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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第1章 戦国の終焉編

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第36話 老将、再び

 楚での敗報が届いて以来、咸陽かんようの宮には重い空気が居座っていた。


 二十万で始まった遠征は、李信(りしん)軍の大敗と昌平君(しょうへいくん)の離反という結果に終わった。戻ってきた兵の数はいまだ確定せず、各地から届く木簡(もっかん)には、戦死、行方不明、負傷といった文字が延々と並んでいる。


 その中で、扶蘇(ふそ)が勝手に三千の兵を連れ出した件も当然問題になった。


「二度とするな」


 (せい)は、それだけを言った。


 玉座の前に立つ扶蘇(ふそ)は、思わず顔を上げた。もっと激しく叱責されると思っていただけに、かえってその静かな声の方が怖かった。


「今回は蒙恬(もうてん)を救い、残兵を連れ戻した。その結果がなければ、お前も処罰していた」


「……はい」


「結果が良ければ命令を破ってよい、とは思うな。王族が勝手に兵を動かすことを認めれば、国は軍を統べられなくなる」


 (せい)の目には、母親としての安堵よりも王としての厳しさがあった。


「次に同じことをする時は、私がお前を止める。覚えておけ」


「分かりました」


 扶蘇(ふそ)は頭を下げた。


 それで終わった。


 蒙恬(もうてん)を救った功によって不問とされたものの、それは許可されたという意味ではない。扶蘇(ふそ)にも、その違いは十分に分かっていた。


 そして、宮廷が本当に処分しなければならない人物は別にいた。



 李信(りしん)は、甲冑を外した姿で朝議の中央に立っていた。


 以前なら胸を張り、誰よりも大きな声で戦を語っていた男だったが、今は黙って群臣の視線を受けている。傷の残る顔には疲労が濃く、楚から生きて戻ったこと自体が奇跡だったと分かるほどだった。


「大将として二十万を預かり、その大半を失った。七人の都尉を討たれ、多数の将兵を死なせた。これは軽い敗戦ではない」


 軍律を預かる官が、淡々と罪状を読み上げる。


「加えて、敵軍の退却を追って深入りし、後方との距離を広げた結果、項燕(こうえん)の反撃を受けた。軍法に照らせば、その責は大将に帰する」


 李信(りしん)は反論しなかった。


 蒙恬(もうてん)も列の中にいた。


 彼女自身、李信(りしん)とは別路を進んでいたため、戦場で直接その指揮を見ていたわけではない。それでも進軍速度を警戒し、使者を送って深追いを避けるよう伝えていたことは、すでに報告として提出されていた。


李信(りしん)


 (せい)が呼んだ。


「何か申し開きはあるか」


 李信(りしん)は顔を上げた。


「ない」


 朝議の場がわずかにざわめく。


「俺が二十万で勝てると言った。王は二十万を預けた。それを率いて負けたのも俺だ」


昌平君(しょうへいくん)の裏切りがあった」


「それを見抜けなかったのも、俺たちの負けだ」


 李信(りしん)はそこで一度言葉を切った。


項燕(こうえん)にもやられた。追い方も甘かった。俺の兵がたくさん死んだ。それで俺だけ、知らなかったことにする気はない」


 扶蘇(ふそ)は末席からその姿を見ていた。


 負けても、李信(りしん)李信(りしん)だった。


 責任を他人へ押しつけようとはしない。


 だからこそ、軍法は重かった。


「軍を大敗させた大将への処罰は、死罪をもって相当とする」


 官の声が広間へ響いた。


 誰も驚かなかった。


 二十万を預かるとは、それだけの責任を負うということだった。


 しばらく、(せい)は何も言わなかった。


 玉座から李信(りしん)を見下ろすその顔は固く、何を考えているのか扶蘇(ふそ)にも読めない。


 やがて、口を開いた。


「死罪にはしない」


 ざわめきが起こった。


 (せい)はそれを収めるように片手を上げた。


「これまでの戦功をすべて無かったものとするつもりはない。それに、この敗北だけをもって一人の将を失うことが、秦にとって利になるとも思わぬ」


 そこで初めて、李信(りしん)の表情が僅かに動いた。


「ただし、将軍の位には置けない」


 (せい)の声から温度が消えた。


李信(りしん)。本日をもって将軍職を解く。千人将へ降格し、一から功を積み直せ」


 広間が静まる。


 将軍から千人将へ。


 率いていた二十万から、千人へ。


 死こそ免れたが、これまで積み上げてきたものをほとんど失う処分だった。


 李信(りしん)はしばらく(せい)を見つめた後、膝をついた。


「……承知した」


 (せい)は、それ以上何も言わなかった。


 ただ冷たい視線を送り、次の議題へ移るよう命じた。


 それ以後、宮中で李信(りしん)が以前のように(せい)の近くへ呼ばれることは無くなった。



 だが、李信(りしん)を処分したところで楚が消えるわけではない。


 項燕(こうえん)は健在で、昌平君(しょうへいくん)も楚へ逃れた。二十万の秦軍を破ったことで楚側の士気も高まり、ここで攻勢を止めれば、せっかく削ってきた楚へ立ち直る時間を与えることになる。


 もう一度、大軍を送らなければならなかった。


 そして、その大軍を預けられる者を、(せい)も分かっていた。


王翦(おうせん)を呼べ」


 使者が送られた。


 返ってきた答えは、病だった。


 もう一度送った。


 同じだった。


 三度目も、王翦(おうせん)は病を理由に咸陽へ出てこなかった。


「本当に病なのですか」


 扶蘇(ふそ)が尋ねると、(せい)は不機嫌そうに木簡(もっかん)を置いた。


「知らぬ」


「……たぶん、元気ですよね」


「分かっている」


 声が低い。


 扶蘇(ふそ)は余計なことを言わないことにした。


 かつて王翦(おうせん)は、楚を落とすには六十万が必要だと進言した。


 それを(せい)は退けた。


 老いた。


 慎重になりすぎた。


 そう判断し、二十万で十分だと言う李信(りしん)を選んだ。


 結果は、もう誰もが知っている。


「……行くぞ」


 ある日、(せい)が立ち上がった。


「どこへですか」


王翦(おうせん)のところだ」


 扶蘇(ふそ)が目を瞬かせる。


「母上が?」


「来ぬのなら、こちらから行く」


 そう答えた(せい)の顔は、ひどく苦そうだった。



 王翦(おうせん)は、領地の屋敷で本当に寝台へ横になっていた。


 ただし、扶蘇(ふそ)にはどう見ても病人には見えなかった。


 五十を越えた身体には年齢なりの衰えこそあるものの、顔色は悪くない。何より、寝台からこちらを見る目が妙に澄んでいた。


「王自ら、このような田舎までお越しになるとは」


「白々しいな」


 (せい)が言った。


「病でございますので」


「その顔で言うか」


 王翦(おうせん)は薄く笑った。


 しばし二人の視線がぶつかる。


 先に折れたのは(せい)だった。


「私が誤った」


 部屋の空気が変わった。


 扶蘇(ふそ)も黙った。


 (せい)王翦(おうせん)から目を逸らさず続けた。


「お前は六十万が必要だと言った。それを私は退け、李信(りしん)へ二十万を与えた。結果は大敗だ」


 王翦(おうせん)は何も言わない。


「もう一度、楚を討つ」


 (せい)は一歩前へ出た。


王翦(おうせん)。秦で今、それを任せられるのはお前しかいない」


「私のような、臆病な老婆に?」


「根に持つな」


「年を取ると、昔のことばかり覚えているものです」


 扶蘇(ふそ)は口元が動きそうになるのを堪えた。


 (せい)は笑わなかった。


「六十万を預ける」


 今度は王翦(おうせん)の表情からも冗談が消えた。


「六十万。お前が求めた数を、そのまま預ける。だから楚を落とせ」


 秦の兵力の大半。


 それを一人の将へ委ねる。


 言葉にすれば簡単だが、王にとって容易な決断であるはずがない。


 王翦(おうせん)はしばらく(せい)を見つめ、それからゆっくり身体を起こした。


「では、お願いがございます」


「何だ」


「田が欲しゅうございます」


 (せい)の眉が動いた。


「……田?」


「できれば咸陽に近く、水の良い土地を。それから屋敷も少々広くしたいところでございます。庭も欲しいですね。孫の代まで困らぬ程度の金も頂ければ、なお嬉しい」


 扶蘇(ふそ)は思わず王翦(おうせん)を見た。


 六十万を預かる話の直後とは思えない。


 (せい)も同じことを感じたらしい。


「それだけか」


「私もこの歳です。領土を増やしたいとも、王になりたいとも思いませぬ。老後に良い家へ住み、娘と孫へ財産を残せれば満足にございます」


「……分かった。望むものを与える」


 王翦(おうせん)は満足そうに頷いた。


「それでは、お引き受けいたしましょう」


 先ほどまで病人だった女が、寝台の上で背筋を伸ばす。


「六十万、お預かりいたします」



 帰ろうとしたところで、王翦(おうせん)扶蘇(ふそ)を呼び止めた。


扶蘇(ふそ)様。少しだけお時間をいただけますか」


 (せい)は怪訝そうにしたものの、先に屋敷を出た。


 二人きりになってから、扶蘇(ふそ)は寝台の傍へ戻る。


「何?」


「先ほどの話でございます」


「田畑の?」


「ええ」


 王翦(おうせん)は、もう寝たふりをする必要もないとばかりに寝台から降りた。


「六十万とは、秦の大半でございます。それだけの兵を一人の将へ預ければ、王が何を考えるか、お分かりになりますか」


「……そのまま反乱を起こされたら、止められない」


「その通り」


 王翦(おうせん)は穏やかに頷いた。


「だから欲しがるのです。田を、屋敷を、金を。私が欲しいのは天下ではなく、子や孫へ残す財産だと、何度でも王へ見せる」


 扶蘇(ふそ)は先ほどのやり取りを思い返した。


「母上を安心させるためか」


「王というものは、疑うのが仕事でもございますから」


 王翦(おうせん)は淡々と言った。


「六十万を預かるなら、楚軍だけを見ていればよいわけではありません。背後の王にも、安心していただかなくては」


 戦場だけではない。


 大軍を率いる前から、すでに駆け引きは始まっている。


「……やっぱり怖いな、王翦(おうせん)は」


「褒め言葉として頂いておきましょう」


 王翦(おうせん)は少し笑った。


「ところで、もう一つ欲しいものがございます」


「まだあるの?」


「ございますとも」


 嫌な予感がした。


 王翦(おうせん)が妙に楽しそうな顔をしている。


扶蘇(ふそ)様のお子を一人、私の腹に頂けませんか」


「…………何?」


 扶蘇(ふそ)はしばらく意味を理解できなかった。


 理解した途端、顔が熱くなる。


「いや、何を言ってるんだよ!」


「健康な王族の男子、それも聡明な扶蘇(ふそ)様のお子種となれば、欲しがる女はいくらでもおりましょう」


「だからって自分で言う!?」


 王翦(おうせん)は肩を揺らした。


「冗談でございます」


「笑えないって!」


「半分ほどは」


「半分本気なの!?」


 今度こそ、王翦(おうせん)は声を立てて笑った。


「私があと二十ほど若ければ、もう少し本気で考えたかもしれませんね」


「やめてくれ……」


 戦場では六国を震え上がらせる名将なのに、こういう時だけ妙に楽しそうである。


 扶蘇(ふそ)が疲れた顔をしていると、王翦(おうせん)はようやく笑いを収めた。


「では、本当のお願いを」


「今度は本当なんだな?」


「ええ。孫の王離(おうり)を、いずれ扶蘇(ふそ)様の妻の一人として考えていただけませんか」


 今度は別の意味で、扶蘇(ふそ)が固まった。


王離(おうり)を?」


「あの子はまだ若いですが、王氏三代の血をよく継いでおります。少々力がありすぎますが」


「少々かな……」


「そこは長所ということにしておきましょう」


 王翦(おうせん)の目元に、祖母らしい柔らかさが浮かんだ。


「楚でのことも聞いております。扶蘇(ふそ)様と共に戦場へ入り、帰ってからも随分楽しそうに話しておりました」


 扶蘇(ふそ)は、大剣を振り回しながら敵陣へ飛び込んでいった王離(おうり)を思い出した。


 確かに頼もしかった。


 妻と言われると、話はまったく別だったが。


「俺は……」


蒙恬(もうてん)ですか」


 あっさり名前を出され、扶蘇(ふそ)は言葉を止めた。


 王翦(おうせん)は面白がるでもなく、穏やかにこちらを見ていた。


「分かるの?」


「分からぬ方が難しいかと」


「そんなに?」


「少なくとも、戦場まで三千を連れて迎えに行く程度には」


 言い返せない。


 扶蘇(ふそ)が黙ると、王翦(おうせん)は小さく笑った。


蒙恬(もうてん)を想うことと、王離(おうり)を候補に考えることは、この国では両立いたします。ですが、決めるのは扶蘇(ふそ)様です。王家との縁を欲しがる祖母がいる、くらいに覚えておいてください」


「……それなら考えておく」


「それで十分にございます」


 王翦(おうせん)は満足そうに頷いた。


 そして、寝台の横へ置いてあった上衣を手に取る。


 立ち上がった姿には、先ほどまでの病人らしさなど欠片もなかった。


「さて。寝ているのにも飽きました」


「やっぱり病気じゃなかったんだな」


「病でございますよ」


「どこが?」


「王に機嫌を損ねられた心が」


「元気そうで安心したよ」


 扶蘇(ふそ)が呆れて返すと、王翦(おうせん)は楽しそうに笑った。


 その笑みも、やがて消える。


「今度は二十万ではありません」


 王翦(おうせん)は窓の外へ目を向けた。


「六十万を使います。急がず、楚が崩れるまで待つ。項燕(こうえん)がどれほど巧みでも、こちらから焦って隙を与えなければよい」


 声は穏やかだった。


 だからこそ、扶蘇(ふそ)にはその言葉が重く聞こえた。


 李信(りしん)の速さを否定するのではない。


 速さで勝てなかった相手を、今度は別の方法で仕留める。


 王翦(おうせん)はすでに、その戦を始めていた。


「楚を獲ってまいります」


 老将は静かに言った。


「此度こそ、確実に」


 二十万が敗れた楚へ、今度は六十万が向かう。


 その大軍を率いるため、王翦(おうせん)は再び秦の戦場へ戻ることになった。

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