第28話 北辺の壁
北の辺境で、蒙恬の大事業は着々と進んでいた。
三十万の大軍。蒙恬はまずオルドスの地から、匈奴を北へ駆逐した。草原の狼も、三十万という数の前には手が出せず、北の奥へ退いた。
奪い返した地に、蒙恬は長城を築き始めた。かつて趙や燕が北辺に築いた城壁を繋ぎ、修め、延ばしていく。臨洮から遼東へ。万里に及ぶ、途方もない長さの城壁が、北の大地に姿を現し始めていた。
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北へ退いた頭曼単于は、苛立っていた。
三十万の蒙恬軍には、正面から手を出せない。かといって、黙って長城が築かれるのを見ているのも業腹であった。壁が完成すれば、匈奴は二度と、たやすく中華を襲えなくなる。
そこで単于は蒙恬を挑発した。工事現場の近くまで騎兵を寄せ、兵に口汚く罵らせたのだ。
「秦の腰抜けども! 壁の裏に隠れて、震えておるのか!」
「お前たちの将は、二人とも我らの単于のものになったぞ! 秦の女将は、今や匈奴の血を宿す器よ!」
さらに単于は、捕えた楊端和と羌瘣の身につけていた下着を、蒙恬の陣へ送りつけた。辱められた二人を嘲り、蒙恬の怒りを煽り、冷静さを失わせて城壁の外へ誘き出す。……そういう魂胆であった。
だが蒙恬は、揺るがなかった。
挑発の品を前に、副将たちは激昂した。
「なんという侮辱! 蒙恬将軍、討って出ましょう!」
「落ち着け」
蒙恬の声は静かだった。
「これは単于の罠だ。我らを怒らせ、城壁の外へ誘き出すための挑発。草原へ出れば、匈奴の思う壺だ。楊端和殿と羌瘣殿を敗ったのも、この手であろう」
蒙恬は、送りつけられた衣を静かに手に取った。その目に、深い怒りと悲しみが滲む。だが、それを激情には変えなかった。
「二人の無念は、必ず晴らす。だが、それは今ではない。……我らのなすべきは、長城を完成させること。壁さえ成れば、匈奴は牙を失う」
蒙恬は挑発を黙殺し、淡々と建設を進めた。単于の挑発は、ことごとく空を切った。
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やがて長城は延び、匈奴はじりじりと抑え込まれていった。
略奪の道を断たれた匈奴は、次第に勢いを失っていく。頃合いを見て、蒙恬は単于へ使者を送った。
「楊端和、羌瘣、両将軍を返されよ。然らば、これ以上の侵攻は控えよう」
だが匈奴は、これを拒んだ。
「笑わせるな! 二人は既に単于の女。強き血を宿す、大切な器だ。返すものか!」
単于は、強き女将の血を引く後継を、どうしても欲しがっていた。
もっとも、楊端和も羌瘣も、閨ではあっけなくただの女になった。子を孕ますには物足りぬ、と単于は思っていた。武も知略も、この二人より上なのが蒙恬である。妻とするなら、あの女がよい。……二人は、蒙恬を釣り上げるための餌に過ぎなかった。
蒙恬は歯噛みした。力で奪い返すには草原の奥深くへ攻め入らねばならず、それこそ匈奴の思う壺。……二人を救えぬまま、時だけが過ぎていった。
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その頃、咸陽では、新たな悲劇が起きようとしていた。
焚書である。
発端は、宮中の宴であった。一人の儒者が、始皇帝の前で説いたのだ。
「陛下。古の聖王は、一族や功臣に土地を封じ、諸侯として国を守らせました。今の郡県制では、皇室を守る藩屏がございませぬ。古に倣い、封建を復すべきかと」
郡県制への批判であった。
これに、丞相・李斯が反論した。
「時代は移ったのです。古を引いて今を誹る議論こそ、天下を乱す元。……実用の書を除き、詩書百家の書を、焼き捨てるべきにございます」
始皇帝は、李斯の建言を容れた。
医薬、占い、農事の書を除き、諸子百家の書物、とりわけ各国の史書が、次々と火に投げ込まれた。数百年の知の集積が、炎の中へ消えていった。
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そして翌年、事態はさらに凄惨なものへ転じた。
坑儒である。
きっかけは、方士たちの裏切りであった。盧生をはじめとする方士たちは、仙薬を探すと言いながら、何の成果も上げられずにいた。窮した彼らは、陰で始皇帝を誹謗した。
「皇帝は権力に固執し、残忍で、人を信じぬ。あのような者に、仙薬を授ける資格などない」
そう言い捨て、方士たちは財を持って逃亡した。
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その報せを受けた時、母は玉座で長いこと動かなかった。
……方士が、逃げた。
徐福は海の彼方から戻らぬ。盧生も逃げた。残った者も、また逃げるだろう。
それは、つまり。
――仙薬など、どこにもない。
認めるわけにはいかなかった。認めれば、己は死ぬ。死ねば、この天下を渡さねばならぬ。あの子に。あの血に。
天下を獲ってからの歳月を、まるごと注ぎ込んだ。西の果てにも東の海にも人と財を送り、方士を宮に住まわせ、毒と知れぬ薬まで呷った。
その全てが、今、音を立てて塞がった。
思いつきが信仰に変わり、信仰が命綱に変わっていた。その命綱が、たった今、目の前で断ち切られたのだ。
「……おのれ」
声が、震えていた。
「おのれ、方士ども! 私を欺き、財を奪い、挙句に誹謗して逃げるか!」
激怒した始皇帝は、咸陽の儒者と方士を、徹底的に詮議させた。そして四百六十余人を捕え、生き埋めにするよう命じた。
人を穴に埋めて殺す。……逃げ道を塞がれた者の恐怖が、四百六十余の命を、土の下へ葬ろうとしていた。
◆
「母上。……お待ちください」
俺は、始皇帝の前へ進み出た。
「坑儒は、あまりに苛烈にございます。天下は統一されて、まだ日が浅い。旧六国の民の心は、いまだ定まっておりませぬ。そのような時に、学ぶ者を四百余も生き埋めにすれば、民は陛下を恐れ、離れましょう」
「扶蘇」
母の声が、冷え冷えと響いた。
「お前は、私を裏切った方士どもを庇うのか」
「庇うのではございませぬ。ただ、罰が重すぎると申しております。裏切った方士を罰するは当然。されど、関わりなき儒者まで巻き込み、生き埋めにするのは……天下の皇帝の、なさることではございませぬ」
広間が凍りついた。
皇帝の決定に、真っ向から異を唱える。皇子とはいえ、許されぬ振る舞いであった。
◆
その沈黙を破ったのは、趙高であった。
「畏れながら、陛下」
趙高は、静かに進み出た。
「公子のお言葉、聞き捨てなりませぬ」
俺は、この女を見た。日頃、皇帝の傍らで筆を執るばかりの尚書が、政の場で口を開くのは珍しかった。
「公子は、坑儒を苛烈と仰せになりました。……ですが坑儒は、陛下の御裁可。焚書もまた然り。公子が申しておられるのは、罰が重い軽いという話ではございませぬ」
趙高の目が、俺を捉えた。
「――陛下の御世そのものを、否と申しておられるのです」
背筋が冷えた。
「先には、東海の御事業にも異を唱えられた。此度は坑儒。……公子のお言葉は、いつも陛下の御決定の、その逆にございます。民が離れる、人心が乱れる。……そう仰せになりながら、公子ご自身は、いつも民の側に立っておられる」
違う、と言いかけて、言葉が出なかった。
……この女は、俺の言ったことを、一つも歪めていない。ただ、並べ替えただけだ。並べ替えられただけで、俺の言葉は、まるで玉座を狙う者の口ぶりに変わっていた。
「丞相。いかが見る」
母が、李斯へ目を向けた。
李斯は、しばし目を伏せた。……そして口を開いた。
「趙高殿の申される通りかと存じます」
この丞相に、俺への悪意はない。それが、かえって重かった。
「法とは、情を挟まぬがゆえに法にございます。誰かを憐れみ、誰かを許せば、その一度で法は崩れまする。……公子は、お優しい。優しさは、人としては徳にございましょう」
李斯は、静かに続けた。
「されど、その徳が玉座に座れば。……法は緩み、天下は再び乱れまする」
◆
母は、しばらく俺を見つめていた。
……その面立ち。
整った、優しげな顔。だが見つめるほどに、母の胸に冷たいものが差した。この子の目元。唇の厚み。……誰かに、似ている。
呂不韋。
あの商人だ。奇貨居くべしと未来を読み、天下を動かした男。己の父であり、この子の父でもある男の面影が、扶蘇の顔にふと浮かんで見えた。
(……この子は、本当に優しいのか)
坑儒を諫めるこの言葉。民を思うこの訴え。美しい。だが、美しすぎはしないか。
呂不韋は、正しいことを正しい顔で語る男であった。その裏で、盤を幾重にも読んでいた。……この子の優しさも、同じ計算ではないのか。人心が離れると説き、皇帝の非を鳴らし、己は民の味方だと天下に示す。そうやって、次の玉座への地ならしをしているのでは。
(考えすぎだ。……いや。この子は、呂不韋の血を引く。呂不韋の再来かもしれぬ子だ)
疑い出せば、際限がなかった。この子の澄んだ目さえ、底の見えぬ淵に思えてくる。
……傍に置いておけぬ。
その沈黙の間に。
趙高の視線が、ほんのわずか、李斯へ流れた。
李斯が、それを受けた。
「陛下。……一つ、愚案がございます」
丞相は、深く頭を垂れた。
「公子には、北辺へお下りいただいては、いかがかと」
母の眉が、動いた。
「上郡には、蒙恬将軍の三十万がございます。……戦の厳しさ、辺境の現実。それをその目でご覧になれば、公子のお優しさも、いずれ天下を治めるに足る強さへ変わりましょう。……罰としてではなく、御教育として」
筋の通った、穏やかな進言であった。
誰の目にも、公子を思っての言葉に見えた。
◆
「扶蘇。……お前は、優しすぎる」
母が、口を開いた。
「その優しさは、皇帝の統治を甘くする毒だ。……いや」
言葉を、切った。
……その優しさが毒なのか。優しさを装う何かが恐ろしいのか。母自身にも、分からなかった。
「咸陽にいては、お前は甘いままだ。……北へ行け」
「母上――」
「上郡の、蒙恬の軍へ。監軍として、北辺の守りにつけ。優しさだけでは天下は治められぬと、思い知れ」
北への左遷であった。
だが、母がこの子を遠ざけた本当の理由を、口にすることはなかった。扶蘇の顔に見た、呂不韋の面影。その優しさに嗅ぎ取った、策士の匂い。……それを母は、誰にも告げなかった。
(お前が、ただ優しいだけの子であることを。……私は、祈っている。扶蘇よ)
柱の陰で、趙高が目を伏せた。
(これで、あの声は、陛下に届かぬ)
退がった俺の胸にあったのは、落胆ではなかった。
咸陽に残ったところで、俺の言葉はもう届かぬ。趙高と李斯が、そう仕立ててしまった。……ならば、ここにいても仕方がない。
北には蒙恬がいる。そして三十万がある。
俺は、拳を握った。
◆
北へ発つ日。俺のもとへ、一人、同行を願い出た者がいた。
蒙凛であった。
「扶蘇様。……私も、北へお供いたします」
「凛。北辺は、厳しい地だぞ」
「承知の上です」
蒙凛の目は、まっすぐだった。
「母が、北におります。久しく会っておりませぬ。それに……扶蘇様を、お一人で北へは行かせられませぬ。楚の戦の時のように、お側でお守りいたします」
俺は微笑んだ。
楚の戦場で、共に蒙恬を救いに駆けた、あの凛。武では俺に勝る、頼もしい戦友だ。北の地で凛が側にいてくれるなら、心強い。
「……分かった。来てくれ、凛。共に、北へ行こう」
こうして俺は、蒙凛を伴い、北の辺境へ旅立った。
咸陽を離れ、北へ。
愛する蒙恬のいる地へ。そして、三十万の大軍のもとへ。




