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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第1章 戦国の終焉編

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第37話 動かぬ六十万

 王翦(おうせん)の楚攻めは、李信(りしん)のそれとは大きく違っていた。


 六十万の大軍を率いて楚へ入ったあとも、王翦(おうせん)は急いで進もうとはしなかった。進軍するたびに陣を築き、壕を掘り、柵を立て、後方から兵糧が届く道を確保してから次へ進んだ。


 楚軍が近づいてきても、決戦には応じない。


 小部隊が仕掛けてくれば追い払い、それ以上は追わない。土地を取れば守備兵を置き、そこが確実に秦の支配下へ入ったことを確認してから、また少しだけ前へ出る。


 李信(りしん)が速さで楚を崩そうとしたのに対し、王翦(おうせん)は自軍が崩れないことを優先していた。



 咸陽かんようにも、その戦況は定期的に伝えられていた。


王翦(おうせん)は楚へ入ってひと月になるが、大きな戦を一度もしておらぬ」


 (せい)は届いた木簡(もっかん)を読みながら眉を寄せた。


「陣を築いて兵を休ませ、楚軍が近づいてきても追わぬそうだ」


 扶蘇(ふそ)は黙って続きを待った。


「それどころか、兵に石投げや跳躍を競わせているという報告まである」


「兵が遊べるくらい元気なのを確認してるんだと思います」


 (せい)が顔を上げた。


「確認?」


「はい。疲れてる兵なら、そんなことを続ける余裕はありません。王翦将軍は、兵の体力と士気が落ちていないか見てるんじゃないでしょうか」


 (せい)は手元の木簡(もっかん)へ視線を戻した。


「つまり、まだ戦う時ではないと考えているのか」


「たぶん」


 扶蘇(ふそ)には、王翦(おうせん)が何を待っているのか、おぼろげながら分かる気がした。


 自分から決戦を作らない。


 楚側が先に耐えられなくなるまで待つ。


「母上、急かさない方がいいと思います」


 (せい)はしばらく黙っていたが、やがて木簡(もっかん)を置いた。


「分かった。任せる」



 項燕(こうえん)は、何度も王翦(おうせん)を動かそうとした。


 少数の兵を前へ出して退却を装い、追撃させようとしたこともある。夜に部隊を近づけ、陣の一部を崩そうとしたこともあった。


 だが、秦軍は深く追ってこなかった。


 夜襲をかけても、見張りが厚く、突破できそうな場所には予め障害が置かれている。仮に外へ出た秦兵へ損害を与えても、王翦(おうせん)はその兵を引かせて陣へ戻し、こちらがさらに追えば弓やで迎え撃った。


 小さな勝ちは取れる。


 だが、それが大きな戦にはつながらない。


「また陣へ戻ったか」


 報告を聞いた項燕(こうえん)が尋ねる。


「はい。こちらが追えば、一定の場所から先へは出てきません」


「そのまま攻め込めば?」


「弓と弩が待っています。左右からも兵を寄せてきます」


 項燕(こうえん)は地図へ目を落とした。


 李信(りしん)なら追ってきた。


 そこを崩せた。


 だが、王翦(おうせん)は違う。


 追わない。


 焦らない。


 必要な場所だけを守り、少しずつ前へ出る。


「やりにくいな」


 項燕(こうえん)は低く呟いた。


 相手が大きく動けば、そこに隙ができる。


 だが、王翦(おうせん)はその隙をほとんど見せなかった。



 時間が経つにつれて、両軍の差が目立ち始めた。


 秦軍も六十万を抱えている以上、必要な兵糧は膨大だった。ただ、王翦(おうせん)は補給が不安定なまま先へ出ず、後方から届く荷を確認しながら進んでいたため、前線で急に食料が不足することはなかった。


 楚軍は事情が違った。


 秦軍が自国領内へ入り込んでいる以上、それに対応するため兵を前線へ集め続けなければならない。兵が長く前線に残れば、田畑へ戻る者が減り、周辺の集落から集める兵糧も次第に重くなっていった。


 数か月も対陣が続くと、兵の疲れも抜けにくくなる。


 楚軍では配給の量を気にする声が増え、長く陣にいる兵たちの間にも不満が出始めた。


 一方で、秦軍からは時折、兵たちが競技をしている声が聞こえてくる。


「今日も石投げをしているそうです」


 報告を受けた項燕(こうえん)は眉を寄せた。


「まだそんな余裕があるのか」


「はい」


 項燕(こうえん)はしばらく黙ってから、地図の秦軍陣地へ指を置いた。


「余裕があるのを見せているんじゃない。本当にあるんだ」


 それが厄介だった。


 秦は、このまま待っても困らない。


 楚は、待つほど苦しくなる。


 王翦(おうせん)はそれを分かったうえで動いていない。



 その日の軍議で、昌平君(しょうへいくん)は新たな兵糧の遅れを報告した。


「西から運ぶ予定だった荷が届いていない。秦軍が周辺の道を押さえ始めている」


「別の道は?」


「使える。ただし距離が伸びる」


「またそれか」


 項燕(こうえん)の声に苛立ちが混じった。


 昌平君(しょうへいくん)が顔を上げる。


「何だ」


「お前が蒙恬(もうてん)を仕留めていれば、少しは状況も違った」


 昌平君(しょうへいくん)の顔つきが変わった。


「今さらそれを言うのか」


「退路を塞いでいたんだろう。それを逃がした」


扶蘇(ふそ)が三千を連れて背後に現れると、誰が読めた!」


「それでも止めるのがお前の役目だった!」


「なら、李信(りしん)を仕留めきれなかったお前はどうなんだ!」


 項燕(こうえん)が立ち上がる。


「もう一度言え」


「何度でも言う!」


 昌平君(しょうへいくん)も立った。


 次の瞬間、項燕(こうえん)が胸倉を掴み、そのまま昌平君(しょうへいくん)を壁へ押しつけた。長年戦場で鍛えてきた項燕(こうえん)の方が明らかに力が強く、昌平君(しょうへいくん)はすぐには振りほどけない。


「離せ、項燕(こうえん)!」


「好き勝手言うな!」


「私を殴って何になる!」


 昌平君(しょうへいくん)は息を乱しながらも睨み返した。


「それで王翦(おうせん)が退くのか? 秦の六十万が消えるのか?」


 項燕(こうえん)の手が止まった。


 しばらく睨み合ったあと、項燕(こうえん)は手を離した。


 昌平君(しょうへいくん)は襟元を直し、何度か咳をした。


「……すまない」


 項燕(こうえん)が低く言った。


「お前だけのせいじゃない」


 昌平君(しょうへいくん)も言い返さなかった。


 責任を押しつけ合ったところで、目の前の秦軍には何の影響もない。


 それくらいは、二人とも分かっていた。



 軍議のあと、二人はろうの上から秦軍の陣を見ていた。


 夜の向こうに、秦の陣から上がる灯が数多く並んでいる。


 それだけの数の兵がそこにいる。


 しかも、急いで戦う必要もなく、補給を受けながら待ち続けている。


「……よく統制されているな」


 昌平君(しょうへいくん)が言った。


 項燕(こうえん)が横を見る。


「秦軍を褒めるのか」


「事実を言っただけだ。六十万を連れてきて、これだけ長く崩さず置いている」


 項燕(こうえん)は黙って秦軍の陣を見た。


王翦(おうせん)は、こちらが先に動くのを待っている」


「分かっている」


「こちらが動けば、受ける。待てば、今度はこちらの方が苦しくなる」


「それも分かっている」


 昌平君(しょうへいくん)はしばらく黙った。


「楚は持つと思うか」


 項燕(こうえん)はすぐには答えなかった。


「持たせる」


「……そう言うしかないな」


「ああ」


 二人とも、それ以上は何も言わなかった。


 秦軍はその夜も動かなかった。


 そして翌日も、王翦(おうせん)は決戦を求めなかった。


 待つほど秦が有利になり、楚が苦しくなることを理解したうえで、ただその時を待ち続けていた。

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