第21話 覇王の芽
王翦の静かな進撃は、止まらなかった。
占領地は広がり、楚の領土は日に日に削られていく。飢えと厭戦に蝕まれた楚軍から、将兵が次々と、秦へ寝返り始めた。
沈みゆく船から、鼠が逃げ出すように。
「また、一隊が離反しました! 東の守りが、手薄に!」
「くそ……! 裏切り者どもめ!」
項燕が懸命に軍をまとめても、離散は止まらない。勝てぬ戦に、命を懸ける者はいない。楚の大地は、静かに、確実に、秦の色に塗り替えられていった。
◆
折しも――楚王が、病で世を去った。
滅亡の淵で、楚は王をも失った。残されたのは、滅びゆく国と、指導者を失った将兵のみ。
項燕は、昌平君を見た。
「昌平君。……お前には、楚の王家の血が流れている。楚の公女よ。……最後の王に、なってくれ」
「傀儡の女王に、か」
昌平君は、静かに笑った。自嘲ではなかった。覚悟の笑みだった。
「よかろう。……どうせ、滅びる国だ。ならば私は、楚の最後の王として、滅びよう。秦に裏切り者と罵られ、楚に傀儡と嗤われても構わぬ。……私は、楚の公女。故国とともに死ぬのが、私の定めだ」
傀儡に推戴されながら、昌平君は言いなりになど、ならなかった。楚の最後の女王として、背筋を伸ばし、滅びゆく国の玉座に自らの意思で座ったのだ。
◆
そして――楚軍の中に、一人の女将がいた。
項梁。項燕の娘であり、楚軍の一翼を担う勇将である。
その傍らには――十数歳の、一人の少女が、付き従っていた。
項羽。項梁の姪にして、項燕の孫。楚の名門・項家の、末の娘であった。
年はまだ幼い。だが、その美しさは、既に人目を引いた。切れ長の双眸、凛とした眉、人並み外れた長身。幼いながらに、将の器を思わせる、不思議な風格を漂わせていた。
「叔母上……。あれが、秦の軍ですか」
項羽は、地平を埋め尽くす秦の大軍を見つめて、呟いた。
その声には、恐怖があった。六十万という、想像を絶する数の兵。楚を呑み込み、祖父を追い詰める、巨大な化け物のような軍勢。幼い項羽の心は、震えた。
だが――同時に。
その双眸には、恐怖とは別の光が、宿っていた。
「……ほしい」
項羽の唇から、漏れたのは、そんな一言だった。
我にもあらず、口をついて出た言葉。祖国を滅ぼす敵の軍でありながら、その圧倒的な力に、幼い少女は抗いがたく惹きつけられていた。あの巨大な軍が。あの天下の力が。ほしい――。
幼い胸の奥で、名前のない何かが、芽生えた瞬間だった。
「項羽」
項梁が、姪の肩に手を置いた。その顔は、険しかった。
「よく見ておけ。あれが、我らを滅ぼす軍だ。……忘れるな。この恨みを」
「……はい、叔母上」
項羽は、頷いた。だが、その胸の内は、素直に「恨み」だけで染まりはしなかった。恨まねばならぬ。祖国の仇。祖父の仇。分かっている。なのに――あの軍を見ると、恨みよりも先に、あの一言が、こみ上げてくるのだ。
ほしい、と。
◆
大勢は、覆らなかった。
楚の最後の城は、王翦の大軍に包囲された。残された兵は、わずか。逃れる術は、もはや、なかった。
落城の時が、近づいていた。
項燕は、項梁を呼び寄せた。
「項梁。……お前は、項羽を連れて、落ち延びよ」
「父上! 何を仰せです! 私も、ここで、父上とともに――」
「ならぬ」
項燕は、首を振った。
「項家の血を、絶やしてはならぬ。とりわけ、項羽を生かせ。あの子には、何か大きなものが宿っている。お前も、感じているだろう」
項梁は、唇を噛んだ。父の言う通りだった。幼い項羽には、将を超える、王の器の片鱗がある。それを、ここで散らせるわけには、いかない。
項燕は、項羽を手招きした。
「項羽。……こちらへ、来い」
幼い少女が、祖父の前に進み出る。項燕は、項羽の頭に、大きな手を置いた。
「よく聞け、項羽。楚は、今日、滅びる。祖父も、昌平君様も、楚とともに死ぬ」
「お、お祖父様……!」
「泣くな。……よいか。楚は三戸になろうとも、秦を滅ぼすは、必ず楚だ」
項燕の目は、滅びを前にして、なお強い光を湛えていた。
「その者は――お前かもしれぬ。生きよ、項羽。生きて、強くなれ」
項羽の双眸が、大きく見開かれた。
恐れと憧れの入り混じった、あの秦の軍。それを、いつか自分の手で――祖父の言葉は、幼い項羽の胸に、消えぬ烙印となって刻み込まれた。
「……はい、お祖父様。項羽は……強くなります。きっと、きっと!」
◆
その夜。項梁は、項羽を連れ、わずかな手勢とともに、包囲の隙を突いて城を脱した。南へ、さらに南へ。秦の手の届かぬ、呉の地を目指して。
逃げる馬上で、項羽は一度だけ、振り返った。
遠く、楚の城に、火の手が上がっている。祖父・項燕と、楚の女王・昌平君が、眠る城が。
◆
城の最も高い楼で。
項燕と昌平君は、並んで立っていた。眼下には、楚の城を埋め尽くす、秦の大軍。
「項梁たちは、逃げ延びたか」
「ああ。……項羽は、生きる。楚の魂は、あの子が継ぐ」
項燕は、静かに笑った。
「昌平君。……共に、逝こう。楚の将と、楚の王として。秦の手に落ちて辱めを受けるより、我らの手で、楚とともに果てるのだ」
「ああ」
昌平君は、頷いた。道連れではなかった。二人は、滅びゆく同じ国の将と王として、同じ最期を自ら選んだのだ。
「項燕。……一つだけ、言わせてくれ」
昌平君は、遠く、秦の陣を見やった。
「秦には、惜しい公子がいた。……あの扶蘇という若者。敵将の骨を弔い、寡兵で乳母を救いに来る、情の将。……あのような者が天下を治めるなら、楚の民も、少しは救われようか」
それが、楚の最後の女王の、最後の言葉だった。
城に、火の手が上がる。
項燕と昌平君は、互いに剣を取り――楚の滅亡とともに、自ら、命を絶った。
誇り高き楚の将と、楚の公女は、故国に殉じた。
◆
楚は、滅んだ。
韓、趙、燕、魏、そして楚。六国のうち、五つが、地図から消えた。残るは、東の大国・斉、ただ一国。
咸陽で楚滅亡の報せを聞いた俺は、昌平君の最期を伝え聞き、しばし目を閉じた。
(昌平君……。あなたは、裏切り者では、なかった。……ただ、愛する故国に、殉じただけだ)
俺は、知らなかった。
滅びゆく楚の城から、一人の少女が落ち延びたことを。恐れと憧れの目で秦の大軍を見つめ、祖父から「秦を覆す者」の遺志を託された、あの少女のことを。
項羽。
その名が、いつか俺の前に、巨大な壁として立ちはだかることを――この時の俺は、まだ、知る由もなかった。




