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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第2章 秦の栄光と崩壊編

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第25話 皇帝

 天下統一の翌年。


 せいは新たな称号しょうごうを定めた。


 群臣が居並ぶ中、母は玉座ぎょくざから朗々と宣した。


「王では、足りぬ」


 その声が広間の隅々まで響いた。


「古の三皇さんこう五帝ごてい。その徳を一身に集め、天下を統べる者。……王などという号では、この偉業にふさわしくない。今より皇帝と称する。我は最初の皇帝――始皇帝しこうていである」


 群臣が一斉に平伏へいふくした。どよめきが、波のように広間へ広がる。皇帝。王を超える、この世に初めてまれる至高の号。


 俺だけが、頭を垂れたまま動かなかった。


 ――ああ。その通りになった。


 胸に浮かんだのは、それだけであった。



 始皇帝の事業は、そこから怒涛どとうのごとく進んだ。


 度量衡どりょうこうの統一。長さと量と重さの単位を、秦の基準に揃える。文字の統一。丞相じょうしょう李斯りしが整えた小篆しょうてんに、天下の字体を統べる。貨幣は半両銭に。車のわだちの幅すら、同じに定めた。


「文字が同じなら、遠い地の者とも意を通じられる。物差しが同じなら、天下は一つの市となる。……これこそが、真の統一だ」


 俺は静かに頷いた。


 書物で読むのと、この目で見るのとは違った。剣で六国を滅ぼすのは、あるいは誰にでもできよう。だが物差しと文字で、人の暮らしそのものを束ね直す。それは剣よりも深く天下を統べる業であった。


 そして封建ほうけんの廃止。郡県制ぐんけんせい


「天下を郡と県に分ける。諸侯は置かぬ。全て中央から遣わした官吏かんりが治める。……二度と割拠かっきょの世を、繰り返させぬ」


 見事な理屈であった。


 だが俺の胸には、冷たいものが差した。全てを一人の皇帝に集めた国は、その皇帝が倒れた時、支えるはしらを持たない。……この完璧な仕組みは、母が立っている限りにおいて完璧なのだ。


 むろん口にはできなかった。母上の敷いた制度が、いずれ秦を滅ぼしまする、などと。言えば首が飛ぶ。



 皇帝を名乗ったその日から、せいの胸には、一つの問いが棲みついた。


 ――この号を、誰が継ぐ。


 王であれば、世継ぎでよかった。だが皇帝である。三皇五帝の徳を一身に集めた、この世に一つきりの座だ。並の器では、座った途端に潰れる。


 せいは、平伏する群臣の列に目を落とした。その中に、頭を垂れた長子がいる。


 うつわはある。


 法を解し、兵を解し、民の心を解する。大梁だいりょうではつつみを三月かけて切り、逃れ出た敵の民までことごとく救い上げた。二十を越えたばかりの子が、である。


 他に子はある。だが末の胡亥こがいは、幼いうちから人を人とも思わぬ気配があった。あれに天下は継げぬ。他の子らも、器ではない。


 継がせるに足るのは、扶蘇ふそただ一人。


 ……そして、その扶蘇ふそただ一人が、最も濃くあの男の血を引いている。


 嬴氏えいしの血は四分の一。残る大半は呂不韋りょふい。……己を生した父・呂不韋りょふいとの間にもうけた、呪いのような子であった。


(私が死ねば、この天下は、あの商人の血に渡る)


 せいは目を伏せた。


 継がせられぬ。だが他におらぬ。……幾度考えても、その二つがぶつかり合って、答えは出なかった。



 同じ広間で。


 もう一人、扶蘇ふその静けさを見ていた者がいた。


 趙高ちょうこうである。


 尚書しょうしょとして宮中の文書を一手に握り、皇帝の傍らにはべり、その一挙一動を記録し続ける立場にあった。


(……妙だ)


 趙高ちょうこうは目を細めた。


 皇帝の即位。度量衡どりょうこう郡県制ぐんけんせい。いずれも天地を揺るがす大事である。群臣が驚くのは当然だ。誰にも予想などできぬのだから。


 だが、あの公子こうしだけが動じなかった。


 母が皇帝を名乗ると分かっていた顔。郡県制が敷かれると分かっていた顔。……あの静けさは、何だ。


(まるで、先を見ているかのようだ)


 六つで肥下を言い当てた。李牧りぼくの失脚を献策した。荊軻けいかの刃を見抜いた。……単なる聡明さではない。もっと底の知れぬ何かが、あの公子にはある。


 趙高ちょうこうは、懐に忍ばせた古い竹簡ちくかんを、そっと撫でた。


 扶蘇ふその出生の秘密。あの公子の血に、嬴氏えいしのものは四分の一しか流れていない。残る大半は呂不韋りょふい


(そうだ。呂不韋りょふいの血だ)


 一介の商人の身から、奇貨きか居くべしと未来を見通し、人質の公子に投資して、ついには秦の実権を握った男。未来を読み、天下を動かした、あの策謀家さくぼうか


(あの子は、呂不韋りょふいの再来よ)


 趙高ちょうこうの胸に、殺意に近い警戒が芽生えた。


(危うい。賢すぎる。読みすぎる。……いずれ必ず、のぞかねばならぬ)


 柱の陰で、趙高ちょうこうの目がくらく光った。



 その年、始皇帝は巡幸じゅんこうに出た。


 最初の行き先は西、隴西ろうせいであった。俺も供を命じられ、蒙恬もうてんも護衛として付き従った。


 隴西は秦の発祥の地。中華の西の果てである。統一された車軌しゃきのおかげで、馬車は滑らかに走った。かつて関所に阻まれていた道が、今は一本に繋がっている。


「見よ、扶蘇ふそ。六国に分かれ、断ち切られていた道だ。……これが統一というものだ」


 窓の外には、地平の果てまで続く大地が広がっていた。その全てが、今は母一人の天下であった。



 隴西の地に立った時、俺はさらに西へ目を向けた。


蒙恬もうてん。……あの山の、さらに西には、何があると思う」


西域せいいきと聞きます。砂漠さばくを越えた向こうに、見たこともない国々があると。肌の色も目の色も違う民が暮らし、珍しい宝や駿馬しゅんめが産まれる、と」


 西域。


 前世の記憶が、きぬの道の幻をささやいた。


「あの砂漠の向こうにも、人が暮らし、国があり、いとなみがある。……いつか中華の絹が西へ運ばれ、西の馬や宝が東へ流れ込む。そういう遥かな道が開かれるかもしれぬ。中華は、世界の全てではないのだ」


「……面白いことを申すな、扶蘇ふそ


 背後から声がした。母であった。いつの間にか馬車を降り、俺と蒙恬もうてんの話を聞いていたのだ。


「西の砂漠の、さらに向こう。見たこともない国々。絹と駿馬の道……」


 母は、しばらく黙って地平を見ていた。俺は、母がその広さに心を遊ばせているのだと思った。


 だが、違った。


扶蘇ふそ。……その遥かな地には」


 母が、ぽつりと言った。


不老不死ふろうふしの薬も、あるのではないか」


 俺は、母の横顔を見た。


 同じ地平を見ているはずであった。だが母の目に映っているのは、俺の見ている世界ではなかった。広がりでも、道でもない。ただ一つ、死なずに済む方途。それだけを、母はあの砂漠の彼方に探し始めていた。



「母上。それは……戯言たわごとにございます」


 俺は、思わず口を挟んだ。座して見ていることが、できなかった。


「人は、死にまする。天下を統べた者とて、例外ではありませぬ。不老不死などという薬は、この世のどこにも――」


「なぜ、言い切れる」


 母の声が、俺を遮った。


 振り返った母の顔を見て、俺は言葉を失った。


 いつもの怜悧れいりな目ではなかった。何かにすがる、追い詰められた者の目であった。天下を統べる女帝の顔から、その一瞬、余裕という余裕が抜け落ちていた。


「お前は、西の果てにも東の海にも、見ぬ世界があると申した。中華が全てではないと。……ならば、その見ぬ世界に死なぬ法があってはならぬと、なぜ言い切れる」


 理屈では、なかった。


 広い世界の話を、母はただ一点――死なずに済むという一点だけに、手繰り寄せていた。俺が開いてみせた地平の広さが、母の中では、逃げ道の広さに変わっていた。


「私は、天下を獲った」


 母の声が、低く震えた。


「人の成しうる最大の偉業を成した。この手で、六国を平らげた。……なのに、その私が、いずれ死ぬというのか。死んで、この天下を、誰かに渡さねばならぬというのか」


 誰かに。


 その一言に、俺の知らぬ重さが籠もっていた。母は、天下を渡すこと、そのものを恐れている。……いや。渡す相手を、恐れている。


 だが、それが誰なのかを、俺は知らなかった。


「死ななければ、よいのだ」


 母は、静かに言い切った。


 その静けさが、かえって恐ろしかった。喚くのでも、怒るのでもない。永遠に生きるという狂気を、母は、当たり前の道理のように口にしていた。


「永遠に生き、永遠にこの天下を統べればよい。渡さずに済む。……西の果てに、東の海に、その薬があるというなら。私は、手に入れる。何をいても」


 俺は、返す言葉を持たなかった。


 死を恐れる女の顔なら、まだ分かる。だが母のそれは、死そのものよりも、死んだ後に起きる何かを恐れる顔であった。その何かの正体が、俺には掴めない。


 ただ、胸の底のとげが、また一つ増えた。



 その夜、俺は一人、西の空を見上げていた。


 不老不死など、あるものか。人は死ぬ。母とて例外ではない。


 だが、それを言ったところで、母はもう聞くまい。


 天下を獲った者が、次に何を欲するか。……俺は、それを見誤っていた。


 西の果てへ。東の海へ。


 皇帝の、終わらぬ旅が始まろうとしていた。

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