第29話 北辺の夜
北の辺境、上郡。
長い旅の果てに、俺と蒙凛は、ようやく蒙恬の陣へ辿り着いた。
「扶蘇様……! それに、凛!」
蒙恬が駆け寄ってきた。北辺の風に鍛えられ、凛々《りり》しさを増したその姿。三十路を過ぎてなお――いや、年を重ねたぶん深みを加えた、愛しい人であった。
「蒙恬。……久しいな」
蒙凛が母上と叫んで抱きつき、親子は涙ながらに再会を喜んだ。
だが俺を迎える蒙恬の面持ちには、喜びだけではない、何か神妙なものが混じっていた。
◆
俺を北へ追いやった母の胸に、不興とは別の思いがあったことを知ったのは、ずっと後になってからである。
母は、側近にこう漏らしていたという。
「扶蘇は、もう二十を越えた。……なのに、あの子はいまだ女を抱こうとせぬ。貴重な男でありながら、子の一人もなそうとせぬ」
嘆息が、続いたという。
「あの子の心がどこにあるのか、私には分かっている。蒙恬だ。……赤子の頃から育てた乳母。扶蘇は、あれを女として想うておる。昔から、ずっとな」
母は、静かに言った。
「ならば、蒙恬に扶蘇の子を産ませればよい。武に優れ、知に長けた、この世一の女だ。……北へやるのは罰ではない。愛しい乳母のもとで、あの子がようやく男になるための餞よ」
冷たい女帝の、不器用な愛であった。
◆
……だが、そう言った後。
母は、長いこと黙っていたという。
あの子に子が生まれれば。……その子もまた、呂不韋の血を継ぐ。
嬴氏の天下を、あの商人の血に渡すまいと足掻きながら。その一方で、血を増やせと命じている。
(……私は、何をしているのだろうな)
母としての願いと、皇帝としての恐れが、同じ一つの命令の中でぶつかっていた。どちらを捨てることもできぬまま、母はその矛盾を抱えて、我が子を北へ送り出したのだ。
北辺の蒙恬のもとへ届けられたのは、そのうちの一つだけであった。
――公子の子を、産め。
血のことは、誰にも告げられなかった。それは母がただ一人で抱えたまま、咸陽の奥深くに沈んでいた。
◆
その夜。
北辺の陣は静まり返っていた。凛は旅の疲れで、早くに眠りについている。
割り当てられた天幕で、俺が一人、北の星を眺めていた時。
入り口の布が、静かに揺れた。
「……扶蘇様。よろしいでしょうか」
蒙恬であった。甲冑を解き、夜着に身を包んだ、一人の女として。その頬が、篝火の灯りにほのかに染まっていた。
「蒙恬。……どうした、こんな夜更けに」
「陛下より、密かにお言葉を賜っております」
蒙恬は俺の傍らに座り、目を伏せた。
「扶蘇様の……お子を、産むように、と」
俺は、しばらく声が出なかった。
北へ追いやったのは、罰ではなかったのか。愛しい乳母のもとで、男になれと。……母は、そういう人であった。
「……命じられたから、来たのか」
声が、掠れた。
命令で抱かれるのは、嫌だった。……この人を想っているからこそ。
「いいえ」
蒙恬が、顔を上げた。その瞳が揺れていた。
「命じられずとも。……私は、扶蘇様のお気持ちに、とうに気づいておりました。幼い頃から、私を見つめるあの眼差し。……乳母として、気づかぬふりをしてまいりました」
蒙恬の声が震えた。
「私は、扶蘇様を育てた身。母のようなもの。……想うてはならぬと」
篝火が、ぱち、と爆ぜた。
「ですが、扶蘇様。……私とて、女にございます」
その一言に、天幕の空気が変わった。
「肥下で。楚の戦場で。……幾度も、扶蘇様に救われました。赤子だった方が、凛しい殿方に育たれた。その背中を見るたび、私の胸は、乳母のものではなくなっておりました」
蒙恬の瞳から、一筋、涙が零れた。
「陛下のお言葉は、きっかけに過ぎませぬ。……私は、自らの意思で、ここへ参りました。一人の、女として」
◆
俺は手を伸ばし、その涙を指で拭った。
赤子の頃から俺を抱き、守り、育ててくれた手。その温もりを、俺は誰よりも知っている。……乳母として。だが今、目の前にいるのは、一人の女であった。
「蒙恬。……俺も、ずっとお前を想ってきた」
「扶蘇様……」
「乳母としてではない。一人の女として。……叶わぬ想いだと、諦めていた」
蒙恬の頬に、そっと手を添える。長い歳月、触れることの叶わなかった人の頬。その温もりに、蒙恬は静かに目を閉じた。
「……私は、もう乳母ではございませぬ。今宵より、あなたの女に」
「ああ。……俺の女だ。蒙恬」
篝火の灯りが、二人の影を天幕に映した。
乳母と子。二十年の歳月を越えて、二人は男と女として、静かに寄り添った。
蒙恬の腕が、遠慮がちに俺の背へ回される。……幼い頃、幾度もこの腕に抱かれた。だが今、その抱擁は母のものではなかった。一人の女の、震える腕であった。
北の星だけが、その夜を見ていた。
◆
夜が明けた。
朝の光が天幕に差し込む。俺の腕の中で、蒙恬が穏やかな寝息を立てていた。
やがて目を覚まし、俺と目が合うと、その頬がほのかに赤らんだ。
「……扶蘇様」
「おはよう。蒙恬」
蒙恬は、恥じらいながら微笑んだ。
「……不思議な心地です」
俺の胸に頬を寄せて、囁くように言う。
「赤子だったあなたを、この腕で抱きました。よちよちと歩き、木剣を振るい、初めて人を斬って震えた、あの日も。……その方と、今、こうして」
「蒙恬」
「乳母として見てきた歳月の全てが、この一夜に繋がっていたような。……私は、果報者にございます」
俺は、蒙恬を抱く腕に力を込めた。
◆
その日から、北辺の日々は、かけがえのないものになった。
昼は監軍として、蒙恬とともに長城の守りにつく。将としての凛々しさを、傍らで見つめる。夜は、一人の女としての蒙恬と身を寄せ合う。乳母であり、師であり、想い人であった人が、今は妻に等しい存在となった。
蒙凛も、母と俺の変化に、薄々気づいたようであった。
だが凛は、何も言わなかった。時折、複雑な顔を見せることはあった。……母の幸せと、己の想いと。その間で何かを飲み込んでいるのが、俺にも分かった。
いつか、向き合わねばならぬ日が来る。
だが、今は。
北の辺境の、つかの間の平穏であった。
◆
冬の気配が、北辺の空に忍び寄っていた。
俺は、天幕の外で、その空を見上げていた。
……守るものが、できてしまった。
咸陽を離れた身である。母の傍に趙高がいて、李斯がいる。あの二人が何を仕込んでいるか、ここからは見えぬ。
この静けさが、いつまでも続くはずがなかった。
(守りたい。……蒙恬を。凛を。この、ようやく手にしたものを)
拳を握った。
北の空は、どこまでも高く、そして冷たかった。




