第27話 北の狼
中華の北。
万里の彼方に広がる草原に、狼のごとき民がいた。
匈奴である。
定住せず、水と草を求めて馬とともに移る騎馬の民。男も女も馬を駆り、弓を引く。城を持たず、土地に縛られず、神出鬼没に辺境を襲っては草原の奥へ消えていく。
この頃の匈奴は、まだ強大な帝国ではなかった。東に東胡、西に月氏。二つの勢力に挟まれ、その狭間で諸部族を緩く束ねる連合に過ぎない。束ねる者を単于と呼ぶ。今の単于は頭曼。匈奴の記録に残る、最初の単于であった。
◆
匈奴には、奇怪な習わしがあった。
単于は代々、男が継ぐ。この地でもまた、男は少なく貴重である。だが匈奴の男は、中華のように後宮へ囲われて守られる存在ではなかった。
単于の役割は統率。そして、より強き単于を次代に残すこと。
強き血を求める。ゆえに匈奴の単于は、戦で敵の優れた女将を攫い、己の子を産ませた。強い女の血を奪い、より強い後継を作る。それが草原の狼の掟であった。
中華では貴重な男を、女たちが奪い合う。匈奴では貴重な男である単于が、強き女を奪う。同じ男の少ない世でありながら、その理は正反対に捻じれていた。
そして匈奴は、しばしば秦の辺境を襲い、女を攫っていった。強き血を求めて。
◆
始皇帝は、この北の狼を疎ましく思っていた。
「北の蛮族が、また辺境を荒らしたか。天下を統一した私の版図を、鼠のごとく荒らし回る。……一度、叩いておく必要があろう」
匈奴討伐の令が下った。
その言葉を聞いた時、俺の肩から力が抜けた。
――ああ、その戦か。
匈奴は北へ追われ、オルドスの地は秦のものとなる。そこに壁が築かれ、草原の民は長く中華へ手を出せなくなる。……秦が勝つ戦だ。
安堵していた。
「将は、楊端和と羌瘣。五万を与える」
その一言に、指先が冷えた。
……蒙恬ではない。三十万でもない。
「母上」
声が、喉まで出かかった。
だが、そこで止まった。
――何を言うのだ。将が違う。数が違う。それだけで、負けると申すのか。根拠はどこにある。史書にそう書いてあったから、とは言えぬ。
それに、と俺は己に言い聞かせた。
大筋は、史実の通りに流れている。皇帝の即位も、郡県制も、巡幸も、不老不死も。全て書物のなぞる通りに来た。……この戦とて、そうであろう。
俺は、口を閉じた。
◆
草原の戦は、中華の戦とはまるで違った。
匈奴は正面から戦わない。退いては現れ、現れては退く。馬上から矢を射かけ、秦軍が追えば草原の彼方へ散り、止まればまた群れをなして襲いかかる。拠るべき城も関もない果てしない草の海で、秦軍は掴みどころのない敵に翻弄された。
だが楊端和と羌瘣は、歴戦の将であった。二手に分かれ、互いに連携しながら、匈奴の遊撃を少しずつ押し返していく。
やがて楊端和の隊が、頭曼単于の本隊を草原の一角へ追い詰めた。
「単于は、そこか。……逃がさぬ!」
楊端和は自ら馬を駆り、単于へ迫った。頭曼もまた逃げなかった。長槍を構え、迎え撃つ。
一騎打ちであった。
草原の狼と、秦の女将。馬上で幾度も槍と剣が噛み合う。……押していたのは楊端和であった。単于の膂力を、楊端和の技が上回っていく。
「……ぬ、おおっ!」
楊端和の一撃が、単于の槍を大きく弾いた。体勢が崩れる。
「もらった――!」
だが。
崩れながら、単于は口の端を吊り上げた。
(かかったな、秦の女)
わざと引いたのだ。楊端和が追い討ちをかけようと深く踏み込んだ、その刹那。草原の窪みに潜んでいた匈奴の伏兵が、一斉に立ち上がった。
「な……っ! 伏兵か!」
四方から騎兵が殺到する。一騎打ちに気を取られ、深追いした楊端和は孤立していた。奮戦したが多勢に無勢。馬を射られ、地に落ち、ついに組み伏せられた。
「楊端和将軍を、捕らえたぞ!」
匈奴の兵が勝ち鬨を上げた。
◆
その報せは、瞬く間に戦場を駆け巡った。
もう一方の隊を率いる羌瘣は、この時、優勢であった。匈奴の一隊を巧みに追い込み、あと一押しで突き崩せる。そこまで来ていた。
「なに……!? 楊端和将軍が、捕らえられただと!?」
羌瘣の手が止まった。
共に戦ってきた盟友が、敵の手に落ちた。助けねば。今すぐ単于の本隊を叩き、取り返さねば。……焦りが、この女から冷静さを奪った。
「全軍、単于の本隊へ! 楊端和将軍を救い出す!」
羌瘣は、優勢だった目の前の敵を捨て、無理を承知で突撃した。
それこそが、単于の狙いであった。
隊列を崩して突っ込んできた羌瘣の軍を、頭曼は待ち構えていた。整った匈奴の騎兵が、乱れた秦軍の横腹を鋭く突く。前のめりになった軍は、たちまち分断され、包囲された。
「しまった……! 誘い込まれたか!」
気づいた時には遅かった。羌瘣もまた奮戦むなしく、単于の手勢に叩き伏せられた。
武で押しながら伏兵にかかった楊端和。優勢でありながら焦りに呑まれた羌瘣。秦の二人の女将は、それぞれの理由で敗れ、共に草原の狼の手に落ちた。
◆
頭曼の前に、縄を打たれた二人が引き据えられた。
「……秦の女将か。よい面構えだ。五万を率いるほどの強き女。欲しかった血よ」
楊端和は、縄を打たれてなお単于を睨み返した。
「殺すなら、殺せ。秦の将として、命乞いなどせぬ」
「殺す? まさか」
単于は嗤った。
「お前たちのような強き女を、殺すものか。……産んでもらう。この頭曼の子を。強き秦の女将の血を引く、次代の単于をな。匈奴の掟だ。名誉に思うがよい」
二人の顔が凍りついた。楊端和は激しく抗い、羌瘣も歯を食いしばって縄を振りほどこうとした。だが屈強な兵に押さえつけられ、二人は天幕の奥へ引きずられていった。
その天幕の前に、二人の甲冑と武器が乱雑に投げ捨てられていた。
秦の女将の証。幾多の戦場をくぐり、六国を平らげた武具である。それが草の上に、拾う値打ちもない塵のように積まれていた。通りかかった匈奴の兵が、楊端和の胸当てを爪先で転がし、笑いながら行き過ぎる。
夜露が降り、鉄が濡れていく。
秦の誇り高き女将は、敵の血を残す器として、草原の狼の手に落ちた。
天幕の中の抵抗の声は、やがて啜り泣きに変わっていった。
◆
その報せが咸陽に届いた日のことを、俺は長く忘れられなかった。
五万は壊滅。将は二人とも捕らえられ、匈奴の掟に従って辱めを受けている。……使者の言葉を、俺は末席で聞いていた。
――俺は、この戦を止められた。
匈奴を討つと聞いた時。将の名を聞いた時。兵の数を聞いた時。幾度でも、口を開く機会はあった。
開かなかった。
史書の通りに流れていると、己に言い聞かせて。
知らなかったのではない。……知っていたから、見過ごしたのだ。
俺の持つものは、盾ではなかった。目を塞ぐ布であった。
敗報を聞いた始皇帝は、烈火のごとく怒った。
「五万が、同数の蛮族に敗れただと。しかも将が二人とも捕らえられ、辱めを受けた。……天下を統一したこの秦が、北の狼ごときに後れを取るとは。許さぬ。草原の果てまで駆逐してくれる」
母の怒りは、匈奴だけには向かなかった。
「そして、あの二人。……五万を預けて敗れ、あろうことか敵に囚われ、辱めを受けた。生きて戻れば、軍法に照らして裁かねばならぬ。秦の将が、敵の子を孕んで生きて帰るなど――」
母は、そこで吐き捨てるように言った。
「戻らずともよい。あの二人は、もう死んだものと思え。生きていても、秦にその居場所はない」
その一言を、俺は苦い思いで聞いた。
……たとえ二人が匈奴の手を逃れて戻ったとしても、待つのは軍法の裁きだ。敗軍の将として、囚われの恥をさらした女として。母は、そう言い切った。
草原に囚われ、秦にも帰る場所を失う。……二人は、前も後ろも塞がれたのだ。
「母上。……お待ちください」
俺は、末席から声を上げた。
「二人を、取り戻す道を先にお考えください。……使者を立て、財を積んででも」
「返すものか、あの蛮族が」
母は吐き捨てた。
「強き女の血を欲して攫ったのだ。子を産ませるまで、決して返さぬ。……あの二人は、もう戻らぬものと思え」
俺は唇を噛んだ。
助けに行きたかった。だが草原へ兵を入れれば、二人と同じ末路をたどるだけだ。……何もできぬまま、盟友を見殺しにする。それが、この時の俺にできた全てであった。
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「ならば、討伐は」
母が続けようとするのを、俺は遮った。
「正面から討つのは、下策にございます」
「……なに」
「匈奴は城を持たず、土地に縛られませぬ。追えば散り、退けば襲う。果てしない草原をどこまで追っても、影を追うようなもの。……楊端和将軍が敗れたのも、その掴みどころのなさゆえ。大軍を送っても決着はつかず、徒に兵と財を失いまする」
「ならば、どうせよと言う。北の狼を放っておけと」
「いいえ。討つのではなく、防ぐのです」
俺は北の地図を指した。
「辺境に沿って、長き城壁を築くのです。かつて趙も燕も、北辺に壁を築いて匈奴を防ぎました。それらを繋ぎ、修め、一本の長城とする。……騎馬の民は、壁を越えられませぬ。守りを固めれば侵入は減り、辺境の女が攫われることもなくなりましょう」
母は、しばし考え込んだ。
「……長城、か」
◆
だが母は、俺の策を半分だけ容れた。
「守りは要る。よかろう、長城を築け。……だが扶蘇。守るだけでは足りぬ」
その目は、なお猛々《たけだけ》しかった。
「二人の将を辱められた、この屈辱。匈奴を一度は力で叩かねばならぬ。オルドスから駆逐し、その上で壁を築く。……攻めと守り。両方だ」
母は宣した。
「蒙恬に三十万を与える。匈奴を北へ追い、河南の地を奪い、そこに長城を築かせよ」
俺の胸がざわめいた。
三十万。蒙恬。長城。……ようやく、書物で読んだ通りの形に戻った。
だが、その通りに戻すために。二人の女将が、草原へ捨てられたのだ。
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その場に、一人の方士が進み出た。
盧生である。徐福と並び、皇帝の信を得つつある方士であった。
「皇帝陛下。古の讖緯の書に、恐るべき予言がございました。……『亡ぼす秦なる者は、胡なり』と」
広間がざわめいた。
「胡とは、北の胡人。匈奴に相違ございませぬ。楊端和将軍らの敗北は、その前兆にございます」
母の目が、見開かれた。
「胡が、秦を滅ぼす……」
その声には、怒りよりも怯えがあった。
――秦が滅べば、永遠に統べるも何もない。
母の渇きに、また一つ、薪がくべられた。
俺は末席で、静かに息を吐いた。
……胡。
その一字が北の草原ではなく、この宮の奥にいる誰かを指しているのだと。……この時、口にできる者はいなかった。
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柱の陰から、趙高がその一部始終を見ていた。
――長城を築け、と陛下は仰せになった。
あの公子が申し上げた通りに。
方士の一件では退けられた。だが此度は皇帝の怒りを鎮め、国の大事を一つ、己の言葉で動かしてみせた。
(危ういのは、逆らうことではない。……あの声が、陛下に届くことだ)
趙高の筆が、静かに動いた。
北伐が始まる。そして、秦の滅びへの歯車もまた、静かに回り始めていた。




