第30話 博浪沙の鉄槌
天下統一の後、始皇帝は幾度も巡幸に出た。
自らの治める版図を、その目で見るため。そして皇帝の威を、天下の隅々まで知らしめるため。
だが、その行く手に、一人の女が牙を研いで待ち構えていた。
◆
張良。
旧・韓の名門の生まれであった。代々、韓の宰相を務めた由緒ある一族。祖父も父も王に仕え、国の柱であった。……その韓は、秦によって真っ先に滅ぼされた。
張良は、美しい女であった。細面に、涼やかな双眸。一見すれば深窓の令嬢である。だがその穏やかな面差しの奥に、亡国の恨みと冷徹な知略を秘めていた。
(秦が。始皇帝が、私の祖国を奪った)
張良は一族の財を惜しみなく投じた。弟が死んでも葬儀を簡素にし、浮いた財すら復讐に回した。全ては、ただ一つの目的のため。
始皇帝を、暗殺する。
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だが張良は女の身であり、武に秀でてはいない。皇帝の周りは数千の兵に守られている。並の刺客では近づくことすらできぬ。
力では敵わぬ。ならば、力ある者を使うまでだ。
張良は東方を巡り、一人の力士を探し求めた。人並み外れた怪力を持つ、巨漢の男である。
この世で男は貴重であった。本来なら大切に囲われ、守られるべき存在。……だが張良の執念は、その貴重な男を凶器として使い捨てる覚悟へ、この女を駆り立てていた。
東方の地で、張良はついに見つけた。百二十斤の鉄槌を軽々と振るう、恐るべき怪力の持ち主を。
「力士よ。……お前の力を貸してほしい。狙うは、ただ一人。天下の皇帝、始皇帝の首だ」
◆
張良は周到に計画を練った。
皇帝の車列が次に通るのは博浪沙。平坦な中原の中で、わずかに起伏と茂みのある、襲撃に適した地であった。
正面からの襲撃は不可能である。ならば一瞬の隙を突く。車列が博浪沙を通る刹那。茂みに潜み、皇帝の車めがけて鉄槌を投げ打つ。
だが、ここに一つの難題があった。
(どの車に、皇帝が乗っているのか)
車列は数十乗。しかも皇帝は暗殺を警戒し、同じ造りの馬車を幾つも連ねていた。どれが本車か、外からは見分けがつかぬように。……替え車である。皇帝の命を守る、巧妙な備えであった。
張良は情報を集めた。皇帝の乗る車は、最も豪奢で大きいはず。それを目印に狙いを定める。
◆
運命の日が来た。
博浪沙。茂みの中に、張良と力士は息を殺して潜んでいた。
やがて地響きとともに、車列が姿を現した。数十乗の馬車が砂塵を上げて進んでくる。前後を、甲冑に身を固めた数千の兵が固める、鉄壁の行列であった。
張良の目が、鋭く車列を走る。
(どれだ。……皇帝の車は、どれだ)
見つけた。車列の中ほど。ひときわ豪奢な大馬車。金で飾られ、幾頭もの馬に牽かれた、一際目立つ車。
(あれだ。あれが、皇帝の車――!)
「今だ! ……あの、最も大きな車を狙え! 渾身の一撃を!」
力士が立ち上がった。百二十斤の鉄槌を大きく振りかぶる。巨漢の全身が唸りを上げ、鉄塊が宙を舞った。
鉄槌は狙い過たず、豪奢な大馬車を直撃した。
凄まじい轟音。馬車は木っ端微塵に砕け散った。
「……やった!」
張良の胸を、勝利の確信が走った。
◆
だが、次の瞬間。
張良の顔が凍りついた。
砕けた馬車の前方。無傷のもう一つの豪奢な馬車から、一人の人物が冷ややかにこちらを見ていた。
始皇帝であった。
(副車……! あれは、替え車だったのか)
力士が撃ち砕いたのは、皇帝の本車ではなかった。身代わりとして連ねられた副車である。……暗殺を警戒する皇帝の幾重もの備えが、渾身の一撃を空しく逸らした。
「曲者だ! 皇帝を狙った刺客がいるぞ!」
「捕えろ! 草の根を分けても捜し出せ!」
数千の兵が、一斉に茂みへ殺到してくる。
「……逃げるぞ!」
張良は力士とともに、茂みの奥へ走った。
◆
始皇帝は砕けた副車を見ながら、長く動かなかった。
あと一つ車が違えば、あの鉄塊は己の頭上に落ちていた。
背筋が冷えたのは、死そのものにではない。
……もし今日、ここで死んでいれば。
この天下は、あの子に渡っていた。北へやったばかりの、あの子に。何一つ決めぬまま、何一つ手を打たぬまま。
(まだだ。……まだ、死ぬわけにはいかぬ)
皇帝は天下に大捜索令を発した。十日にわたり国中を捜させた。……だが張良は巧みに姿をくらまし、ついに捕えられることはなかった。
そしてこの日から、母は方士たちを、いっそう厚く遇するようになった。
仙薬を求める声は、焦りの色を帯びていった。
◆
下邳の地へ、張良は落ち延びた。名を変え、身を潜める。
復讐は果たせなかった。力任せの一撃は、周到な備えの前に砕けた。
(力だけでは、届かぬ。……私には、何かが欠けている)
苦い悔いが、胸に残った。
◆
下邳での、ある日のこと。
張良は一つの橋を渡っていた。
橋の袂に、一人の老人が腰を下ろしていた。奇妙な老人であった。男とも女ともつかぬ。皺に埋もれた顔、白く長い髪。人の世の理の外にいるような、仙人めいた風貌であった。
張良が通りかかると、老人は履いていた片方の沓を、わざとのように橋の下へ落とした。
「そこの娘。……下へ降りて、沓を拾ってまいれ」
無礼な物言いであった。
見ず知らずの老人に、下僕のように顎で使われる筋合いはない。……亡国とはいえ、韓の名門の生まれである。
だが張良は、相手が老人であることを思い、怒りを堪えた。黙って橋の下へ降り、泥の中から沓を拾い上げた。
「履かせよ」
老人は足を突き出した。
張良の眉が、ぴくりと動いた。拾わせた挙句、履かせろ、と。……一瞬、怒りが込み上げた。
だが。
(待て。この老人、ただ者ではない)
傲慢さの奥に、何か底知れぬものがある。張良は再び怒りを堪え、膝をつき、恭しく沓を履かせた。
老人はにやりと笑い、立ち去っていった。礼の一つも言わずに。
◆
数十歩ほど行ったところで、老人は振り返った。
「娘。……お前は見込みがある。五日の後の夜明け、この橋で待て。授けるものがある」
そう言い残し、老人は霧の中へ消えていった。
五日の後。張良は夜明けに橋へ向かった。だが老人は、既に待っていた。
「老人と会う約束に遅れて来るとは。……出直せ。五日の後、また来い」
五日の後。張良は鶏の鳴く頃に橋へ着いた。だが老人は、また先に来ていた。
「また遅い。……出直せ」
三度目。張良は夜半のうちに橋へ行き、夜明け前の闇の中で老人を待った。
やがて老人が現れた。今度は張良の方が先であった。
「……うむ。それでよい」
老人は満足げに頷き、一巻の書を授けた。
「これを読めば、王者の師となれよう」
◆
授けられたのは、太公望の兵法であった。
張良は灯火の下で、書を繙いた。
それは単なる戦の書ではなかった。軍略、陣立て、用兵の理。……それらに混じって、奇妙な術が記されていた。
人の心を読み、操り、蕩かす術である。
相手の心の機微を掴み、言葉と仕草で絡め取り、意のままに動かす。弁舌、駆け引き、そして色香すら武器とする、人心掌握の秘術。……戦とは剣で人を斬ることではなく、心を掴んで人を動かすことだと、太公望は説いていた。
(……これだ)
張良は悟った。
力任せの鉄槌は、周到な備えの前に砕けた。欠けていたのは力ではない。人の心を絡め取り、天下そのものを動かす術であった。
とりわけ、この女九割の世である。天下を動かすとは、強き女たちの心を掌握すること。武で押さえつけるのではない。蕩かし、絡め取り、意のままに束ねる。……それこそが乱世を制する力なのだ。
沓を拾わせ、履かせ、幾度も待たせる。……あの試練は、短気を挫き、忍耐を教えるためのものであった。力に逸る暗殺者を、時を待つ軍師へ鍛え直すための。
◆
張良は、太公望の兵法を昼夜問わず読み込んだ。下邳の地に身を潜め、時を待ちながら。
(秦は遠からず滅びる。……始皇帝とて、不老不死ではない)
だが張良には、分かっていることが一つあった。
己は、王の器ではない。この身はあくまで軍師。人心を蕩かす術を授けることはできても、その術で天下を束ねる王者には、なれぬ。
ならば、この術を体現する者が要る。
強き女たちを蕩かし、束ね、意のままに動かす。手に負えぬ傑物すら、なぜか惹きつけ従えてしまう。……そんな、比類なき人たらしの器を持った、一人の王者が。
(その者に、この術を授ける。……そして、共に天下を獲る)
張良は、まだその者を知らない。
やがて出会うことになる。……誰からも見放された、うだつの上がらぬ一人の男に。
博浪沙の鉄槌は、空しく砕けた。
だがそれは、亡国の才女が真の軍師へ生まれ変わる、始まりに過ぎなかった。




