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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第1章 戦国の終焉編

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第38話 楚、滅ぶ

 楚軍が先に動いた。


 長く続いた対陣で兵の疲労は深まり、各地から集めていた兵糧にも余裕がなくなっていた。項燕(こうえん)は、このまま同じ場所に留まり続ければ軍そのものが弱っていくと判断し、主力を東へ下げながら新たな防衛線を作ろうとした。


 これまで何度挑発しても動かなかった秦軍は、その日も静かだった。


 だが、楚軍が陣を畳み、隊列を作り直しながら移動を始めたという報告を受けた瞬間、王翦(おうせん)の判断は変わった。


「精鋭を前へ。全軍、出ます」


 周囲の将たちが一斉に顔を上げた。


「追撃なさるのですか」


「今なら追えます。敵は疲れ、陣を解き、移動の途中にいる。こちらは十分に休ませました」


 長い間、堅陣から動かなかった秦軍が、ようやく前へ出た。


 楚軍が次の場所で完全に布陣を終えるよりも早く、秦軍の先鋒が後方へ追いつく。項燕(こうえん)は後衛を止めて迎え撃たせながら、前を行く部隊にはそのまま進むよう命じた。


「後ろを固めろ! 前の隊は止まるな! 騎兵は丘の脇から回って、秦軍の先頭を叩け!」


 楚騎兵が向きを変え、追撃する秦軍の側面へ回り込む。以前の李信(りしん)なら、その動きに応じてさらに兵を前へ出したかもしれないが、王翦(おうせん)は追撃の形を崩さなかった。


「右を厚くしてください。騎兵を追う必要はありません。こちらの列から離れさせないように」


 秦軍は楚軍の退路へ圧力をかけながらも、前へ出すぎなかった。項燕(こうえん)が反撃すれば、その場所だけ兵を増やして受け止め、楚軍が下がればまた距離を詰める。


 項燕(こうえん)には、その違いがよく分かった。


 李信(りしん)の軍は、勝つほど前へ出た。だからこそ、伸びきったところを断つことができた。


 今の秦軍は、勝っていても形を崩さない。


「……この時を待っていたのか」


 項燕(こうえん)は低く呟いた。


 自分たちが疲れ、動かざるを得なくなる時を、王翦(おうせん)は最初から待っていたのだ。



 追撃は一度の戦いでは終わらなかった。


 楚軍は何度も場所を変え、そのたびに項燕(こうえん)が後方をまとめ、秦軍の先鋒へ反撃した。山や川を使って進路を狭め、伏兵を置き、局地的には秦軍へ損害を与えることもあった。


 それでも王翦(おうせん)は無理に突破しなかった。


 危険な場所があれば迂回路を探し、楚軍が強く構えれば陣を整えてから押す。一度確保した道は後続へ渡し、兵糧が届く状態を崩さないまま前線を進めていく。


 戦うたびに消耗するのは、楚軍の方だった。


 後退しては迎え撃ち、押されればまた退く。その繰り返しが続くうちに、楚軍の隊列は次第に薄くなり、負傷者を抱えた部隊ほど移動に遅れが出るようになった。


 やがて蘄南(きなん)の周辺で、項燕(こうえん)は大きく退くことをやめた。


 これ以上下がり続ければ、軍をまとめる場所そのものがなくなる。


「ここで止める」


 項燕(こうえん)は残った兵を集め、地形を使って陣を組んだ。


 王翦(おうせん)も、今度は避けなかった。


「正面を押してください。ただし、左右は出すぎないように。敵が崩れても、勝手に追わないでください」


 六十万すべてを一度にぶつける必要はない。


 前線の兵が疲れれば後ろと入れ替え、楚軍だけを休ませない。圧力をかけ続けながら、崩れそうな場所へ新しい兵を送り込んでいく。


 昼を過ぎる頃には、楚軍の左側が押され始めた。


「左を支えろ!」


 項燕(こうえん)が自ら兵をまとめて向かう。


 その間に中央へ秦兵が増える。


 中央へ戻れば、今度は右が下がった。


 命令は届いている。


 兵も従おうとしている。


 だが、身体がもう以前のようには動かなかった。


 長い対陣と後退戦の疲れが、ここで一気に出始めていた。


 夕刻には楚軍中央へ秦兵が深く入り込み、陣全体が押し下げられた。項燕(こうえん)は何度も兵を戻そうとしたが、崩れ始めた列を完全に立て直すことはできなかった。


 楚軍は再び退いた。


 今度は、余裕を残した退却ではなかった。



 楚王のもとへ届く報せは、日ごとに悪くなっていった。


 項燕(こうえん)軍敗北。


 前線の拠点喪失。


 秦軍の東進。


 使者が最後まで読み上げるのを聞いた楚王は、長く黙ったあと、ようやく口を開いた。


「……また、負けたのか」


 その日の夜、王は倒れた。


 医官が集められたものの意識は戻らず、翌朝には息を引き取った。


 戦場で傷を負ったわけではない。


 だが、相次ぐ敗報と秦軍の接近に耐えきれず倒れたのだと、宮中では囁かれた。


 ただでさえ追い詰められていた楚は、王の死によってさらに混乱した。


 逃げるべきだという者もいれば、秦へ降るべきだと主張する者もいた。王族の誰を立てるのかさえ意見が割れる中で、項燕(こうえん)が一つの名を出した。


昌平君(しょうへいくん)を王にする」


 周囲がざわめいた。


 昌平君(しょうへいくん)本人も、すぐには返事ができなかった。


「私が?」


「楚王家の血を引いている。秦を知り、兵も知っている。今、この国をまとめられる者が他にいるか」


「私は長く秦で生きてきた」


「だが、今は楚にいる」


 項燕(こうえん)はそれだけ答えた。


 昌平君(しょうへいくん)は目の前に置かれた冠を見た。


 王になりたかったわけではない。


 楚へ戻った時も、王座を求めたわけではなかった。ただ秦に自分の居場所はもうないと思い、そこで生き続けるよりも、楚へ渡る道を選んだだけだった。


 それなのに今、自分が楚王になろうとしている。


「……皮肉なものだな」


「何が」


「私は秦で天下統一を見るつもりだった。それが最後には、秦に滅ぼされる側の王か」


 項燕(こうえん)は何も言わなかった。


 昌平君(しょうへいくん)はしばらく冠を見たあと、手を伸ばした。


「分かった。王になる」


 即位の儀は簡素だった。


 国が滅びようとしている時に、祝いの言葉を並べる余裕などなかった。



 昌平君(しょうへいくん)が楚王となったあとも、秦軍は止まらなかった。


 残った楚兵が各地から集められ、項燕(こうえん)が再び前線を任された。昌平君(しょうへいくん)は後方で兵と物資を集め、まだ秦へ降っていない邑へ命令を送り続けた。


 しかし、以前とは条件が違いすぎた。


 兵は減り、使える道も少なくなり、秦へ降る邑も増え始めていた。


「東へ兵を回せ。項燕(こうえん)へ送る」


「ですが、こちらの守りが薄くなります」


「前が破られれば、ここを守る意味もない」


 昌平君(しょうへいくん)はそう命じた。


 王として命令を出すたび、自分が何のためにここまで来たのかを考えることがあった。


 楚を守りたかったのか。


 秦に自分を認めさせたかったのか。


 (せい)に許されなかったことが悔しかっただけなのか。


 答えは一つにはならなかった。


 呂不韋(りょふい)についた時も、秦を裏切った時も、その時の自分なりの理由はあった。それでも、その選択の先にあるのが今の自分だという事実からは逃げられない。


 やがて項燕(こうえん)から、最後の防衛線を維持するのも難しいという報せが届いた。


 昌平君(しょうへいくん)はしばらく木簡(もっかん)を見たまま、動かなかった。


「もしあの時、違う方を選んでいれば……」


 口に出したところで、意味はない。


 過去は変わらない。


 昌平君(しょうへいくん)木簡(もっかん)を置き、残っている兵を集めるよう命じた。


 最後まで逃げるつもりはなかった。



 項燕(こうえん)も、残った兵をまとめて最後の戦いに備えていた。


 その陣の後ろには、娘の項梁(こうりょう)がいた。


 さらにその傍には、項梁(こうりょう)の姪にあたる、まだ若い項羽(こうう)が立っている。年齢の割に背が高く、兵たちの中にいてもすぐに分かる少女だった。


項梁(こうりょう)


 項燕(こうえん)が呼ぶ。


「何です、母上」


項羽(こうう)を連れて行け」


 項梁(こうりょう)は表情を強張らせた。


「母上は?」


「私は残る」


「なら、私も残ります」


「駄目だ」


 項燕(こうえん)の返事は早かった。


「ここで一家揃って死んでどうする。私は軍を預かった将として残る。お前は項羽(こうう)を連れて逃げろ」


 項梁(こうりょう)は何か言おうとしたが、項燕(こうえん)の表情を見て飲み込んだ。


 項燕(こうえん)は次に項羽(こうう)を見た。


 少女は泣いていなかった。


 ただ、真っ直ぐこちらを見ている。


「祖母上は死ぬの?」


 項燕(こうえん)はすぐには答えなかった。


「戦う。それだけだ」


「秦と?」


「ああ」


 項燕(こうえん)項羽(こうう)の肩へ手を置いた。


 それから、項梁(こうりょう)へ目を向けた。


「覚えておけ。楚はたとえ三戸となるとも、秦を亡ぼすのは必ず楚なり」


 項梁(こうりょう)の顔が変わった。


 項燕(こうえん)は、それ以上その言葉について説明しなかった。


「復讐だけ考えて生きろとは言わない。だが、今日ここで楚が負けても、それですべてが終わったと思うな。二人とも、生きろ」


 項梁(こうりょう)は唇を噛み、深く頭を下げた。


「……分かりました。必ずこの子を連れて逃げます」


「頼んだ」


 項羽(こうう)は祖母の顔を見上げたまま、何も言わなかった。


 項梁(こうりょう)がその肩へ手を置き、少数の供を連れて陣を離れていく。


 項燕(こうえん)は二人の姿が見えなくなるまで見送ることはせず、すぐに前線へ向き直った。



 楚軍最後の抵抗も、長くは続かなかった。


 王翦(おうせん)は正面から圧力をかけながら左右へ兵を回し、楚軍の逃げ道を狭めていった。項燕(こうえん)は前線へ立ち、何度も秦兵を押し返したが、兵数と疲労の差はすでに覆せるものではなかった。


 楚軍の旗が倒れるたび、陣の一角が失われていく。


「将軍、下がってください!」


 側にいた兵が叫んだ。


 項燕(こうえん)は血のついた剣を握ったまま、周囲を見た。


「下がる場所があるなら教えてくれ」


「ですが、このままでは」


「だから残っている」


 それ以上は言わず、また前へ出た。


 馬を失ったあとも戦い続け、周囲の兵が減ってからも秦軍へ背を向けなかった。


 やがて楚の陣は完全に崩れた。


 項燕(こうえん)は、項梁(こうりょう)項羽(こうう)がもう十分に離れた頃だと考えた。


 それだけ確認できればよかった。



 昌平君(しょうへいくん)のもとにも、項燕(こうえん)軍壊滅の報せが届いた。


項燕(こうえん)将軍の軍は、もう持ちません」


 使者の声は震えていた。


 昌平君(しょうへいくん)は静かに頷いた。


「そうか」


「王、ここを離れてください。まだ東へ逃げる道があります」


「逃げた先に、楚はあるのか」


 使者は答えられなかった。


 昌平君(しょうへいくん)は立ち上がり、王となってから被っていた冠へ手を触れた。


 秦で生きていた頃のことが浮かぶ。


 呂不韋(りょふい)とともに動いた夜。


 (せい)の前へ戻った日。


 その後も秦に仕え続けた時間。


 そして、自分から楚へ使者を送った時。


 どこか一つで違う道を選んでいれば、今とは別の場所に立っていたかもしれない。


「私は、何がしたかったのだろうな」


 天下を一つにしたかった。


 秦でその仕事に関わりたかった。


 一度失った信頼を取り戻したかった。


 だが、それが叶わないと思った時、自分は秦そのものを捨てた。


 そして今、楚まで失う。


 そこまで考えて、昌平君(しょうへいくん)は小さく首を振った。


「もういい」


 答えが出たところで、何も変わらない。


 外から秦軍の声が近づいていた。


「残っている兵を集めろ」


「王」


「最後まで戦う」


 ほどなく秦軍が城内へ入り、戦闘が始まった。


 長い戦いにはならなかった。



 楚は滅んだ。


 昌平君(しょうへいくん)は最後まで抗って死に、項燕(こうえん)も戦場から戻らなかった。秦軍は残る拠点を次々と押さえ、長く秦に立ちはだかってきた楚の領土を支配下へ置いていった。


 その頃、項梁(こうりょう)は少数の供とともに東へ逃れていた。


 その横を、項羽(こうう)が馬で進んでいる。


 少女は何度も後ろを振り返っていた。


「前を見なさい」


 項梁(こうりょう)が言った。


 項羽(こうう)はしばらくして前へ向き直ったが、表情は硬いままだった。


「叔母上」


「何?」


「楚は、もうないの?」


 項梁(こうりょう)は少し考えてから答えた。


「秦に負けた。今は、それだけ覚えておきなさい」


 項羽(こうう)は黙った。


 祖母は残った。


 楚王も死んだ。


 自分たちは秦から逃げている。


 その事実を、少女は一つずつ胸の中へしまっていった。


 やがて彼女は、もう後ろを振り返らなくなった。

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