第34話 背後
街道の先に並ぶ秦旗を、蒙恬はしばらく黙って見ていた。
歩兵が道を塞ぎ、その両側に騎兵。後ろには予備の隊まで置かれている。味方を迎える陣ではない。
「間違いありません。昌平君様の軍です」
隣の将が低く言った。
兵たちの間には戸惑いが広がっていた。旗も鎧も同じ秦のものだ。楚兵なら迷わず槍を向けられるが、昨日まで味方だった相手となれば、そうはいかない。
「使者を出します」
蒙恬はそう命じた。
白布を掲げた騎馬が両軍の間へ進んでいく。向こうからも一騎出てきたが、言葉を交わす間もなく、昌平君軍の陣から矢が飛んだ。
使者の馬が倒れる。
同時に、太鼓が鳴った。
「逆賊蒙恬を討て!」
敵陣から声が上がる。
「李信将軍を見捨てたのは蒙恬だ! 救援を拒み、敗北させた!」
蒙恬軍の列がざわめいた。
隣の将が顔をしかめる。
「こちらを裏切り者にするつもりですか」
「そうでしょうね」
蒙恬は前を見たまま答えた。
「全軍に伝えてください。旗ではなく、武器を見ろと。こちらへ刃を向ける者は敵です」
ほどなく、昌平君軍が動き始めた。
◆
戦い始めてすぐ、蒙恬は相手の厄介さを悟った。
昌平君は中央を厚く押すのではなく、左右を絶えず動かした。こちらが右翼へ兵を寄せれば左を突き、左へ回せば中央を押す。蒙恬軍に休む間を与えず、対応だけを強いてくる。
「右翼、追わないでください!」
相手が下がるのを見て前へ出ようとした兵を止める。その直後、反対側から騎兵が回り込んできた。
「左翼、槍を外へ!」
辛うじて受け止める。
だが、その間に中央が押された。
「前列を下げて。二列目と入れ替えます」
命令を飛ばしながら、蒙恬は相手の旗を追った。
こちらの動きを知っている。
秦軍の陣形も、号令も、予備の使い方も知っている。長く秦にいた昌平君だからこそできる戦い方だった。
「嫌ですね」
蒙恬が呟く。
「こちらの癖まで知っています」
隣の将が答えた。
「ええ。それに、向こうは急ぐ必要がありません」
問題はそこだった。
昌平君はここで勝ち切る必要がない。ただ止めていればいい。
背後から項燕が来るまで。
◆
蒙恬は中央を少しだけ下げさせた。
「入らせます。左右から閉じてください」
敵兵がじわじわと中央へ入ってくる。
十分に引きつけてから両翼を動かしたが、昌平君軍は深く踏み込まず、すぐに下がった。
「読まれました」
将の声に、蒙恬は小さく息を吐いた。
時間をかければ崩せるかもしれない。
だが、その時間がない。
「左を破ります」
「中央ではなく?」
「中央は待っています。左へ兵を寄せて、相手の予備を動かします」
歩兵を先に当てる。
昌平君軍の兵が左へ寄った。
「今です。中央を押して!」
秦兵が一斉に前へ出る。
一瞬だけ道が開いた。
そこへ騎兵を入れようとしたが、横から矢が飛び、さらに後方から回った敵騎兵が穴を塞いだ。
突破口は消えた。
蒙恬は手綱を握り直した。
また、最初からだ。
◆
遠くから戦況を見ていた昌平君は、僅かに目を細めた。
蒙恬はよく耐えている。
若いが、判断が早い。普通の将なら、とうに焦って正面へ兵を叩きつけているだろう。
昌平君は、いつの間にか秦の戦場に若い名が増えたことを思った。
王賁。
李信。
蒙恬。
かつてなら、それを喜んだはずだった。
自分も、中華統一を望んでいた。
だから呂不韋についた。
あの時、自分は秦を壊そうとしたつもりではない。政よりも、呂不韋の方が国を安定させられると考えた。
だが、謀反は失敗した。
呂不韋は消え、嫪毐も死んだ。
自分だけが残った。
処刑はされなかった。
僅かな領地も与えられた。
だが、赦されたとは思わなかった。
軍権は戻らず、中枢からも遠ざけられた。今回の楚攻めでも、前線に立ったのは李信と蒙恬で、自分に与えられたのは兵站だった。
その間にも、若い将たちは前へ進んでいく。
自分が夢見た天下が近づくほど、その中から自分の名だけが消えていった。
最初に兵糧を止めた時、迷いはなかった。
昌平君は密かに項燕へ使者を送り、李信の進路と秦軍の補給路を知らせた。
楚の血に呼ばれたわけではない。
秦に、自分の居場所がなくなっただけだった。
「左翼を前へ。中央は押しすぎないように」
昌平君が命じる。
「蒙恬は突破を急いでいる。逃げようとしたところだけ塞げばいい」
今は、蒙恬をここに縫い止めれば十分だった。
項燕が来れば終わる。
そして、もし蒙恬まで討てれば、楚へ渡るにはこれ以上ない手土産になる。
◆
戦いが長引くにつれ、蒙恬軍の余裕は消えていった。
「左がまた押されています!」
「予備を回してください!」
「残りは半分です!」
「それでも回します!」
そこへ後方から伝令が駆け込んできた。
「将軍! 西へ出した斥候から報告です! 大軍が移動していると思われる土煙を確認しました!」
周囲の空気が変わった。
「数は?」
「まだ分かりません。ただ、こちらへ近づいております!」
蒙恬は黙った。
項燕だろう。
そうでなくても、確認している余裕はない。
「どれくらいで来ますか」
「速ければ今日中にも」
蒙恬はすぐに顔を上げた。
「左へ全力を集めます」
「予備もですか」
「全部です」
「失敗すれば立て直せません」
「ここに残れば、立て直す機会そのものがなくなります」
太鼓が鳴った。
秦兵が左へ集まり始める。
昌平君軍もすぐに対応し、槍列を厚くした。
「突っ込みます!」
両軍がぶつかる。
同じ秦の鎧を着た兵同士が、同じ言葉で叫びながら槍を突き合った。
「蒙恬は逆賊だ!」
「李信将軍を見殺しにした!」
敵陣から声が飛ぶ。
こちらの兵の一人が一瞬だけ動きを止め、その胸へ槍が入った。
「聞かないで!」
蒙恬が叫ぶ。
「前だけを見てください! ここを抜けます!」
兵たちが押す。
少しずつ敵の列が下がる。
「騎兵、そこへ!」
開いた隙間へ騎兵が走る。
だが、その先へ昌平君軍の後列が入り込み、また道を塞いだ。
蒙恬は奥歯を噛んだ。
間に合わない。
このままでは、項燕が来る。
自分が死ぬことより、兵をここで失う方が怖かった。
その時、一瞬だけ扶蘇の顔が浮かんだ。
帰らなければならない。
それだけを思った。
◆
昌平君は、蒙恬軍の動きが次第に大きくなっているのを見ていた。
焦っている。
予備まで使い始めた。
あと少し止めればいい。
「中央も前へ出してください。左へ兵を寄せた分、薄くなっています」
将が合図を送ろうとした。
その時、後方から鬨の声が聞こえた。
昌平君が振り返る。
自軍の後列が乱れていた。
「何が起きています?」
返事はすぐには来なかった。
遠くで旗が一本倒れた。
続いて、馬を飛ばしてきた伝令が叫ぶ。
「後方から攻撃を受けています!」
「誰です?」
「分かりません!」
「項燕では?」
「違います! こちらを攻めています!」
昌平君の表情が変わった。
蒙恬は前にいる。
李信は敗走した。
項燕は味方だ。
ならば、後ろから来る者などいるはずがない。
だが、自軍の後列は確かに崩れていた。
また一つ旗が倒れ、その向こうから新たな鬨の声が近づいてくる。
昌平君が蒙恬の背後を塞いだ戦場で、今度はその昌平君自身の背後が破られ始めていた。




