第26話 方士
巡幸から戻った始皇帝のもとへ、天下中から奇怪な者たちが集まり始めた。
方士である。
不老不死。仙人。仙薬。人の理を超えた術を操ると称する者たち。皇帝がそれを求めていると知るや、彼らは甘言を携えて咸陽へ押し寄せた。
常の母であれば、一顧だにしなかったはずだ。六国を呑み込んだ、あの怜悧な女である。まじないの類を、鼻で嗤う人であった。
その母が今、片端から謁見を許している。胡散臭い山師も、腰の曲がった占い師も。仙薬の二字を口にする者は、誰であろうと宮へ通した。
俺は末席から、それを見ていた。
◆
その中に、際立った女がいた。
徐福である。
斉の地の出という徐福は、他の方士とは違った。怪しげな老人でも、饒舌な山師でもない。若く、身なりの整った女であった。言葉は理路整然とし、天文にも地理にも航海術にも通じている。並の学者では及ばぬ知識を、淀みなく並べてみせた。
謁見の間。徐福は玉座の前に進み出ると、朗らかに奏上した。
「皇帝陛下。東の海の彼方に、三つの神山がございます。蓬萊、方丈、瀛洲。……仙人の住まう、不老不死の島々にございます」
「不老不死の、島だと」
母の声が、わずかに前へ出た。
「は。その島々には仙薬が自生しております。これを得れば、陛下は永遠の生を手にすることが叶いましょう。……この徐福にお命じくださいませ。東の海を渡り、必ずや持ち帰ってご覧に入れます」
母の顔に、抑えきれぬものが滲んだ。
俺は袖の中で、拳を握った。
◆
嘘だ。
東の海に、不老不死の島などない。徐福は帰ってこない。財と人だけが海の彼方へ消えて、母の手には何も残らない。
だが、それをどう言えばよい。
史書で読んだから、とは言えぬ。俺の口から出せるのは、公子としての理屈だけだ。
賢く在ろうとするなら、黙るべきであった。皇帝が焦がれているものに、群臣の前で水を差す。角が立つどころの話ではない。……これまで幾度も、余計な一言で身を危うくしてきた。
だが。
母が壊れていくのを、黙って見ているのか。
「――畏れながら、陛下」
俺は、前へ出た。
◆
広間の空気が、ぴたりと止まった。
「その三つの神山を、これまでに見た者がおりましょうか」
徐福が、静かに俺を見た。
「古の書に、記されております」
「書にはある。だが、渡って戻った者はおらぬ。……島があるかどうかを、確かめた者が、一人もおらぬということです」
「公子さま」
徐福は、慌てず微笑んだ。
「戻った者がおらぬのは、島がないからではございませぬ。……仙境のあまりの美しさに、皆、帰ることを忘れるのでございます。それほどの楽土が、東の海にはあるのです」
舌の回る女であった。ないものを、あるかのように語らせれば、この女の右に出る者はおるまい。
「では、こう申し上げましょう」
俺は引かなかった。
「その楽土が真にあるなら、なぜ陛下が、わざわざ財と人を投じて船を出さねばなりませぬ。……仙人が不老不死を分け与えたいと望むなら、向こうから中華へ、薬を携えて参るはず。来ぬのは――そもそも、おらぬからではございませぬか」
徐福の笑みが、わずかに強張った。
俺は母を見上げた。
「陛下。この事業には、莫大な財と、幾千の人が要りましょう。船を仕立て、糧を積み、若い男女を乗せて海へ出す。……六国を平らげたばかりの天下に、その負担を強いるのは」
「扶蘇」
母の声が、俺を遮った。
冷たい声であった。
「お前は」
そこで、母は言葉を切った。
……ほんの一瞬。何かを言いかけて、飲み込んだように見えた。
「――お前は、私に死ねと申すか」
俺は、答えられなかった。
違う。そうではない。そう言おうとして、言葉が出てこなかった。母の目に浮かんでいたのは、怒りではなかった。もっと切羽詰まった、追い詰められた者の色であった。
……なぜ、そこまで。
母上には、天下がある。功も、名も、これ以上ないほど手にしている。それでもなお、死ねぬ理由が、どこにある。
問いは胸に留まったまま、形にならなかった。
「徐福。船を仕立てよ」
母は俺から目を逸らし、玉座から告げた。
「要る物は、何なりと申せ。国庫を開く」
「……ははっ」
徐福が、深々と頭を垂れた。
◆
丞相・李斯が、進み出た。
「陛下の御事業、この李斯、万事整えまする」
異を唱えるどころか、算段を買って出た。……この丞相は、皇帝の望むものを最も速く形にする男である。是非を問わぬ。それが李斯の忠であった。
その傍らで、もう一人。
趙高が、目を伏せたまま、筆を止めていた。
――公子が、陛下の御望みに、公然と逆らった。
趙高は、それだけを胸に刻んだ。今すぐ使える札ではない。だが、いつか必ず使える。
あの公子は、陛下の御世そのものを否とする。……そう仕立てられる日が、いずれ来る。
筆が、また静かに動き始めた。
◆
徐福の船団は、その年のうちに東へ発った。
大船数十。積み込まれた財貨。そして、童男童女三千人。……島に住まうという仙人への、捧げ物であるという。
港には、見送りの民が並んだ。海へ送り出される我が子の名を呼ぶ声が、いつまでも岸に残った。
船は水平線の向こうへ消え、そして――二度と、中華へ戻らなかった。
◆
母は待った。
一年。二年。使者を出し、報せを求め、なおも待った。……そして待ちながら、次の方士を、また宮へ通した。
俺の胸を重くしたのは、費えた財ではなかった。
あの氷のように怜悧だった人が。老女を嗤い一つで処刑し、六国を呑み込み、天下を統べた、あの母が。
いま、海の向こうの仙人などという法螺話に、己の理性を捻じ伏せて縋っている。
人の極みを成し遂げた者が、次に突き当たったのは、どうやっても越えられぬ壁であった。その壁の前で、最強の女帝が、少しずつ形を失っていく。
(……何が、母上を、そこまで急かしている)
答えは出なかった。
だが、一つだけ、分かったことがある。
隴西で「死ななければよい」と口にした時、母はまだ、思いつきを語る顔をしていた。だが今の母は違う。仙薬を疑う者を、遮り、睨む。……あの思いつきは、もう母の中で、疑ってはならぬ信仰に変わっていた。
止められる段は、過ぎたのだ。
皇帝の渇きは、これで終わらぬ。次は坑を掘るのか、毒を呷るのか。……俺には見えぬまま、母は越えられぬ壁へ、また一歩近づいていく。




