第32話 速すぎる進軍
楚攻めの二十万は、一つの塊では動かなかった。
楚は広い。道も多く、川や丘陵が軍の進路を細かく分けている。李信は主力を率いて中央寄りの街道を進み、蒙恬には別の道を預けた。
二軍は離れて進む。
互いに同じ敵を見るわけではない。
同じ日に同じ場所へ着くわけでもない。
ただ、目的だけは同じだった。
楚軍が大軍をまとめる前に、各地の拠点を切り崩す。
李信が考えていたのは、その一点だった。
国境を越える前、李信は諸将を集めた。
地図の上には、楚の道と城が並んでいる。
「ここで時間を使わない」
李信は、国境に近い拠点を指した。
「正面から全部潰す必要はない。抵抗が弱ければ押さえる。強ければ後続に任せる。俺たちは先へ行く」
一人の将が口を開いた。
「占領地を固めずに進めば、後方が不安定になります」
「だから二十万なんだ」
李信は迷わなかった。
「六十万を引きずって歩くんじゃない。楚が兵を集める前に、こっちから崩す」
そして、地図の別の道を指す。
「蒙恬はこっちだ」
蒙恬は頷いた。
「承知しました」
「お前は拠点を押さえながら進め。俺は主力を引っ張る」
「離れすぎないようにはいたします」
「分かってる」
李信は笑った。
「先に楚を落とした方が勝ちだな」
「競争ではありません」
「分かってるって」
そう言いながら、李信の顔は明らかに楽しそうだった。
◆
秦軍が楚へ入ったのは、まだ朝靄の残る時間だった。
主力の前には斥候が走り、その後ろを歩兵、騎兵、荷車が続く。二十万という大軍が動けば地面そのものが鳴り、街道の先まで土埃が伸びていった。
李信は先頭に近い位置にいた。
総大将だからといって後ろへ下がる気はない。
前方の地形を自分の目で見て、斥候の報告をその場で聞き、そのまま進路を決める。
「前方、楚兵を確認!」
馬を飛ばしてきた斥候が叫んだ。
「数は?」
「およそ二万。平地で陣を組んでいます」
「後ろに増援は?」
「今のところ確認できません」
李信は地図を見た。
相手は秦軍を止めるために先回りしてきたのだろう。
だが、二万。
こちらの主力を止めるには少ない。
「ここで受けるつもりか」
李信は馬を進めた。
やがて、平原の向こうに楚の旗が見えた。
楚軍は中央を厚くし、その両脇に槍兵を並べている。背後には緩い丘があり、退くならそこから先の街道へ抜けられる布陣だった。
李信はしばらく眺めた。
「真正面から全部ぶつける必要はない」
傍らの将が顔を向ける。
「どうされますか」
「中央を押す。右翼は少し遅れて出ろ」
「右翼を見せるので?」
「見せるだけでいい」
李信は楚軍の左側を指した。
「あそこが動く。動いたら、逆から騎兵を入れる」
命令が伝わる。
秦軍はゆっくりと形を変えた。
中央に盾兵を集め、その後ろへ槍兵を置く。右翼は目立つように前へ出る準備をし、左側では騎兵が少し後ろへ下がった。
楚軍から見れば、秦が右から回り込もうとしているように見える。
李信は、それを待った。
「進め」
太鼓が鳴った。
秦軍中央が動く。
歩調を揃えた盾兵が前へ出て、その後ろから槍が揺れる。
楚軍も迎え撃った。
距離が詰まる。
互いの声が聞こえる。
やがて、二つの前列がぶつかった。
盾と槍が噛み合い、押し合いが始まる。
楚軍は簡単には崩れなかった。
前列が耐え、その後ろから槍を突き出す。秦兵が一人倒れれば、すぐ後ろの兵がその隙間を埋めた。
「右翼、出ろ!」
李信の命令で、秦軍右翼が動き始めた。
楚軍も反応した。
左側の兵が厚くなる。
それを見た李信は、すぐに手を上げた。
「今だ。左から入れ!」
待機していた騎兵が駆け出した。
楚軍の注意が右翼へ寄ったことで薄くなった反対側へ、秦騎兵が斜めに突っ込む。
楚兵が槍列を整えるより早かった。
馬が隊列へ食い込み、兵の間隔が乱れる。
そこへ秦軍中央がさらに押した。
楚軍の前列が、ついに下がった。
そこからは早かった。
崩れた一角へ秦兵が入り、楚軍は少しずつ後方へ押し戻されていく。
だが、完全な敗走にはならなかった。
旗は残っている。
後退する兵も、まだ隊列を保っている。
楚軍は前列を切り離しながら、少しずつ後ろへ下がった。
「追え!」
李信はすぐに命じた。
「ここで休ませるな!」
秦軍が前へ出る。
相手が陣を立て直す前に追いつき、次の戦を始める。
それが李信の戦い方だった。
◆
最初の勝利から、李信軍は速度を上げた。
平輿周辺の拠点が次々と秦の手に落ちた。
抵抗の弱い邑はすぐに降り、守りの固い場所には後続の兵を残す。李信自身は主力を止めず、楚軍の動きを追い続けた。
寝丘でも同じだった。
楚側が十分な兵を集める前に秦軍が到着し、城外の守備兵を押し崩した。
門が閉じる前に兵を食い込ませ、その日のうちに城壁の一角を奪った。
秦の旗が立つ。
兵たちの歓声が上がる。
李信は城壁を見上げて笑った。
「まだ行けるな」
傍らの将が言う。
「今日は休まれては」
「兵は休ませる。斥候は先へ出す」
地図が広げられる。
李信は次の道を指した。
「楚軍の位置を探れ。水場もだ。夜のうちに分かれば、明朝すぐ動ける」
「承知しました」
勝っている。
速い。
しかも、速さそのものが勝因になっている。
出陣前に語った通りだった。
二十万で走る。
楚が兵をまとめるより先に、次の場所へ着く。
今のところ、戦場はその考えを肯定し続けていた。
◆
楚軍の主力を率いる項燕は、相次ぐ敗報を静かに聞いていた。
「平輿周辺の拠点を失いました」
「寝丘も落ちたとのことです」
「秦軍はなお東へ進んでおります」
周囲の将たちは焦っていた。
だが、項燕は地図から目を離さない。
「李信は速いな」
「はい」
「兵もよくついてきている」
一人の将が問う。
「このまま退くのですか」
項燕は少しだけ笑った。
「退く」
「ですが、このままでは」
「城はいくらか捨てればいい」
将たちの顔が強張る。
「秦軍そのものを疲れさせる方が大事だ」
項燕の指が地図の上を進んだ。
秦軍の道。
楚の奥地。
その間に伸びていく距離。
「速い軍は、前だけを見る」
誰も答えない。
「なら、前を空けてやればいい」
項燕は、秦軍の駒をさらに奥へ動かした。
「もっと入らせろ」
◆
別の道を進む蒙恬軍も、順調だった。
李信軍ほど速くはない。
その代わり、落とした拠点を確実に押さえながら進んでいた。
斥候を先に出し、周囲の道と水場を調べる。
抵抗が強い城には無理に兵をぶつけず、外へ通じる道を押さえる。
逃げ場を失った相手が降れば、そのまま秦軍の管理下へ置いた。
「捕虜の武器を集めてください。民家への立ち入りは必要な場所だけに」
蒙恬が命じる。
「略奪は認めません。負傷者は後送します」
軍は進み、拠点が一つずつ秦側へ変わっていった。
その日の夕方。
仮の軍議所へ戻った蒙恬のもとへ、李信軍からの伝令が入った。
「寝丘陥落とのことです!」
周囲の将たちが声を上げる。
「もう落としたのか」
「やはり李信将軍は速い」
蒙恬は地図へ駒を置いた。
自軍の位置。
李信軍の位置。
出陣時には大きな差はなかった。
今は、李信の駒だけがかなり先へ出ている。
「……速いですね」
隣の将が笑う。
「喜ばしいことでは?」
「ええ」
蒙恬は否定しなかった。
李信は勝っている。
軍も崩れていない。
速く進むという方針を、実際の戦場で成立させている。
問題は、その速さに何がついていけているかだった。
「李信将軍の後続は?」
「主力より数日遅れております」
「兵糧は」
「今のところ、不足の報せはありません」
蒙恬は地図の道を指でなぞった。
進めば進むほど、兵糧を運ぶ距離は長くなる。
傷兵を戻す道も長くなる。
主力が速くても、後ろまで同じ速度で伸びるわけではない。
「こちらの補給も、もう一度確認してください」
「承知しました」
「それと、後方へ斥候を出します」
将が少しだけ眉を上げた。
「後方へ?」
「はい。集積所と輸送隊を見てください。街道に異常がないか、予定通り兵糧が出ているか。小さな遅れでも報告を」
「分かりました」
兵が出ていった。
蒙恬はしばらく地図を見たままだった。
前方の戦況だけなら、何も悪くない。
自軍も勝っている。
李信軍は、それ以上に勝っている。
それでも、進軍の速さだけが妙に目についた。
◆
さらに数日が過ぎた。
李信軍は、また楚軍を退かせた。
今度の楚軍は以前より数が多かったが、李信は中央へ圧力をかけながら側面を揺さぶり、相手の陣を落ち着かせなかった。
楚軍は昼過ぎには後退を始めた。
ただし、またしても大きく崩れてはいない。
旗は残り、兵もまとまって退いていく。
「追いますか」
将が問う。
李信は前方を見た。
「追う」
「敵はまだ隊列を保っています」
「だからだ」
李信は馬を進めた。
「崩れてからじゃ遅い。陣を作る前に追いつく」
秦軍がまた動く。
楚軍の旗は、遠くへ下がっていった。
その距離を埋めるように、李信軍はさらに楚の奥へ入った。
◆
同じ日の夕方。
蒙恬のもとへ、後方へ出した斥候が戻ってきた。
馬は汗に濡れ、斥候自身も休む間を惜しんで来たことが分かる。
「申し上げます」
「どうしました」
「兵糧の輸送に遅れが出ております」
蒙恬の表情が僅かに変わった。
「どこからの隊ですか」
「郢陳方面の集積所から来る二隊です。一隊目は昨日、二隊目は本日の昼までに到着する予定でした」
「どちらも来ていない?」
「はい」
「街道は?」
「通れます。崩落も増水もありません」
「楚軍の襲撃は」
「痕跡は確認できませんでした」
輸送が遅れること自体は珍しくない。
荷車が壊れる。
馬が倒れる。
道が塞がる。
戦場ではいくらでも起こる。
だが、今回はそのどれでもない。
「集積所まで行きましたか」
「はい」
「兵糧はある?」
「あります」
蒙恬は斥候を見る。
「あるのに、来ない?」
「倉には積まれております。ただ、前線へ出す手配が進んでおりません」
「理由は」
「命令を待っていると」
「誰の?」
斥候が一瞬だけ黙った。
「……昌平君様の管轄です」
天幕の中が静かになった。
蒙恬は、すぐには何も言わなかった。
兵糧はある。
道も通っている。
敵に奪われてもいない。
それなのに、前へ来ない。
「まだ決めつけてはいけません」
蒙恬は落ち着いた声で言った。
「伝令の行き違いかもしれません。現地の判断が遅れているだけの可能性もあります」
周囲の将たちが頷く。
「ですが、調べます」
蒙恬は地図を広げ直した。
「郢陳周辺の兵の配置を確認してください。駐留軍がどこを向いているか、伝令がどこから来てどこへ出ているかも」
「はっ」
「輸送隊についても、到着日だけでなく、集積所を出た日を記録してください」
「承知しました」
斥候が下がる。
蒙恬は地図の上に置かれた二つの秦軍の駒を見た。
自分の軍は、別の道を着実に進んでいる。
李信の軍は、そこからさらに遠くへ出ている。
前では楚軍が退き続け、後ろでは兵糧が止まり始めた。
どちらも、それだけならまだ決定的な異変ではない。
けれど、その間にいる李信だけが、日に日に楚の奥へ遠ざかっていた。




