表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第2章 秦の栄光と崩壊編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

28/43

第27話 北の狼

 中華の北。


 万里の彼方かなたに広がる草原に、狼のごとき民がいた。


 匈奴きょうどである。


 定住せず、水と草を求めて馬とともに移る騎馬の民。男も女も馬を駆り、弓を引く。城を持たず、土地に縛られず、神出鬼没しんしゅつきぼつに辺境を襲っては草原の奥へ消えていく。


 この頃の匈奴きょうどは、まだ強大な帝国ではなかった。東に東胡とうこ、西に月氏げっし。二つの勢力に挟まれ、その狭間はざまで諸部族を緩く束ねる連合に過ぎない。束ねる者を単于ぜんうと呼ぶ。今の単于ぜんう頭曼とうまん匈奴きょうどの記録に残る、最初の単于ぜんうであった。



 匈奴きょうどには、奇怪な習わしがあった。


 単于ぜんうは代々、男が継ぐ。この地でもまた、男は少なく貴重である。だが匈奴きょうどの男は、中華のように後宮こうきゅうへ囲われて守られる存在ではなかった。


 単于ぜんうの役割は統率。そして、より強き単于ぜんうを次代に残すこと。


 強き血を求める。ゆえに匈奴きょうど単于ぜんうは、戦で敵の優れた女将おんなしょうさらい、己の子を産ませた。強い女の血を奪い、より強い後継を作る。それが草原の狼のおきてであった。


 中華では貴重な男を、女たちが奪い合う。匈奴きょうどでは貴重な男である単于ぜんうが、強き女を奪う。同じ男の少ない世でありながら、その理は正反対にじれていた。


 そして匈奴きょうどは、しばしば秦の辺境を襲い、女を攫っていった。強き血を求めて。



 始皇帝しこうていは、この北の狼をうとましく思っていた。


「北の蛮族が、また辺境を荒らしたか。天下を統一した私の版図はんとを、ねずみのごとく荒らし回る。……一度、叩いておく必要があろう」


 匈奴きょうど討伐の令が下った。


 その言葉を聞いた時、俺の肩から力が抜けた。


 ――ああ、その戦か。


 匈奴きょうどは北へ追われ、オルドスの地は秦のものとなる。そこに壁が築かれ、草原の民は長く中華へ手を出せなくなる。……秦がかちつ戦だ。


 安堵していた。


「将は、楊端和ようたんわ羌瘣きょうかい。五万を与える」


 その一言に、指先が冷えた。


 ……蒙恬もうてんではない。三十万でもない。


「母上」


 声が、のどまで出かかった。


 だが、そこで止まった。


 ――何を言うのだ。将が違う。数が違う。それだけで、負けると申すのか。根拠はどこにある。史書ししょにそう書いてあったから、とは言えぬ。


 それに、と俺は己に言い聞かせた。


 大筋は、史実の通りに流れている。皇帝の即位も、郡県制ぐんけんせいも、巡幸じゅんこうも、不老不死も。全て書物のなぞる通りに来た。……この戦とて、そうであろう。


 俺は、口を閉じた。



 草原の戦は、中華の戦とはまるで違った。


 匈奴きょうどは正面から戦わない。退いては現れ、現れては退く。馬上から矢を射かけ、秦軍が追えば草原の彼方へ散り、止まればまた群れをなして襲いかかる。拠るべき城も関もない果てしない草の海で、秦軍は掴みどころのない敵に翻弄ほんろうされた。


 だが楊端和ようたんわ羌瘣きょうかいは、歴戦の将であった。二手に分かれ、互いに連携しながら、匈奴きょうどの遊撃を少しずつ押し返していく。


 やがて楊端和ようたんわの隊が、頭曼とうまん単于ぜんうの本隊を草原の一角へ追い詰めた。


単于ぜんうは、そこか。……逃がさぬ!」


 楊端和ようたんわは自ら馬を駆り、単于ぜんうへ迫った。頭曼とうまんもまた逃げなかった。長槍を構え、迎え撃つ。


 一騎打ちであった。


 草原の狼と、秦の女将。馬上で幾度も槍と剣が噛み合う。……押していたのは楊端和ようたんわであった。単于ぜんう膂力りょりょくを、楊端和ようたんわの技が上回っていく。


「……ぬ、おおっ!」


 楊端和ようたんわの一撃が、単于ぜんうの槍を大きく弾いた。体勢が崩れる。


「もらった――!」


 だが。


 崩れながら、単于ぜんうは口の端を吊り上げた。


(かかったな、秦の女)


 わざと引いたのだ。楊端和ようたんわが追い討ちをかけようと深く踏み込んだ、その刹那せつな。草原のくぼみに潜んでいた匈奴きょうど伏兵ふくへいが、一斉に立ち上がった。


「な……っ! 伏兵か!」


 四方から騎兵が殺到する。一騎打ちに気を取られ、深追いした楊端和ようたんわは孤立していた。奮戦したが多勢に無勢。馬を射られ、地に落ち、ついに組み伏せられた。


楊端和ようたんわ将軍を、捕らえたぞ!」


 匈奴きょうどの兵が勝ちどきを上げた。



 その報せは、瞬く間に戦場を駆け巡った。


 もう一方の隊を率いる羌瘣きょうかいは、この時、優勢であった。匈奴きょうどの一隊を巧みに追い込み、あと一押しで突き崩せる。そこまで来ていた。


「なに……!? 楊端和ようたんわ将軍が、捕らえられただと!?」


 羌瘣きょうかいの手が止まった。


 共に戦ってきた盟友めいゆうが、敵の手に落ちた。助けねば。今すぐ単于ぜんうの本隊を叩き、取り返さねば。……焦りが、この女から冷静さを奪った。


「全軍、単于ぜんうの本隊へ! 楊端和ようたんわ将軍を救い出す!」


 羌瘣きょうかいは、優勢だった目の前の敵を捨て、無理を承知で突撃した。


 それこそが、単于ぜんうの狙いであった。


 隊列を崩して突っ込んできた羌瘣きょうかいの軍を、頭曼とうまんは待ち構えていた。整った匈奴きょうどの騎兵が、乱れた秦軍の横腹を鋭く突く。前のめりになった軍は、たちまち分断され、包囲された。


「しまった……! 誘い込まれたか!」


 気づいた時には遅かった。羌瘣きょうかいもまた奮戦むなしく、単于ぜんうの手勢に叩き伏せられた。


 武で押しながら伏兵にかかった楊端和ようたんわ。優勢でありながら焦りに呑まれた羌瘣きょうかい。秦の二人の女将は、それぞれの理由で敗れ、共に草原の狼の手に落ちた。



 頭曼とうまんの前に、なわを打たれた二人が引き据えられた。


「……秦の女将か。よい面構つらがまえだ。五万を率いるほどの強き女。欲しかった血よ」


 楊端和ようたんわは、縄を打たれてなお単于ぜんうを睨み返した。


「殺すなら、殺せ。秦の将として、命乞いなどせぬ」


「殺す? まさか」


 単于ぜんうわらった。


「お前たちのような強き女を、殺すものか。……産んでもらう。この頭曼とうまんの子を。強き秦の女将の血を引く、次代の単于ぜんうをな。匈奴きょうどの掟だ。名誉に思うがよい」


 二人の顔が凍りついた。楊端和ようたんわは激しく抗い、羌瘣きょうかいも歯を食いしばって縄を振りほどこうとした。だが屈強くっきょうな兵に押さえつけられ、二人は天幕てんまくの奥へ引きずられていった。


 その天幕の前に、二人の甲冑と武器が乱雑に投げ捨てられていた。


 秦の女将の証。幾多の戦場をくぐり、六国を平らげた武具である。それが草の上に、拾う値打ちもない塵のように積まれていた。通りかかった匈奴きょうどの兵が、楊端和ようたんわの胸当てを爪先で転がし、笑いながら行き過ぎる。


 夜露が降り、鉄が濡れていく。


 秦の誇り高き女将は、敵の血を残す器として、草原の狼の手に落ちた。


 天幕の中の抵抗の声は、やがてすすり泣きに変わっていった。



 その報せが咸陽かんように届いた日のことを、俺は長く忘れられなかった。


 五万は壊滅。将は二人とも捕らえられ、匈奴きょうどの掟に従って辱めを受けている。……使者の言葉を、俺は末席で聞いていた。


 ――俺は、この戦を止められた。


 匈奴きょうどを討つと聞いた時。将の名を聞いた時。兵の数を聞いた時。幾度でも、口を開く機会はあった。


 開かなかった。


 史書の通りに流れていると、己に言い聞かせて。


 知らなかったのではない。……知っていたから、見過ごしたのだ。


 俺の持つものは、盾ではなかった。目を塞ぐ布であった。


 敗報を聞いた始皇帝しこうていは、烈火れっかのごとく怒った。


「五万が、同数の蛮族に敗れただと。しかも将が二人とも捕らえられ、辱めを受けた。……天下を統一したこの秦が、北の狼ごときに後れを取るとは。許さぬ。草原の果てまで駆逐くちくしてくれる」


 母の怒りは、匈奴きょうどだけには向かなかった。


「そして、あの二人。……五万を預けて敗れ、あろうことか敵にとらわれ、辱めを受けた。生きて戻れば、軍法に照らして裁かねばならぬ。秦の将が、敵の子をはらんで生きて帰るなど――」


 母は、そこで吐き捨てるように言った。


「戻らずともよい。あの二人は、もう死んだものと思え。生きていても、秦にその居場所はない」


 その一言を、俺は苦い思いで聞いた。


 ……たとえ二人が匈奴きょうどの手を逃れて戻ったとしても、待つのは軍法の裁きだ。敗軍の将として、囚われの恥をさらした女として。母は、そう言い切った。


 草原に囚われ、秦にも帰る場所を失う。……二人は、前も後ろも塞がれたのだ。


「母上。……お待ちください」


 俺は、末席から声を上げた。


「二人を、取り戻す道を先にお考えください。……使者を立て、財を積んででも」


「返すものか、あの蛮族が」


 母は吐き捨てた。


「強き女の血を欲して攫ったのだ。子を産ませるまで、決して返さぬ。……あの二人は、もう戻らぬものと思え」


 俺は唇を噛んだ。


 助けに行きたかった。だが草原へ兵を入れれば、二人と同じ末路をたどるだけだ。……何もできぬまま、盟友を見殺しにする。それが、この時の俺にできた全てであった。



「ならば、討伐は」


 母が続けようとするのを、俺はさえぎった。


「正面から討つのは、下策にございます」


「……なに」


匈奴きょうどは城を持たず、土地に縛られませぬ。追えば散り、退けば襲う。果てしない草原をどこまで追っても、影を追うようなもの。……楊端和ようたんわ将軍が敗れたのも、その掴みどころのなさゆえ。大軍を送っても決着はつかず、いたずらに兵と財を失いまする」


「ならば、どうせよと言う。北の狼を放っておけと」


「いいえ。討つのではなく、防ぐのです」


 俺は北の地図を指した。


「辺境に沿って、長き城壁じょうへきを築くのです。かつて趙も燕も、北辺ほくへんに壁を築いて匈奴きょうどを防ぎました。それらを繋ぎ、修め、一本の長城とする。……騎馬の民は、壁を越えられませぬ。守りを固めれば侵入は減り、辺境の女が攫われることもなくなりましょう」


 母は、しばし考え込んだ。


「……長城、か」



 だが母は、俺の策を半分だけ容れた。


「守りは要る。よかろう、長城を築け。……だが扶蘇ふそ。守るだけでは足りぬ」


 その目は、なお猛々《たけだけ》しかった。


「二人の将を辱められた、この屈辱。匈奴きょうどを一度は力で叩かねばならぬ。オルドスから駆逐し、その上で壁を築く。……攻めと守り。両方だ」


 母は宣した。


蒙恬もうてんに三十万を与える。匈奴きょうどを北へ追い、河南の地を奪い、そこに長城を築かせよ」


 俺の胸がざわめいた。


 三十万。蒙恬もうてん。長城。……ようやく、書物で読んだ通りの形に戻った。


 だが、その通りに戻すために。二人の女将が、草原へ捨てられたのだ。



 その場に、一人の方士ほうしが進み出た。


 盧生ろせいである。徐福じょふくと並び、皇帝の信を得つつある方士であった。


「皇帝陛下。古の讖緯しんいの書に、恐るべき予言がございました。……『亡ぼす秦なる者は、胡なり』と」


 広間がざわめいた。


「胡とは、北の胡人。匈奴きょうどに相違ございませぬ。楊端和ようたんわ将軍らの敗北は、その前兆にございます」


 母の目が、見開かれた。


「胡が、秦を滅ぼす……」


 その声には、怒りよりも怯えがあった。


 ――秦が滅べば、永遠に統べるも何もない。


 母の渇きに、また一つ、たきぎがくべられた。


 俺は末席で、静かに息を吐いた。


 ……胡。


 その一字が北の草原ではなく、この宮の奥にいる誰かを指しているのだと。……この時、口にできる者はいなかった。



 はしらの陰から、趙高ちょうこうがその一部始終を見ていた。


 ――長城を築け、と陛下は仰せになった。


 あの公子が申し上げた通りに。


 方士の一件では退けられた。だが此度こたびは皇帝の怒りを鎮め、国の大事を一つ、己の言葉で動かしてみせた。


(危ういのは、逆らうことではない。……あの声が、陛下に届くことだ)


 趙高ちょうこうの筆が、静かに動いた。


 北伐が始まる。そして、秦の滅びへの歯車もまた、静かに回り始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ