第36話 老将、再び
楚での敗報が届いて以来、咸陽の宮には重い空気が居座っていた。
二十万で始まった遠征は、李信軍の大敗と昌平君の離反という結果に終わった。戻ってきた兵の数はいまだ確定せず、各地から届く木簡には、戦死、行方不明、負傷といった文字が延々と並んでいる。
その中で、扶蘇が勝手に三千の兵を連れ出した件も当然問題になった。
「二度とするな」
政は、それだけを言った。
玉座の前に立つ扶蘇は、思わず顔を上げた。もっと激しく叱責されると思っていただけに、かえってその静かな声の方が怖かった。
「今回は蒙恬を救い、残兵を連れ戻した。その結果がなければ、お前も処罰していた」
「……はい」
「結果が良ければ命令を破ってよい、とは思うな。王族が勝手に兵を動かすことを認めれば、国は軍を統べられなくなる」
政の目には、母親としての安堵よりも王としての厳しさがあった。
「次に同じことをする時は、私がお前を止める。覚えておけ」
「分かりました」
扶蘇は頭を下げた。
それで終わった。
蒙恬を救った功によって不問とされたものの、それは許可されたという意味ではない。扶蘇にも、その違いは十分に分かっていた。
そして、宮廷が本当に処分しなければならない人物は別にいた。
◆
李信は、甲冑を外した姿で朝議の中央に立っていた。
以前なら胸を張り、誰よりも大きな声で戦を語っていた男だったが、今は黙って群臣の視線を受けている。傷の残る顔には疲労が濃く、楚から生きて戻ったこと自体が奇跡だったと分かるほどだった。
「大将として二十万を預かり、その大半を失った。七人の都尉を討たれ、多数の将兵を死なせた。これは軽い敗戦ではない」
軍律を預かる官が、淡々と罪状を読み上げる。
「加えて、敵軍の退却を追って深入りし、後方との距離を広げた結果、項燕の反撃を受けた。軍法に照らせば、その責は大将に帰する」
李信は反論しなかった。
蒙恬も列の中にいた。
彼女自身、李信とは別路を進んでいたため、戦場で直接その指揮を見ていたわけではない。それでも進軍速度を警戒し、使者を送って深追いを避けるよう伝えていたことは、すでに報告として提出されていた。
「李信」
政が呼んだ。
「何か申し開きはあるか」
李信は顔を上げた。
「ない」
朝議の場がわずかにざわめく。
「俺が二十万で勝てると言った。王は二十万を預けた。それを率いて負けたのも俺だ」
「昌平君の裏切りがあった」
「それを見抜けなかったのも、俺たちの負けだ」
李信はそこで一度言葉を切った。
「項燕にもやられた。追い方も甘かった。俺の兵がたくさん死んだ。それで俺だけ、知らなかったことにする気はない」
扶蘇は末席からその姿を見ていた。
負けても、李信は李信だった。
責任を他人へ押しつけようとはしない。
だからこそ、軍法は重かった。
「軍を大敗させた大将への処罰は、死罪をもって相当とする」
官の声が広間へ響いた。
誰も驚かなかった。
二十万を預かるとは、それだけの責任を負うということだった。
しばらく、政は何も言わなかった。
玉座から李信を見下ろすその顔は固く、何を考えているのか扶蘇にも読めない。
やがて、口を開いた。
「死罪にはしない」
ざわめきが起こった。
政はそれを収めるように片手を上げた。
「これまでの戦功をすべて無かったものとするつもりはない。それに、この敗北だけをもって一人の将を失うことが、秦にとって利になるとも思わぬ」
そこで初めて、李信の表情が僅かに動いた。
「ただし、将軍の位には置けない」
政の声から温度が消えた。
「李信。本日をもって将軍職を解く。千人将へ降格し、一から功を積み直せ」
広間が静まる。
将軍から千人将へ。
率いていた二十万から、千人へ。
死こそ免れたが、これまで積み上げてきたものをほとんど失う処分だった。
李信はしばらく政を見つめた後、膝をついた。
「……承知した」
政は、それ以上何も言わなかった。
ただ冷たい視線を送り、次の議題へ移るよう命じた。
それ以後、宮中で李信が以前のように政の近くへ呼ばれることは無くなった。
◆
だが、李信を処分したところで楚が消えるわけではない。
項燕は健在で、昌平君も楚へ逃れた。二十万の秦軍を破ったことで楚側の士気も高まり、ここで攻勢を止めれば、せっかく削ってきた楚へ立ち直る時間を与えることになる。
もう一度、大軍を送らなければならなかった。
そして、その大軍を預けられる者を、政も分かっていた。
「王翦を呼べ」
使者が送られた。
返ってきた答えは、病だった。
もう一度送った。
同じだった。
三度目も、王翦は病を理由に咸陽へ出てこなかった。
「本当に病なのですか」
扶蘇が尋ねると、政は不機嫌そうに木簡を置いた。
「知らぬ」
「……たぶん、元気ですよね」
「分かっている」
声が低い。
扶蘇は余計なことを言わないことにした。
かつて王翦は、楚を落とすには六十万が必要だと進言した。
それを政は退けた。
老いた。
慎重になりすぎた。
そう判断し、二十万で十分だと言う李信を選んだ。
結果は、もう誰もが知っている。
「……行くぞ」
ある日、政が立ち上がった。
「どこへですか」
「王翦のところだ」
扶蘇が目を瞬かせる。
「母上が?」
「来ぬのなら、こちらから行く」
そう答えた政の顔は、ひどく苦そうだった。
◆
王翦は、領地の屋敷で本当に寝台へ横になっていた。
ただし、扶蘇にはどう見ても病人には見えなかった。
五十を越えた身体には年齢なりの衰えこそあるものの、顔色は悪くない。何より、寝台からこちらを見る目が妙に澄んでいた。
「王自ら、このような田舎までお越しになるとは」
「白々しいな」
政が言った。
「病でございますので」
「その顔で言うか」
王翦は薄く笑った。
しばし二人の視線がぶつかる。
先に折れたのは政だった。
「私が誤った」
部屋の空気が変わった。
扶蘇も黙った。
政は王翦から目を逸らさず続けた。
「お前は六十万が必要だと言った。それを私は退け、李信へ二十万を与えた。結果は大敗だ」
王翦は何も言わない。
「もう一度、楚を討つ」
政は一歩前へ出た。
「王翦。秦で今、それを任せられるのはお前しかいない」
「私のような、臆病な老婆に?」
「根に持つな」
「年を取ると、昔のことばかり覚えているものです」
扶蘇は口元が動きそうになるのを堪えた。
政は笑わなかった。
「六十万を預ける」
今度は王翦の表情からも冗談が消えた。
「六十万。お前が求めた数を、そのまま預ける。だから楚を落とせ」
秦の兵力の大半。
それを一人の将へ委ねる。
言葉にすれば簡単だが、王にとって容易な決断であるはずがない。
王翦はしばらく政を見つめ、それからゆっくり身体を起こした。
「では、お願いがございます」
「何だ」
「田が欲しゅうございます」
政の眉が動いた。
「……田?」
「できれば咸陽に近く、水の良い土地を。それから屋敷も少々広くしたいところでございます。庭も欲しいですね。孫の代まで困らぬ程度の金も頂ければ、なお嬉しい」
扶蘇は思わず王翦を見た。
六十万を預かる話の直後とは思えない。
政も同じことを感じたらしい。
「それだけか」
「私もこの歳です。領土を増やしたいとも、王になりたいとも思いませぬ。老後に良い家へ住み、娘と孫へ財産を残せれば満足にございます」
「……分かった。望むものを与える」
王翦は満足そうに頷いた。
「それでは、お引き受けいたしましょう」
先ほどまで病人だった女が、寝台の上で背筋を伸ばす。
「六十万、お預かりいたします」
◆
帰ろうとしたところで、王翦が扶蘇を呼び止めた。
「扶蘇様。少しだけお時間をいただけますか」
政は怪訝そうにしたものの、先に屋敷を出た。
二人きりになってから、扶蘇は寝台の傍へ戻る。
「何?」
「先ほどの話でございます」
「田畑の?」
「ええ」
王翦は、もう寝たふりをする必要もないとばかりに寝台から降りた。
「六十万とは、秦の大半でございます。それだけの兵を一人の将へ預ければ、王が何を考えるか、お分かりになりますか」
「……そのまま反乱を起こされたら、止められない」
「その通り」
王翦は穏やかに頷いた。
「だから欲しがるのです。田を、屋敷を、金を。私が欲しいのは天下ではなく、子や孫へ残す財産だと、何度でも王へ見せる」
扶蘇は先ほどのやり取りを思い返した。
「母上を安心させるためか」
「王というものは、疑うのが仕事でもございますから」
王翦は淡々と言った。
「六十万を預かるなら、楚軍だけを見ていればよいわけではありません。背後の王にも、安心していただかなくては」
戦場だけではない。
大軍を率いる前から、すでに駆け引きは始まっている。
「……やっぱり怖いな、王翦は」
「褒め言葉として頂いておきましょう」
王翦は少し笑った。
「ところで、もう一つ欲しいものがございます」
「まだあるの?」
「ございますとも」
嫌な予感がした。
王翦が妙に楽しそうな顔をしている。
「扶蘇様のお子を一人、私の腹に頂けませんか」
「…………何?」
扶蘇はしばらく意味を理解できなかった。
理解した途端、顔が熱くなる。
「いや、何を言ってるんだよ!」
「健康な王族の男子、それも聡明な扶蘇様のお子種となれば、欲しがる女はいくらでもおりましょう」
「だからって自分で言う!?」
王翦は肩を揺らした。
「冗談でございます」
「笑えないって!」
「半分ほどは」
「半分本気なの!?」
今度こそ、王翦は声を立てて笑った。
「私があと二十ほど若ければ、もう少し本気で考えたかもしれませんね」
「やめてくれ……」
戦場では六国を震え上がらせる名将なのに、こういう時だけ妙に楽しそうである。
扶蘇が疲れた顔をしていると、王翦はようやく笑いを収めた。
「では、本当のお願いを」
「今度は本当なんだな?」
「ええ。孫の王離を、いずれ扶蘇様の妻の一人として考えていただけませんか」
今度は別の意味で、扶蘇が固まった。
「王離を?」
「あの子はまだ若いですが、王氏三代の血をよく継いでおります。少々力がありすぎますが」
「少々かな……」
「そこは長所ということにしておきましょう」
王翦の目元に、祖母らしい柔らかさが浮かんだ。
「楚でのことも聞いております。扶蘇様と共に戦場へ入り、帰ってからも随分楽しそうに話しておりました」
扶蘇は、大剣を振り回しながら敵陣へ飛び込んでいった王離を思い出した。
確かに頼もしかった。
妻と言われると、話はまったく別だったが。
「俺は……」
「蒙恬ですか」
あっさり名前を出され、扶蘇は言葉を止めた。
王翦は面白がるでもなく、穏やかにこちらを見ていた。
「分かるの?」
「分からぬ方が難しいかと」
「そんなに?」
「少なくとも、戦場まで三千を連れて迎えに行く程度には」
言い返せない。
扶蘇が黙ると、王翦は小さく笑った。
「蒙恬を想うことと、王離を候補に考えることは、この国では両立いたします。ですが、決めるのは扶蘇様です。王家との縁を欲しがる祖母がいる、くらいに覚えておいてください」
「……それなら考えておく」
「それで十分にございます」
王翦は満足そうに頷いた。
そして、寝台の横へ置いてあった上衣を手に取る。
立ち上がった姿には、先ほどまでの病人らしさなど欠片もなかった。
「さて。寝ているのにも飽きました」
「やっぱり病気じゃなかったんだな」
「病でございますよ」
「どこが?」
「王に機嫌を損ねられた心が」
「元気そうで安心したよ」
扶蘇が呆れて返すと、王翦は楽しそうに笑った。
その笑みも、やがて消える。
「今度は二十万ではありません」
王翦は窓の外へ目を向けた。
「六十万を使います。急がず、楚が崩れるまで待つ。項燕がどれほど巧みでも、こちらから焦って隙を与えなければよい」
声は穏やかだった。
だからこそ、扶蘇にはその言葉が重く聞こえた。
李信の速さを否定するのではない。
速さで勝てなかった相手を、今度は別の方法で仕留める。
王翦はすでに、その戦を始めていた。
「楚を獲ってまいります」
老将は静かに言った。
「此度こそ、確実に」
二十万が敗れた楚へ、今度は六十万が向かう。
その大軍を率いるため、王翦は再び秦の戦場へ戻ることになった。




