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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第2章 秦の栄光と崩壊編

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第30話 博浪沙の鉄槌

 天下統一の後、始皇帝しこうていは幾度も巡幸じゅんこうに出た。


 自らの治める版図はんとを、その目で見るため。そして皇帝の威を、天下の隅々まで知らしめるため。


 だが、その行く手に、一人の女が牙を研いで待ち構えていた。



 張良ちょうりょう


 旧・かんの名門の生まれであった。代々、韓の宰相さいしょうを務めた由緒ゆいしょある一族。祖父も父も王に仕え、国の柱であった。……その韓は、秦によって真っ先に滅ぼされた。


 張良ちょうりょうは、美しい女であった。細面ほそおもてに、涼やかな双眸そうぼう。一見すれば深窓しんそう令嬢れいじょうである。だがその穏やかな面差おもざしの奥に、亡国ぼうこくの恨みと冷徹れいてつ知略ちりゃくを秘めていた。


(秦が。始皇帝しこうていが、私の祖国を奪った)


 張良ちょうりょうは一族の財をしみなく投じた。弟が死んでも葬儀そうぎを簡素にし、浮いた財すら復讐に回した。全ては、ただ一つの目的のため。


 始皇帝しこうていを、暗殺する。



 だが張良ちょうりょうは女の身であり、武に秀でてはいない。皇帝の周りは数千の兵に守られている。並の刺客しかくでは近づくことすらできぬ。


 力では敵わぬ。ならば、力ある者を使うまでだ。


 張良ちょうりょうは東方を巡り、一人の力士りきしを探し求めた。人並み外れた怪力かいりきを持つ、巨漢きょかんの男である。


 この世で男は貴重であった。本来なら大切に囲われ、守られるべき存在。……だが張良ちょうりょうの執念は、その貴重な男を凶器きょうきとして使い捨てる覚悟へ、この女を駆り立てていた。


 東方の地で、張良ちょうりょうはついに見つけた。百二十斤の鉄槌を軽々と振るう、恐るべき怪力の持ち主を。


「力士よ。……お前の力を貸してほしい。狙うは、ただ一人。天下の皇帝、始皇帝しこうていの首だ」



 張良ちょうりょうは周到に計画を練った。


 皇帝の車列が次に通るのは博浪沙。平坦な中原の中で、わずかに起伏きふくしげみのある、襲撃に適した地であった。


 正面からの襲撃は不可能である。ならば一瞬の隙を突く。車列が博浪沙を通る刹那せつな。茂みに潜み、皇帝の車めがけて鉄槌を投げ打つ。


 だが、ここに一つの難題があった。


(どの車に、皇帝が乗っているのか)


 車列は数十乗。しかも皇帝は暗殺を警戒し、同じ造りの馬車を幾つも連ねていた。どれが本車か、外からは見分けがつかぬように。……え車である。皇帝の命を守る、巧妙な備えであった。


 張良ちょうりょうは情報を集めた。皇帝の乗る車は、最も豪奢ごうしゃで大きいはず。それを目印に狙いを定める。



 運命の日が来た。


 博浪沙。茂みの中に、張良ちょうりょうと力士は息を殺して潜んでいた。


 やがて地響きとともに、車列が姿を現した。数十乗の馬車が砂塵さじんを上げて進んでくる。前後を、甲冑かっちゅうに身を固めた数千の兵が固める、鉄壁の行列であった。


 張良ちょうりょうの目が、鋭く車列を走る。


(どれだ。……皇帝の車は、どれだ)


 見つけた。車列の中ほど。ひときわ豪奢な大馬車。金で飾られ、幾頭もの馬にかれた、一際目立つ車。


(あれだ。あれが、皇帝の車――!)


「今だ! ……あの、最も大きな車を狙え! 渾身こんしんの一撃を!」


 力士が立ち上がった。百二十斤の鉄槌を大きく振りかぶる。巨漢の全身が唸りを上げ、鉄塊てっかいが宙を舞った。


 鉄槌は狙いあやまたず、豪奢な大馬車を直撃した。


 凄まじい轟音ごうおん。馬車は木っ端微塵に砕け散った。


「……やった!」


 張良ちょうりょうの胸を、勝利の確信が走った。



 だが、次の瞬間。


 張良ちょうりょうの顔が凍りついた。


 砕けた馬車の前方。無傷のもう一つの豪奢な馬車から、一人の人物が冷ややかにこちらを見ていた。


 始皇帝しこうていであった。


副車ふくしゃ……! あれは、替え車だったのか)


 力士が撃ち砕いたのは、皇帝の本車ではなかった。身代わりとして連ねられた副車である。……暗殺を警戒する皇帝の幾重もの備えが、渾身の一撃を空しくらした。


曲者くせものだ! 皇帝を狙った刺客がいるぞ!」


「捕えろ! 草の根を分けても捜し出せ!」


 数千の兵が、一斉に茂みへ殺到してくる。


「……逃げるぞ!」


 張良ちょうりょうは力士とともに、茂みの奥へ走った。



 始皇帝しこうていは砕けた副車を見ながら、長く動かなかった。


 あと一つ車が違えば、あの鉄塊は己の頭上に落ちていた。


 背筋が冷えたのは、死そのものにではない。


 ……もし今日、ここで死んでいれば。


 この天下は、あの子に渡っていた。北へやったばかりの、あの子に。何一つ決めぬまま、何一つ手を打たぬまま。


(まだだ。……まだ、死ぬわけにはいかぬ)


 皇帝は天下に大捜索令そうさくれいを発した。十日にわたり国中を捜させた。……だが張良ちょうりょうは巧みに姿をくらまし、ついに捕えられることはなかった。


 そしてこの日から、母は方士ほうしたちを、いっそう厚く遇するようになった。


 仙薬せんやくを求める声は、焦りの色を帯びていった。



 下邳かひの地へ、張良ちょうりょうは落ち延びた。名を変え、身を潜める。


 復讐は果たせなかった。力任せの一撃は、周到な備えの前に砕けた。


(力だけでは、届かぬ。……私には、何かが欠けている)


 苦いいが、胸に残った。



 下邳での、ある日のこと。


 張良ちょうりょうは一つの橋を渡っていた。


 橋のたもとに、一人の老人が腰を下ろしていた。奇妙な老人であった。男とも女ともつかぬ。しわに埋もれた顔、白く長い髪。人の世の理の外にいるような、仙人めいた風貌であった。


 張良ちょうりょうが通りかかると、老人は履いていた片方のくつを、わざとのように橋の下へ落とした。


「そこの娘。……下へ降りて、沓を拾ってまいれ」


 無礼な物言いであった。


 見ず知らずの老人に、下僕げぼくのようにあごで使われる筋合いはない。……亡国とはいえ、韓の名門の生まれである。


 だが張良ちょうりょうは、相手が老人であることを思い、怒りをこらえた。黙って橋の下へ降り、泥の中から沓を拾い上げた。


「履かせよ」


 老人は足を突き出した。


 張良ちょうりょうの眉が、ぴくりと動いた。拾わせた挙句、履かせろ、と。……一瞬、怒りが込み上げた。


 だが。


(待て。この老人、ただ者ではない)


 傲慢ごうまんさの奥に、何か底知れぬものがある。張良ちょうりょうは再び怒りを堪え、膝をつき、うやうやしく沓を履かせた。


 老人はにやりと笑い、立ち去っていった。礼の一つも言わずに。



 数十歩ほど行ったところで、老人は振り返った。


「娘。……お前は見込みがある。五日の後の夜明け、この橋で待て。さずけるものがある」


 そう言い残し、老人はきりの中へ消えていった。


 五日の後。張良ちょうりょうは夜明けに橋へ向かった。だが老人は、既に待っていた。


「老人と会う約束に遅れて来るとは。……出直せ。五日の後、また来い」


 五日の後。張良ちょうりょうにわとりの鳴く頃に橋へ着いた。だが老人は、また先に来ていた。


「また遅い。……出直せ」


 三度目。張良ちょうりょうは夜半のうちに橋へ行き、夜明け前の闇の中で老人を待った。


 やがて老人が現れた。今度は張良ちょうりょうの方が先であった。


「……うむ。それでよい」


 老人は満足げに頷き、一巻の書を授けた。


「これを読めば、王者の師となれよう」



 授けられたのは、太公望たいこうぼうの兵法であった。


 張良ちょうりょうは灯火の下で、書をひもといた。


 それは単なる戦の書ではなかった。軍略、陣立じんだて、用兵の理。……それらに混じって、奇妙な術が記されていた。


 人の心を読み、操り、とろかす術である。


 相手の心の機微きびを掴み、言葉と仕草で絡め取り、意のままに動かす。弁舌べんぜつ、駆け引き、そして色香いろかすら武器うつわとする、人心掌握じんしんしょうあく秘術ひじゅつ。……戦とは剣で人を斬ることではなく、心を掴んで人を動かすことだと、太公望たいこうぼうは説いていた。


(……これだ)


 張良ちょうりょうは悟った。


 力任せの鉄槌は、周到な備えの前に砕けた。欠けていたのは力ではない。人の心を絡め取り、天下そのものを動かす術であった。


 とりわけ、この女九割の世である。天下を動かすとは、強き女たちの心を掌握すること。武で押さえつけるのではない。蕩かし、絡め取り、意のままに束ねる。……それこそが乱世を制する力なのだ。


 沓を拾わせ、履かせ、幾度も待たせる。……あの試練は、短気をくじき、忍耐を教えるためのものであった。力に逸る暗殺者を、時を待つ軍師へ鍛え直すための。



 張良ちょうりょうは、太公望たいこうぼうの兵法を昼夜問わず読み込んだ。下邳の地に身を潜め、時を待ちながら。


(秦は遠からず滅びる。……始皇帝しこうていとて、不老不死ではない)


 だが張良ちょうりょうには、分かっていることが一つあった。


 己は、王の器ではない。この身はあくまで軍師。人心を蕩かす術を授けることはできても、その術で天下を束ねる王者には、なれぬ。


 ならば、この術を体現する者が要る。


 強き女たちを蕩かし、束ね、意のままに動かす。手に負えぬ傑物けつぶつすら、なぜか惹きつけ従えてしまう。……そんな、比類なき人たらしの器を持った、一人の王者が。


(その者に、この術を授ける。……そして、共に天下を獲る)


 張良ちょうりょうは、まだその者を知らない。


 やがて出会うことになる。……誰からも見放された、うだつの上がらぬ一人の男に。


 博浪沙の鉄槌は、空しく砕けた。


 だがそれは、亡国の才女さいじょが真の軍師へ生まれ変わる、始まりに過ぎなかった。

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