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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第1章 戦国の終焉編

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第22話 雪辱

 楚が滅び、残る大国はせいただ一国となった。だが、天下統一の前に、片づけねばならぬ残敵ざんてきがあった。


 北へ逃れた、二つの亡国の残り火である。


 一つは、燕。けいを落とされた燕王・喜と公子・燕丹えんたんは、遥か北の遼東りょうとうへと逃れ、なお命脈めいみゃくを保っていた。


 今一つは、だい。趙の公子・嘉が、北の地で代王を称し、細々と抵抗を続けていた。


 せいは、この残敵の討伐を、王賁おうほんに命じた。


 そして――その軍の中に、一人の男がいた。


 李信りしんである。



 かつて、二十万を率いて楚に大敗し、将軍位を剥奪はくだつされ、千人将せんにんしょうへと転落した李信りしんせい寵愛ちょうあいも失い、栄華えいがの座から地の底へと突き落とされた、あの男であった。


 咸陽かんようの宮で、俺は、燕・代討伐の軍に李信りしんの名があることを知った。


李信りしんが、従軍を願い出たのか」


「は。千人将せんにんしょうとして、一隊を率いての参陣さんじんにございます」


 報告を聞いて、俺は思った。


(あの男……雪辱せつじょくを、期しているな)


 叩き上げの李信りしん。名もなき兵から、武功だけを頼りに、将軍まで這い上がった男。一度はおごりで全てを失ったが――その本質は、地べたから這い上がる、不屈ふくつの叩き上げにある。再び地の底に落ちた今、あの男が何をするかは、明らかだった。



 遼東りょうとうの戦いで、李信りしん鬼神きしんのごとく働いた。


 千人将として与えられた、わずか千の兵。だが、李信りしんはその寡兵かへいを率い、誰よりも先に敵陣へ斬り込んだ。


 いや――ただ斬り込むだけではなかった。


 楚での大敗を、李信りしんは忘れていなかった。深追いして罠にはまり、全てを失った、あの苦い記憶を。ゆえに今、李信りしん猪突ちょとつを捨てていた。敵の布陣を冷静に見極め、遼東の防衛線の最ももろい継ぎ目――兵站へいたんの細い、補給の途絶えかけた一点を、正確に突いた。


「あの千人将、まるで別人だ……!」


「猪のように突っ込むだけの男ではないぞ、今の李信りしんは……!」


 おごりで身を滅ぼした男が、地に落ちて、ようやく学んだのだ。勇だけでは勝てぬこと。冷静さこそが、真の武功を生むことを。楚の敗北は、李信りしんを、一回り大きな将に変えていた。


 燕の最後の抵抗は、脆くも崩れた。


 そして――遼東の王宮に、真っ先に斬り込んだ李信りしんは。


 燕王・喜を、捕えた。さらに、その傍らにいた公子・燕丹えんたんをも、生け捕りにしたのだ。


「……燕王、ならびに公子・燕丹えんたん、この李信りしんが捕えましてございます」


 王賁おうほんの前に、二人の虜囚りょしゅうを引き据えた李信りしんの顔に、落ちぶれた男の卑屈ひくつさは微塵みじんもなかった。そこにあったのは、武功によって己を証明した者の、堂々たる誇りだった。



 燕王・喜と、公子・燕丹えんたんは、咸陽かんようへと護送ごそうされた。


 そして――せい御前ごぜん群臣ぐんしんの居並ぶ中で、李信りしんは、二人の虜囚りょしゅうを引き連れ、復命ふくめいした。


 俺も、その場にれっしていた。


「王に申し上げます。燕王・喜、公子・燕丹えんたんを捕え、遼東を平定いたしました。……燕は、完全に滅びましてございます」


 李信りしんの声は、朗々《ろうろう》としていた。


 千人将に落ちた男が、亡国の王と公子を引き据えて、女帝の御前に凱旋がいせんする。群臣の誰もが、その見事な雪辱に、息を呑んだ。


 せいは、しばし李信りしんを見つめ、そして――静かに言った。


李信りしん。……見事であった」


「ははっ」


「楚での敗北、お前は、よくつぐなった。地に落ちてなお、武功を以て己を証し立てた、その不屈……天晴あっぱれである」


 せいは、せんした。


李信りしん。将軍位を、復す。……再び、秦の将として、天下統一の総仕上げに、励むがよい」


「ありがたき、幸せ!」


 李信りしんは、深々と頭をれた。


 驕りで全てを失い、地の底から這い上がった男の、完全なる復活だった。俺は、その姿に、素直に感じ入った。あの驕り高ぶった男を、好ましく思っていたわけではない。だが――一度地に落ちて、再び自らの力で立ち上がる姿には、敬意を抱かずにはいられなかった。



 李信りしんが退がると、御前には、二人の虜囚が残された。


 燕王・喜と、公子・燕丹えんたん


 せいの視線が、燕丹えんたんへと注がれた。


 広間の空気が、張り詰めた。誰もが知っている。この二人が、かつて邯鄲かんたんで共に人質として過ごした、旧い友であることを。そして――燕丹えんたん荊軻けいかを放ち、せいの命を狙った張本人であることを。


「……久しいな、丹」


 せいの声は、意外にも、静かだった。


せい……いや、秦王よ」


 燕丹えんたんは、縄を打たれた身でありながら、顔を上げた。


 逃亡の日々が、この女を、憔悴しょうすいさせていた。頬はこけ、髪には白いものが混じっている。だが――せいと、同じ年頃のはずだった。邯鄲かんたんで共に育った、幼馴染おさななじみ。それが、かたや天下を握る女帝として若々しくを放ち、かたや亡国の虜囚として老け込んでいる。境遇が、二人を、これほどまでに引き離していた。


「邯鄲で、共に石を投げられた仲だ。……私は、お前を、友だと思っていた」


 せいは、静かに言った。


「なのに、お前は、荊軻けいかを放ち、私を殺そうとした。……なぜだ、丹」


「……覚えているか、せい


 燕丹えんたんは、問いには答えず、遠い目をした。


「あの冬。趙の連中に井戸へ突き落とされて、二人で震えていた夜のことを。……凍えて、泣いていた私に、お前が言ったな。『泣くな、丹。いつか私が秦へ帰って、王になったら、お前を迎えに行く』と」


 せいの、氷のような表情が――わずかに、揺れた。


「あの言葉に、私は、どれほど救われたか。……人質の子とわらわれた私を、友と呼んでくれたのは、お前だけだった。だから」


 燕丹えんたんの声が、震えた。


「だから、恐ろしかったのだ。……お前が、王になって。あの夜の少女ではなく、天下を呑み込む女帝になって。……もう、私を迎えに来るお前は、いない。それどころか、燕は、お前に滅ぼされる。……あの約束をした友に、殺される。それが、耐えられなかった。だから――先に、やいばを向けた。おろかにもな」


 せいは、目を閉じた。


 旧友の裏切りへの怒りで、燕を滅ぼしたせい。だが今、憔悴しょうすいした燕丹えんたんを前にして、その胸に去来きょらいするのは怒りだけではなかった。凍えた冬の夜。震える友に告げた、幼い約束。……その記憶が、冷たい女帝の奥に、確かにまだ残っていた。


「……丹」


 せいは、目を開いた。その声には、一片の情が、にじんでいた。


「お前を、殺しはせぬ」


 群臣が、ざわめいた。暗殺を企てた敵国の公子を、生かす――異例の裁定さいていであった。


幽閉ゆうへいとする。命は、取らぬ。……迎えには、行けなんだ。約束は、果たせなんだ。ならばせめて、お前の命だけは、私が預かろう。……それが、あの夜の約束への、私の返答だ」


 燕丹えんたんの目から、涙がこぼれた。


「……せい。すまなかった。そして――ありがとう」


 かつての友は、そう言い残し、静かに引き立てられていった。



 その夜。俺は、せいのもとを訪ねた。


「母上。……燕丹えんたんを、生かされたのですね」


「甘い、と思うか」


 せいは、窓の外の月を見ていた。


「いいえ」


 俺は、首を振った。


「意外でした。……母上は、旧友の裏切りには、最も冷たいお方だと思っておりました。邯鄲で、老女を殺されたように」


「……あの老女は、私を嗤った」


 せいは、静かに言った。


「だが、丹は、私をさげすまなかった。凍える夜に、私の手を握ってくれた、ただ一人の友だ。……憎しみと、恩。その両方を、私は、丹に抱いている。ゆえに――殺せなかった」


 冷たい女帝の奥に、人としての情が、確かにある。俺は、その一片を見た気がした。老女を嗤い一つで処刑した冷酷さと、旧友を生かす温かさ。その両方が、母という人の中に、同居どうきょしている。


(母上は……やはり、底の知れぬお方だ)



 燕は、滅んだ。


 残るは、代の趙の残党と――東の大国・斉のみ。


 李信りしんは将軍に復帰し、再び秦の剣として、天下統一の総仕上げへと向かう。


 天下統一の時は、いよいよ、目前に迫っていた。

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