第19話 殿
李牧が軍を去った翌日、趙軍には攻撃命令が下った。
後任の将は、半年に及んだ膠着を終わらせるため、王翦の陣へ正面から攻めかかるつもりだった。王が求めているのは待つことではなく、誰の目にも分かる勝利であり、その命に従うことこそ自分の役目だと考えていた。
「全軍、前へ!」
号令とともに趙軍が動き始める。
その様子を少し離れた場所から見ていた司馬尚のもとへ、使者が来た。
「司馬尚殿も、ご同行を」
「行かん......」
「王命による攻撃です」
「知ってる......」
「では、なぜ」
「勝てないからだ......」
それだけ答えると、司馬尚は使者から視線を外した。
半年もの間、王翦が何もせずに籠もっていたわけではない。壕も柵も整い、兵の配置も練られ、趙軍が攻めてくる時に備えて陣はすでに完成している。
そこへ正面からぶつかる。
李牧なら絶対にしない。
だから、司馬尚も動かなかった。
◆
趙軍接近の報告を受けても、王翦の表情は変わらなかった。
「予定通りです。壕まで引きつけてください」
秦軍は半年かけて築いた陣へ入り、静かに迎撃の準備を整えた。
右翼には羌瘣。
左翼には、傷から戦線へ戻った楊端和がいた。
腹の古傷は、激しく身体を動かせば今も鈍く疼く。司馬尚に斬られた場所であり、命を落としかけた傷でもあった。
あの敗北を、楊端和は忘れていない。
ただし、恥じているだけでもなかった。
相手が男だったことで一瞬気を取られ、その隙を突かれた。それも含めて自分の敗北であり、言い訳にする気はない。
「今度は返す」
小さく呟くと、近くにいた羌瘣が目を向けた。
「無理はなさらないでください」
「分かっている」
楊端和は前方を見たまま、わずかに笑った。
「でも、借りは借りだ」
羌瘣は、それ以上何も言わなかった。
◆
趙軍の先鋒が壕へ到達すると、秦軍の弩が一斉に唸った。
前列の兵が矢を受けて倒れても、後続は止まらない。壕へ土を投げ込み、板を渡し、柵へ取りつく。後任の将は前へ出た兵をさらに急かし、突破口を広げようとした。
「押せ! 秦軍を陣から引きずり出せ!」
だが、秦軍は出てこなかった。
壕を越えた兵には槍が待ち、柵を壊そうと近づけば矢が降る。ようやく一部が陣内へ入り込んでも、そこには予備の兵が控えており、押し込んだはずの趙兵が逆に押し返されていった。
それでも後任の将は攻撃を止めなかった。
王命を受けている。
戦果を出さなければならない。
李牧とは違うところを見せなければ、自分をここへ送った王の期待に応えたことにはならない。
その焦りが、さらに多くの兵を前へ押し出した。
王翦は中央から戦況を見ていた。
趙軍の前列が秦陣へ深く食い込み、その分だけ後方との間隔が広がっていく。
「左右を出してください」
短い命令で、秦軍が初めて大きく動いた。
◆
「行くぞ!」
楊端和が馬を走らせる。
左翼の秦軍が趙軍の側面へ食い込み、正面の秦兵と戦っていた隊列を横から押し崩した。
反対側では羌瘣も動いている。
「前へお願いします」
声は静かだった。
羌瘣の部隊は敵全体を力で押し返そうとはせず、乱れた場所へ深く入り込み、旗手や伝令を狙って指揮を断っていく。
趙軍の旗が倒れた。
命令が届かなくなる。
そこへ楊端和の部隊がさらに押し込んだ。
「中央まで抜く!」
後任の将は何とか兵をまとめようとしたが、すでに遅かった。正面では王翦の陣を崩せず、左右からは二人の副将に食い込まれ、軍全体が一度に方向を失い始めている。
「退くな! 陣を立て直せ!」
叫んだ直後、その将の馬が矢を受けて倒れた。
地面へ投げ出されたところへ秦兵が殺到し、護衛が次々と斬られていく。立ち上がろうとした時にはもう遅く、突き出された槍が胸を貫いた。
将が討たれたという声が広がると、趙軍は完全に崩れた。
◆
敗兵が後方へ流れ込んでくる。
司馬尚は、黙ってその姿を見ていた。
武器を失った者もいれば、傷ついた仲間を肩に担いでいる者もいる。顔を泥と血で汚し、後ろだけを見ながら走ってくる兵たちの数は、時間とともに増えていった。
「将軍が討たれました」
「そうか」
「秦軍が追ってきます」
司馬尚は遠くを見る。
「兵を下げろ」
「司馬尚殿は?」
「残る」
部下が息を呑んだ。
「お一人で?」
「行け」
それ以上は言わせなかった。
司馬尚は武器を握り直し、追撃してくる秦軍の方へ向き直った。
◆
追撃の先頭にいた楊端和は、一人で道を塞ぐ男を見つけた。
腹の古傷が疼いた。
「……いたな」
司馬尚が振り返る。
「また来たか」
「前はやられた。今度は返す」
「そうか」
相変わらず短い。
楊端和は馬を降りた。
そこへ羌瘣も追いつく。
「殿ですね」
「そうだ」
「退かれませんか」
「退かない」
羌瘣は静かに剣を抜いた。
「では、参ります」
楊端和も構える。
「二人がかりになるぞ」
「別に構わん......」
司馬尚は武器を構えた。
「来い」
最初に踏み込んだのは楊端和だった。
以前と同じように正面から刃をぶつける。司馬尚は受け止め、すぐに押し返した。
そこへ羌瘣が低く入り込む。
司馬尚は身体を引いてかわし、返す刃で二人を離した。
「やっぱり強いな」
楊端和が笑う。
「そっちも」
戦いは激しかった。
楊端和が正面から圧力をかけ、羌瘣がその脇を狙う。司馬尚は一人で二つの刃を相手にしながら、どちらにも容易な攻撃を許さなかった。
楊端和の斬撃を受けて身体を回し、その勢いのまま羌瘣へ反撃する。羌瘣が下がれば、今度は一歩踏み込んで楊端和を押し返した。
周囲の秦兵は、手を出せずにいた。
三人の間へ入れば、かえって二人の邪魔になる。
それほどまでに、司馬尚はまだ強かった。
けれど、一人で二人を相手にし続ければ、少しずつ差は生まれる。
羌瘣の剣が肩を掠める。
続いて楊端和の刃が脇腹を裂いた。
血が鎧を伝い始めても、司馬尚は武器を手放さなかった。
「まだ立つか」
「立つ」
楊端和は息を整えながら、再び踏み込んだ。
以前とは違う。
今度は相手が誰であろうと、余計なことは考えない。
目の前の刃だけを見る。
司馬尚が受ける。
楊端和は押す。
その横から羌瘣が入った。
剣先が司馬尚の脇腹を深く裂き、初めて身体が大きく揺れた。
◆
逃げていた趙兵の姿は、もう遠くなっていた。
楊端和はその方向を一度だけ確認してから、司馬尚へ言った。
「兵はもう行った。退け」
「まだ」
「何がだ?」
司馬尚は遠くを見た。
「……帰る場所だ」
楊端和はそれ以上聞かなかった。
誰が帰ってくる場所なのかは、なんとなく分かった。
司馬尚は再び踏み込んだ。
ただ、動きは先ほどまでより明らかに鈍っていた。肩と脇腹から流した血が多すぎる。
羌瘣がその側面へ回る。
剣が肩口へ深く入った。
司馬尚の身体が傾く。
そこへ楊端和が踏み込んだ。
「これで返した!」
刃が深く入る。
男の膝が地面についた。
それでも武器はすぐには落ちなかった。
楊端和は荒い息を整えながら、その姿を見つめた。
「強かった」
司馬尚はわずかに顔を上げた。
「お前も」
羌瘣が剣を下ろす。
「もう終わりです」
司馬尚の手から、ようやく武器が落ちた。
視線だけが遠く、邯鄲の方角へ向く。
「……李牧」
小さく名前を呼んだあと、その身体がゆっくりと崩れた。
もう起き上がらなかった。
楊端和はしばらく黙っていた。
腹を斬られ、死にかけた相手だった。
いつか借りを返したいと思っていた。
そして今、自分は立ち、司馬尚が倒れている。
それでも、思っていたような勝利の喜びは湧かなかった。
「……借りは返した。けど、嬉しくはないな」
羌瘣は倒れた司馬尚を見つめたあと、静かに剣を納めた。
「はい」
遠くでは秦軍がさらに前へ進み始めていた。
李牧を失い、後任の将も討たれ、最後まで敗兵を逃がしていた司馬尚も死んだことで、半年もの間王翦を止め続けていた趙軍はついに大きく崩れた。
その先には、地震の傷跡を残した邯鄲がある。
秦軍を止める者は、もうほとんど残っていなかった。




