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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第1章 戦国の終焉編

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第18話 矢文

 蒙恬もうてん窮地きゅうちにあった。


 李信りしんの本隊が項燕こうえん壊滅かいめつさせられ、秦軍は総崩れとなった。その中で蒙恬はかろうじて自らの隊、二万をまとめ、秩序を保って秦へ退こうとしていた。だが、その前方に昌平君しょうへいくんの大軍が立ち塞がっていた。


 その数、五万。


「馬鹿な……! なぜ、これほどの兵を!」


 蒙恬は愕然がくぜんとした。


 昌平君は旧楚都・郢陳えいちんの統治を任された要人であった。その地の守備兵に加え、王の名をかたった偽りの出陣命令で、楚の国境付近の都市から兵をかき集める。二つを合わせ、五万もの軍勢を密かに整えていたのだ。


 前には昌平君の五万。後ろからは李信を破った項燕の楚軍が迫ってくる。


 挟み撃ち。蒙恬はまさに絶対絶命であった。



 だが攻撃を命じる前に、昌平君は馬上でひとり、唇を噛んでいた。


 ――此度こたびの裏切りを、この女は、十年かけて選んだのだ。


 思えば、あの日から始まっていた。


 呂不韋りょふいの乱。あの時、天秤を握っていたのは、この昌平君であった。


 呂不韋は己が最も信を置く腹心ふくしんとして、扶蘇ふその身柄をさらう役を昌平君に託した。兵権も預けた。……あの絵図は、昌平君が動けば成っていた。秦は、呂不韋のものになっていた。


 だが昌平君は、王を選んだ。


 呂不韋を見限り、都中に布告ふこくを出し、三万の反乱軍を内側から崩した。……乱を鎮めたのは、剣ではない。この女の、一つの決断であった。


 大功であった。誰もが、そう認めた。


 この功をもって、昌平君は秦の柱石ちゅうせきとなる。……本人も、そう信じていた。



 だが、その後に来たのは恩賞おんしょうと、静かな遠ざけであった。


 趙へは王翦おうせん。魏を沈めたのは王賁おうほん。そして楚へは、若い李信に二十万が与えられた。


 ――昌平君の名は、その、どこにもなかった。


 与えられたのは郢陳。旧楚都の、統治である。要職には違いない。だが咸陽かんようからは遠く、己の才を振るう場所ではなかった。


 なぜだ、と幾度も思った。功は誰より立てた。忠も尽くした。


 ……理由は、いつか、王自身の口から聞いた。


 褒賞ほうしょうの席であった。政はさかずきを傾けながら、こう言ったのだ。


「昌平君。そなたは、よう見極める女よ」


 その一言に、この女は、凍りついた。


 褒め言葉の形をしていた。だが意味は、明白だった。


 ――そなたは、勝つ側を見極めて、主を売った女だ。


 一度、主君を天秤にかけた者は、二度かける。あの王は、そう見ている。……背中を、預けてはもらえぬのだ。生涯。


 そして、もう一つ。この身には、楚の王家の血が流れている。


 功を立てても、忠を尽くしても。裏切りの前科ぜんかと、敵国の血。その二つがある限り、この女が秦の中枢ちゅうすうに戻ることはなかった。



(私は、何のために、呂不韋を売ったのか)


 郢陳の城壁から、昌平君は幾度も南を眺めた。


 韓が滅び、趙が滅び、魏が水に沈み、燕が敗れた。……次は、楚だ。己の生まれた国。父祖ふその眠る地。


 秦に忠を尽くしたところで、この身が報われることはない。ならば。


(せめて。……楚の公女として、死のう)


 秦の忠臣としてではなく。


 その決意が固まった時、皮肉にも目の前を通りかかったのは、蒙恬の軍であった。王の信を一身に受ける、あの女将おんなしょうの軍が。


「……許せ、蒙恬」


 昌平君は目を閉じ、そして開いた。迷いを断ち切るように。


「攻めよ! 裏切り者・蒙恬を討ち取れ!」



 五万の兵が、蒙恬軍へ殺到する。


 だが昌平君の兵たちの動きには、奇妙な戸惑いがあった。


 それもそのはず。彼らの多くは秦の兵であった。昨日まで味方であった蒙恬の軍へ、なぜ剣を向けるのか。同じ秦兵同士が殺し合う。その事態に、兵たちは混乱していた。


「迷うな!」


 昌平君が叫んだ。


「蒙恬は楚に寝返ろうとしておる! 李信将軍が敗れたのも、蒙恬が楚に通じ、わざと援軍を出さなかったからだ! あれこそが、真の裏切り者! 秦の忠臣として、逆賊・蒙恬を討て!」


 嘘であった。真っ赤な嘘。裏切ったのは、昌平君自身だというのに。


 だが兵たちには、真偽を確かめる術がない。重臣・昌平君が「蒙恬は裏切り者」と叫べば、それを信じるしかない。戸惑っていた兵たちの剣に、次第に力が籠もり始めた。


「違う! 私は裏切ってなどおらぬ!」


 蒙恬は叫んだが、五万の喊声かんせいに、その声は掻き消された。


 裏切り者の汚名を着せられ、同じ秦兵に攻められる。蒙恬の二万は数に押され、じりじりと崩れ始めた。


(扶蘇様。……この蒙恬、ここまでにございましょうか)


 蒙恬の脳裏のうりに、諦念ていねんがよぎった。その時。



 戦場の外れから、土煙が上がった。


 一隊の騎馬が、昌平君軍の側面へ突っ込んでくる。数は、わずか二千。だが、その先頭にひるがえる旗は、秦の公子の旗であった。


「扶蘇……様?」


 蒙恬が目を見開いた。


 俺であった。王離おうりの私兵二千を率い、蒙凛もうりんとともに、楚の戦場へ駆けつけたのだ。


「王離、蒙凛! 俺の周りを固めろ! 敵中に突っ込む、はぐれるな!」


 二千の中央に、俺を守るように王離と蒙凛がつく。貴重な男である公子の身。討たれれば全てが終わる。無謀は、承知の上だった。


「矢を放て! ……布を巻いた、あの矢だ!」


 二千の兵が、一斉に弓を引いた。


 その矢の一本一本には、布が巻きつけられている。布には墨で大きく、こう記されていた。


 ――昌平君は、楚に寝返りし裏切り者なり。秦に戻る者は、公子・扶蘇が許す。


 無数の矢文が、昌平君軍の頭上に、雨のように降り注いだ。



 兵たちが矢を拾い、布を読む。


 昌平君は、裏切り者。


 戦場に動揺が走った。


「おい、この布……昌平君様が、裏切り者だと書いてあるぞ」


「公子・扶蘇様の名が……! 秦に戻れば、許すと!」


 昌平君は「蒙恬が裏切り者」と言った。だが、公子・扶蘇は「昌平君が裏切り者」だと言う。……どちらが、真実なのか。


 王族であり、貴重な男である公子・扶蘇の名は重かった。その言葉と昌平君の言葉が真っ向から食い違い、兵たちの一部は剣を止めた。


 だが昌平君は動じなかった。


「惑わされるな! その矢文こそ、敵の謀略だ!」


 この女は、五万の全てが崩れるのを許さなかった。長年、秦の軍を率いてきた将である。己に近い直属の兵、古参の将は、なおも掌握し続けた。


「公子・扶蘇は、蒙恬に欺かれておるのだ! 若き公子が、戦場の何を知る! 我に従う者は続け! 逆賊を討ち果たせ!」


 昌平君の直属兵は、動揺する味方を叱咤しったし、なおも蒙恬軍へ攻めかかった。五万は割れた。半ばは戸惑い手を止め、半ばは昌平君に率いられ、攻撃を続ける。


 矢文は五万を崩しはしなかった。だが、その勢いを確かに削いだ。



「包囲にほころびが生じた! 今のうちだ!」


 俺は叫んだ。


「昌平君の掌握しきれぬ一角を突く! 一点突破で、蒙恬のもとへ!」


「扶蘇様、お守りします!」


 先頭を駆けたのは王離であった。王家三代の武を継ぐ若武者が槍を振るい、動揺する兵の一角を突き崩していく。


「私も!」


 蒙凛もまた、剣を抜いて続いた。木剣では俺が一度も勝てなかった、その腕。真剣を握った蒙凛は、母譲りの武で、俺に迫る敵を斬り払っていった。


「母上! 今、参ります!」


 二千の騎馬がくさびとなって、昌平君軍の綻びへ突き入る。戸惑う兵は、抵抗が鈍い。俺たちはその隙間を引き裂き、蒙恬のもとへ突き進んだ。


 そして、辿り着いた。


「蒙恬!」


「扶蘇様……! 本当に、扶蘇様なのですか」


 蒙恬の目に涙が滲んだ。裏切り者の汚名を着せられ、死を覚悟したその時に現れたのは、自らが赤子の頃から育てたあの公子であった。


「遅くなった。……迎えに来たぞ、蒙恬」



 再会を喜ぶ暇はなかった。


「蒙恬! 昌平君の掌握が乱れている今のうちに、秦へ退くぞ! 後ろからは項燕が迫っている!」


「は、はい!」


 蒙恬は即座に将の顔に戻った。矢文で開いた包囲の綻び。そこを退路として、蒙恬は二万の軍をまとめ、秦の国境へと退き始めた。


 だが撤退は、過酷を極めた。


 昌平君は直属の兵を率い、なおも執拗しつように追撃をかけてくる。矢文で完全に崩れなかったことが、ここで重くのしかかった。背後からは項燕の楚軍。蒙恬軍は殿しんがりの兵を次々と失いながら、血路けつろを開いていった。


 多くの犠牲が出た。


 矢文が五万を割りきれず、昌平君の直属兵が追撃を緩めなかったぶん、蒙恬軍の損害は大きかった。俺の策は万能ではなかった。敵の半ばを止めるのが精一杯だった。それでも、その半ばを止めたからこそ、全滅だけは免れた。


 幾つものしかばねを越え、傷つきながら、蒙恬の軍はついに秦の国境を越えた。


 生きて、帰ってきたのだ。



 国境を越え、追撃の止んだ地で。


 蒙恬は馬を降り、俺の前に膝をついた。


「扶蘇様。この蒙恬、扶蘇様がおられねば、裏切り者の汚名を着たまま楚の地で果てておりました」


 声が震えていた。


「肥下の時も、今回も。……扶蘇様は二度までも、この蒙恬の命をお救いくださった。この御恩、生涯忘れませぬ」


「礼はいい」


 俺は首を振った。


「赤子の頃から、お前に守られてきた。……今度は、俺が守る番だ。それだけのことだ」


 だが、俺の胸の内は晴れてはいなかった。多くの兵が死んだ。俺の矢文が昌平君の軍を割りきれていれば、救えた命もあったかもしれない。守れた命の傍らに、守れなかった命が山と積まれている。


 傍らで蒙凛が母に駆け寄り、抱きついた。


「母上! ご無事で……! 本当に、よかった……!」


「凛……! お前まで、来てくれたのか」


 母娘が涙ながらに抱き合う。その姿を見て、俺は胸が熱くなった。


 守れた。完全ではなかった。だが、守りたい者を、この手で守り抜いた。大梁だいりょうで学んだ戦い方は、人を救うためにも使えるのだ。たとえ、その力に限りがあるとしても。



 一方、楚の陣へ退いた昌平君は。


 蒙恬を取り逃したことを、悔いてはいなかった。


(公子・扶蘇。……あの矢文、見事であった。若くして、あれほど人の心を読むとは)


 むしろ、この女の胸にあったのは、奇妙な感慨かんがいであった。


 ……あの若者は、たった二千で、敵中へ飛び込んできた。功のためではない。乳母うばを、ただ助けるために。


 王は、私を「よう見極める女」と呼んだ。……あの公子なら、なんと呼んだであろうか。


(惜しい御方よ。……あなたのような主君の下でなら、私も、裏切らずに済んだかもしれぬ)


 だが、もう遅い。昌平君は楚の公女として、故国とともに滅びる道を選んでしまった。


 項燕とともに、最後の楚を率いて秦と戦う。それが、この女の定めた最期であった。



 李信の二十万は壊滅した。昌平君は楚へ完全に寝返った。


 天下統一の歩みは、ここで初めて、大きくつまずいたのだ。


 そして、この大敗が、再びあの老将を歴史の表舞台へ呼び戻すことになる。


 六十万が必要と言った女将、王翦を。

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