表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第1章 戦国の終焉編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/25

第21話 覇王の芽

 王翦おうせんの静かな進撃しんげきは、止まらなかった。


 占領地せんりょうちは広がり、の領土は日に日に削られていく。飢えと厭戦えんせんむしばまれた楚軍から、将兵が次々と、秦へ寝返り始めた。


 沈みゆく船から、ねずみが逃げ出すように。


「また、一隊が離反りはんしました! 東の守りが、手薄に!」


「くそ……! 裏切り者どもめ!」


 項燕こうえん懸命けんめいに軍をまとめても、離散りさんは止まらない。勝てぬ戦に、命を懸ける者はいない。楚の大地は、静かに、確実に、秦の色に塗り替えられていった。



 折しも――楚王が、病で世を去った。


 滅亡のふちで、楚は王をも失った。残されたのは、滅びゆく国と、指導者を失った将兵のみ。


 項燕こうえんは、昌平君しょうへいくんを見た。


昌平君しょうへいくん。……お前には、楚の王家の血が流れている。楚の公女こうじょよ。……最後の王に、なってくれ」


傀儡かいらいの女王に、か」


 昌平君しょうへいくんは、静かに笑った。自嘲じちょうではなかった。覚悟の笑みだった。


「よかろう。……どうせ、滅びる国だ。ならば私は、楚の最後の王として、滅びよう。秦に裏切り者とののしられ、楚に傀儡とわらわれても構わぬ。……私は、楚の公女。故国とともに死ぬのが、私の定めだ」


 傀儡に推戴すいたいされながら、昌平君しょうへいくんは言いなりになど、ならなかった。楚の最後の女王として、背筋を伸ばし、滅びゆく国の玉座に自らの意思で座ったのだ。



 そして――楚軍の中に、一人の女将がいた。


 項梁こうりょう項燕こうえんの娘であり、楚軍の一翼を担う勇将である。


 その傍らには――十数歳の、一人の少女が、付き従っていた。


 項羽こうう項梁こうりょうめいにして、項燕こうえんの孫。楚の名門・項家の、すえの娘であった。


 年はまだ幼い。だが、その美しさは、既に人目を引いた。切れ長の双眸そうぼうりんとした眉、人並み外れた長身。幼いながらに、将の器を思わせる、不思議な風格ふうかくを漂わせていた。


「叔母上……。あれが、秦の軍ですか」


 項羽こううは、地平を埋め尽くす秦の大軍を見つめて、呟いた。


 その声には、恐怖があった。六十万という、想像を絶する数の兵。楚を呑み込み、祖父を追い詰める、巨大な化け物のような軍勢。幼い項羽こううの心は、震えた。


 だが――同時に。


 その双眸には、恐怖とは別の光が、宿っていた。


「……ほしい」


 項羽こううの唇から、漏れたのは、そんな一言だった。


 我にもあらず、口をついて出た言葉。祖国を滅ぼす敵の軍でありながら、その圧倒的な力に、幼い少女は抗いがたく惹きつけられていた。あの巨大な軍が。あの天下の力が。ほしい――。


 幼い胸の奥で、名前のない何かが、芽生えた瞬間だった。


項羽こうう


 項梁こうりょうが、姪の肩に手を置いた。その顔は、険しかった。


「よく見ておけ。あれが、我らを滅ぼす軍だ。……忘れるな。この恨みを」


「……はい、叔母上」


 項羽こううは、頷いた。だが、その胸の内は、素直に「恨み」だけで染まりはしなかった。恨まねばならぬ。祖国のかたき。祖父の仇。分かっている。なのに――あの軍を見ると、恨みよりも先に、あの一言が、こみ上げてくるのだ。


 ほしい、と。



 大勢は、くつがえらなかった。


 楚の最後の城は、王翦おうせんの大軍に包囲された。残された兵は、わずか。逃れる術は、もはや、なかった。


 落城の時が、近づいていた。


 項燕こうえんは、項梁こうりょうを呼び寄せた。


項梁こうりょう。……お前は、項羽こううを連れて、落ち延びよ」


「父上! 何を仰せです! 私も、ここで、父上とともに――」


「ならぬ」


 項燕こうえんは、首を振った。


「項家の血を、絶やしてはならぬ。とりわけ、項羽こううを生かせ。あの子には、何か大きなものが宿っている。お前も、感じているだろう」


 項梁こうりょうは、唇を噛んだ。父の言う通りだった。幼い項羽こううには、将を超える、王の器の片鱗へんりんがある。それを、ここで散らせるわけには、いかない。


 項燕こうえんは、項羽こうう手招てまねきした。


項羽こうう。……こちらへ、来い」


 幼い少女が、祖父の前に進み出る。項燕こうえんは、項羽こううの頭に、大きな手を置いた。


「よく聞け、項羽こうう。楚は、今日、滅びる。祖父も、昌平君しょうへいくん様も、楚とともに死ぬ」


「お、お祖父様……!」


「泣くな。……よいか。楚は三戸さんこになろうとも、秦を滅ぼすは、必ず楚だ」


 項燕こうえんの目は、滅びを前にして、なお強い光をたたえていた。


「その者は――お前かもしれぬ。生きよ、項羽こうう。生きて、強くなれ」


 項羽こうう双眸そうぼうが、大きく見開かれた。


 恐れと憧れの入り混じった、あの秦の軍。それを、いつか自分の手で――祖父の言葉は、幼い項羽こううの胸に、消えぬ烙印らくいんとなって刻み込まれた。


「……はい、お祖父様。項羽こううは……強くなります。きっと、きっと!」



 その夜。項梁こうりょうは、項羽こううを連れ、わずかな手勢てぜいとともに、包囲の隙を突いて城を脱した。南へ、さらに南へ。秦の手の届かぬ、の地を目指して。


 逃げる馬上で、項羽こううは一度だけ、振り返った。


 遠く、楚の城に、火の手が上がっている。祖父・項燕こうえんと、楚の女王・昌平君しょうへいくんが、眠る城が。



 城の最も高いろうで。


 項燕こうえん昌平君しょうへいくんは、並んで立っていた。眼下がんかには、楚の城を埋め尽くす、秦の大軍。


項梁こうりょうたちは、逃げ延びたか」


「ああ。……項羽こううは、生きる。楚の魂は、あの子が継ぐ」


 項燕こうえんは、静かに笑った。


昌平君しょうへいくん。……共に、逝こう。楚の将と、楚の王として。秦の手に落ちてはずかしめを受けるより、我らの手で、楚とともに果てるのだ」


「ああ」


 昌平君しょうへいくんは、頷いた。道連れではなかった。二人は、滅びゆく同じ国の将と王として、同じ最期を自ら選んだのだ。


項燕こうえん。……一つだけ、言わせてくれ」


 昌平君しょうへいくんは、遠く、秦の陣を見やった。


「秦には、惜しい公子がいた。……あの扶蘇ふそという若者。敵将の骨を弔い、寡兵で乳母を救いに来る、情の将。……あのような者が天下を治めるなら、楚の民も、少しは救われようか」


 それが、楚の最後の女王の、最後の言葉だった。


 城に、火の手が上がる。


 項燕こうえん昌平君しょうへいくんは、互いに剣を取り――楚の滅亡とともに、自ら、命を絶った。


 誇り高き楚の将と、楚の公女は、故国にじゅんじた。



 楚は、滅んだ。


 かんちょうえん、そして楚。六国のうち、五つが、地図から消えた。残るは、東の大国・せい、ただ一国。


 咸陽かんようで楚滅亡の報せを聞いた俺は、昌平君しょうへいくんの最期を伝え聞き、しばし目を閉じた。


昌平君しょうへいくん……。あなたは、裏切り者では、なかった。……ただ、愛する故国に、殉じただけだ)


 俺は、知らなかった。


 滅びゆく楚の城から、一人の少女が落ち延びたことを。恐れと憧れの目で秦の大軍を見つめ、祖父から「秦を覆す者」の遺志を託された、あの少女のことを。


 項羽こうう


 その名が、いつか俺の前に、巨大な壁として立ちはだかることを――この時の俺は、まだ、知る由もなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ