第19話 老将の欲
楚での大敗は、咸陽の宮を、重い空気で包んだ。
二十万の精鋭を失い、昌平君の寝返りを招いた責は、大将・李信にある。群臣の前で、その糾弾が始まった。
「李信将軍の独断、深追いが、この大敗を招きました」
口火を切ったのは、蒙恬であった。
「私は、幾度も深追いを諫めました。ですが李信将軍は、それを臆病と退け、楚の罠へと突き進んだのです」
「王翦将軍は、六十万が要ると申されました。李信将軍は、二十万で足りると豪語した。……結果は、この通りにございます」
王賁もまた、厳しい声で続けた。李信の下で痛い目に遭った者たちの糾弾は、容赦がなかった。
だが――政は、李信を庇おうとした。
「待て。李信は、若い。一度の敗北で、将を失うのは、惜しい。……次の機会を、与えても良いのではないか」
群臣が、ざわめいた。
大敗の責任者を、王が庇う。しかも、明らかに情の籠もった口ぶりで。俺は、末席から、思わず声を上げた。
「母上。……なぜ、李信将軍を、それほどまでに庇われるのですか」
「扶蘇……それは」
「二十万の将兵が、死にました。蒙恬も、危うく命を落とすところでした。……それでも、李信将軍を罰せぬと仰せか」
俺の問いに、政は、言葉に詰まった。俺を睨みつける目が少し泳いだ。
そして――つい、口を滑らせた。
「あの夜、閨で、大将に据えると、約束したのだ……」
しん、と広間が静まり返った。
政の顔が、さっと青ざめた。言ってはならぬことを、言ってしまった――群臣の前で、女帝が、自らの私情を、さらけ出してしまったのだ。
閨での約束で、国の大将を決めた。それが、この大敗の真の原因であったと、政自身が、認めてしまった瞬間だった。
◆
失言の痛手は、大きかった。
政は、もはや李信を庇いきれなかった。だが――この世界では、男は貴重。王族でなくとも、男を重く罰することは、忌み嫌われる。李信は死罪も流罪も免れ、将軍位を剥奪され、千人将からの、やり直しとなった。
栄華を極めた若き将は、一夜にして、下級指揮官へと転落した。政の寵愛もまた、この一件で、冷え込んだ。閨の情で国政を誤った痛恨を、政は、骨身に刻んだのだ。
◆
李信を失った今、楚を討てる将は、ただ一人。
王翦である。
政は、王翦を大将に任じようとした。だが――王翦は、動かなかった。
「王翦将軍は、病と称し、領地に引き籠もっておられます。再三の召し出しにも、応じませぬ」
使者の報告に、政は眉を寄せた。
老将は、ごねていた。かつて「六十万」と進言して退けられ、李信の二十万が選ばれた。その挙句の、大敗。今さら頭を下げて頼まれても、はいとは動かぬ――老将の、意地であった。
途方に暮れた政は、自ら王翦の領地へ赴いた。俺も、供をした。
◆
「王翦。頼む。楚を討てるのは、お前しかおらぬ」
病と称して臥せる王翦に、政は頭を下げた。女帝が、一臣下に頭を下げる。異例のことであった。
王翦は、寝台から身を起こし、しわがれた声で言った。
「王よ。……この老いぼれに、六十万を預けると仰せか」
「預ける。六十万、余すことなく、お前に委ねよう」
「では――報償を、頂戴したい」
王翦は、しわ深い顔に、欲深げな笑みを浮かべた。
「咸陽の良き田畑を、幾つも。美しい庭園を、幾つも。子々孫々が食うに困らぬだけの、金品を。……老い先短い身なれど、残す者のために、欲しゅうございます」
「……そのようなもので、良いのか」
「良いのです。それだけ、頂ければ」
政は、訝しんだ。全兵力を預かる将が、田畑や庭園ばかりを欲しがる。だが、望みとあらば、と、政はそれを許した。
◆
政が去った後。俺は、王翦の寝所に、一人残された。
「扶蘇様。……少し、お話を」
王翦が、俺を呼び止めたのだ。
二人きりになると、王翦は、欲深げな老婆の仮面を、すっと外した。その目は、六国を震わせた名将の、鋭いものに戻っていた。
「田畑や庭園を欲しがる老いぼれ――王には、そう見えたでしょうな。……扶蘇様には、お分かりか」
「……全兵力を預かる将が、欲深い俗物を演じる。謀反の意思なきことを、母上に示すため……ですね」
王翦の目が、愉快げに細められた。
「さすがにございます。……六十万とは、秦の全て。それを預かる老将が、野心を見せれば、王は夜も眠れますまい。ゆえに、欲しがるのです。田畑を、金を。『この婆は、子孫の財産しか頭にない、欲深い俗物』と思わせる。……それが、六十万を預かる者の、処世にございます」
老将の知略に、俺は舌を巻いた。戦場だけでなく、宮廷の人心をも、この老女は読み切っている。
◆
「ときに、扶蘇様」
王翦は、ふと、悪戯っぽく笑った。
「王には田畑を頂きました。……ですが、扶蘇様には、別の報償を、頂戴したい」
「俺に? ……何を」
「扶蘇様の、お子種を」
俺は、固まった。
「……は?」
「貴重な男であり、知略無双の公子。その血を、この王翦の腹に、頂きとうございます」
六十に手の届こうかという老将が、十七の俺に、子種を求める。童貞の俺は、どう答えてよいか分からず、しどろもどろになった。
「い、いや、王翦、それは……その……」
「ふ、ふふ……冗談にございますよ」
王翦は、しわがれた声で、愉快げに笑った。
「真に受けられましたか。……ですが、半分は、本音にございます。私が、あと二十……いや、娘の王賁と同じ年頃であったなら。……本気で、扶蘇様を、口説いておりましたでしょうに」
老将の目に、一瞬、女の色が滲んだ。貴重な男を、抱いてみたい――老いてなお、そういう欲が、消えぬのだろう。
◆
「冗談はさておき、扶蘇様」
王翦は、居住まいを正した。
「一つ、真面目な願いが、ございます。……私の孫、王離を。扶蘇様の側室に、貰ってはいただけませぬか」
「王離を……?」
俺は、再び戸惑った。
「楚の戦場で、王離は、扶蘇様のために命を懸けました。あの子は、扶蘇様を、心より慕っております。……王家三代の武を継ぐ、良い娘にございます。扶蘇様を、生涯お守りいたしましょう」
「だが、王翦……俺は」
俺は、言い淀んだ。俺の心には、蒙恬がいる。それを、王翦に、どう告げたものか。
「存じております」
王翦は、穏やかに笑った。
「扶蘇様が、蒙恬を想うておられることは。……あの蒙恬を射止められるなら、仕方ありませぬな。あれは、私の娘・王賁よりも、なお美しい。羨ましいほどに」
老将の声に、一抹の羨望が滲んだ。
「ですが、扶蘇様。あなたは、王族であり、貴重な男。正室のほかに、側室を持つのは、当然のこと。……蒙恬を想いながら、王離を側室に。何も、おかしくは、ございませぬ」
この世界の理であった。貴重な男は、複数の女を娶る。蒙恬を正室に望みながら、王離を側室に迎える――前世の感覚では戸惑うが、この世界では、自然なことなのだ。
「……少し、考えさせてくれ、王翦」
俺は、そう答えるのが、精一杯だった。
王翦は、満足げに頷いた。
「それで、十分にございます。……さて。報償の話も済みましたゆえ」
老将は、寝台から立ち上がった。病など、どこにもなかったかのように、矍鑠として。
「六十万を率い、楚を獲ってまいりましょう。……此度こそ、確実に」
かくして――老将・王翦は、再び歴史の表舞台へと、立ち戻った。
秦の全兵力、六十万を率いて。




