第16話 二十万と六十万
魏が水底に沈み、天下に残る大国は、もはや二つ。南の大国・楚と、東の斉のみとなった。
政は、次の標的を、楚に定めた。
「扶蘇。楚を攻めるに、誰を大将とすべきか」
いつものように、二人だけの一室で、政は俺に問うた。俺の見立てを、母は重んじるようになっていた。肥下も、李牧も、荊軻も、俺の言は外れなかったのだから。
「王翦将軍にございます」
俺は、即答した。
「楚は、六国随一の大国。土地は広く、兵は多く、将・項燕は名将にございます。生半可な将、生半可な兵では、返り討ちに遭いましょう。……楚を獲るなら、王翦。それも、大軍を与えねばなりませぬ」
政は、頷きかけた。
俺の言葉に、理を認めた顔だった。だが――事は、俺の思う通りには、運ばなかった。
◆
噂を聞きつけた者がいた。
李信である。
易水で武功を挙げ、政の寵愛を受ける若き将。叩き上げの彼にとって、楚攻めの大将は、喉から手が出るほど欲しい栄誉であった。王翦が大将になれば、自分の出番はなくなる。
その夜。李信は、政の私室を訪れた。
貴重な男であり、政が唯一情を傾ける相手。その立場を、李信は使った。
閨で、政の肌に指を這わせながら、李信は囁いた。
「王よ。……楚攻めの大将、この李信に、お命じくださいませ」
「李信……お前が?」
「王翦は、老いました。老将の慎重な戦では、時がかかりすぎまする。……この李信なら、若き力で、一気に楚を飲み込んでご覧に入れましょう」
甘い声と、巧みな愛撫。氷の女帝も、この若い男の前では、一人の女に戻る。政の理性は、肉の悦びに、静かに溶かされていった。
「……お前は、本当に、勝てるのか」
「お任せを。……この李信の全て、王に捧げまする」
◆
数日後。政は、王翦と李信の二人を召した。
形の上では、公平な下問であった。俺も、末席に控えていた。
「楚を討つに、いかほどの兵が要るか。……王翦、お前から申せ」
老将・王翦は、静かに答えた。
「六十万。……それ以下では、楚は獲れませぬ」
広間が、ざわめいた。
六十万。それは、秦の全兵力に、限りなく近い数だった。国の兵を、ほぼ残らず、楚へ注ぎ込むということ。
「楚は広く、兵は多く、項燕は手強い。小勢で挑めば、必ず敗れまする。六十万を以て、重く、確実に押し潰す。……それが、楚を獲る唯一の道にございます」
「李信。お前はどうだ」
若き将は、胸を張った。
「二十万。……それで十分にございます」
再び、ざわめきが走った。
「王翦将軍は、老いて臆病になられた。六十万など、不要。楚は大国なれど、近年は内に乱れあり。二十万の精鋭を以て一気に突けば、三月で楚を平らげてご覧に入れましょう!」
俺は、背筋が凍るのを感じた。
(違う……! 李信では、勝てぬ!)
俺は知っている。史実で李信は、二十万を率いて楚へ攻め込み――項燕に大敗するのだ。秦は七つの砦を破られ、将を失い、さんざんに打ち破られる。そして結局、王翦が六十万を率いて、楚を滅ぼすことになる。
李信の二十万は、敗北への道なのだ。
◆
「母上!」
俺は、末席から、思わず声を上げた。
「畏れながら、申し上げます。……李信将軍の、二十万では、楚は獲れませぬ。ここは王翦将軍の申す通り、六十万を――」
「扶蘇」
政の声が、俺を遮った。
「六十万は、秦の全兵力ぞ。それを一つの戦に注ぎ込めば、万が一の時、国が傾く。斉が背後を突けば、どうする。……二十万で済むなら、それに越したことはない」
「されど、李信では――!」
「扶蘇。お前は、李信が敗れると、なぜ言い切れる」
俺は、言葉に詰まった。
言えるはずがなかった。「史実でそうだから」などと。前世の知識を、根拠にできはしない。
「そ、楚は大国。項燕は名将。二十万では、数が足りませぬ。それは、理の当然で――」
「理の当然なら、李信もまた、理を述べておる」
政の声は、冷ややかだった。だが、その奥に、俺の知らぬ計算があった。
「聞け、扶蘇。王翦は、老いた。あの者が去った後、秦の兵を率いるのは、誰だ。……次の世代の将を、育てねばならぬ。李信は若く、勢いがある。此度の楚攻め、あれに大功を挙げさせ、王翦の後を継ぐ将に、育てるのだ」
母の言葉には、確かに、為政者の筋があった。
「若い将に、大きな戦を任せる。危うさは、承知の上。だが、いつまでも王翦一人に頼っておっては、その王翦が倒れた時、秦は将を失う。……李信に、賭けてみる。二十万で楚を獲れば、あれは名実ともに、次の柱となろう」
筋は通っていた。老いた名将に頼りきる危うさも、次代を育てる必要も正しい。
だが――俺には、分かっていた。その正しい理屈の底に、昨夜の閨の熱が、静かに横たわっていることを。李信への情が、母の目を、わずかに曇らせている。育成という大義が、その情を、もっともらしく飾っているのだ。
母自身、それに気づいているのか、いないのか。
「楚攻めの大将は、李信とする。兵は二十万」
政は、決した。
「扶蘇。お前の意見は、聞いた。だが、此度は用いぬ」
初めてだった。
肥下以来、俺の進言が、退けられたのは。俺の知略が、母に届かなかったのは。
◆
だが、俺を打ちのめしたのは、それだけではなかった。
「李信の副将には――蒙恬を付ける」
政の一言に、俺は、愕然とした。
蒙恬が。
俺の乳母。俺の師。俺が守りたいと願う、あの蒙恬が。敗れると分かっている李信の軍の、副将として、楚へ赴く――。
肥下の時は、俺の一言が、蒙恬を救った。だが今度は、俺の言葉は、母に届かない。蒙恬は、敗北が約束された戦場へ、向かおうとしている。そして俺には、それを止める力がない。
末席で拳を握りしめる俺を、李信が、ちらりと見た。勝ち誇った、若い男の目。その傍らで、蒙恬は、静かに頭を垂れていた。
◆
そして――その裏で。
誰も知らぬところで、一つの密談が、交わされていた。
昌平君。かつて嫪毐の乱を鎮めた、秦の重臣である。その昌平君が、夜陰に紛れ、一人の男と向かい合っていた。
楚の将・項燕が放った、密使であった。
「昌平君様。……項燕将軍は、申しております。時、来たれり、と」
昌平君は、杯を傾けながら、静かに聞いていた。
彼女の血には、楚の王家の血が流れている。秦に仕えながらも、その胸の奥には、滅びゆく故国・楚への想いが、消えずに燻っていた。
「李信が、二十万で攻めてくる……そう聞いておる」
昌平君は、唇の端を、わずかに上げた。
「若く驕った将よ。項燕将軍の敵ではない。……好機だ」
滅びゆく六国の中で、楚だけが、まだ牙を隠している。そして秦の内側には、楚の血を引く重臣が、静かに時を待っていた。
李信の二十万が、楚へと向かう。
その行く手には――名将・項燕と、内に潜む裏切りの影が、待ち受けていた。




