前を消そうとした。今考えれば、随分身勝手だ」
扶蘇は黙って二人を見ていた。
燕丹は荊軻を送り、母を殺そうとした。
その結果、自分は初めて人を殺した。
あの時の感触を忘れたことはない。
だから、目の前の女に同情だけを向けることもできなかった。
政も同じなのだろう。
しばらくして、政が口を開いた。
「私は、お前を許してはいない」
燕丹が顔を上げる。
「当然だ」
「荊軻は私を殺そうとし、扶蘇まで巻き込んだ。そのことを忘れるつもりはない」
「分かっている」
「だが、お前を殺すつもりもない」
群臣の間に僅かなざわめきが起きた。
燕丹自身も、少し驚いた顔をした。
「……なぜだ」
政はすぐには答えなかった。
「邯鄲で、お前は私の友だった。それも事実だからだ」
二人の間に沈黙が落ちた。
「幽閉する。自由にはしないし、燕へ戻すこともない。ただし命は取らぬ」
燕丹はしばらく政を見つめていた。
「甘くなったな」
「違う」
「そうか?」
「お前を生かすことと、許すことは同じではない」
燕丹は少し笑った。
「それも、お前らしいな」
兵が近づき、燕丹を立たせる。
連れていかれる直前、彼女はもう一度だけ振り返った。
「政」
「何だ」
「私たちは、どこで間違えたんだろうな」
政は答えなかった。
燕丹も答えを求めなかった。
そのまま広間を出ていった。
◆
その夜、扶蘇は政を訪ねた。
「母上」
「燕丹のことか」
「はい」
政は卓の前に座ったまま、手元の木簡を閉じた。
「殺すと思ったか」
「少し」
「私も、以前ならそうしたかもしれぬ」
扶蘇は母の顔を見る。
「今は違うんですか」
「分からぬ」
珍しく、政はすぐに答えを出さなかった。
「丹がしたことを許す気はない。荊軻が私へ刃を向けた時のことも覚えている」
「俺も覚えてます」
「そうだな」
短く答えたあと、政は少し黙った。
「だが、邯鄲で私に近づいてきた者の中で、丹だけは私が秦王の娘だから近づいたのではなかった」
扶蘇は何も言わない。
「憎いと思うことと、昔のことをすべて捨てることは、私には同じではなかった。それだけだ」
「……はい」
扶蘇は、それ以上尋ねなかった。
母が冷酷な時があることは知っている。
だが、すべての相手に同じように冷たいわけでもない。
人によって残っている記憶が違い、その記憶によって下す判断も変わる。
それは矛盾というより、政という一人の人間の中にあるものなのだろうと、扶蘇は思った。
◆
燕は滅びた。
遼東まで追われていた最後の王も捕らえられ、再び国を立て直せるだけの勢力は残っていない。
北にはまだ代が残っている。
そして東には、斉がある。
王賁の軍は休息を終えれば、そのまま代へ向かう予定だった。将軍位へ戻った李信も、再びその軍に加わる。
秦が天下統一を名乗るまでに、残された国はもう多くなかった。




