第20話 滅びの王都
李牧が邯鄲へ戻された時、王都にはまだ地震の傷跡が生々しく残っていた。
崩れた家屋の瓦礫が道端に積み上がり、壁を失った家では、家族を探す者たちが土埃にまみれて石や木材をどけ続けている。ところどころには焼け焦げた跡もあり、崩れた倉から運び出された穀物を巡って兵と民が言い争う姿まで見えた。
縄をかけられたまま馬車から降ろされた李牧は、その光景を黙って見つめた。
自分が守ろうとしてきた国だった。
北では匈奴を防ぎ、秦が攻めてくれば兵を率いて戦った。王のためという気持ちはとうに薄れていたとしても、この街に暮らす者たちや、趙という土地そのものまで憎んでいたわけではない。
だからこそ、今の光景は苦しかった。
地震で傷ついた王都へ、秦軍が迫っている。
そして、その秦軍を止めるために自分が築いてきた前線から、自分自身が引き剥がされた。
「進め」
護送の兵に促され、李牧は王宮へ向かった。
◆
趙王は、玉座の上から李牧を見下ろしていた。
捕らえられた将に対する目ではない。
長い間、自分の命令へ逆らい続けた相手を、ようやく自分の前へ跪かせた男の目だった。
「久しいな、李牧」
「……はい」
李牧は両手を縛られたまま頭を下げた。
「余は何度も命じた。戦えと」
「承知しております」
「それでも戦わなかった」
「必要がなかったからです」
その答えに、趙王の口元が歪んだ。
「まだ言うか」
「事実です。王翦の陣へ攻めれば、こちらが損害を受けます。時間をかければ秦軍の兵糧が先に尽きる。そう判断しました」
「余の命令より、自分の判断が上だということか」
「兵を預かる将として、勝つための判断をしただけです」
李牧は声を荒らげなかった。
それがかえって趙王を苛立たせた。
怯えて謝罪するでもない。
命乞いをするでもない。
捕らえられてなお、自分が間違っていないという顔をしている。
「その態度だ」
趙王は玉座から立ち上がった。
「いつもそうだった。余が何を命じても、お前は自分の方が分かっているという顔をする。北でも、秦との戦でも、まるで趙を支えているのは自分だとでも言いたげにな」
「そのようなつもりはありません」
「黙れ」
声が響いた。
王宮の者たちは誰も顔を上げなかった。
李牧だけが、静かに趙王を見ていた。
◆
その日から、李牧は罪人として王宮の一室へ閉じ込められた。
牢ではなかった。
だが自由はない。
出入口には兵が立ち、窓にも外から格子が付けられた。食事も最低限しか与えられず、外の戦況を知る手段もほとんどない。
趙王は何度も彼女のもとを訪れた。
問いただすためではない。
自分の命令に逆らった女へ、誰が上なのかを思い知らせるためだった。
李牧に拒む権利はなかった。
王の権力を使って身体も尊厳も奪われ、それでも彼女は泣いて許しを請うことだけはしなかった。それがまた趙王の癇に障ったのか、扱いは日を追うごとに粗雑になっていった。
ただ、李牧自身にとって、苦しいのはそれだけではなかった。
戦場から何の知らせも届かない。
司馬尚がどうなったのか分からない。
新しい将がどのような戦い方をしているのかも分からない。
何も知らされないまま時間だけが過ぎていく。
夜になると、李牧は狭い部屋の壁へ背を預け、かつて隣にいた男のことを思った。
口数が少なく、必要なことしか言わない。
無愛想に見えて、抱き締めれば驚くほど温かかった。
生きていてほしい。
それだけを願った。
◆
だが、趙軍はすでに崩れていた。
後任の将は王翦の陣へ攻めかかって討たれ、敗走する兵たちを逃がすために残った司馬尚も戦死していた。
趙軍の主力は、もはや秦軍の進撃を止められる状態ではなかった。
王翦は崩れた敵軍を追いながら、急ぎすぎることなく邯鄲へ近づいていった。
地震で道や城壁が傷つき、趙国内の連絡も乱れている。ここまで来れば、無理に奇策を弄する必要はなかった。
「前へ進めます」
報告を聞いた楊端和が言った。
腹の古傷を抱えながらも、すでに馬上へ戻っている。
「趙軍はもうまとまって動けない」
「ええ」
王翦は地図を見た。
「ですが、逃げる兵まで追い回す必要はありません。目的は邯鄲です」
「分かっている」
「羌瘣は?」
「先行いたします」
羌瘣はそれだけ答えた。
秦軍は速度を上げた。
◆
その報告が邯鄲へ届いた頃、趙王の疑心は恐怖へ変わっていた。
「何をしている!」
怒声が王宮へ響く。
「新しい将を送ったのだぞ! なぜ秦軍がこちらへ来ている!」
誰も答えられない。
答えたところで、王の怒りを買うだけだと分かっていた。
そこへ郭開が進み出た。
「王よ。今は城内をまとめることが先でございます」
「まとめる? 地震で城は壊れ、軍は敗れ、秦まで来ているのだぞ!」
「だからこそです」
郭開は落ち着いていた。
すでに秦側との話はついている。
趙が滅んだ後の地位。
財。
身の安全。
必要なものは、すべて約束されている。
残っているのは、自分が秦へ渡す最後の手土産だけだった。
「李牧を処刑すべきです」
趙王の目が動いた。
「なぜ今だ」
「秦軍が迫っております。あの女を生かしておけば、兵が再び彼女を担ぐかもしれません」
「……なるほど」
「王命に何度も逆らった者です。ここで処断しておかなければ、後々の禍根となりましょう」
趙王は少し考えたあと、頷いた。
「殺せ」
それだけだった。
◆
李牧が部屋から引き出されたのは、その日の夕方だった。
両手を再び縛られ、兵に囲まれて王宮の裏手へ連れていかれる。
道の先には、地震で崩れた建物の残骸が山のように積み上がっていた。
「処刑ですか」
李牧が尋ねる。
兵は答えなかった。
答えなくても分かった。
彼女は少しだけ空を見た。
雲の間から、夕方の光が差している。
「……そうですか」
それ以上、何も言わなかった。
司馬尚が今も生きているのか。
もう一度会えるのか。
その答えを知らないまま、李牧は膝をつかされた。
最後まで命乞いはしなかった。
振り下ろされた刃が、その命を終わらせた。
遺体は丁重に葬られることもなく、地震で崩れた家屋の残骸の上へ捨てられた。
かつて趙を守り続けた将の最期としては、あまりにも粗末だった。
李牧は知らない。
自分が生きていてほしいと願った男も、すでにこの世にはいなかった。
◆
秦軍が邯鄲を望むところまで迫ると、王都は完全な混乱に陥った。
城壁には地震の亀裂が残り、兵の数も足りない。
民の間では、李牧が処刑されたという噂まで広がっていた。
守れるのか。
誰が守るのか。
その問いに答えられる者はいなかった。
趙王は王宮の奥へ籠もり、逃げ道を探させていた。
「代へ行く」
王は言った。
「まだ北に兵は残っている。そこへ逃げれば立て直せる」
郭開は頭を下げた。
「承知いたしました。準備いたします」
だが、その夜。
趙王のもとへ逃亡用の馬車が来ることはなかった。
代わりに現れたのは、郭開が手配した兵だった。
「何の真似だ」
趙王が立ち上がる。
兵たちは答えず、出口を塞ぐ。
その後ろから郭開が姿を現した。
「王よ。申し訳ございません」
「……郭開?」
「秦軍は、もう間もなく城へ到着します」
「だから逃げると言っている!」
「それでは困るのです」
趙王の顔から血の気が引いた。
「貴様……」
「秦は、城を穏やかに明け渡すことを望んでおります。そのためには、王が残って抵抗を命じるより、いなくなっていただいた方が都合がよい」
「余を売ったのか!」
郭開は答えなかった。
兵が前へ出る。
趙王は叫び、抵抗したが、戦う術など持っていなかった。
ほどなくして、王宮は静かになった。
◆
翌朝、邯鄲の門が開いた。
秦軍を迎えるためだった。
王翦は兵を整えたまま、慎重に城へ入った。抵抗する兵が残っていないことを確認しながら進み、やがて王宮へ到達する。
趙王はすでに死んでいた。
しかし、王族のすべてが捕らえられたわけではない。
女の公子嘉は、城が開くより前に少数の兵と従者を連れて北へ脱出していた。
向かった先は代。
そこに残る趙の勢力を集め、亡命政権を築くつもりだった。
邯鄲は落ちた。
それでも趙という名が、完全に消えたわけではない。
◆
郭開は、自分の役目を果たしたと思っていた。
王を排除した。
城門を開かせた。
秦軍をほとんど損害なく邯鄲へ入れた。
約束通りなら、これから自分には新しい地位が与えられるはずだった。
「王翦将軍にお会いしたい」
秦兵にそう申し出ると、ほどなくして彼女は王宮の一室へ通された。
そこには王翦がいた。
「あなたが郭開ですか」
「はい」
郭開は深く頭を下げた。
「秦のため、できる限りのことをいたしました」
「聞いています」
「では、私の処遇についてですが」
王翦は静かに彼女を見た。
「処遇は決まっています」
郭開の表情が明るくなった。
「どのような官位をいただけるのでしょう」
「官位?」
王翦はわずかに眉を上げた。
「あなたに?」
郭開の笑みが止まった。
「お待ちください。私は秦から、趙が滅びた後も地位を保証すると」
「約束しましたね」
「では」
「あなたが働くようにするために」
郭開は言葉を失った。
王翦の声は最後まで穏やかだった。
「自分の王を金で売り、その国が滅びれば敵国へ仕える。そんな者を、なぜ秦が信用すると考えたのですか」
「ですが、私は秦の勝利に」
「貢献しました」
王翦は頷いた。
「ですから、苦しませる必要はありません」
兵が郭開の両腕を取った。
「な、何を!」
「斬首です」
郭開の顔が青ざめた。
「話が違う! 私は約束された! 私は秦のために王を殺したのです!」
「知っています」
「なら!」
「だから信用できないのです」
王翦は、それ以上彼女を見なかった。
郭開の叫び声が遠ざかっていく。
ほどなくして、その声も聞こえなくなった。
◆
こうして邯鄲は秦の手に落ちた。
李牧は自国の王に殺され、司馬尚は敗兵を逃がすために戦場で死んだ。趙王もまた、自ら重用した郭開に裏切られ、その郭開も秦に利用された末に処刑された。
地震で傷ついた王都には、秦の旗が掲げられた。
だが北へ逃れた公子嘉は、まだ趙の名を捨てていない。
国都を失い、王を失ってなお、趙の残火は代の地へ移った。
六国の一つだった趙は、その姿を大きく失った。
けれど、その火が完全に消えるには、まだ少しだけ時間が必要だった。




