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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第2章 秦の栄光と崩壊編

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第29話 北辺の夜

 北の辺境へんきょう上郡じょうぐん


 長い旅の果てに、俺と蒙凛もうりんは、ようやく蒙恬もうてんの陣へ辿たどり着いた。


扶蘇ふそ様……! それに、りん!」


 蒙恬もうてんが駆け寄ってきた。北辺ほくへんの風に鍛えられ、凛々《りり》しさを増したその姿。三十路みそじを過ぎてなお――いや、年を重ねたぶん深みを加えた、愛しい人であった。


蒙恬もうてん。……久しいな」


 蒙凛もうりんが母上と叫んで抱きつき、親子は涙ながらに再会を喜んだ。


 だが俺を迎える蒙恬もうてん面持おももちちには、喜びだけではない、何か神妙しんみょうなものが混じっていた。



 俺を北へ追いやった母の胸に、不興ふきょうとは別の思いがあったことを知ったのは、ずっと後になってからである。


 母は、側近そっきんにこう漏らしていたという。


扶蘇ふそは、もう二十を越えた。……なのに、あの子はいまだ女を抱こうとせぬ。貴重な男でありながら、子の一人もなそうとせぬ」


 嘆息たんそくが、続いたという。


「あの子の心がどこにあるのか、私には分かっている。蒙恬もうてんだ。……赤子の頃から育てた乳母うば扶蘇ふそは、あれを女として想うておる。昔から、ずっとな」


 母は、静かに言った。


「ならば、蒙恬もうてん扶蘇ふその子を産ませればよい。武に優れ、知に長けた、この世一の女だ。……北へやるのは罰ではない。愛しい乳母うばのもとで、あの子がようやく男になるためのはなむけよ」


 冷たい女帝じょていの、不器用な愛であった。



 ……だが、そう言った後。


 母は、長いこと黙っていたという。


 あの子に子が生まれれば。……その子もまた、呂不韋りょふいの血を継ぐ。


 嬴氏えいしの天下を、あの商人の血に渡すまいと足掻あがきながら。その一方で、血を増やせと命じている。


 (……私は、何をしているのだろうな)


 母としての願いと、皇帝としての恐れが、同じ一つの命令の中でぶつかっていた。どちらを捨てることもできぬまま、母はその矛盾むじゅんを抱えて、我が子を北へ送り出したのだ。


 北辺の蒙恬もうてんのもとへ届けられたのは、そのうちの一つだけであった。


 ――公子の子を、産め。


 血のことは、誰にも告げられなかった。それは母がただ一人で抱えたまま、咸陽かんようの奥深くに沈んでいた。



 その夜。


 北辺の陣は静まり返っていた。りんは旅の疲れで、早くに眠りについている。


 割り当てられた天幕てんまくで、俺が一人、北の星を眺めていた時。


 入り口の布が、静かに揺れた。


「……扶蘇ふそ様。よろしいでしょうか」


 蒙恬もうてんであった。甲冑かっちゅうを解き、夜着よぎに身を包んだ、一人の女として。その頬が、篝火かがりびあかりにほのかに染まっていた。


蒙恬もうてん。……どうした、こんな夜更けに」


「陛下より、密かにお言葉をたまわっております」


 蒙恬もうてんは俺の傍らに座り、目を伏せた。


扶蘇ふそ様の……お子を、産むように、と」


 俺は、しばらく声が出なかった。


 北へ追いやったのは、罰ではなかったのか。愛しい乳母のもとで、男になれと。……母は、そういう人であった。


「……命じられたから、来たのか」


 声が、かすれた。


 命令で抱かれるのは、嫌だった。……この人を想っているからこそ。


「いいえ」


 蒙恬もうてんが、顔を上げた。その瞳が揺れていた。


「命じられずとも。……私は、扶蘇ふそ様のお気持ちに、とうに気づいておりました。幼い頃から、私を見つめるあの眼差まなざし。……乳母として、気づかぬふりをしてまいりました」


 蒙恬もうてんの声が震えた。


「私は、扶蘇ふそ様を育てた身。母のようなもの。……想うてはならぬと」


 篝火かがりびが、ぱち、とぜた。


「ですが、扶蘇ふそ様。……私とて、女にございます」


 その一言に、天幕てんまくの空気が変わった。


肥下ひかで。の戦場で。……幾度も、扶蘇ふそ様に救われました。赤子だった方が、りりしい殿方とのがたに育たれた。その背中を見るたび、私の胸は、乳母のものではなくなっておりました」


 蒙恬もうてんの瞳から、一筋、涙がこぼれた。


「陛下のお言葉は、きっかけに過ぎませぬ。……私は、自らの意思で、ここへ参りました。一人の、女として」



 俺は手を伸ばし、その涙を指でぬぐった。


 赤子の頃から俺を抱き、守り、育ててくれた手。そのぬくもりを、俺は誰よりも知っている。……乳母として。だが今、目の前にいるのは、一人の女であった。


蒙恬もうてん。……俺も、ずっとお前を想ってきた」


扶蘇ふそ様……」


「乳母としてではない。一人の女として。……叶わぬ想いだと、諦めていた」


 蒙恬もうてんの頬に、そっと手を添える。長い歳月、触れることの叶わなかった人の頬。その温もりに、蒙恬もうてんは静かに目を閉じた。


「……私は、もう乳母ではございませぬ。今宵より、あなたの女に」


「ああ。……俺の女だ。蒙恬もうてん


 篝火の灯りが、二人の影を天幕に映した。


 乳母と子。二十年の歳月を越えて、二人は男と女として、静かに寄り添った。


 蒙恬もうてんの腕が、遠慮がちに俺の背へ回される。……幼い頃、幾度もこの腕に抱かれた。だが今、その抱擁ほうようは母のものではなかった。一人の女の、震える腕であった。


 北の星だけが、その夜を見ていた。



 夜が明けた。


 朝の光が天幕に差し込む。俺の腕の中で、蒙恬もうてんが穏やかな寝息ねいきを立てていた。


 やがて目を覚まし、俺と目が合うと、その頬がほのかに赤らんだ。


「……扶蘇ふそ様」


「おはよう。蒙恬もうてん


 蒙恬もうてんは、恥じらいながら微笑んだ。


「……不思議な心地です」


 俺の胸に頬を寄せて、囁くように言う。


「赤子だったあなたを、この腕で抱きました。よちよちと歩き、木剣ぼっけんを振るい、初めて人をって震えた、あの日も。……その方と、今、こうして」


蒙恬もうてん


「乳母として見てきた歳月の全てが、この一夜に繋がっていたような。……私は、果報者かほうものにございます」


 俺は、蒙恬もうてんを抱く腕に力を込めた。



 その日から、北辺の日々は、かけがえのないものになった。


 昼は監軍かんぐんとして、蒙恬もうてんとともに長城ちょうじょうの守りにつく。将としてのりん々しさを、傍らで見つめる。夜は、一人の女としての蒙恬もうてんと身を寄せ合う。乳母であり、師であり、想い人であった人が、今は妻に等しい存在となった。


 蒙凛もうりんも、母と俺の変化に、薄々気づいたようであった。


 だがりんは、何も言わなかった。時折、複雑な顔を見せることはあった。……母の幸せと、己の想いと。その間で何かを飲み込んでいるのが、俺にも分かった。


 いつか、向き合わねばならぬ日が来る。


 だが、今は。


 北の辺境へんきょうの、つかの間の平穏であった。



 冬の気配が、北辺の空に忍び寄っていた。


 俺は、天幕の外で、その空を見上げていた。


 ……守るものが、できてしまった。


 咸陽かんようを離れた身である。母の傍に趙高ちょうこうがいて、李斯りしがいる。あの二人が何を仕込んでいるか、ここからは見えぬ。


 この静けさが、いつまでも続くはずがなかった。


(守りたい。……蒙恬もうてんを。りんを。この、ようやく手にしたものを)


 こぶしを握った。


 北の空は、どこまでも高く、そして冷たかった。

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