第15話 受け継いだ血
俺は十歳になった。
韓を呑み込んだ秦は、その領土だけでなく、戸籍や兵、物資まで自国のものとして組み込み始めていた。新たに得た土地を治めるための官吏が送り込まれ、各地から集められた兵も再編されていく。国が一つ消えたという事実は重かったが、その結果として秦の軍事力が以前より大きくなったことも否定できなかった。
そして、その力が次に向けられた先は趙だった。
かつて桓齮が敗れ、秦軍が大損害を受けた相手。
俺にとっても忘れられない国だった。
「趙へ再び兵を出す」
母上がそう決めたと聞いた時、驚きはしなかった。
むしろ、いずれこうなると思っていた。
秦が天下統一を目指す以上、韓一国を呑み込んだところで止まるはずがない。まして趙は秦にとって東へ進むうえで避けては通れない大国であり、あの敗北をそのままにしておく母上でもなかった。
今回の大将に選ばれたのは、王翦だった。
◆
出陣前、三人の将が宮中へ呼ばれた。
俺も母上に呼ばれ、その場へ同席することになった。
王翦は四十代後半ほどに見える女だった。派手な装飾を好む様子はなく、鎧の上からでも落ち着いた雰囲気が伝わってくる。武将というより学者にも見える知性的な顔立ちだったが、その目だけは妙に冷静で、こちらを見ながら何かを量っているようなところがあった。
前世でも、俺は彼女の名をよく知っている。
秦による六国征服を語るうえで外せない名将。
派手な奇策よりも、勝てる条件を整えてから確実に勝つ。
俺が知っている王翦は、そういう将だった。
その両脇には二人の副将が立っていた。
一人は楊端和。
年齢は蒙恬と同じくらいだろうか。日に焼けた肌に、秦の女たちとは少し違う目鼻立ちをしている。前世の感覚で言えば、西方の血でも入っているのかと思わせる顔だった。
どこか異国めいた美しさがある。
もう一人は、羌瘣だった。
二十代前半にしか見えない。
肌は白く、口数も少なそうで、一見しただけなら大軍を率いる将には見えない。ただし腰に佩いた剣と、その立ち方を見れば印象は変わった。
余計な力が入っていない。
重心がどこにあるのか、見ていて分からないほど自然に立っている。
剣を抜けば速そうだ。
そんなことを考えながら三人を見ていた。
王翦は知っている。
でも、楊端和と羌瘣については、前世でも名前くらいしか知らなかった。
史書には確かに名が残っている。
けれど、どんな性格だったのか、どんな声で話し、何を考えて戦ったのかまでは分からない。
歴史を知っているつもりでも、知っているのは文字になった結果だけなのだ。
「今回の狙いは、趙軍そのものを消耗させることではない」
母上が地図を見ながら言った。
「趙の力を削り、次の攻めにつなげる。無理に深入りする必要はない」
「承知しております」
王翦は静かに頭を下げた。
「李牧が出てくる可能性は?」
「高いでしょう」
答えたのは楊端和だった。
「桓齮を破った将を、趙が使わぬ理由がありません」
「司馬尚もいる」
今度は羌瘣が短く言った。
声は思っていたより柔らかかった。
「二人が同時に出れば、容易ではありません」
王翦も否定しなかった。
その言葉を聞きながら、俺の胸の奥に嫌な感覚が蘇った。
李牧。
司馬尚。
どちらも厄介だ。
まともに戦えば、秦側がどれほどの兵を用意しても簡単には勝てない。
少なくとも俺が知っている歴史では、李牧は秦軍に正面から討ち取られた将ではなかった。
◆
三人の将が退出したあと、俺も部屋を出ようとした。
「扶蘇」
母上に呼び止められた。
「はい」
「お前はどう思う」
「何がですか?」
「趙との戦だ」
思わず母上の顔を見た。
単なる世間話をする顔ではない。
あの目だ。
俺が何を答えるのか、試している。
「勝てると思うか?」
少し考えた。
下手なことを言うべきではない。
未来知識をそのまま話すわけにもいかない。
それでも、ここで適当なことを答えれば、母上はすぐ気づくだろう。
「まともに戦えば、難しいと思います」
「ほう」
「李牧と司馬尚が一緒にいるなら、正面から勝とうとするのは危ないです」
母上は何も言わず、続きを待った。
「なら、どうする?」
その問いに、俺は少し迷った。
だが結局、知っていることを完全に無視することもできなかった。
「戦う前に、二人をいなくします」
「暗殺するのか?」
「違います」
俺は首を振った。
「趙の偉い人たちを買収します」
母上の眉がわずかに動いた。
「二人が裏切ろうとしているとか、王を追い落とそうとしているとか、そういう噂を流すんです。趙王が二人を信用できなくなれば、戦場から外してくれるかもしれません」
言い終わってから、自分でも十歳の子供が話す内容ではないと思った。
兵を増やせでも、奇襲しろでもない。
敵国の中枢へ金を流して、その国自身に優秀な将を排除させる。
前世で知っている歴史がなければ、俺だってそう簡単には思いつかなかっただろう。
母上は返事をしなかった。
ただ、じっと俺の顔を見ていた。
「……母上?」
何だ、その目は。
妙に怖い。
「何か変なことを言いましたか?」
「いや」
母上はようやく口を開いた。
「続けろ」
「これ以上はないです」
「買収する相手は?」
そこまでは知らない。
史実で秦が趙の重臣へ金をばら撒き、李牧を失脚させたという流れは知っているが、その細部まで俺の頭に残っているわけではなかった。
「それは……趙の内情に詳しい人に調べてもらわないと分かりません」
「そうか」
母上はまた俺を見る。
やっぱり気味が悪い。
俺が何か失敗したのかと思いながら、その場に立っていた。
◆
政は、目の前の息子を見つめていた。
十歳の子供に、敵国の名将をどう破るかと聞いた。
普通なら、より多くの兵を用意すると答えるだろう。
あるいは奇襲や罠を口にするかもしれない。
だが扶蘇は違った。
戦場で勝てないなら、戦場へ出てこられなくすればいい。
敵国の臣を金で買い、その者たちの口から王へ疑念を吹き込ませる。
その発想を聞いた瞬間、政の脳裏には一人の男が浮かんでいた。
呂不韋。
商人として人の欲を見抜き、金と利によって人を動かしてきた男。
そして、扶蘇の父。
やはり、あの男の子なのだ。
そう思った直後、政は胸の奥に嫌な感触を覚えた。
自分にも同じ血が流れている。
呂不韋は扶蘇の父であると同時に、自分の父でもあった。
知りたくもなかった事実だ。
それでも、一度知ってしまえば消すことはできない。
目の前にいる息子の中に呂不韋を感じるたび、自分自身の中にも同じものがあるのではないかと思ってしまう。
「母上?」
扶蘇が不安そうな顔をしている。
政はそこでようやく我に返った。
「いや、何でもない」
そう答えながらも、視線を完全に逸らすことはできなかった。
◆
その様子を、少し離れた場所から見ている女がいた。
趙高だった。
かつて牢の記録を扱う役人にすぎなかった彼女は、細かな仕事を間違えず、人の顔と命令を覚えることにも長けていた。その才覚を買われ、少しずつ王宮の内側へ仕事を移し、今では政の近くで文書や連絡を扱う機会も増えている。
誰も知らない秘密を抱えたまま。
扶蘇の父は呂不韋。
そして、政の父も呂不韋。
牢で偶然聞いてしまったその事実を、趙高は誰にも話していなかった。
話せば自分が消される。
だから黙っている。
しかし忘れてはいない。
扶蘇の策を聞いた時、趙高は静かに目を細めた。
十歳で、敵国の重臣を買収して名将を失脚させることを考える。
それを聞いた政も、息子を見ながら何かを思っていた。
おそらく同じ男のことだろう。
この母子には、あの男の影が濃すぎる。
趙高には、そう見えた。
扶蘇は王の長子であり、男でもある。
この国では、それだけで次代の王として大きな意味を持つ。
だが、その出生の真実が表へ出ればどうなる。
王が自らの父との間に産んだ子。
秦王家の正統そのものを揺さぶりかねない秘密を、その身に抱えている。
あまりにも危うい。
次の王は、別の王子であるべきだ。
趙高の頭に、一人の幼い男児が浮かんだ。
胡亥。
政のもう一人の息子。
少なくとも、扶蘇のような出生ではない。
今はまだ幼い。
何も知らない。
だからこそ、育て方次第ではどうにでもなる。
趙高は表情を変えず、その考えを胸の奥へしまった。
◆
その日の夕方、俺は胡亥と遊んでいた。
まだ小さな弟は、最近ようやく言葉が増えてきたばかりだ。
「にいさま、これ」
差し出してきたのは、木で作られた小さな馬だった。
「馬?」
「うま」
「走らせるのか?」
「うん」
床の上で木馬を動かすと、胡亥は嬉しそうに笑った。
俺が少し速く動かすと追いかけ、自分の木馬をぶつけてくる。
「いたっ」
「いたい?」
「馬がな」
「ごめんなさい」
真剣な顔で木馬に謝る。
思わず笑った。
「兄上、もう一回」
「はいはい」
木馬を床に置き、もう一度走らせる。
胡亥は楽しそうについてきた。
こうしていると、本当にただの弟だった。
俺を見ると笑う。
見つければ寄ってくる。
時々、俺の袖を掴んで離さない。
史実で知っている胡亥とは、どうしても重ならない。
俺が知っている歴史では、この弟が二世皇帝になる。
そして趙高と李斯に担がれ、偽詔によって俺へ死を命じる側に立つ。
けれど、目の前にいるのはそんな未来を何も知らない幼い子供だ。
「にいさま?」
俺が黙ったせいか、胡亥が不思議そうに顔を覗き込んできた。
「何でもない」
頭を撫でると、すぐに笑った。
この子は、本当に俺の敵になるのだろうか。
それとも、歴史はもう変わっているのだから、この弟の未来だって変えられるのだろうか。
答えは分からない。
ただ一つだけ、前よりはっきりしていることがあった。
俺は、この子をまだ敵だと思いたくない。
未来に何が書かれていたとしても、今ここにいる胡亥は、俺の指を握って笑っている弟なのだから。




