第24話 天下
田儋が去り、斉に抗う者はいなくなった。
斉王・建は密約の通り、戦わずして城門を開いた。四十余年、戦火を避け続けた東の大国は、一兵も交えることなく秦に下った。
韓、趙、燕、魏、楚、斉。
戦国の世を彩った六つの国が、すべて地図から消えた。
◆
咸陽。
斉降伏の報せが届いた時、宮は割れんばかりの歓喜に沸いた。
天下統一。
春秋戦国、五百年にわたる乱世に、ついに終止符が打たれたのだ。数えきれぬ人が死に、数えきれぬ国が興り滅んだ、長い長い戦いの時代。その全てが今、一つの王の下に統べられた。
群臣が拝賀し、楽が奏でられ、宮は祝賀の渦に包まれた。
だが俺の心は、その歓喜の中で静かに沈んでいた。
◆
俺は一人、宮の高楼に上った。
眼下には統一を祝う咸陽の街が広がっている。人々は喜び、酒を酌み交わし、平和の訪れを寿いでいた。
だが俺の脳裏を過ぎるのは、祝いの光景ではなかった。
死んでいった者たちの顔だった。
――李牧。
軍神と呼ばれ、王翦すら恐れさせた女。司馬尚と生きることを願いながら、俺の策で失脚し、辱めを受けて死んだ。邯鄲の夜、俺が蒙恬とともに埋めた、あの変わり果てた亡骸。
――大梁の民。
水攻めで沈んだ都。舟で救った者もいた。だが救えず、水に呑まれて死んだ者も大勢いた。泥の中で俺に頭を下げた、あの人々の傍らに、数えきれぬ屍があった。
――荊軻。
俺が初めて斬った人。その命の温もりを、俺の手は今も覚えている。
――項燕。昌平君。
楚に殉じた、誇り高き将と公女。「秦には惜しい公子がいた」と言い残した、あの女。
――田儋。
王に見放され、それでも意地のために独り戦った男。
そして、名も知らぬ数えきれぬ兵たち。易水で血の川に沈んだ者。楚で敗れて散った者。秦の兵も、六国の兵も。数えきれぬ命がこの統一の礎となって、土に還っていった。
(この天下は……屍の上に築かれている)
俺は欄干を握りしめた。
平和が訪れた。戦乱は終わった。それは尊いことだ。だが、この平和の下には数えきれぬ死が埋もれている。俺が斬った命。俺の策が奪った命。守れなかった命。
軍神・李牧の骨の前で、俺は誓った。守りたいものを守れる男に。だが天下統一までの道のりで、俺はどれほど多くを守れなかっただろう。
喜べはしなかった。忘れてはならないと思った。この歓喜の裏に、数えきれぬ涙があったことを。
◆
「こんな所にいたのか、扶蘇」
声に振り返ると、政が立っていた。
天下を獲った女。だが、その顔に勝利の驕りはなかった。むしろ、どこか静かな翳りがあった。
「母上。祝いの席を離れて、よろしいのですか」
「少し、疲れた」
政は俺の隣に立ち、眼下の街を見やった。
「何を考えていた、扶蘇」
「……死んでいった者たちのことを」
俺は正直に答えた。
「この天下は、数えきれぬ死の上に築かれています。敵も味方も。俺が斬った者も、俺の策が奪った者も。……喜んで良いのか、分からなくなりました」
政はしばし黙っていた。
そして、静かに言った。
「お前は優しいな。……昔、私が『その優しさは王の器ではない』と言ったことを、覚えているか」
「邯鄲で、老女を……はい」
「あの言葉を、少し訂正せねばならぬかもしれぬ」
政は遠くを見つめた。
「死んだ者を忘れぬこと。奪った命の重さを背負うこと。それは弱さではないのかもしれぬ。……私には、できなかったことだ」
王の声であった。
「私は忘れることで強くなった。忘れねば、六国は斬れなんだ。……お前は、覚えていることで強くなるのかもしれぬ」
それから、政は少し口を噤んだ。
やがて、その声の調子が変わった。
「……乳が、出なんだな。お前が生まれた時」
唐突であった。俺は母を見上げた。
「蒙恬に、お前を預けた。あれは良い乳母だった。……私は戦と政に追われて、お前を抱いた日を、数えるほどしか覚えておらぬ」
「母上……」
「詫びているのではない。王とは、そういうものだ」
政は、ふ、と息を吐いた。
「ただ、今日くらいは。……母のような口も、きいてみたくなった」
それは、この氷の女帝の口から、初めて聞く類の言葉であった。
◆
その時。
政が、俺の顔を見た。
……見た、というより。覗き込む、という方が近かった。
俺の目元。鼻の形。唇。……まるで、そこに誰かの面影を探すように。母の視線が、俺の顔の上を、ゆっくりと辿っていく。
「……母上?」
背筋に、かすかな寒気が走った。
母の目が、俺を見ていない気がした。俺を通して、その向こうにいる誰かを、見ているような。……その眼差しには、慈しみとも恐れともつかぬ、名づけられぬ色が混じっていた。
「……お前は、誰に似たのだろうな」
政が、ぽつりと言った。
「……母上に、似ておりましょう」
俺は、そう答えた。
政は、答えなかった。ただ、ふいに視線を外し、眼下の街へ戻した。
「……そうだな。そうであればよい」
それきり、母はその話をしなかった。
◆
俺は、その横顔を見ていた。
――今の、違和感は。
母は確かに、俺の顔に、何かを探していた。そして、探し当てたくないものを、探し当ててしまったような顔をした。
それが何なのか、俺には分からなかった。
俺の中の記憶を、いくら探っても、答えは出ない。母が何を恐れ、何を確かめようとしたのか。……その正体は掴めぬまま、胸の底に小さな棘のように残った。
氷の女帝。老女を嗤い一つで処刑し、旧友に裏切られて燕を滅ぼした女。その母が今、天下の頂で、静かに翳りを帯びている。
天下を獲るとは、こういうことなのかもしれない。喜びよりも、背負うものの重さの方が大きい。
……そう、思うことにした。
◆
だが俺は、知っていた。
この統一は終わりではない。始まりなのだ。
母はやがて始皇帝を名乗る。中華に君臨する、最初の皇帝として。だが史実では、その治世は長く続かない。始皇帝の死の後、秦は瞬く間に崩れ去る。
趙高の陰謀。胡亥の暗愚。各地で燃え上がる反乱。そして史実では、俺自身が謀られて死ぬのだ。沙丘で偽りの詔により、自ら命を絶つよう命じられて。
俺の傍らには、李信の昏い悪意がある。楚戦以来、俺を憎み蒙恬を疎む、あの男。宮の奥には、趙高が温める竹簡がある。俺の出生の秘密へと繋がる、あの時限爆弾が。そして、母の命には限りがある。
平和の裏で、滅びの種は既に、静かに芽を吹き始めている。
だが俺には、守りたい者がいる。
蒙恬。凛。王賁。王離。……そして、この翳りを帯びた母すらも。あの母を、史実のような孤独な死なせ方はしたくない。
守りたい者を守り抜く。そのためには、生き延びねばならぬ。
史実では俺は死ぬ。だが、この世界は史実とは違う。男が貴重な、女だらけの秦。ならば俺にも、生き延びる道があるはずだ。
欄干を握る手に、力が籠もった。
◆
眼下では、統一を祝う人々の歓声が夜空に響いていた。
五百年の乱世が終わった。
だが俺の戦いは、むしろこれから始まる。
天下統一の夜。俺は一人、来たるべき嵐を見据えて、静かに拳を握りしめた。
守りたいものを、守り抜くために。
――第一章 了
第1章を読んで頂きありがとうございました。第2章では陰謀渦巻く秦末期へと突入していきます。よろしければブクマして頂くとありがたいです。




