第37話 動かぬ六十万
王翦の楚攻めは、李信のそれとは大きく違っていた。
六十万の大軍を率いて楚へ入ったあとも、王翦は急いで進もうとはしなかった。進軍するたびに陣を築き、壕を掘り、柵を立て、後方から兵糧が届く道を確保してから次へ進んだ。
楚軍が近づいてきても、決戦には応じない。
小部隊が仕掛けてくれば追い払い、それ以上は追わない。土地を取れば守備兵を置き、そこが確実に秦の支配下へ入ったことを確認してから、また少しだけ前へ出る。
李信が速さで楚を崩そうとしたのに対し、王翦は自軍が崩れないことを優先していた。
◆
咸陽にも、その戦況は定期的に伝えられていた。
「王翦は楚へ入ってひと月になるが、大きな戦を一度もしておらぬ」
政は届いた木簡を読みながら眉を寄せた。
「陣を築いて兵を休ませ、楚軍が近づいてきても追わぬそうだ」
扶蘇は黙って続きを待った。
「それどころか、兵に石投げや跳躍を競わせているという報告まである」
「兵が遊べるくらい元気なのを確認してるんだと思います」
政が顔を上げた。
「確認?」
「はい。疲れてる兵なら、そんなことを続ける余裕はありません。王翦将軍は、兵の体力と士気が落ちていないか見てるんじゃないでしょうか」
政は手元の木簡へ視線を戻した。
「つまり、まだ戦う時ではないと考えているのか」
「たぶん」
扶蘇には、王翦が何を待っているのか、おぼろげながら分かる気がした。
自分から決戦を作らない。
楚側が先に耐えられなくなるまで待つ。
「母上、急かさない方がいいと思います」
政はしばらく黙っていたが、やがて木簡を置いた。
「分かった。任せる」
◆
項燕は、何度も王翦を動かそうとした。
少数の兵を前へ出して退却を装い、追撃させようとしたこともある。夜に部隊を近づけ、陣の一部を崩そうとしたこともあった。
だが、秦軍は深く追ってこなかった。
夜襲をかけても、見張りが厚く、突破できそうな場所には予め障害が置かれている。仮に外へ出た秦兵へ損害を与えても、王翦はその兵を引かせて陣へ戻し、こちらがさらに追えば弓や弩で迎え撃った。
小さな勝ちは取れる。
だが、それが大きな戦にはつながらない。
「また陣へ戻ったか」
報告を聞いた項燕が尋ねる。
「はい。こちらが追えば、一定の場所から先へは出てきません」
「そのまま攻め込めば?」
「弓と弩が待っています。左右からも兵を寄せてきます」
項燕は地図へ目を落とした。
李信なら追ってきた。
そこを崩せた。
だが、王翦は違う。
追わない。
焦らない。
必要な場所だけを守り、少しずつ前へ出る。
「やりにくいな」
項燕は低く呟いた。
相手が大きく動けば、そこに隙ができる。
だが、王翦はその隙をほとんど見せなかった。
◆
時間が経つにつれて、両軍の差が目立ち始めた。
秦軍も六十万を抱えている以上、必要な兵糧は膨大だった。ただ、王翦は補給が不安定なまま先へ出ず、後方から届く荷を確認しながら進んでいたため、前線で急に食料が不足することはなかった。
楚軍は事情が違った。
秦軍が自国領内へ入り込んでいる以上、それに対応するため兵を前線へ集め続けなければならない。兵が長く前線に残れば、田畑へ戻る者が減り、周辺の集落から集める兵糧も次第に重くなっていった。
数か月も対陣が続くと、兵の疲れも抜けにくくなる。
楚軍では配給の量を気にする声が増え、長く陣にいる兵たちの間にも不満が出始めた。
一方で、秦軍からは時折、兵たちが競技をしている声が聞こえてくる。
「今日も石投げをしているそうです」
報告を受けた項燕は眉を寄せた。
「まだそんな余裕があるのか」
「はい」
項燕はしばらく黙ってから、地図の秦軍陣地へ指を置いた。
「余裕があるのを見せているんじゃない。本当にあるんだ」
それが厄介だった。
秦は、このまま待っても困らない。
楚は、待つほど苦しくなる。
王翦はそれを分かったうえで動いていない。
◆
その日の軍議で、昌平君は新たな兵糧の遅れを報告した。
「西から運ぶ予定だった荷が届いていない。秦軍が周辺の道を押さえ始めている」
「別の道は?」
「使える。ただし距離が伸びる」
「またそれか」
項燕の声に苛立ちが混じった。
昌平君が顔を上げる。
「何だ」
「お前が蒙恬を仕留めていれば、少しは状況も違った」
昌平君の顔つきが変わった。
「今さらそれを言うのか」
「退路を塞いでいたんだろう。それを逃がした」
「扶蘇が三千を連れて背後に現れると、誰が読めた!」
「それでも止めるのがお前の役目だった!」
「なら、李信を仕留めきれなかったお前はどうなんだ!」
項燕が立ち上がる。
「もう一度言え」
「何度でも言う!」
昌平君も立った。
次の瞬間、項燕が胸倉を掴み、そのまま昌平君を壁へ押しつけた。長年戦場で鍛えてきた項燕の方が明らかに力が強く、昌平君はすぐには振りほどけない。
「離せ、項燕!」
「好き勝手言うな!」
「私を殴って何になる!」
昌平君は息を乱しながらも睨み返した。
「それで王翦が退くのか? 秦の六十万が消えるのか?」
項燕の手が止まった。
しばらく睨み合ったあと、項燕は手を離した。
昌平君は襟元を直し、何度か咳をした。
「……すまない」
項燕が低く言った。
「お前だけのせいじゃない」
昌平君も言い返さなかった。
責任を押しつけ合ったところで、目の前の秦軍には何の影響もない。
それくらいは、二人とも分かっていた。
◆
軍議のあと、二人は楼の上から秦軍の陣を見ていた。
夜の向こうに、秦の陣から上がる灯が数多く並んでいる。
それだけの数の兵がそこにいる。
しかも、急いで戦う必要もなく、補給を受けながら待ち続けている。
「……よく統制されているな」
昌平君が言った。
項燕が横を見る。
「秦軍を褒めるのか」
「事実を言っただけだ。六十万を連れてきて、これだけ長く崩さず置いている」
項燕は黙って秦軍の陣を見た。
「王翦は、こちらが先に動くのを待っている」
「分かっている」
「こちらが動けば、受ける。待てば、今度はこちらの方が苦しくなる」
「それも分かっている」
昌平君はしばらく黙った。
「楚は持つと思うか」
項燕はすぐには答えなかった。
「持たせる」
「……そう言うしかないな」
「ああ」
二人とも、それ以上は何も言わなかった。
秦軍はその夜も動かなかった。
そして翌日も、王翦は決戦を求めなかった。
待つほど秦が有利になり、楚が苦しくなることを理解したうえで、ただその時を待ち続けていた。




