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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第2章 秦の栄光と崩壊編

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第28話 北辺の壁

 北の辺境へんきょうで、蒙恬もうてんの大事業は着々と進んでいた。


 三十万の大軍。蒙恬もうてんはまずオルドスの地から、匈奴きょうどを北へ駆逐くちくした。草原の狼も、三十万という数の前には手が出せず、北の奥へ退いた。


 奪い返した地に、蒙恬もうてんは長城を築き始めた。かつてちょうえんが北辺に築いた城壁を繋ぎ、修め、延ばしていく。臨洮りんとうから遼東りょうとうへ。万里に及ぶ、途方もない長さの城壁が、北の大地に姿を現し始めていた。



 北へ退いた頭曼とうまん単于ぜんうは、苛立いらだっていた。


 三十万の蒙恬もうてん軍には、正面から手を出せない。かといって、黙って長城が築かれるのを見ているのも業腹ごうはらであった。壁が完成すれば、匈奴きょうどは二度と、たやすく中華を襲えなくなる。


 そこで単于ぜんう蒙恬もうてん挑発ちょうはつした。工事現場の近くまで騎兵を寄せ、兵に口汚くののしらせたのだ。


「秦の腰抜けども! 壁の裏に隠れて、震えておるのか!」


「お前たちの将は、二人とも我らの単于ぜんうのものになったぞ! 秦の女将おんなしょうは、今や匈奴きょうどの血を宿す器よ!」


 さらに単于ぜんうは、捕えた楊端和ようたんわ羌瘣きょうかいの身につけていた下着を、蒙恬もうてんの陣へ送りつけた。辱められた二人をあざけり、蒙恬もうてんの怒りをあおり、冷静さを失わせて城壁の外へおびき出す。……そういう魂胆こんたんであった。


 だが蒙恬もうてんは、揺るがなかった。


 挑発の品を前に、副将たちは激昂げっこうした。


「なんという侮辱ぶじょく! 蒙恬もうてん将軍、討って出ましょう!」


「落ち着け」


 蒙恬もうてんの声は静かだった。


「これは単于ぜんうわなだ。我らを怒らせ、城壁の外へ誘き出すための挑発。草原へ出れば、匈奴きょうどの思うつぼだ。楊端和ようたんわ殿と羌瘣きょうかい殿を敗ったのも、この手であろう」


 蒙恬もうてんは、送りつけられた衣を静かに手に取った。その目に、深い怒りと悲しみが滲む。だが、それを激情には変えなかった。


「二人の無念は、必ず晴らす。だが、それは今ではない。……我らのなすべきは、長城を完成させること。壁さえ成れば、匈奴きょうどは牙を失う」


 蒙恬もうてんは挑発を黙殺もくさつし、淡々と建設を進めた。単于ぜんうの挑発は、ことごとく空を切った。



 やがて長城は延び、匈奴きょうどはじりじりと抑え込まれていった。


 略奪りゃくだつの道を断たれた匈奴きょうどは、次第に勢いを失っていく。頃合いを見て、蒙恬もうてん単于ぜんうへ使者を送った。


楊端和ようたんわ羌瘣きょうかい、両将軍を返されよ。然らば、これ以上の侵攻は控えよう」


 だが匈奴きょうどは、これを拒んだ。


「笑わせるな! 二人は既に単于ぜんうの女。強き血を宿す、大切な器だ。返すものか!」


 単于ぜんうは、強き女将の血を引く後継を、どうしても欲しがっていた。


 もっとも、楊端和ようたんわ羌瘣きょうかいも、ねやではあっけなくただの女になった。子をはらますには物足りぬ、と単于ぜんうは思っていた。武も知略も、この二人より上なのが蒙恬もうてんである。妻とするなら、あの女がよい。……二人は、蒙恬もうてんを釣り上げるためのえさに過ぎなかった。


 蒙恬もうてん歯噛はがみした。力で奪い返すには草原の奥深くへ攻め入らねばならず、それこそ匈奴きょうどの思う壺。……二人を救えぬまま、時だけが過ぎていった。



 その頃、咸陽かんようでは、新たな悲劇が起きようとしていた。


 焚書ふんしょである。


 発端は、宮中のうたげであった。一人の儒者じゅしゃが、始皇帝しこうていの前で説いたのだ。


「陛下。古の聖王は、一族や功臣に土地を封じ、諸侯として国を守らせました。今の郡県制ぐんけんせいでは、皇室を守る藩屏はんぺいがございませぬ。古に倣い、封建ほうけんを復すべきかと」


 郡県制への批判であった。


 これに、丞相じょうしょう李斯りしが反論した。


「時代は移ったのです。古を引いて今をそしる議論こそ、天下を乱す元。……実用の書を除き、詩書百家の書を、焼き捨てるべきにございます」


 始皇帝しこうていは、李斯りしの建言を容れた。


 医薬、占い、農事の書を除き、諸子百家の書物、とりわけ各国の史書が、次々と火に投げ込まれた。数百年の知の集積が、炎の中へ消えていった。



 そして翌年、事態はさらに凄惨せいさんなものへ転じた。


 坑儒こうじゅである。


 きっかけは、方士ほうしたちの裏切りであった。盧生ろせいをはじめとする方士たちは、仙薬せんやくを探すと言いながら、何の成果も上げられずにいた。窮した彼らは、陰で始皇帝しこうてい誹謗ひぼうした。


「皇帝は権力に固執し、残忍で、人を信じぬ。あのような者に、仙薬を授ける資格などない」


 そう言い捨て、方士たちは財を持って逃亡した。



 その報せを受けた時、母は玉座ぎょくざで長いこと動かなかった。


 ……方士が、逃げた。


 徐福じょふくは海の彼方かなたから戻らぬ。盧生ろせいも逃げた。残った者も、また逃げるだろう。


 それは、つまり。


 ――仙薬など、どこにもない。


 認めるわけにはいかなかった。認めれば、己は死ぬ。死ねば、この天下を渡さねばならぬ。あの子に。あの血に。


 天下を獲ってからの歳月を、まるごと注ぎ込んだ。西の果てにも東の海にも人と財を送り、方士を宮に住まわせ、毒と知れぬ薬まであおった。


 その全てが、今、音を立てて塞がった。


 思いつきが信仰に変わり、信仰が命綱いのちづなに変わっていた。その命綱が、たった今、目の前で断ち切られたのだ。


「……おのれ」


 声が、震えていた。


「おのれ、方士ども! 私をあざむき、財を奪い、挙句に誹謗して逃げるか!」


 激怒した始皇帝しこうていは、咸陽の儒者と方士を、徹底的に詮議せんぎさせた。そして四百六十余人を捕え、生き埋めにするよう命じた。


 人を穴に埋めて殺す。……逃げ道を塞がれた者の恐怖が、四百六十余の命を、土の下へ葬ろうとしていた。



「母上。……お待ちください」


 俺は、始皇帝しこうていの前へ進み出た。


「坑儒は、あまりに苛烈かれつにございます。天下は統一されて、まだ日が浅い。旧六国の民の心は、いまだ定まっておりませぬ。そのような時に、学ぶ者を四百余も生き埋めにすれば、民は陛下を恐れ、離れましょう」


扶蘇ふそ


 母の声が、冷え冷えと響いた。


「お前は、私を裏切った方士どもをかばうのか」


「庇うのではございませぬ。ただ、罰が重すぎると申しております。裏切った方士を罰するは当然。されど、関わりなき儒者まで巻き込み、生き埋めにするのは……天下の皇帝の、なさることではございませぬ」


 広間が凍りついた。


 皇帝の決定に、真っ向から異を唱える。皇子おうじとはいえ、許されぬ振る舞いであった。



 その沈黙を破ったのは、趙高ちょうこうであった。


おそれながら、陛下」


 趙高ちょうこうは、静かに進み出た。


「公子のお言葉、聞き捨てなりませぬ」


 俺は、この女を見た。日頃、皇帝の傍らで筆を執るばかりの尚書しょうしょが、せいの場で口を開くのは珍しかった。


「公子は、坑儒を苛烈と仰せになりました。……ですが坑儒は、陛下の御裁可ごさいか。焚書もまた然り。公子が申しておられるのは、罰が重い軽いという話ではございませぬ」


 趙高ちょうこうの目が、俺を捉えた。


「――陛下の御世そのものを、否と申しておられるのです」


 背筋が冷えた。


「先には、東海の御事業にも異を唱えられた。此度こたびは坑儒。……公子のお言葉は、いつも陛下の御決定の、その逆にございます。民が離れる、人心が乱れる。……そう仰せになりながら、公子ご自身は、いつも民の側に立っておられる」


 違う、と言いかけて、言葉が出なかった。


 ……この女は、俺の言ったことを、一つもゆがめていない。ただ、並べ替えただけだ。並べ替えられただけで、俺の言葉は、まるで玉座を狙う者の口ぶりに変わっていた。


「丞相。いかが見る」


 母が、李斯りしへ目を向けた。


 李斯りしは、しばし目を伏せた。……そして口を開いた。


趙高ちょうこう殿の申される通りかと存じます」


 この丞相に、俺への悪意はない。それが、かえって重かった。


「法とは、情を挟まぬがゆえに法にございます。誰かをあわれみ、誰かを許せば、その一度で法は崩れまする。……公子は、お優しい。優しさは、人としては徳にございましょう」


 李斯りしは、静かに続けた。


「されど、その徳が玉座に座れば。……法は緩み、天下は再び乱れまする」



 母は、しばらく俺を見つめていた。


 ……その面立おもだち。


 整った、優しげな顔。だが見つめるほどに、母の胸に冷たいものが差した。この子の目元。唇の厚み。……誰かに、似ている。


 呂不韋りょふい


 あの商人だ。奇貨居くべしと未来を読み、天下を動かした男。己の父であり、この子の父でもある男の面影が、扶蘇ふその顔にふと浮かんで見えた。


(……この子は、本当に優しいのか)


 坑儒を諫めるこの言葉。民を思うこの訴え。美しい。だが、美しすぎはしないか。


 呂不韋りょふいは、正しいことを正しい顔で語る男であった。その裏で、ばんを幾重にも読んでいた。……この子の優しさも、同じ計算ではないのか。人心が離れると説き、皇帝の非を鳴らし、己は民の味方だと天下に示す。そうやって、次の玉座への地ならしをしているのでは。


(考えすぎだ。……いや。この子は、呂不韋りょふいの血を引く。呂不韋りょふいの再来かもしれぬ子だ)


 疑い出せば、際限がなかった。この子の澄んだ目さえ、底の見えぬふちに思えてくる。


 ……傍に置いておけぬ。


 その沈黙の間に。


 趙高ちょうこうの視線が、ほんのわずか、李斯りしへ流れた。


 李斯りしが、それを受けた。


「陛下。……一つ、愚案ぐあんがございます」


 丞相は、深く頭を垂れた。


「公子には、北辺へお下りいただいては、いかがかと」


 母の眉が、動いた。


上郡じょうぐんには、蒙恬もうてん将軍の三十万がございます。……戦の厳しさ、辺境の現実。それをその目でご覧になれば、公子のお優しさも、いずれ天下を治めるに足る強さへ変わりましょう。……罰としてではなく、御教育として」


 筋の通った、穏やかな進言であった。


 誰の目にも、公子を思っての言葉に見えた。



扶蘇ふそ。……お前は、優しすぎる」


 母が、口を開いた。


「その優しさは、皇帝の統治を甘くする毒だ。……いや」


 言葉を、切った。


 ……その優しさが毒なのか。優しさを装う何かが恐ろしいのか。母自身にも、分からなかった。


「咸陽にいては、お前は甘いままだ。……北へ行け」


「母上――」


「上郡の、蒙恬もうてんの軍へ。監軍かんぐんとして、北辺の守りにつけ。優しさだけでは天下は治められぬと、思い知れ」


 北への左遷させんであった。


 だが、母がこの子を遠ざけた本当の理由を、口にすることはなかった。扶蘇ふその顔に見た、呂不韋りょふいの面影。その優しさにぎ取った、策士の匂い。……それを母は、誰にも告げなかった。


(お前が、ただ優しいだけの子であることを。……私は、祈っている。扶蘇ふそよ)


 はしらの陰で、趙高ちょうこうが目を伏せた。


(これで、あの声は、陛下に届かぬ)


 退がった俺の胸にあったのは、落胆ではなかった。


 咸陽に残ったところで、俺の言葉はもう届かぬ。趙高ちょうこう李斯りしが、そう仕立ててしまった。……ならば、ここにいても仕方がない。


 北には蒙恬もうてんがいる。そして三十万がある。


 俺は、こぶしを握った。



 北へ発つ日。俺のもとへ、一人、同行を願い出た者がいた。


 蒙凛もうりんであった。


扶蘇ふそ様。……私も、北へお供いたします」


「凛。北辺は、厳しい地だぞ」


「承知の上です」


 蒙凛もうりんの目は、まっすぐだった。


「母が、北におります。久しく会っておりませぬ。それに……扶蘇ふそ様を、お一人で北へは行かせられませぬ。の戦の時のように、お側でお守りいたします」


 俺は微笑んだ。


 楚の戦場で、共に蒙恬もうてんを救いに駆けた、あの凛。武では俺に勝る、頼もしい戦友だ。北の地で凛が側にいてくれるなら、心強い。


「……分かった。来てくれ、凛。共に、北へ行こう」


 こうして俺は、蒙凛もうりんを伴い、北の辺境へ旅立った。


 咸陽を離れ、北へ。


 愛する蒙恬もうてんのいる地へ。そして、三十万の大軍のもとへ。

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