第25話 皇帝
天下統一の翌年。
政は新たな称号を定めた。
群臣が居並ぶ中、母は玉座から朗々と宣した。
「王では、足りぬ」
その声が広間の隅々まで響いた。
「古の三皇五帝。その徳を一身に集め、天下を統べる者。……王などという号では、この偉業にふさわしくない。今より皇帝と称する。我は最初の皇帝――始皇帝である」
群臣が一斉に平伏した。どよめきが、波のように広間へ広がる。皇帝。王を超える、この世に初めて生まれる至高の号。
俺だけが、頭を垂れたまま動かなかった。
――ああ。その通りになった。
胸に浮かんだのは、それだけであった。
◆
始皇帝の事業は、そこから怒涛のごとく進んだ。
度量衡の統一。長さと量と重さの単位を、秦の基準に揃える。文字の統一。丞相・李斯が整えた小篆に、天下の字体を統べる。貨幣は半両銭に。車の轍の幅すら、同じに定めた。
「文字が同じなら、遠い地の者とも意を通じられる。物差しが同じなら、天下は一つの市となる。……これこそが、真の統一だ」
俺は静かに頷いた。
書物で読むのと、この目で見るのとは違った。剣で六国を滅ぼすのは、あるいは誰にでもできよう。だが物差しと文字で、人の暮らしそのものを束ね直す。それは剣よりも深く天下を統べる業であった。
そして封建の廃止。郡県制。
「天下を郡と県に分ける。諸侯は置かぬ。全て中央から遣わした官吏が治める。……二度と割拠の世を、繰り返させぬ」
見事な理屈であった。
だが俺の胸には、冷たいものが差した。全てを一人の皇帝に集めた国は、その皇帝が倒れた時、支える柱を持たない。……この完璧な仕組みは、母が立っている限りにおいて完璧なのだ。
むろん口にはできなかった。母上の敷いた制度が、いずれ秦を滅ぼしまする、などと。言えば首が飛ぶ。
◆
皇帝を名乗ったその日から、政の胸には、一つの問いが棲みついた。
――この号を、誰が継ぐ。
王であれば、世継ぎでよかった。だが皇帝である。三皇五帝の徳を一身に集めた、この世に一つきりの座だ。並の器では、座った途端に潰れる。
政は、平伏する群臣の列に目を落とした。その中に、頭を垂れた長子がいる。
器はある。
法を解し、兵を解し、民の心を解する。大梁では堤を三月かけて切り、逃れ出た敵の民までことごとく救い上げた。二十を越えたばかりの子が、である。
他に子はある。だが末の胡亥は、幼いうちから人を人とも思わぬ気配があった。あれに天下は継げぬ。他の子らも、器ではない。
継がせるに足るのは、扶蘇ただ一人。
……そして、その扶蘇ただ一人が、最も濃くあの男の血を引いている。
嬴氏の血は四分の一。残る大半は呂不韋。……己を生した父・呂不韋との間に儲けた、呪いのような子であった。
(私が死ねば、この天下は、あの商人の血に渡る)
政は目を伏せた。
継がせられぬ。だが他におらぬ。……幾度考えても、その二つがぶつかり合って、答えは出なかった。
◆
同じ広間で。
もう一人、扶蘇の静けさを見ていた者がいた。
趙高である。
尚書として宮中の文書を一手に握り、皇帝の傍らに侍り、その一挙一動を記録し続ける立場にあった。
(……妙だ)
趙高は目を細めた。
皇帝の即位。度量衡。郡県制。いずれも天地を揺るがす大事である。群臣が驚くのは当然だ。誰にも予想などできぬのだから。
だが、あの公子だけが動じなかった。
母が皇帝を名乗ると分かっていた顔。郡県制が敷かれると分かっていた顔。……あの静けさは、何だ。
(まるで、先を見ているかのようだ)
六つで肥下を言い当てた。李牧の失脚を献策した。荊軻の刃を見抜いた。……単なる聡明さではない。もっと底の知れぬ何かが、あの公子にはある。
趙高は、懐に忍ばせた古い竹簡を、そっと撫でた。
扶蘇の出生の秘密。あの公子の血に、嬴氏のものは四分の一しか流れていない。残る大半は呂不韋。
(そうだ。呂不韋の血だ)
一介の商人の身から、奇貨居くべしと未来を見通し、人質の公子に投資して、ついには秦の実権を握った男。未来を読み、天下を動かした、あの策謀家。
(あの子は、呂不韋の再来よ)
趙高の胸に、殺意に近い警戒が芽生えた。
(危うい。賢すぎる。読みすぎる。……いずれ必ず、除かねばならぬ)
柱の陰で、趙高の目が昏く光った。
◆
その年、始皇帝は巡幸に出た。
最初の行き先は西、隴西であった。俺も供を命じられ、蒙恬も護衛として付き従った。
隴西は秦の発祥の地。中華の西の果てである。統一された車軌のおかげで、馬車は滑らかに走った。かつて関所に阻まれていた道が、今は一本に繋がっている。
「見よ、扶蘇。六国に分かれ、断ち切られていた道だ。……これが統一というものだ」
窓の外には、地平の果てまで続く大地が広がっていた。その全てが、今は母一人の天下であった。
◆
隴西の地に立った時、俺はさらに西へ目を向けた。
「蒙恬。……あの山の、さらに西には、何があると思う」
「西域と聞きます。砂漠を越えた向こうに、見たこともない国々があると。肌の色も目の色も違う民が暮らし、珍しい宝や駿馬が産まれる、と」
西域。
前世の記憶が、絹の道の幻を囁いた。
「あの砂漠の向こうにも、人が暮らし、国があり、営みがある。……いつか中華の絹が西へ運ばれ、西の馬や宝が東へ流れ込む。そういう遥かな道が開かれるかもしれぬ。中華は、世界の全てではないのだ」
「……面白いことを申すな、扶蘇」
背後から声がした。母であった。いつの間にか馬車を降り、俺と蒙恬の話を聞いていたのだ。
「西の砂漠の、さらに向こう。見たこともない国々。絹と駿馬の道……」
母は、しばらく黙って地平を見ていた。俺は、母がその広さに心を遊ばせているのだと思った。
だが、違った。
「扶蘇。……その遥かな地には」
母が、ぽつりと言った。
「不老不死の薬も、あるのではないか」
俺は、母の横顔を見た。
同じ地平を見ているはずであった。だが母の目に映っているのは、俺の見ている世界ではなかった。広がりでも、道でもない。ただ一つ、死なずに済む方途。それだけを、母はあの砂漠の彼方に探し始めていた。
◆
「母上。それは……戯言にございます」
俺は、思わず口を挟んだ。座して見ていることが、できなかった。
「人は、死にまする。天下を統べた者とて、例外ではありませぬ。不老不死などという薬は、この世のどこにも――」
「なぜ、言い切れる」
母の声が、俺を遮った。
振り返った母の顔を見て、俺は言葉を失った。
いつもの怜悧な目ではなかった。何かに縋る、追い詰められた者の目であった。天下を統べる女帝の顔から、その一瞬、余裕という余裕が抜け落ちていた。
「お前は、西の果てにも東の海にも、見ぬ世界があると申した。中華が全てではないと。……ならば、その見ぬ世界に死なぬ法があってはならぬと、なぜ言い切れる」
理屈では、なかった。
広い世界の話を、母はただ一点――死なずに済むという一点だけに、手繰り寄せていた。俺が開いてみせた地平の広さが、母の中では、逃げ道の広さに変わっていた。
「私は、天下を獲った」
母の声が、低く震えた。
「人の成しうる最大の偉業を成した。この手で、六国を平らげた。……なのに、その私が、いずれ死ぬというのか。死んで、この天下を、誰かに渡さねばならぬというのか」
誰かに。
その一言に、俺の知らぬ重さが籠もっていた。母は、天下を渡すこと、そのものを恐れている。……いや。渡す相手を、恐れている。
だが、それが誰なのかを、俺は知らなかった。
「死ななければ、よいのだ」
母は、静かに言い切った。
その静けさが、かえって恐ろしかった。喚くのでも、怒るのでもない。永遠に生きるという狂気を、母は、当たり前の道理のように口にしていた。
「永遠に生き、永遠にこの天下を統べればよい。渡さずに済む。……西の果てに、東の海に、その薬があるというなら。私は、手に入れる。何を措いても」
俺は、返す言葉を持たなかった。
死を恐れる女の顔なら、まだ分かる。だが母のそれは、死そのものよりも、死んだ後に起きる何かを恐れる顔であった。その何かの正体が、俺には掴めない。
ただ、胸の底の棘が、また一つ増えた。
◆
その夜、俺は一人、西の空を見上げていた。
不老不死など、あるものか。人は死ぬ。母とて例外ではない。
だが、それを言ったところで、母はもう聞くまい。
天下を獲った者が、次に何を欲するか。……俺は、それを見誤っていた。
西の果てへ。東の海へ。
皇帝の、終わらぬ旅が始まろうとしていた。




