第23話 斉、抗う
燕が滅び、残るは代の残党と、東の大国・斉のみ。
政は、天下統一の総仕上げを、命じた。
大将は、王賁。副将に、将軍へ復帰した李信。そして――蒙恬。楚戦で苦い思いをした三将が、再び同じ軍に集った。
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代は、長くは保たなかった。
趙の公子・嘉が北の地で称えた代王の旗も、秦の大軍の前には、風前の灯であった。王賁の軍は代を攻め落とし、公子・嘉を捕えた。
趙の、最後の残り火が消えた。
報せを聞いた俺は、しばし、目を閉じた。
趙。……軍神・李牧を生んだ国。あの邯鄲の夜、俺が蒙恬とともに骨を埋めた、誇り高き軍神の祖国。郭開の讒言に倒れ、王に裏切られ、それでも最後まで戦おうとした、あの女の国が――今、完全に、地図から消えた。
(李牧……。あなたの趙は、滅びました。……あなたを死に追いやったのは、俺の策だ。その趙の最期を、俺は、見届けねばならぬ)
軍神を弔った夜の誓いが、胸に蘇った。守りたいものを、守れる男に。……その誓いを胸に、俺は数々の国の滅びを、見つめてきた。
残るは――斉、ただ一国。
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だが、斉との戦は、本来、起きぬはずであった。
斉王・建は、暗愚であった。長年、宰相・后勝が国政を握っていたが――その后勝は秦から莫大な賄賂を受け取り、とうに秦に通じていた。
斉は、表向きは独立を保ちながら、裏では秦王に服従していたのだ。六国が次々と滅びゆく中、斉だけが戦わず、傍観してこられたのは、この密かな服従ゆえであった。
秦軍が国境に迫れば、斉王・建は、戦わずして降伏する。それが、后勝を通じて交わされた、密約であった。……戦争など、起きるはずが、なかったのだ。
だが――一人の武将が、それを拒んだ。
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田儋。
斉の王家に連なる名門・田氏の武将である。この世で貴重な、数少ない男の一人でもあった。
田儋は、王と后勝の密かな服従を、知っていた。そして――恥じていた。
「戦わずして降るだと? 裏で秦に尾を振り、膝を屈して、生き延びるだと?」
田儋は、王の御前で、声を荒げた。
「韓は戦って散った。趙は李牧を失ってなお抗った。燕は荊軻を放ち、楚は項燕が最後まで戦った! ……五国はみな、意地を見せて滅んだのだ! なのに、斉だけが、裏で秦に媚び、戦いもせず、尻尾を振って降る……! そのような恥、田儋には、耐えられぬ!」
「田儋、控えよ! 王の御前であるぞ!」
后勝が叱責するが、田儋は退かなかった。
「后勝。お前のような売国の奸が、斉をここまで腐らせたのだ! ……王がお戦いにならぬなら、この田儋が、独りでも戦う! 斉の意地を、天下に見せてくれる!」
田儋は、王の許しも待たず、自ら兵を募り――秦軍への孤独な抵抗を始めた。
貴重な男でありながら、安んじて守られる道を捨て、自ら死地へと身を投じる。この世では、あまりに異質な生き様であった。
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田儋の戦い方は、巧妙であった。
寡兵である。正面から大軍とぶつかっても、勝ち目はない。だから田儋は、正面決戦を避けた。地の利を活かした奇襲。補給路の寸断。夜襲と、神出鬼没の遊撃戦。
大軍の秦軍は、この掴みどころのない戦法に、苦しめられた。
「くそ……! 田儋め、正面から来ぬか!」
李信が、苛立った。かつて項燕の誘いに乗って大敗した李信は、此度は慎重を心がけていた。だが、田儋のゲリラ戦は、その慎重さの裏をかいてくる。
戦線は、膠着した。
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その膠着の中で――不可解なことが、起き始めた。
蒙恬の隊ばかりが、田儋の奇襲を受けるのだ。
補給の薄い最前線。退路の確保しにくい谷間。田儋の遊撃が狙いやすい、危うい配置。そういう場所に決まって、蒙恬の隊が置かれる。
その配置を決めるのは――副将・李信であった。
「蒙恬隊を、東の谷へ。田儋の退路を断つには、そこを押さえるのが肝要」
李信の指示は、一見、理に適っていた。田儋のゲリラ戦に対応するための、もっともらしい配置。誰の目にも、作戦の一環にしか見えない。
だが――蒙恬は、気づいていた。
(李信……。お前、わざと、私を死地に置いているな)
楚戦。蒙恬は、李信の深追いを諫めた。だが李信は振り切り、大敗した。蒙恬は、李信の失態を最も近くで見た、生き証人。しかも、扶蘇様の寵臣。……李信にとって、蒙恬は二重の意味で、目障りな存在だった。
表向きは、田儋のゲリラ戦に作戦が翻弄されているだけ。証拠は、何もない。だが蒙恬には、李信の昏い悪意が、はっきりと見えていた。
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東の谷で、蒙恬隊は、田儋の大奇襲を受けた。
退路は狭く、援軍は遠い。李信の配置通りなら、蒙恬隊は、ここで殲滅されるはずだった。
だが――蒙恬は、名将であった。
李信の悪意を見抜いていた蒙恬は、あらかじめ谷の退き口を調べ、伏せ勢を置き、奇襲に備えていた。田儋の遊撃が襲いかかると、蒙恬隊は慌てず反撃し、巧みに敵をいなして谷を脱した。
「……見事に、切り抜けたか」
報せを聞いた李信の顔に、一瞬、舌打ちのような苦みが走った。だがすぐに、それを将の表情で覆い隠した。
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陣に戻った蒙恬は、李信の前に立った。
「李信将軍。……東の谷の配置、見事な采配にございました」
蒙恬の声は、穏やかだった。だが、その目は、笑っていなかった。
「おかげで、良い戦ができました。……次も、良き配置を、期待しております」
言葉は丁寧。だが、その裏に込められた意味は、明白だった。――お前の魂胆は、見抜いている。李信の頬が、わずかに強ばった。
「……買いかぶりだ、蒙恬殿。私は、田儋を討つ配置を、考えたまで」
「左様で。……では、私の考えすぎ、でございましょうな」
二人の間に、火花が散った。
その険悪な空気に、大将・王賁が割って入った。
「二人とも、そこまでだ」
王賁は、李信と蒙恬の間に立った。
「今は、斉を討つ時。味方同士で、いがみ合っている場合ではない。……李信。配置は、以後、私が決める」
王賁の言葉は、李信の魂胆を見透かした上での、釘刺しであった。だが、李信の態度は、尊大だった。
「……大将の仰せとあらば。だが、王賁殿。私は、将軍に復した身。副将として作戦を立てるのは、当然の務め。……采配に私情を挟むなど、心外にございますな」
しれっと、李信は言ってのけた。証拠のない悪意は、こうして将の建前の裏に、巧妙に隠される。王賁は苦い顔をしたが、それ以上は追及できなかった。
李信と蒙恬の間に生まれた溝は、埋まらぬまま――ただ、静かに、深くなっていった。
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李信と蒙恬の確執を抱えながらも、秦軍の大勢は、揺るがなかった。
田儋のゲリラ戦は巧妙だったが、所詮は寡兵。しかも――田儋は、孤独であった。王は降る腹。后勝は秦に通じている。斉の朝廷は、誰一人、田儋を助けなかった。田儋は、自国の王にすら見放されながら、独りで秦の大軍と戦っていたのだ。
王賁は着実に包囲を狭め、田儋の遊撃の拠点を、一つ一つ潰していった。
やがて、田儋は追い詰められた。
「……無念」
田儋は、血に塗れた矛を握りしめ、呻いた。
「斉の意地……見せられなんだか。王が降り、臣が媚び、民すら戦わぬ国の……意地など、どこにもなかったのか……」
だが、田儋は、そこで膝を折りはしなかった。
「……いや。田儋一人が戦った。それが、斉の、最後の意地よ。……覚えておくがいい、秦。斉にも、膝を屈せぬ男が、一人はいたのだと!」
田儋は、わずかな手勢とともに包囲を突破し、東へと落ち延びた。斉の地を捨て、再起を期して。……膝を屈するくらいなら、逃げてでも抗い続ける。それが、この孤高の武将の、選んだ道だった。
抵抗の要であった田儋が去り、斉の抗戦は、終わった。
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田儋が去れば、もはや斉に、戦う者はいなかった。
斉王・建は、密約の通り、戦わずして城門を開こうとしていた。
五百年の乱世の終わりは――もう、目前に迫っていた。
だが、田儋のあの最後の叫びが、俺の耳に遠く残っていた。
膝を屈せぬ男が、一人はいた――。
王に見放され、誰にも助けられず、それでも意地のために戦った男。敵ながら、その生き様は、俺の胸に奇妙な重さを残した。
――次回、天下統一。




