第22話 雪辱
楚が滅び、残る大国は斉ただ一国となった。だが、天下統一の前に、片づけねばならぬ残敵があった。
北へ逃れた、二つの亡国の残り火である。
一つは、燕。薊を落とされた燕王・喜と公子・燕丹は、遥か北の遼東へと逃れ、なお命脈を保っていた。
今一つは、代。趙の公子・嘉が、北の地で代王を称し、細々と抵抗を続けていた。
政は、この残敵の討伐を、王賁に命じた。
そして――その軍の中に、一人の男がいた。
李信である。
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かつて、二十万を率いて楚に大敗し、将軍位を剥奪され、千人将へと転落した李信。政の寵愛も失い、栄華の座から地の底へと突き落とされた、あの男であった。
咸陽の宮で、俺は、燕・代討伐の軍に李信の名があることを知った。
「李信が、従軍を願い出たのか」
「は。千人将として、一隊を率いての参陣にございます」
報告を聞いて、俺は思った。
(あの男……雪辱を、期しているな)
叩き上げの李信。名もなき兵から、武功だけを頼りに、将軍まで這い上がった男。一度は驕りで全てを失ったが――その本質は、地べたから這い上がる、不屈の叩き上げにある。再び地の底に落ちた今、あの男が何をするかは、明らかだった。
◆
遼東の戦いで、李信は鬼神のごとく働いた。
千人将として与えられた、わずか千の兵。だが、李信はその寡兵を率い、誰よりも先に敵陣へ斬り込んだ。
いや――ただ斬り込むだけではなかった。
楚での大敗を、李信は忘れていなかった。深追いして罠にはまり、全てを失った、あの苦い記憶を。ゆえに今、李信は猪突を捨てていた。敵の布陣を冷静に見極め、遼東の防衛線の最も脆い継ぎ目――兵站の細い、補給の途絶えかけた一点を、正確に突いた。
「あの千人将、まるで別人だ……!」
「猪のように突っ込むだけの男ではないぞ、今の李信は……!」
驕りで身を滅ぼした男が、地に落ちて、ようやく学んだのだ。勇だけでは勝てぬこと。冷静さこそが、真の武功を生むことを。楚の敗北は、李信を、一回り大きな将に変えていた。
燕の最後の抵抗は、脆くも崩れた。
そして――遼東の王宮に、真っ先に斬り込んだ李信は。
燕王・喜を、捕えた。さらに、その傍らにいた公子・燕丹をも、生け捕りにしたのだ。
「……燕王、ならびに公子・燕丹、この李信が捕えましてございます」
王賁の前に、二人の虜囚を引き据えた李信の顔に、落ちぶれた男の卑屈さは微塵もなかった。そこにあったのは、武功によって己を証明した者の、堂々たる誇りだった。
◆
燕王・喜と、公子・燕丹は、咸陽へと護送された。
そして――政の御前。群臣の居並ぶ中で、李信は、二人の虜囚を引き連れ、復命した。
俺も、その場に列していた。
「王に申し上げます。燕王・喜、公子・燕丹を捕え、遼東を平定いたしました。……燕は、完全に滅びましてございます」
李信の声は、朗々《ろうろう》としていた。
千人将に落ちた男が、亡国の王と公子を引き据えて、女帝の御前に凱旋する。群臣の誰もが、その見事な雪辱に、息を呑んだ。
政は、しばし李信を見つめ、そして――静かに言った。
「李信。……見事であった」
「ははっ」
「楚での敗北、お前は、よく償った。地に落ちてなお、武功を以て己を証し立てた、その不屈……天晴れである」
政は、宣した。
「李信。将軍位を、復す。……再び、秦の将として、天下統一の総仕上げに、励むがよい」
「ありがたき、幸せ!」
李信は、深々と頭を垂れた。
驕りで全てを失い、地の底から這い上がった男の、完全なる復活だった。俺は、その姿に、素直に感じ入った。あの驕り高ぶった男を、好ましく思っていたわけではない。だが――一度地に落ちて、再び自らの力で立ち上がる姿には、敬意を抱かずにはいられなかった。
◆
李信が退がると、御前には、二人の虜囚が残された。
燕王・喜と、公子・燕丹。
政の視線が、燕丹へと注がれた。
広間の空気が、張り詰めた。誰もが知っている。この二人が、かつて邯鄲で共に人質として過ごした、旧い友であることを。そして――燕丹が荊軻を放ち、政の命を狙った張本人であることを。
「……久しいな、丹」
政の声は、意外にも、静かだった。
「政……いや、秦王よ」
燕丹は、縄を打たれた身でありながら、顔を上げた。
逃亡の日々が、この女を、憔悴させていた。頬はこけ、髪には白いものが混じっている。だが――政と、同じ年頃のはずだった。邯鄲で共に育った、幼馴染。それが、かたや天下を握る女帝として若々しく威を放ち、かたや亡国の虜囚として老け込んでいる。境遇が、二人を、これほどまでに引き離していた。
「邯鄲で、共に石を投げられた仲だ。……私は、お前を、友だと思っていた」
政は、静かに言った。
「なのに、お前は、荊軻を放ち、私を殺そうとした。……なぜだ、丹」
「……覚えているか、政」
燕丹は、問いには答えず、遠い目をした。
「あの冬。趙の連中に井戸へ突き落とされて、二人で震えていた夜のことを。……凍えて、泣いていた私に、お前が言ったな。『泣くな、丹。いつか私が秦へ帰って、王になったら、お前を迎えに行く』と」
政の、氷のような表情が――わずかに、揺れた。
「あの言葉に、私は、どれほど救われたか。……人質の子と嗤われた私を、友と呼んでくれたのは、お前だけだった。だから」
燕丹の声が、震えた。
「だから、恐ろしかったのだ。……お前が、王になって。あの夜の少女ではなく、天下を呑み込む女帝になって。……もう、私を迎えに来るお前は、いない。それどころか、燕は、お前に滅ぼされる。……あの約束をした友に、殺される。それが、耐えられなかった。だから――先に、刃を向けた。愚かにもな」
政は、目を閉じた。
旧友の裏切りへの怒りで、燕を滅ぼした政。だが今、憔悴した燕丹を前にして、その胸に去来するのは怒りだけではなかった。凍えた冬の夜。震える友に告げた、幼い約束。……その記憶が、冷たい女帝の奥に、確かにまだ残っていた。
「……丹」
政は、目を開いた。その声には、一片の情が、滲んでいた。
「お前を、殺しはせぬ」
群臣が、ざわめいた。暗殺を企てた敵国の公子を、生かす――異例の裁定であった。
「幽閉とする。命は、取らぬ。……迎えには、行けなんだ。約束は、果たせなんだ。ならばせめて、お前の命だけは、私が預かろう。……それが、あの夜の約束への、私の返答だ」
燕丹の目から、涙が零れた。
「……政。すまなかった。そして――ありがとう」
かつての友は、そう言い残し、静かに引き立てられていった。
◆
その夜。俺は、政のもとを訪ねた。
「母上。……燕丹を、生かされたのですね」
「甘い、と思うか」
政は、窓の外の月を見ていた。
「いいえ」
俺は、首を振った。
「意外でした。……母上は、旧友の裏切りには、最も冷たいお方だと思っておりました。邯鄲で、老女を殺されたように」
「……あの老女は、私を嗤った」
政は、静かに言った。
「だが、丹は、私を蔑まなかった。凍える夜に、私の手を握ってくれた、ただ一人の友だ。……憎しみと、恩。その両方を、私は、丹に抱いている。ゆえに――殺せなかった」
冷たい女帝の奥に、人としての情が、確かにある。俺は、その一片を見た気がした。老女を嗤い一つで処刑した冷酷さと、旧友を生かす温かさ。その両方が、母という人の中に、同居している。
(母上は……やはり、底の知れぬお方だ)
◆
燕は、滅んだ。
残るは、代の趙の残党と――東の大国・斉のみ。
李信は将軍に復帰し、再び秦の剣として、天下統一の総仕上げへと向かう。
天下統一の時は、いよいよ、目前に迫っていた。




