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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第1章 戦国の終焉編

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第17話 深追い無用

 俺が十七になった年。楚攻めの下命が下った。


 その出陣の前夜。俺は、蒙恬を訪ねた。


「蒙恬。……一つ、聞いてほしいことがある」


「何なりと、扶蘇様」


 甲冑かっちゅうの支度を整える蒙恬に、俺は、声を落として告げた。


「楚へ入ったら、決して、項燕こうえんを深追いするな。……楚は大国。項燕は、わざと退いて、敵を誘い込む将だ。勝っても、追うな。追えば、罠にかかる」


 蒙恬の目が、わずかに見開かれた。肥下の時の忠告を、思い出したのだろう。


「それから――もう一つ」


 俺は、さらに声を潜めた。


「後方に、気をつけろ。……とりわけ、昌平君しょうへいくんに」


「昌平君様に、にございますか?」


 蒙恬は、怪訝けげんな顔をした。昌平君は、嫪毐ろうあいの乱を鎮めた秦の重臣。裏切りを疑う理由など、表向きには、何もない。


「なぜ、と問われても……答えられぬ。ただ、気をつけてほしいのだ。楚の戦で、お前の後ろから、災いが来るとすれば、それは――昌平君かもしれぬ」


 俺には、理由を語れなかった。昌平君が項燕と通じているなど、前世の知識からの推測に過ぎない。証拠は、何もない。


 だが、蒙恬は。


 しばし俺を見つめ、それから、静かに頷いた。


「……承知いたしました」


「信じて、くれるのか。理由も言えぬのに」


「扶蘇様のお言葉は、肥下で一度、この蒙恬の命を救いました」


 三十路を過ぎ、乳母だった頃よりもなお美しさを増した蒙恬は、静かに微笑んだ。


「理由など、要りませぬ。扶蘇様が『気をつけよ』と仰せなら、この蒙恬、命に代えても、気をつけまする」



 李信りしんの楚攻めは、華々しく始まった。


 二十万の精鋭を率い、李信は楚の地へと雪崩れ込んだ。楚軍は、各地で退き、李信は連戦連勝。平輿へいよを抜き、寝丘しんきゅうを落とし、快進撃かいしんげきを続けた。


「見たか! 王翦の六十万など、不要であった! この李信の二十万で、楚は瞬く間に平らぐ!」


 李信は、勝利に酔った。


 だが、副将・蒙恬は、冷静であった。


(……おかしい。楚の退き方が、整いすぎている)


 敗走にしては、楚軍の退却は、秩序がありすぎた。崩れて逃げるのではなく、一つ一つ、計算された後退。まるで、秦軍を、楚の奥へ奥へと、引き込むかのように。


 扶蘇の言葉が、蒙恬の脳裏のうりに蘇った。


 ――項燕は、わざと退いて、敵を誘い込む将だ。勝っても、追うな。


「李信将軍! お待ちを!」


 蒙恬は、進軍を続けようとする李信を、押し止めた。


「これは、楚の罠にございます! 深追いは、なりませぬ! 項燕は、我らを奥地へ誘い込み、一気に反撃するつもりです!」


「臆病な!」


 李信は、一笑に付した。


「蒙恬、お前まで王翦のように臆病か! 楚は逃げておるのだ! 追い討ちをかけて、一気に項燕の首を獲る! ……続け! 進軍を止めるな!」


 李信は、蒙恬の制止を振り切り、楚の奥へと、突き進んでいった。



 蒙恬は、止まった。


 李信を追うべきか。だが――扶蘇の言葉が、蒙恬を、その場に留まらせた。


(後方に、気をつけろ。とりわけ、昌平君に)


 蒙恬は、自らの隊を進めず、後方へと、偵察ていさつを放った。李信の快進撃に沸く中で、ただ一人、背後を警戒したのだ。


 そして――偵察は、驚くべき報せを持ち帰った。


「申し上げます! 後方に、正体不明の軍が! ……旗印はたじるしは、昌平君様のもの! ですが、その布陣――我ら秦軍の、退路たいろを塞ぐ位置にございます!」


 蒙恬の背筋が、凍りついた。


(扶蘇様の、仰せの通りだ……! 昌平君様が、裏切った!)


 昌平君の軍は、味方の顔をして、秦軍の退路に回り込んでいた。前には項燕、後ろには昌平君。李信の二十万は、知らぬ間に、巨大な挟み撃ちの中へ、誘い込まれていたのだ。


「李信将軍を、呼び戻せ! 急げ!」


 だが――遅かった。



 深追いした李信を、項燕の待ち伏せが、待っていた。


 楚の奥地。退き続けていた楚軍が、突如、反転した。三日三晩、眠らず追い続けて疲れ果てた秦軍へ、項燕の精鋭が、牙を剥いたのだ。


「かかれェッ! 秦軍を、一人も返すな!」


 項燕の号令とともに、伏せていた楚軍が、四方から殺到する。疲れきった李信の軍は、なす術もなく崩れた。


「馬鹿な……! これほどの伏兵が……!」


 李信は、蒼白そうはくになった。


 秦軍は、七つのとりでを次々と破られ、将を失い、見る見るうちに壊滅かいめつしていった。快進撃は、一転して、地獄の敗走と化した。


 蒙恬は、自隊をまとめ、なんとか秩序を保って退こうとした。だが――退く先に、昌平君の軍が、立ち塞がっていた。


「前に進めば項燕、後ろに退けば昌平君……!」


 包囲は、じりじりと縮まっていく。逃げ場はない。蒙恬の隊は、二つの大軍の間で、少しずつ、押し潰されようとしていた。


(このままでは……全滅する)


 剣を握りしめ、蒙恬は、覚悟を決めた。


 脳裏に浮かんだのは、赤子の頃から育ててきた、あの子の顔だった。


(扶蘇様。……お守りすると誓うたのに。この蒙恬、お側に戻れぬかもしれませぬ。……せめて、最期まで、扶蘇様の教えを守り抜いて、散りまする)



 同じ頃。咸陽。


 楚での敗報が届き始めた宮で、俺は、居ても立ってもいられなかった。


(蒙恬……! 無事でいてくれ……!)


 史実では、李信は大敗するが、命は拾う。だが、副将の蒙恬がどうなるかは、史実の記録には、詳しくない。しかも、昌平君の裏切りが加わっている。事態は相当に悪い。


 蒙恬が、死ぬかもしれない。


 そう考えた瞬間、俺は、走り出していた。


 向かった先は――王賁おうほんの屋敷。


「王賁! 頼む、援軍を出してくれ! 蒙恬が、昌平君の裏切りで、挟み撃ちに遭う!」


 王賁は、俺の剣幕けんまくに驚きつつも、苦しげに首を振った。


「扶蘇様。……お気持ちは、分かります。ですが、軍は、王の命令なくして、動かせませぬ。勝手に兵を動かせば、それこそ謀反を疑われまする。……申し訳、ございませぬ」


 正論だった。王賁とて、勝手には動けない。俺は、絶望しかけた。


 その時。


「母上。私の兵なら、どうです?」


 声を上げたのは――王離であった。


「扶蘇様。王家には、王翦の代から蓄えてきた、私兵しへいがございます。国の軍ではない、王家個人の手勢。……これなら、王の命令がなくとも、動かせます!」


「王離……!」


「数は二千。大軍ではありませぬが……挟み撃ちの一角を崩すには、十分かと!」


 王賁が、娘を見た。止めるか、と思いきや――女将は、静かに頷いた。


「……王家の私兵であれば、確かに、理屈は立つ。王離、お前の一存でやるなら、止めはせぬ。……扶蘇様に、受けた恩、返してまいれ」


「はい!」


「待て、王離」


 俺は、逸る二人を、一度、押しとどめた。


「気持ちは、ありがたい。だが、二千で項燕と昌平君の大軍に、正面からぶつかっても、犬死にだ。……勝つための、算段がいる」


「算段、にございますか」


「昌平君は、秦を裏切った。だが、あの軍の兵の全てが、楚に心を寄せているわけではあるまい。昌平君の手勢には、秦人が多く混じっているはずだ。……主君の裏切りに、動揺している兵が、必ずいる」


 俺は、頭の中で、素早く絵図を描いた。


「正面からは、戦わぬ。二千は、昌平君の軍の、最も動揺している一点を突く。そして、声を上げるのだ。『昌平君は楚に国を売った、秦に戻る者は許す』と。……力で崩すのではない。裏切り者の軍を、内側から、崩す」


 王賁が、目を見張った。


「それは……大梁だいりょうで、城を内側から溶かした、あの手……」


「ああ。挟み撃ちを崩すのに、二千の刃はいらぬ。いるのは、二千の声だ。……昌平君の軍が動揺すれば、包囲に穴が開く。その穴から、蒙恬を引きずり出す」


 絶望しかけていた王賁の顔に、光が戻った。


「……承知いたしました。王家の私兵二千、扶蘇様にお預けいたします。娘を――王離を、どうか、よろしくお願い申し上げます」



 出立しゅったつの支度をする俺のもとへ、もう一人、駆けつけた者がいた。


 蒙凛であった。


「扶蘇様! 私も、連れて行ってください!」


「凛……。駄目だ。危険すぎる」


 俺は、首を振った。楚の戦場は、地獄だ。十七になったとはいえ、凛を、そんな場所へ連れて行けはしない。


「……守られてばかりだと、思わないでください」


 凛の声が、震えた。だが、その目は、まっすぐだった。


「扶蘇様。木剣で、私に一度でも勝ったこと、ありますか。……ないでしょう。武では、私の方が上です。母上を守りに行くのに、扶蘇様お一人を、行かせられません。私も、戦います」


 俺は、言葉に詰まった。


 守られる少女ではない。凛は、共に戦う者として、そこに立っていた。母を想う気持ちは、俺に劣らない。いや――母娘なのだ。俺よりも、深いかもしれない。


「……分かった。来い、凛。一緒に、蒙恬を救うぞ」


「はい!」



 かくして――俺は、王離の私兵二千と、蒙凛とともに、楚へと向かった。


 生まれて初めて、俺は、自らの意思で、軍を率いる。母の命令でもなく、後方で見ているだけでもなく。


 力では、勝てぬ。ならば、知略で勝つ。奪うのではなく、崩す。斬るのではなく、心を揺さぶる。……大梁で学んだ戦い方を、今度は、味方を救うために使う。


 守りたい者を、自らの手で守るために。


 裏切り者・昌平君を、内側から崩し、蒙恬を救い出す。


 それが、俺の意思での初めての出陣であった。

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