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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第1章 戦国の終焉編

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第16話 二十万と六十万

 魏が水底みなそこに沈み、天下に残る大国は、もはや二つ。南の大国・楚と、東の斉のみとなった。


 政は、次の標的ひょうてきを、楚に定めた。


「扶蘇。楚を攻めるに、誰を大将とすべきか」


 いつものように、二人だけの一室で、政は俺に問うた。俺の見立てを、母は重んじるようになっていた。肥下も、李牧も、荊軻も、俺の言は外れなかったのだから。


王翦おうせん将軍にございます」


 俺は、即答した。


「楚は、六国随一の大国。土地は広く、兵は多く、将・項燕こうえんは名将にございます。生半可なまはんかな将、生半可な兵では、返り討ちに遭いましょう。……楚を獲るなら、王翦。それも、大軍を与えねばなりませぬ」


 政は、頷きかけた。


 俺の言葉に、理を認めた顔だった。だが――事は、俺の思う通りには、運ばなかった。



 噂を聞きつけた者がいた。


 李信りしんである。


 易水で武功を挙げ、政の寵愛ちょうあいを受ける若き将。叩き上げの彼にとって、楚攻めの大将は、喉から手が出るほど欲しい栄誉であった。王翦が大将になれば、自分の出番はなくなる。


 その夜。李信は、政の私室を訪れた。


 貴重な男であり、政が唯一情を傾ける相手。その立場を、李信は使った。


 ねやで、政の肌に指をわせながら、李信は囁いた。


「王よ。……楚攻めの大将、この李信に、お命じくださいませ」


「李信……お前が?」


「王翦は、老いました。老将の慎重な戦では、時がかかりすぎまする。……この李信なら、若き力で、一気に楚を飲み込んでご覧に入れましょう」


 甘い声と、巧みな愛撫あいぶ。氷の女帝も、この若い男の前では、一人の女に戻る。政の理性は、肉のよろこびに、静かに溶かされていった。


「……お前は、本当に、勝てるのか」


「お任せを。……この李信の全て、王に捧げまする」



 数日後。政は、王翦と李信の二人を召した。


 形の上では、公平な下問かもんであった。俺も、末席まっせきに控えていた。


「楚を討つに、いかほどの兵が要るか。……王翦、お前から申せ」


 老将・王翦は、静かに答えた。


「六十万。……それ以下では、楚は獲れませぬ」


 広間が、ざわめいた。


 六十万。それは、秦の全兵力に、限りなく近い数だった。国の兵を、ほぼ残らず、楚へ注ぎ込むということ。


「楚は広く、兵は多く、項燕は手強い。小勢で挑めば、必ず敗れまする。六十万を以て、重く、確実に押し潰す。……それが、楚を獲る唯一の道にございます」


「李信。お前はどうだ」


 若き将は、胸を張った。


「二十万。……それで十分にございます」


 再び、ざわめきが走った。


「王翦将軍は、老いて臆病になられた。六十万など、不要。楚は大国なれど、近年は内に乱れあり。二十万の精鋭を以て一気に突けば、三月で楚を平らげてご覧に入れましょう!」


 俺は、背筋が凍るのを感じた。


(違う……! 李信では、勝てぬ!)


 俺は知っている。史実で李信は、二十万を率いて楚へ攻め込み――項燕に大敗するのだ。秦は七つのとりでを破られ、将を失い、さんざんに打ち破られる。そして結局、王翦が六十万を率いて、楚を滅ぼすことになる。


 李信の二十万は、敗北への道なのだ。



「母上!」


 俺は、末席から、思わず声を上げた。


「畏れながら、申し上げます。……李信将軍の、二十万では、楚は獲れませぬ。ここは王翦将軍の申す通り、六十万を――」


「扶蘇」


 政の声が、俺をさえぎった。


「六十万は、秦の全兵力ぞ。それを一つの戦に注ぎ込めば、万が一の時、国が傾く。斉が背後を突けば、どうする。……二十万で済むなら、それに越したことはない」


「されど、李信では――!」


「扶蘇。お前は、李信が敗れると、なぜ言い切れる」


 俺は、言葉に詰まった。


 言えるはずがなかった。「史実でそうだから」などと。前世の知識を、根拠にできはしない。


「そ、楚は大国。項燕は名将。二十万では、数が足りませぬ。それは、理の当然で――」


「理の当然なら、李信もまた、理を述べておる」


 政の声は、冷ややかだった。だが、その奥に、俺の知らぬ計算があった。


「聞け、扶蘇。王翦は、老いた。あの者が去った後、秦の兵を率いるのは、誰だ。……次の世代の将を、育てねばならぬ。李信は若く、勢いがある。此度の楚攻め、あれに大功を挙げさせ、王翦の後を継ぐ将に、育てるのだ」


 母の言葉には、確かに、為政者の筋があった。


「若い将に、大きな戦を任せる。危うさは、承知の上。だが、いつまでも王翦一人に頼っておっては、その王翦が倒れた時、秦は将を失う。……李信に、賭けてみる。二十万で楚を獲れば、あれは名実ともに、次の柱となろう」


 筋は通っていた。老いた名将に頼りきる危うさも、次代を育てる必要も正しい。


 だが――俺には、分かっていた。その正しい理屈の底に、昨夜の閨の熱が、静かに横たわっていることを。李信への情が、母の目を、わずかに曇らせている。育成という大義が、その情を、もっともらしく飾っているのだ。


 母自身、それに気づいているのか、いないのか。


「楚攻めの大将は、李信とする。兵は二十万」


 政は、決した。


「扶蘇。お前の意見は、聞いた。だが、此度は用いぬ」


 初めてだった。


 肥下以来、俺の進言が、退けられたのは。俺の知略が、母に届かなかったのは。



 だが、俺を打ちのめしたのは、それだけではなかった。


「李信の副将には――蒙恬を付ける」


 政の一言に、俺は、愕然がくぜんとした。


 蒙恬が。


 俺の乳母。俺の師。俺が守りたいと願う、あの蒙恬が。敗れると分かっている李信の軍の、副将として、楚へおもむく――。


 肥下の時は、俺の一言が、蒙恬を救った。だが今度は、俺の言葉は、母に届かない。蒙恬は、敗北が約束された戦場へ、向かおうとしている。そして俺には、それを止める力がない。


 末席で拳を握りしめる俺を、李信が、ちらりと見た。勝ち誇った、若い男の目。その傍らで、蒙恬は、静かに頭を垂れていた。



 そして――その裏で。


 誰も知らぬところで、一つの密談が、交わされていた。


 昌平君しょうへいくん。かつて嫪毐ろうあいの乱を鎮めた、秦の重臣である。その昌平君が、夜陰やいんに紛れ、一人の男と向かい合っていた。


 楚の将・項燕が放った、密使みっしであった。


「昌平君様。……項燕将軍は、申しております。時、来たれり、と」


 昌平君は、杯を傾けながら、静かに聞いていた。


 彼女の血には、楚の王家の血が流れている。秦に仕えながらも、その胸の奥には、滅びゆく故国・楚への想いが、消えずにくすぶっていた。


「李信が、二十万で攻めてくる……そう聞いておる」


 昌平君は、唇の端を、わずかに上げた。


「若くおごった将よ。項燕将軍の敵ではない。……好機だ」


 滅びゆく六国の中で、楚だけが、まだ牙を隠している。そして秦の内側には、楚の血を引く重臣が、静かに時を待っていた。


 李信の二十万が、楚へと向かう。


 その行く手には――名将・項燕と、内に潜む裏切りの影が、待ち受けていた。


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