第35話 公子、戦場へ
昌平君軍の後方で、突然、鬨の声が上がった。
最初に食い込んだのは王離だった。三千の兵を一点へ絞り、大剣を振るって後列の槍を弾き飛ばし、その隙へ王氏の私兵を押し込んでいく。横から騎兵が回ろうとすれば、少し後ろを走る蒙凛が馬上から矢を放ち、先頭の動きを止めた。
その中央に、扶蘇はいた。
ここへ来るまでのことが、ほんの一瞬だけ脳裏をよぎる。
あの日、扶蘇は王賁を呼び、兵を貸してほしいと頼んだ。
「王命がない。王軍は出せない」
「分かってる。でも、蒙恬が危ない」
王賁はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……王氏の私兵なら三千出せる。王離も連れていけ」
そこへ蒙凛まで同行すると言い出し、止めても聞かなかった。
王命はない。
政の許可もない。
それでも扶蘇は、三千の兵と二人を連れて楚へ向かった。
そして今、ようやく間に合った。
「王離! 深く入りすぎるな!」
「分かってます!」
返事と同時に、王離の大剣が二本の槍をまとめて押し退けた。
その右から騎兵が寄る。
「右、来るよ!」
蒙凛が矢を放つ。先頭の騎手の肩へ刺さり、馬列が僅かに乱れたところへ、王氏の兵が盾を押し込んだ。
三千で昌平君軍を倒す必要はない。
道を開ければいい。
その向こうに、蒙恬がいる。
◆
昌平君軍の後列にいた兵たちは、最初、その三千を敵だと思っていなかった。
掲げているのは秦旗だったからだ。
援軍かと思って道を開けかけたところへ、王離が飛び込んだ。
「退いてください!」
大剣が振られ、槍の穂先ではなく柄を叩き折る。
正面に立った兵を次々と斬り伏せるような戦い方ではなかった。盾を弾き、武器を飛ばし、押し込み、ひたすら陣に穴を開けていく。
それでも王離の膂力を正面から受ければ、兵は簡単には立っていられない。
「止めろ!」
後方の将が叫ぶ。
その声に応じて槍兵が集まったが、今度は蒙凛の矢が飛んだ。
弓弦が続けて鳴る。
将の手元。
旗手の腕。
騎兵の肩。
致命傷を狙うよりも、動きを止める射だった。
「今!」
蒙凛の声に合わせ、三千がさらに深く食い込む。
だが、数の差は大きい。
昌平君軍が立て直せば、この程度の兵力などすぐに押し潰される。
扶蘇もそれは分かっていた。
だから、ここで使うべきなのは兵ではない。
自分自身だった。
馬を前へ出す。
「聞け!」
周囲の兵が振り向いた。
「俺は扶蘇! 秦王政の子だ!」
ざわめきが広がる。
「公子……?」
「なぜ、ここに」
扶蘇はさらに前へ出た。
「蒙恬が裏切ったという話は嘘だ!」
兵たちの表情が変わった。
昌平君軍がここまで戦えていた理由の一つは、自分たちこそ秦を守っていると信じていたからだ。
李信軍の敗北は蒙恬が救援しなかったせい。
だから逆賊を討つ。
そう聞かされていた。
しかし、その逆賊を救うために、王の長子が自ら戦場へ来た。
それだけで、話が噛み合わなくなる。
「昌平君は一度、秦を裏切った!」
扶蘇の声が戦場へ響く。
「呂不韋の謀反に加わった。それでも母上は命を取らず、もう一度秦のために働く道を与えた!」
何人かが顔を見合わせた。
古参の兵なら、その出来事を知っている。
「その恩を捨てて、今また秦兵へ刃を向けている! 兵糧を止め、退路を塞ぎ、李信と蒙恬を殺そうとしている!」
「嘘だ!」
昌平君側の将が怒鳴った。
「公子は蒙恬に騙されている!」
だが、今度は兵たちの反応が鈍かった。
扶蘇はその揺れを見た。
ここで迷わせるだけでは足りない。
槍を下ろさせなければならない。
「俺を信じろ!」
声を張る。
「俺は秦王の子だ! 秦へ帰りたい者は、今ここで武器を下ろせ! 昌平君に従ったことは問わせない。俺が咸陽まで連れて帰る!」
一人の兵が槍を下ろした。
隣にいた兵が、その顔を見る。
やがて同じように穂先を地面へ向けた。
「私は……秦兵です」
誰かが呟いた。
「秦兵を殺すために来たんじゃない」
その言葉が近くへ広がった。
武器を下ろす者が増えていく。
後方で生まれた迷いは、戦列の前へ前へと伝わっていった。
◆
「扶蘇?」
報告を聞いた昌平君は、思わず聞き返した。
「はい。公子本人です。王氏の兵を率いて、後方へ攻め込んでおります」
「王命は?」
「確認できません」
昌平君は前方を見た。
蒙恬軍はまだこちらへ圧力をかけている。
後ろからは扶蘇。
それだけでも厄介だが、もっと悪いのは自軍だった。
「兵が武器を捨て始めています!」
「止めなさい!」
「将たちが命じていますが、広がっています!」
昌平君は唇を噛んだ。
蒙恬が逆賊だという話を兵に信じ込ませることはできた。
だが、その場に扶蘇本人が現れてしまえば、話は変わる。
王の子が命を懸けて救いに来た相手を、逆賊だと信じ続けられる者は多くない。
しかも、扶蘇は自分の過去まで持ち出した。
一度秦を裏切ったこと。
赦されてなお、再び刃を向けたこと。
その事実は消せない。
「後方部隊をまとめます」
側の将が言った。
「まだ戦えます」
「無理です」
昌平君は首を振った。
「前に蒙恬、後ろに扶蘇。その上、兵までこちらを疑っている。ここで粘れば軍そのものを失います」
「ですが、項燕将軍は近くまで」
「間に合う前に崩れます」
昌平君は馬を返した。
「従う兵だけ連れて退きます。楚側へ抜けてください」
秦旗の一部が動き始める。
武器を下ろした兵たちは、その動きについてこなかった。
昌平君は一度だけ振り返った。
遠くで、扶蘇の旗が見えた。
あの子まで戦場に来るとは思わなかった。
「……政の子か」
小さく漏らし、そのまま馬を走らせた。
◆
前方の圧力が急に弱くなったことに、蒙恬はすぐ気づいた。
「敵の後方で何が起きています?」
「崩れています! 武器を捨てる兵も!」
「誰が来たのですか」
「秦旗です!」
その答えだけでは分からなかった。
しかし、ほどなくして聞き慣れた声が届いた。
「道を開けろ!」
蒙恬の身体が固まる。
聞き間違えるはずがない。
それでも、こんな場所で聞くはずのない声だった。
敵兵が次々と道を開けていく。
その向こうから、大剣を担いだ王離が現れた。少し遅れて弓を持った蒙凛が続き、その中央に、泥と埃にまみれた少年がいる。
「……扶蘇様?」
声が掠れた。
扶蘇も蒙恬を見つけた。
鎧には血がつき、髪は乱れている。
頬にも小さな傷がある。
それでも立っている。
生きている。
扶蘇は馬から降りた。
「蒙恬!」
走ってくる。
蒙恬も馬を降りた。
「どうしてここにいるんですか」
「助けに来た」
「王命は?」
「ない」
蒙恬の顔が強張った。
「……ない?」
「うん」
「扶蘇様、それは」
「後で怒って」
そこまで言ったところで、扶蘇は蒙恬へ抱きついた。
蒙恬は、一瞬だけ動けなかった。
だが、すぐに腕を回した。
「生きててよかった」
耳元でそう言われ、蒙恬は目を閉じた。
「それはこちらの台詞です」
扶蘇の身体は少し震えていた。
戦場へ来るまで押し込めていたものが、ようやく緩んだのだろう。
蒙恬はそれ以上何も言わず、しばらくその背を抱いた。
少し離れたところで、蒙凛が二人を見ていた。
やがて口元がむっと曲がる。
「……お母さん」
隣の王離が振り向いた。
「どうしました?」
「別に」
「怒ってます?」
「怒ってない」
王離は抱き合っている二人を見た。
それから蒙凛を見る。
もう一度二人を見る。
「……あっ」
蒙凛の目が細くなった。
「何」
「いえ、何でもないです」
「今、絶対何か分かったでしょ」
「何でもないですって」
王離は慌てて顔を逸らした。
◆
再会を喜んでいられる時間は短かった。
項燕軍が迫っている。
蒙恬はすぐに指揮へ戻り、自軍と王氏の三千をまとめて西へ向かわせた。昌平君に従うことをやめた兵たちも多くが加わり、途中では李信軍から離れてきた敗残兵を拾った。
扶蘇はその列の中を馬で進みながら、初めて戦場の全体を見た。
負傷して担がれる兵。
武器を杖代わりに歩く兵。
仲間の肩を借りなければ進めない者。
自分たちは蒙恬を救った。
だが、この戦そのものに勝ったわけではない。
李信軍は大敗した。
多くの兵が死んだ。
昌平君は楚へ逃げた。
そして項燕は、まだ生きた軍を率いている。
「扶蘇様」
隣へ来た蒙恬が声をかけた。
「何?」
「戻ったら、かなり怒られると思います」
「……誰に?」
蒙恬は答えなかった。
答える必要もなかった。
扶蘇は前を向いたまま、小さく息を吐いた。
「まあ、そうだよな」
「王命なしで兵を動かしていますから」
「でも助けられた」
「はい」
蒙恬は少しだけ笑った。
「ですから、怒られる時は私も一緒にいます」
扶蘇は横を見る。
「一緒に怒られてくれる?」
「私を助けるために来たのでしょう」
「そうだけど」
「なら、一人で怒らせるわけにはいきません」
扶蘇も少し笑った。
やがて軍は、秦の支配がまだ崩れていない地域へ入った。
そこまで来て、ようやく蒙恬は全軍を休ませた。
帰れる。
その実感が、少しずつ兵たちの間へ広がっていく。
扶蘇は西の空を見た。
この先には咸陽がある。
政がいる。
自分は王命もなく兵を借り、三千を連れて戦場まで来た。
その結果、蒙恬は生きている。
それでも、したことの重さまで消えるわけではない。
扶蘇は隣を歩く蒙恬を一度だけ見た。
何を言われても、後悔はしない。
そう思いながら、咸陽へ続く道を進んだ。




