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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第1章 戦国の終焉編

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第33話 退路

 兵糧は、その日も届かなかった。


 蒙恬(もうてん)は朝から何度も後方へ伝令を走らせていたが、返ってくる報告はどれも似たようなものだった。郢陳えいちん方面の集積所には兵糧がある。街道にも大きな異常はなく、輸送隊が楚軍に襲われた形跡もない。それでも、前線へ送られるはずの荷だけが止まっていた。


「今日の分を最後に、進軍を止めます」


 軍議の席で蒙恬(もうてん)が告げると、将たちの間に小さなどよめきが広がった。


「ですが、前方の楚軍は退いております。もう一つ拠点を取れば、道も広がります」


「そこまで進んだ後で兵糧が尽きれば、戻ることすら難しくなります」


 蒙恬(もうてん)は地図の上に指を置いた。


「今なら、まだ余裕を持って止まれます。勝っている時ほど、止まれるうちに止まるべきです」


 反論は続かなかった。


 ここまでの蒙恬(もうてん)軍は順調だった。李信(りしん)とは別の道を進み、楚の拠点を一つずつ落としながら、補給路を確保してきた。だからこそ、兵糧が来ないという異変を軽く見るつもりはなかった。


「前線の部隊を呼び戻してください。斥候は前方より後方を厚くします。集積所だけではなく、郢陳周辺の兵の動きも見てください」


李信(りしん)将軍には?」


「すでに使者を送っています」


 そこまで答えてから、蒙恬(もうてん)は地図へ目を落とした。


 その使者も、まだ戻っていなかった。



 その頃、李信(りしん)は楚の奥深くまで進んでいた。


 連戦連勝だった。


 楚軍は戦えば退き、退いてはまた次の場所で姿を見せる。李信(りしん)はそのたびに追いつき、陣を整える時間を与えずに攻め続けた。


 速さで落とす。


 出陣前に(せい)へ語った言葉を、李信(りしん)は実際の戦場で証明していた。


 だが、その日の地形だけは、これまでとは少し違っていた。


 前方には低い丘が連なり、左右には林が広がっている。中央を抜ける道は狭く、大軍が一度に展開するには向いていない。


 先行していた斥候が馬を飛ばして戻ってきた。


「前方に楚軍を確認! およそ三万!」


項燕(こうえん)は?」


「旗があります」


 李信(りしん)は馬上から丘の向こうを見た。


 ようやく捕まえた。


 そう思った。


「左右の林へ斥候を増やせ。騎兵は外側を回す。歩兵は中央から圧をかける」


 傍らの将が口を挟んだ。


「森の奥まで見えておりません。もう少し待ってからでも」


「待てば、また退く」


「ですが」


「ここまで何度逃げられたと思ってる。今度こそ項燕(こうえん)を離さない」


 李信(りしん)は剣の柄へ手を置いた。


「進むぞ」


 太鼓が鳴った。


 秦軍が動き始める。


 前列の歩兵が狭い道へ入り、その後ろから槍兵が続いた。左右へ出た騎兵は林の際を進み、楚軍の側面へ回り込もうとする。


 しかし、楚軍は退かなかった。


 丘の上に旗が一本立った。


 続いて、その左右にも旗が現れる。


 さらに林の奥から、別の楚軍が姿を見せた。


「……何だ」


 李信(りしん)の近くで、誰かが呟いた。


 最初に見えていた三万が全部ではなかった。


 丘の裏から兵が出てくる。


 林からも出てくる。


 前だけだと思っていた楚軍が、秦軍の左右へ広がっていった。


 李信(りしん)の顔から笑みが消えた。


「陣を締めろ! 左右を開くな!」


 号令が飛ぶ。


 秦兵たちが急いで盾を寄せ、槍を外へ向ける。その前方で項燕(こうえん)の旗が動いた。


 楚軍が下りてくる。


 これまで退き続けていた軍が、初めて牙を剥いた。



 最初の一撃を、秦軍は受け止めた。


 二十万の精鋭だった。


 李信(りしん)の速い進軍についてきた兵たちは、韓、趙、燕との戦を生き抜いた者も多い。前列が押されれば後ろが支え、穴が開けばすぐに別の兵が入り込んだ。


「中央は持たせろ! 左翼は丘を取れ!」


 李信(りしん)自身も馬を前へ出し、崩れかけた場所へ命令を飛ばした。


 秦軍は何度も押し返した。


 だが、楚軍の数が減らない。


 林の奥から新しい兵が出るたび、秦軍は別の場所へ部隊を回さなければならなかった。中央を厚くすれば側面が薄くなり、側面を守れば前が押される。


 何より、秦兵は疲れていた。


 勝ち続けるために、歩き続けてきた。


 楚軍が退けば追い、追いつけば戦い、勝てばまた進んだ。休ませないことが李信(りしん)の武器だったが、それは同時に、自軍も休まないということだった。


「将軍! 右翼が崩れます!」


「予備を回せ!」


「もう中央へ入っています!」


 李信(りしん)が歯を食いしばった。


 前方には項燕(こうえん)の旗がある。


 だが、もう首を取るどころではなかった。


「全軍、下がれ! 隊列を崩すな!」


 初めて退却を命じた。


 その瞬間、楚軍の太鼓が激しく鳴った。


 待っていたように追撃が始まった。


 秦軍は戦いながら下がる。


 しかし、深く進むために細く伸びていた軍を、一度の号令でまとめ直すことはできなかった。前の隊が退いても後ろの隊には命令が届かず、逆に後方が先に動けば前線との間に隙間ができる。


 楚軍は、その隙を逃さなかった。


 一隊が割られた。


 救援へ向かった別の隊も側面から押された。


 秦の旗が一つ倒れ、また一つ見えなくなった。


 退却だったものが、少しずつ敗走へ変わっていった。



「来た道へ戻れ! 散るな!」


 李信(りしん)は馬を走らせながら叫んだ。


 兜には深い傷が入り、頬を流れる血が顎まで伝っている。それでも自分が前へ出て、崩れた部隊を集めようとしていた。


「李信様、先へ!」


 女将校の一人が馬を寄せてきた。


「俺が先に逃げてどうする!」


「将軍がここにいれば、皆が将軍を守ろうとして足を止めます!」


「勝手に守るな! 俺だけ逃げられるか!」


 その時、右側の林から矢が飛んできた。


 女将校が馬を寄せた。


 矢が肩へ刺さる。


「おい!」


「進んでください!」


「俺を庇うな!」


 二本目の矢が、女将校の胸へ突き立った。


 身体が大きく揺れた。


 それでも彼女は李信(りしん)の外側に馬を寄せたまま、手綱を離さなかった。


「李信様を囲め!」


 別の女が叫ぶ。


 数騎が集まり、李信(りしん)を包むように走り始めた。


「やめろ! 隊を崩すな!」


「無理です!」


「何がだ!」


「李信様を死なせられません!」


 李信(りしん)が睨みつける。


「総大将だからか!」


 女将校は、一瞬だけ言葉に詰まった。


 それから叫び返した。


「総大将で、それに男でしょう!」


 李信(りしん)の顔が歪んだ。


「俺だけ特別扱いするな!」


「特別です!」


 返事は即座だった。


「私たちは死んでも代わりがいる! あなたにはいない!」


「そんなわけあるか!」


 怒鳴った直後、先頭を走っていた女将校の馬が崩れた。


 林から突き出された長槍が馬の腹へ入っていた。


 女将校が地面へ投げ出される。


 すぐに楚兵が殺到した。


「待て!」


 李信(りしん)が馬を返そうとする。


 別の女将校が手綱を掴んだ。


「行ってください!」


「離せ!」


「ここで戻れば、あの人が残った意味がなくなります!」


 進撃してきた時には、何もなかった道だった。


 今は違う。


 林の中には楚兵が潜み、狭い場所には倒木や車が置かれ、退いてくる秦軍を狙う槍と弓が待っている。


 前へ進む時には一本の道だったものが、帰る時にはいくつもの殺し場に変わっていた。


 伏兵にぶつかるたび、秦軍の列が削られた。


「将軍を先へ!」


「ここは私たちが抑える!」


「早く!」


 その声を何度も聞いた。


 女兵が残る。


 女将校が残る。


 十数騎、数十騎と馬を返し、楚軍へ向かっていく。


 李信(りしん)は、そのたびに歯を食いしばった。


 男だから守られる。


 そんな生き方が嫌で、戦場へ出た。


 自分だけ安全な場所に置かれるくらいなら、女たちと同じ場所で剣を振るうと決めた。


 それなのに、負けた途端、周囲の女たちは自分を生かすために死んでいく。


 自分が男であることが、今ほど重く感じたことはなかった。



 敗走は三日三晩続いた。


 項燕(こうえん)は秦軍に立て直す時間を与えなかった。


 一度破っただけでは終わらない。


 逃げれば追う。


 まとまりかければ襲う。


 秦軍が夜陰に紛れて距離を取ろうとしても、翌朝にはまた楚軍の騎兵が背後へ現れた。


 睡眠はほとんど取れず、水を飲むために止まることすら危険だった。


 そのうち、各隊をつなぐ命令まで届かなくなった。


「……七人目です」


 生き残った将が掠れた声で言った。


「何が」


「都尉が、また討たれました」


 李信(りしん)は答えなかった。


 七人。


 軍の一部を預かり、兵をまとめる立場の将たちが、それだけ死んだ。


 敗北の大きさは、もう数えなくても分かっていた。


 前方でまた矢が飛んできた。


 秦兵が一人、馬から落ちる。


 隣にいた女将校が李信(りしん)へ馬を寄せた。片腕には血の染みた布が巻かれ、鎧のあちこちが壊れている。


「李信様」


「何だ」


「この先で道が二つに分かれます」


「兵は分けない。これ以上散らせば戻せなくなる」


「だから、私が旗を持って別の道へ行きます」


 李信(りしん)が女を見る。


「駄目だ」


「楚軍の一部は食いつきます」


「死ぬぞ」


「分かっています」


「分かってて言うな!」


 女将校は少しだけ笑った。


「では、ここで皆まとめて追いつかれますか?」


 李信(りしん)は何も言えなかった。


「総大将が生きて戻らなければ、この敗戦を(せい)様へ伝える者もいなくなります」


「俺じゃなくてもできる」


「なら、次に勝つのも他の誰かに任せますか?」


 李信(りしん)が黙った。


 女将校は秦の旗を受け取った。


「……次は勝ってください」


 返事を待たず、馬を向けた。


 数百の兵がついていく。


 秦旗が本隊から離れ、別の道へ進んだ。


 しばらくして、後方の楚軍の一部がその旗を追っていった。


 李信(りしん)は振り返らなかった。


 振り返れば、自分もそちらへ行ってしまいそうだった。


 ただ前だけを見て、残った兵とともに走り続けた。



 蒙恬(もうてん)のもとへ李信(りしん)軍敗退の報が届いたのは、その翌朝だった。


 伝令は馬から転げ落ちるように降り、そのまま軍議所へ駆け込んできた。


李信(りしん)将軍の主力が項燕(こうえん)軍に大敗! 現在、退却中とのことです!」


 将たちが一斉に立ち上がった。


「被害は?」


「分かりません。ただ、複数の部隊が散り、都尉も何人か討たれたと!」


 蒙恬(もうてん)は地図へ目を落とした。


 兵糧は来ない。


 後方へ送った使者の一部も戻らない。


 そして、別路を進んでいた李信(りしん)軍が崩れた。


 もう前へ出る理由はなかった。


「撤退します」


 声に迷いはなかった。


 一人の将が尋ねる。


「李信将軍の救援には?」


「今から前へ出ても、こちらが同じ場所へ引き込まれます。それに、補給が止まっている以上、長くは戦えません」


 蒙恬(もうてん)は秦側へ続く道を指した。


「我が軍は秩序を保って退きます。途中で李信軍の敗残兵と出会えば受け入れてください。負傷者を優先します」


「荷は?」


「不要なものは捨てて構いません。兵糧と水、それから治療に必要なものだけ残してください」


「はっ」


「退却だからといって走らないよう、各隊に徹底してください。隊列が崩れれば追撃を受けた時に立て直せません」


 命令が広がった。


 蒙恬(もうてん)軍は、進軍してきた時より慎重に向きを変えた。


 それまで後方だった道へ改めて斥候を送り、橋や水場、拠点の状況を一つずつ確かめる。進撃中に秦へ降った場所がまだこちら側にあるとは限らない。


 昼を過ぎた頃、先行した斥候が戻った。


「前方に軍勢を確認!」


「楚軍ですか」


「いえ。旗は秦です」


 周囲の将たちから、僅かに安堵の息が漏れた。


 だが、斥候の顔は硬かった。


「何かありますね」


 蒙恬(もうてん)が言う。


「……布陣が、おかしいのです」


「どうおかしい?」


「街道を横切るように兵を並べています。こちらへ道を開けるのではなく、塞ぐ形です」


 天幕の中が静かになった。


「旗印は?」


 斥候が答えた。


昌平君(しょうへいくん)様です」


 蒙恬(もうてん)は目を閉じた。


 届かなかった兵糧。


 戻らなかった使者。


 秦軍の退路を塞ぐように置かれた兵。


「……扶蘇(ふそ)様」


 小さく名前を漏らした。


 理由も分からない警告だった。


 それでも信じた。


 そして今、その意味が目の前に現れている。


 蒙恬(もうてん)は立ち上がった。


「全軍を止めてください」


「戦いますか」


「まだです」


 前には、秦の旗を掲げた軍がいる。


 後ろでは項燕(こうえん)が勝ちに乗り、李信(りしん)の敗残兵を追っている。


 焦って一方へぶつかれば、もう一方に背を向けることになる。


 蒙恬(もうてん)は遠くの街道へ目を向けた。


 風の向こうで、見慣れた秦の旗が揺れている。


 味方の旗のはずだった。


 だが、その兵は道を開けていない。


 蒙恬(もうてん)たちが帰るための道を、塞いでいた。

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