第17話 深追い無用
俺が十七になった年。楚攻めの下命が下った。
その出陣の前夜。俺は、蒙恬を訪ねた。
「蒙恬。……一つ、聞いてほしいことがある」
「何なりと、扶蘇様」
甲冑の支度を整える蒙恬に、俺は、声を落として告げた。
「楚へ入ったら、決して、項燕を深追いするな。……楚は大国。項燕は、わざと退いて、敵を誘い込む将だ。勝っても、追うな。追えば、罠にかかる」
蒙恬の目が、わずかに見開かれた。肥下の時の忠告を、思い出したのだろう。
「それから――もう一つ」
俺は、さらに声を潜めた。
「後方に、気をつけろ。……とりわけ、昌平君に」
「昌平君様に、にございますか?」
蒙恬は、怪訝な顔をした。昌平君は、嫪毐の乱を鎮めた秦の重臣。裏切りを疑う理由など、表向きには、何もない。
「なぜ、と問われても……答えられぬ。ただ、気をつけてほしいのだ。楚の戦で、お前の後ろから、災いが来るとすれば、それは――昌平君かもしれぬ」
俺には、理由を語れなかった。昌平君が項燕と通じているなど、前世の知識からの推測に過ぎない。証拠は、何もない。
だが、蒙恬は。
しばし俺を見つめ、それから、静かに頷いた。
「……承知いたしました」
「信じて、くれるのか。理由も言えぬのに」
「扶蘇様のお言葉は、肥下で一度、この蒙恬の命を救いました」
三十路を過ぎ、乳母だった頃よりもなお美しさを増した蒙恬は、静かに微笑んだ。
「理由など、要りませぬ。扶蘇様が『気をつけよ』と仰せなら、この蒙恬、命に代えても、気をつけまする」
◆
李信の楚攻めは、華々しく始まった。
二十万の精鋭を率い、李信は楚の地へと雪崩れ込んだ。楚軍は、各地で退き、李信は連戦連勝。平輿を抜き、寝丘を落とし、快進撃を続けた。
「見たか! 王翦の六十万など、不要であった! この李信の二十万で、楚は瞬く間に平らぐ!」
李信は、勝利に酔った。
だが、副将・蒙恬は、冷静であった。
(……おかしい。楚の退き方が、整いすぎている)
敗走にしては、楚軍の退却は、秩序がありすぎた。崩れて逃げるのではなく、一つ一つ、計算された後退。まるで、秦軍を、楚の奥へ奥へと、引き込むかのように。
扶蘇の言葉が、蒙恬の脳裏に蘇った。
――項燕は、わざと退いて、敵を誘い込む将だ。勝っても、追うな。
「李信将軍! お待ちを!」
蒙恬は、進軍を続けようとする李信を、押し止めた。
「これは、楚の罠にございます! 深追いは、なりませぬ! 項燕は、我らを奥地へ誘い込み、一気に反撃するつもりです!」
「臆病な!」
李信は、一笑に付した。
「蒙恬、お前まで王翦のように臆病か! 楚は逃げておるのだ! 追い討ちをかけて、一気に項燕の首を獲る! ……続け! 進軍を止めるな!」
李信は、蒙恬の制止を振り切り、楚の奥へと、突き進んでいった。
◆
蒙恬は、止まった。
李信を追うべきか。だが――扶蘇の言葉が、蒙恬を、その場に留まらせた。
(後方に、気をつけろ。とりわけ、昌平君に)
蒙恬は、自らの隊を進めず、後方へと、偵察を放った。李信の快進撃に沸く中で、ただ一人、背後を警戒したのだ。
そして――偵察は、驚くべき報せを持ち帰った。
「申し上げます! 後方に、正体不明の軍が! ……旗印は、昌平君様のもの! ですが、その布陣――我ら秦軍の、退路を塞ぐ位置にございます!」
蒙恬の背筋が、凍りついた。
(扶蘇様の、仰せの通りだ……! 昌平君様が、裏切った!)
昌平君の軍は、味方の顔をして、秦軍の退路に回り込んでいた。前には項燕、後ろには昌平君。李信の二十万は、知らぬ間に、巨大な挟み撃ちの中へ、誘い込まれていたのだ。
「李信将軍を、呼び戻せ! 急げ!」
だが――遅かった。
◆
深追いした李信を、項燕の待ち伏せが、待っていた。
楚の奥地。退き続けていた楚軍が、突如、反転した。三日三晩、眠らず追い続けて疲れ果てた秦軍へ、項燕の精鋭が、牙を剥いたのだ。
「かかれェッ! 秦軍を、一人も返すな!」
項燕の号令とともに、伏せていた楚軍が、四方から殺到する。疲れきった李信の軍は、なす術もなく崩れた。
「馬鹿な……! これほどの伏兵が……!」
李信は、蒼白になった。
秦軍は、七つの砦を次々と破られ、将を失い、見る見るうちに壊滅していった。快進撃は、一転して、地獄の敗走と化した。
蒙恬は、自隊をまとめ、なんとか秩序を保って退こうとした。だが――退く先に、昌平君の軍が、立ち塞がっていた。
「前に進めば項燕、後ろに退けば昌平君……!」
包囲は、じりじりと縮まっていく。逃げ場はない。蒙恬の隊は、二つの大軍の間で、少しずつ、押し潰されようとしていた。
(このままでは……全滅する)
剣を握りしめ、蒙恬は、覚悟を決めた。
脳裏に浮かんだのは、赤子の頃から育ててきた、あの子の顔だった。
(扶蘇様。……お守りすると誓うたのに。この蒙恬、お側に戻れぬかもしれませぬ。……せめて、最期まで、扶蘇様の教えを守り抜いて、散りまする)
◆
同じ頃。咸陽。
楚での敗報が届き始めた宮で、俺は、居ても立ってもいられなかった。
(蒙恬……! 無事でいてくれ……!)
史実では、李信は大敗するが、命は拾う。だが、副将の蒙恬がどうなるかは、史実の記録には、詳しくない。しかも、昌平君の裏切りが加わっている。事態は相当に悪い。
蒙恬が、死ぬかもしれない。
そう考えた瞬間、俺は、走り出していた。
向かった先は――王賁の屋敷。
「王賁! 頼む、援軍を出してくれ! 蒙恬が、昌平君の裏切りで、挟み撃ちに遭う!」
王賁は、俺の剣幕に驚きつつも、苦しげに首を振った。
「扶蘇様。……お気持ちは、分かります。ですが、軍は、王の命令なくして、動かせませぬ。勝手に兵を動かせば、それこそ謀反を疑われまする。……申し訳、ございませぬ」
正論だった。王賁とて、勝手には動けない。俺は、絶望しかけた。
その時。
「母上。私の兵なら、どうです?」
声を上げたのは――王離であった。
「扶蘇様。王家には、王翦の代から蓄えてきた、私兵がございます。国の軍ではない、王家個人の手勢。……これなら、王の命令がなくとも、動かせます!」
「王離……!」
「数は二千。大軍ではありませぬが……挟み撃ちの一角を崩すには、十分かと!」
王賁が、娘を見た。止めるか、と思いきや――女将は、静かに頷いた。
「……王家の私兵であれば、確かに、理屈は立つ。王離、お前の一存でやるなら、止めはせぬ。……扶蘇様に、受けた恩、返してまいれ」
「はい!」
「待て、王離」
俺は、逸る二人を、一度、押しとどめた。
「気持ちは、ありがたい。だが、二千で項燕と昌平君の大軍に、正面からぶつかっても、犬死にだ。……勝つための、算段がいる」
「算段、にございますか」
「昌平君は、秦を裏切った。だが、あの軍の兵の全てが、楚に心を寄せているわけではあるまい。昌平君の手勢には、秦人が多く混じっているはずだ。……主君の裏切りに、動揺している兵が、必ずいる」
俺は、頭の中で、素早く絵図を描いた。
「正面からは、戦わぬ。二千は、昌平君の軍の、最も動揺している一点を突く。そして、声を上げるのだ。『昌平君は楚に国を売った、秦に戻る者は許す』と。……力で崩すのではない。裏切り者の軍を、内側から、崩す」
王賁が、目を見張った。
「それは……大梁で、城を内側から溶かした、あの手……」
「ああ。挟み撃ちを崩すのに、二千の刃はいらぬ。いるのは、二千の声だ。……昌平君の軍が動揺すれば、包囲に穴が開く。その穴から、蒙恬を引きずり出す」
絶望しかけていた王賁の顔に、光が戻った。
「……承知いたしました。王家の私兵二千、扶蘇様にお預けいたします。娘を――王離を、どうか、よろしくお願い申し上げます」
◆
出立の支度をする俺のもとへ、もう一人、駆けつけた者がいた。
蒙凛であった。
「扶蘇様! 私も、連れて行ってください!」
「凛……。駄目だ。危険すぎる」
俺は、首を振った。楚の戦場は、地獄だ。十七になったとはいえ、凛を、そんな場所へ連れて行けはしない。
「……守られてばかりだと、思わないでください」
凛の声が、震えた。だが、その目は、まっすぐだった。
「扶蘇様。木剣で、私に一度でも勝ったこと、ありますか。……ないでしょう。武では、私の方が上です。母上を守りに行くのに、扶蘇様お一人を、行かせられません。私も、戦います」
俺は、言葉に詰まった。
守られる少女ではない。凛は、共に戦う者として、そこに立っていた。母を想う気持ちは、俺に劣らない。いや――母娘なのだ。俺よりも、深いかもしれない。
「……分かった。来い、凛。一緒に、蒙恬を救うぞ」
「はい!」
◆
かくして――俺は、王離の私兵二千と、蒙凛とともに、楚へと向かった。
生まれて初めて、俺は、自らの意思で、軍を率いる。母の命令でもなく、後方で見ているだけでもなく。
力では、勝てぬ。ならば、知略で勝つ。奪うのではなく、崩す。斬るのではなく、心を揺さぶる。……大梁で学んだ戦い方を、今度は、味方を救うために使う。
守りたい者を、自らの手で守るために。
裏切り者・昌平君を、内側から崩し、蒙恬を救い出す。
それが、俺の意思での初めての出陣であった。




