第18話 矢文
蒙恬は窮地にあった。
李信の本隊が項燕に壊滅させられ、秦軍は総崩れとなった。その中で蒙恬はかろうじて自らの隊、二万をまとめ、秩序を保って秦へ退こうとしていた。だが、その前方に昌平君の大軍が立ち塞がっていた。
その数、五万。
「馬鹿な……! なぜ、これほどの兵を!」
蒙恬は愕然とした。
昌平君は旧楚都・郢陳の統治を任された要人であった。その地の守備兵に加え、王の名を騙った偽りの出陣命令で、楚の国境付近の都市から兵をかき集める。二つを合わせ、五万もの軍勢を密かに整えていたのだ。
前には昌平君の五万。後ろからは李信を破った項燕の楚軍が迫ってくる。
挟み撃ち。蒙恬はまさに絶対絶命であった。
◆
だが攻撃を命じる前に、昌平君は馬上でひとり、唇を噛んでいた。
――此度の裏切りを、この女は、十年かけて選んだのだ。
思えば、あの日から始まっていた。
呂不韋の乱。あの時、天秤を握っていたのは、この昌平君であった。
呂不韋は己が最も信を置く腹心として、扶蘇の身柄を攫う役を昌平君に託した。兵権も預けた。……あの絵図は、昌平君が動けば成っていた。秦は、呂不韋のものになっていた。
だが昌平君は、王を選んだ。
呂不韋を見限り、都中に布告を出し、三万の反乱軍を内側から崩した。……乱を鎮めたのは、剣ではない。この女の、一つの決断であった。
大功であった。誰もが、そう認めた。
この功をもって、昌平君は秦の柱石となる。……本人も、そう信じていた。
◆
だが、その後に来たのは恩賞と、静かな遠ざけであった。
趙へは王翦。魏を沈めたのは王賁。そして楚へは、若い李信に二十万が与えられた。
――昌平君の名は、その、どこにもなかった。
与えられたのは郢陳。旧楚都の、統治である。要職には違いない。だが咸陽からは遠く、己の才を振るう場所ではなかった。
なぜだ、と幾度も思った。功は誰より立てた。忠も尽くした。
……理由は、いつか、王自身の口から聞いた。
褒賞の席であった。政は盃を傾けながら、こう言ったのだ。
「昌平君。そなたは、よう見極める女よ」
その一言に、この女は、凍りついた。
褒め言葉の形をしていた。だが意味は、明白だった。
――そなたは、勝つ側を見極めて、主を売った女だ。
一度、主君を天秤にかけた者は、二度かける。あの王は、そう見ている。……背中を、預けてはもらえぬのだ。生涯。
そして、もう一つ。この身には、楚の王家の血が流れている。
功を立てても、忠を尽くしても。裏切りの前科と、敵国の血。その二つがある限り、この女が秦の中枢に戻ることはなかった。
◆
(私は、何のために、呂不韋を売ったのか)
郢陳の城壁から、昌平君は幾度も南を眺めた。
韓が滅び、趙が滅び、魏が水に沈み、燕が敗れた。……次は、楚だ。己の生まれた国。父祖の眠る地。
秦に忠を尽くしたところで、この身が報われることはない。ならば。
(せめて。……楚の公女として、死のう)
秦の忠臣としてではなく。
その決意が固まった時、皮肉にも目の前を通りかかったのは、蒙恬の軍であった。王の信を一身に受ける、あの女将の軍が。
「……許せ、蒙恬」
昌平君は目を閉じ、そして開いた。迷いを断ち切るように。
「攻めよ! 裏切り者・蒙恬を討ち取れ!」
◆
五万の兵が、蒙恬軍へ殺到する。
だが昌平君の兵たちの動きには、奇妙な戸惑いがあった。
それもそのはず。彼らの多くは秦の兵であった。昨日まで味方であった蒙恬の軍へ、なぜ剣を向けるのか。同じ秦兵同士が殺し合う。その事態に、兵たちは混乱していた。
「迷うな!」
昌平君が叫んだ。
「蒙恬は楚に寝返ろうとしておる! 李信将軍が敗れたのも、蒙恬が楚に通じ、わざと援軍を出さなかったからだ! あれこそが、真の裏切り者! 秦の忠臣として、逆賊・蒙恬を討て!」
嘘であった。真っ赤な嘘。裏切ったのは、昌平君自身だというのに。
だが兵たちには、真偽を確かめる術がない。重臣・昌平君が「蒙恬は裏切り者」と叫べば、それを信じるしかない。戸惑っていた兵たちの剣に、次第に力が籠もり始めた。
「違う! 私は裏切ってなどおらぬ!」
蒙恬は叫んだが、五万の喊声に、その声は掻き消された。
裏切り者の汚名を着せられ、同じ秦兵に攻められる。蒙恬の二万は数に押され、じりじりと崩れ始めた。
(扶蘇様。……この蒙恬、ここまでにございましょうか)
蒙恬の脳裏に、諦念がよぎった。その時。
◆
戦場の外れから、土煙が上がった。
一隊の騎馬が、昌平君軍の側面へ突っ込んでくる。数は、わずか二千。だが、その先頭に翻る旗は、秦の公子の旗であった。
「扶蘇……様?」
蒙恬が目を見開いた。
俺であった。王離の私兵二千を率い、蒙凛とともに、楚の戦場へ駆けつけたのだ。
「王離、蒙凛! 俺の周りを固めろ! 敵中に突っ込む、はぐれるな!」
二千の中央に、俺を守るように王離と蒙凛がつく。貴重な男である公子の身。討たれれば全てが終わる。無謀は、承知の上だった。
「矢を放て! ……布を巻いた、あの矢だ!」
二千の兵が、一斉に弓を引いた。
その矢の一本一本には、布が巻きつけられている。布には墨で大きく、こう記されていた。
――昌平君は、楚に寝返りし裏切り者なり。秦に戻る者は、公子・扶蘇が許す。
無数の矢文が、昌平君軍の頭上に、雨のように降り注いだ。
◆
兵たちが矢を拾い、布を読む。
昌平君は、裏切り者。
戦場に動揺が走った。
「おい、この布……昌平君様が、裏切り者だと書いてあるぞ」
「公子・扶蘇様の名が……! 秦に戻れば、許すと!」
昌平君は「蒙恬が裏切り者」と言った。だが、公子・扶蘇は「昌平君が裏切り者」だと言う。……どちらが、真実なのか。
王族であり、貴重な男である公子・扶蘇の名は重かった。その言葉と昌平君の言葉が真っ向から食い違い、兵たちの一部は剣を止めた。
だが昌平君は動じなかった。
「惑わされるな! その矢文こそ、敵の謀略だ!」
この女は、五万の全てが崩れるのを許さなかった。長年、秦の軍を率いてきた将である。己に近い直属の兵、古参の将は、なおも掌握し続けた。
「公子・扶蘇は、蒙恬に欺かれておるのだ! 若き公子が、戦場の何を知る! 我に従う者は続け! 逆賊を討ち果たせ!」
昌平君の直属兵は、動揺する味方を叱咤し、なおも蒙恬軍へ攻めかかった。五万は割れた。半ばは戸惑い手を止め、半ばは昌平君に率いられ、攻撃を続ける。
矢文は五万を崩しはしなかった。だが、その勢いを確かに削いだ。
◆
「包囲に綻びが生じた! 今のうちだ!」
俺は叫んだ。
「昌平君の掌握しきれぬ一角を突く! 一点突破で、蒙恬のもとへ!」
「扶蘇様、お守りします!」
先頭を駆けたのは王離であった。王家三代の武を継ぐ若武者が槍を振るい、動揺する兵の一角を突き崩していく。
「私も!」
蒙凛もまた、剣を抜いて続いた。木剣では俺が一度も勝てなかった、その腕。真剣を握った蒙凛は、母譲りの武で、俺に迫る敵を斬り払っていった。
「母上! 今、参ります!」
二千の騎馬が楔となって、昌平君軍の綻びへ突き入る。戸惑う兵は、抵抗が鈍い。俺たちはその隙間を引き裂き、蒙恬のもとへ突き進んだ。
そして、辿り着いた。
「蒙恬!」
「扶蘇様……! 本当に、扶蘇様なのですか」
蒙恬の目に涙が滲んだ。裏切り者の汚名を着せられ、死を覚悟したその時に現れたのは、自らが赤子の頃から育てたあの公子であった。
「遅くなった。……迎えに来たぞ、蒙恬」
◆
再会を喜ぶ暇はなかった。
「蒙恬! 昌平君の掌握が乱れている今のうちに、秦へ退くぞ! 後ろからは項燕が迫っている!」
「は、はい!」
蒙恬は即座に将の顔に戻った。矢文で開いた包囲の綻び。そこを退路として、蒙恬は二万の軍をまとめ、秦の国境へと退き始めた。
だが撤退は、過酷を極めた。
昌平君は直属の兵を率い、なおも執拗に追撃をかけてくる。矢文で完全に崩れなかったことが、ここで重くのしかかった。背後からは項燕の楚軍。蒙恬軍は殿の兵を次々と失いながら、血路を開いていった。
多くの犠牲が出た。
矢文が五万を割りきれず、昌平君の直属兵が追撃を緩めなかったぶん、蒙恬軍の損害は大きかった。俺の策は万能ではなかった。敵の半ばを止めるのが精一杯だった。それでも、その半ばを止めたからこそ、全滅だけは免れた。
幾つもの屍を越え、傷つきながら、蒙恬の軍はついに秦の国境を越えた。
生きて、帰ってきたのだ。
◆
国境を越え、追撃の止んだ地で。
蒙恬は馬を降り、俺の前に膝をついた。
「扶蘇様。この蒙恬、扶蘇様がおられねば、裏切り者の汚名を着たまま楚の地で果てておりました」
声が震えていた。
「肥下の時も、今回も。……扶蘇様は二度までも、この蒙恬の命をお救いくださった。この御恩、生涯忘れませぬ」
「礼はいい」
俺は首を振った。
「赤子の頃から、お前に守られてきた。……今度は、俺が守る番だ。それだけのことだ」
だが、俺の胸の内は晴れてはいなかった。多くの兵が死んだ。俺の矢文が昌平君の軍を割りきれていれば、救えた命もあったかもしれない。守れた命の傍らに、守れなかった命が山と積まれている。
傍らで蒙凛が母に駆け寄り、抱きついた。
「母上! ご無事で……! 本当に、よかった……!」
「凛……! お前まで、来てくれたのか」
母娘が涙ながらに抱き合う。その姿を見て、俺は胸が熱くなった。
守れた。完全ではなかった。だが、守りたい者を、この手で守り抜いた。大梁で学んだ戦い方は、人を救うためにも使えるのだ。たとえ、その力に限りがあるとしても。
◆
一方、楚の陣へ退いた昌平君は。
蒙恬を取り逃したことを、悔いてはいなかった。
(公子・扶蘇。……あの矢文、見事であった。若くして、あれほど人の心を読むとは)
むしろ、この女の胸にあったのは、奇妙な感慨であった。
……あの若者は、たった二千で、敵中へ飛び込んできた。功のためではない。乳母を、ただ助けるために。
王は、私を「よう見極める女」と呼んだ。……あの公子なら、なんと呼んだであろうか。
(惜しい御方よ。……あなたのような主君の下でなら、私も、裏切らずに済んだかもしれぬ)
だが、もう遅い。昌平君は楚の公女として、故国とともに滅びる道を選んでしまった。
項燕とともに、最後の楚を率いて秦と戦う。それが、この女の定めた最期であった。
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李信の二十万は壊滅した。昌平君は楚へ完全に寝返った。
天下統一の歩みは、ここで初めて、大きく躓いたのだ。
そして、この大敗が、再びあの老将を歴史の表舞台へ呼び戻すことになる。
六十万が必要と言った女将、王翦を。




