第33話 退路
兵糧は、その日も届かなかった。
蒙恬は朝から何度も後方へ伝令を走らせていたが、返ってくる報告はどれも似たようなものだった。郢陳方面の集積所には兵糧がある。街道にも大きな異常はなく、輸送隊が楚軍に襲われた形跡もない。それでも、前線へ送られるはずの荷だけが止まっていた。
「今日の分を最後に、進軍を止めます」
軍議の席で蒙恬が告げると、将たちの間に小さなどよめきが広がった。
「ですが、前方の楚軍は退いております。もう一つ拠点を取れば、道も広がります」
「そこまで進んだ後で兵糧が尽きれば、戻ることすら難しくなります」
蒙恬は地図の上に指を置いた。
「今なら、まだ余裕を持って止まれます。勝っている時ほど、止まれるうちに止まるべきです」
反論は続かなかった。
ここまでの蒙恬軍は順調だった。李信とは別の道を進み、楚の拠点を一つずつ落としながら、補給路を確保してきた。だからこそ、兵糧が来ないという異変を軽く見るつもりはなかった。
「前線の部隊を呼び戻してください。斥候は前方より後方を厚くします。集積所だけではなく、郢陳周辺の兵の動きも見てください」
「李信将軍には?」
「すでに使者を送っています」
そこまで答えてから、蒙恬は地図へ目を落とした。
その使者も、まだ戻っていなかった。
◆
その頃、李信は楚の奥深くまで進んでいた。
連戦連勝だった。
楚軍は戦えば退き、退いてはまた次の場所で姿を見せる。李信はそのたびに追いつき、陣を整える時間を与えずに攻め続けた。
速さで落とす。
出陣前に政へ語った言葉を、李信は実際の戦場で証明していた。
だが、その日の地形だけは、これまでとは少し違っていた。
前方には低い丘が連なり、左右には林が広がっている。中央を抜ける道は狭く、大軍が一度に展開するには向いていない。
先行していた斥候が馬を飛ばして戻ってきた。
「前方に楚軍を確認! およそ三万!」
「項燕は?」
「旗があります」
李信は馬上から丘の向こうを見た。
ようやく捕まえた。
そう思った。
「左右の林へ斥候を増やせ。騎兵は外側を回す。歩兵は中央から圧をかける」
傍らの将が口を挟んだ。
「森の奥まで見えておりません。もう少し待ってからでも」
「待てば、また退く」
「ですが」
「ここまで何度逃げられたと思ってる。今度こそ項燕を離さない」
李信は剣の柄へ手を置いた。
「進むぞ」
太鼓が鳴った。
秦軍が動き始める。
前列の歩兵が狭い道へ入り、その後ろから槍兵が続いた。左右へ出た騎兵は林の際を進み、楚軍の側面へ回り込もうとする。
しかし、楚軍は退かなかった。
丘の上に旗が一本立った。
続いて、その左右にも旗が現れる。
さらに林の奥から、別の楚軍が姿を見せた。
「……何だ」
李信の近くで、誰かが呟いた。
最初に見えていた三万が全部ではなかった。
丘の裏から兵が出てくる。
林からも出てくる。
前だけだと思っていた楚軍が、秦軍の左右へ広がっていった。
李信の顔から笑みが消えた。
「陣を締めろ! 左右を開くな!」
号令が飛ぶ。
秦兵たちが急いで盾を寄せ、槍を外へ向ける。その前方で項燕の旗が動いた。
楚軍が下りてくる。
これまで退き続けていた軍が、初めて牙を剥いた。
◆
最初の一撃を、秦軍は受け止めた。
二十万の精鋭だった。
李信の速い進軍についてきた兵たちは、韓、趙、燕との戦を生き抜いた者も多い。前列が押されれば後ろが支え、穴が開けばすぐに別の兵が入り込んだ。
「中央は持たせろ! 左翼は丘を取れ!」
李信自身も馬を前へ出し、崩れかけた場所へ命令を飛ばした。
秦軍は何度も押し返した。
だが、楚軍の数が減らない。
林の奥から新しい兵が出るたび、秦軍は別の場所へ部隊を回さなければならなかった。中央を厚くすれば側面が薄くなり、側面を守れば前が押される。
何より、秦兵は疲れていた。
勝ち続けるために、歩き続けてきた。
楚軍が退けば追い、追いつけば戦い、勝てばまた進んだ。休ませないことが李信の武器だったが、それは同時に、自軍も休まないということだった。
「将軍! 右翼が崩れます!」
「予備を回せ!」
「もう中央へ入っています!」
李信が歯を食いしばった。
前方には項燕の旗がある。
だが、もう首を取るどころではなかった。
「全軍、下がれ! 隊列を崩すな!」
初めて退却を命じた。
その瞬間、楚軍の太鼓が激しく鳴った。
待っていたように追撃が始まった。
秦軍は戦いながら下がる。
しかし、深く進むために細く伸びていた軍を、一度の号令でまとめ直すことはできなかった。前の隊が退いても後ろの隊には命令が届かず、逆に後方が先に動けば前線との間に隙間ができる。
楚軍は、その隙を逃さなかった。
一隊が割られた。
救援へ向かった別の隊も側面から押された。
秦の旗が一つ倒れ、また一つ見えなくなった。
退却だったものが、少しずつ敗走へ変わっていった。
◆
「来た道へ戻れ! 散るな!」
李信は馬を走らせながら叫んだ。
兜には深い傷が入り、頬を流れる血が顎まで伝っている。それでも自分が前へ出て、崩れた部隊を集めようとしていた。
「李信様、先へ!」
女将校の一人が馬を寄せてきた。
「俺が先に逃げてどうする!」
「将軍がここにいれば、皆が将軍を守ろうとして足を止めます!」
「勝手に守るな! 俺だけ逃げられるか!」
その時、右側の林から矢が飛んできた。
女将校が馬を寄せた。
矢が肩へ刺さる。
「おい!」
「進んでください!」
「俺を庇うな!」
二本目の矢が、女将校の胸へ突き立った。
身体が大きく揺れた。
それでも彼女は李信の外側に馬を寄せたまま、手綱を離さなかった。
「李信様を囲め!」
別の女が叫ぶ。
数騎が集まり、李信を包むように走り始めた。
「やめろ! 隊を崩すな!」
「無理です!」
「何がだ!」
「李信様を死なせられません!」
李信が睨みつける。
「総大将だからか!」
女将校は、一瞬だけ言葉に詰まった。
それから叫び返した。
「総大将で、それに男でしょう!」
李信の顔が歪んだ。
「俺だけ特別扱いするな!」
「特別です!」
返事は即座だった。
「私たちは死んでも代わりがいる! あなたにはいない!」
「そんなわけあるか!」
怒鳴った直後、先頭を走っていた女将校の馬が崩れた。
林から突き出された長槍が馬の腹へ入っていた。
女将校が地面へ投げ出される。
すぐに楚兵が殺到した。
「待て!」
李信が馬を返そうとする。
別の女将校が手綱を掴んだ。
「行ってください!」
「離せ!」
「ここで戻れば、あの人が残った意味がなくなります!」
進撃してきた時には、何もなかった道だった。
今は違う。
林の中には楚兵が潜み、狭い場所には倒木や車が置かれ、退いてくる秦軍を狙う槍と弓が待っている。
前へ進む時には一本の道だったものが、帰る時にはいくつもの殺し場に変わっていた。
伏兵にぶつかるたび、秦軍の列が削られた。
「将軍を先へ!」
「ここは私たちが抑える!」
「早く!」
その声を何度も聞いた。
女兵が残る。
女将校が残る。
十数騎、数十騎と馬を返し、楚軍へ向かっていく。
李信は、そのたびに歯を食いしばった。
男だから守られる。
そんな生き方が嫌で、戦場へ出た。
自分だけ安全な場所に置かれるくらいなら、女たちと同じ場所で剣を振るうと決めた。
それなのに、負けた途端、周囲の女たちは自分を生かすために死んでいく。
自分が男であることが、今ほど重く感じたことはなかった。
◆
敗走は三日三晩続いた。
項燕は秦軍に立て直す時間を与えなかった。
一度破っただけでは終わらない。
逃げれば追う。
まとまりかければ襲う。
秦軍が夜陰に紛れて距離を取ろうとしても、翌朝にはまた楚軍の騎兵が背後へ現れた。
睡眠はほとんど取れず、水を飲むために止まることすら危険だった。
そのうち、各隊をつなぐ命令まで届かなくなった。
「……七人目です」
生き残った将が掠れた声で言った。
「何が」
「都尉が、また討たれました」
李信は答えなかった。
七人。
軍の一部を預かり、兵をまとめる立場の将たちが、それだけ死んだ。
敗北の大きさは、もう数えなくても分かっていた。
前方でまた矢が飛んできた。
秦兵が一人、馬から落ちる。
隣にいた女将校が李信へ馬を寄せた。片腕には血の染みた布が巻かれ、鎧のあちこちが壊れている。
「李信様」
「何だ」
「この先で道が二つに分かれます」
「兵は分けない。これ以上散らせば戻せなくなる」
「だから、私が旗を持って別の道へ行きます」
李信が女を見る。
「駄目だ」
「楚軍の一部は食いつきます」
「死ぬぞ」
「分かっています」
「分かってて言うな!」
女将校は少しだけ笑った。
「では、ここで皆まとめて追いつかれますか?」
李信は何も言えなかった。
「総大将が生きて戻らなければ、この敗戦を政様へ伝える者もいなくなります」
「俺じゃなくてもできる」
「なら、次に勝つのも他の誰かに任せますか?」
李信が黙った。
女将校は秦の旗を受け取った。
「……次は勝ってください」
返事を待たず、馬を向けた。
数百の兵がついていく。
秦旗が本隊から離れ、別の道へ進んだ。
しばらくして、後方の楚軍の一部がその旗を追っていった。
李信は振り返らなかった。
振り返れば、自分もそちらへ行ってしまいそうだった。
ただ前だけを見て、残った兵とともに走り続けた。
◆
蒙恬のもとへ李信軍敗退の報が届いたのは、その翌朝だった。
伝令は馬から転げ落ちるように降り、そのまま軍議所へ駆け込んできた。
「李信将軍の主力が項燕軍に大敗! 現在、退却中とのことです!」
将たちが一斉に立ち上がった。
「被害は?」
「分かりません。ただ、複数の部隊が散り、都尉も何人か討たれたと!」
蒙恬は地図へ目を落とした。
兵糧は来ない。
後方へ送った使者の一部も戻らない。
そして、別路を進んでいた李信軍が崩れた。
もう前へ出る理由はなかった。
「撤退します」
声に迷いはなかった。
一人の将が尋ねる。
「李信将軍の救援には?」
「今から前へ出ても、こちらが同じ場所へ引き込まれます。それに、補給が止まっている以上、長くは戦えません」
蒙恬は秦側へ続く道を指した。
「我が軍は秩序を保って退きます。途中で李信軍の敗残兵と出会えば受け入れてください。負傷者を優先します」
「荷は?」
「不要なものは捨てて構いません。兵糧と水、それから治療に必要なものだけ残してください」
「はっ」
「退却だからといって走らないよう、各隊に徹底してください。隊列が崩れれば追撃を受けた時に立て直せません」
命令が広がった。
蒙恬軍は、進軍してきた時より慎重に向きを変えた。
それまで後方だった道へ改めて斥候を送り、橋や水場、拠点の状況を一つずつ確かめる。進撃中に秦へ降った場所がまだこちら側にあるとは限らない。
昼を過ぎた頃、先行した斥候が戻った。
「前方に軍勢を確認!」
「楚軍ですか」
「いえ。旗は秦です」
周囲の将たちから、僅かに安堵の息が漏れた。
だが、斥候の顔は硬かった。
「何かありますね」
蒙恬が言う。
「……布陣が、おかしいのです」
「どうおかしい?」
「街道を横切るように兵を並べています。こちらへ道を開けるのではなく、塞ぐ形です」
天幕の中が静かになった。
「旗印は?」
斥候が答えた。
「昌平君様です」
蒙恬は目を閉じた。
届かなかった兵糧。
戻らなかった使者。
秦軍の退路を塞ぐように置かれた兵。
「……扶蘇様」
小さく名前を漏らした。
理由も分からない警告だった。
それでも信じた。
そして今、その意味が目の前に現れている。
蒙恬は立ち上がった。
「全軍を止めてください」
「戦いますか」
「まだです」
前には、秦の旗を掲げた軍がいる。
後ろでは項燕が勝ちに乗り、李信の敗残兵を追っている。
焦って一方へぶつかれば、もう一方に背を向けることになる。
蒙恬は遠くの街道へ目を向けた。
風の向こうで、見慣れた秦の旗が揺れている。
味方の旗のはずだった。
だが、その兵は道を開けていない。
蒙恬たちが帰るための道を、塞いでいた。




