第15話 水底の都
軍は魏の王都・大梁を完全に包囲した。
だが大梁は堅城であった。高くそびえる城壁。幾重にも巡らされた濠。力攻めにすれば甚大な犠牲が出る。攻めあぐねる形が幾日か続いた。
その城を俺は王賁とともに遠望していた。
大梁の周囲を流れる二つの大河。北の黄河と、それに繋がる運河・鴻溝。城はその豊かな水の中に築かれている。
俺はその地形を見て、王賁の腹の内を察した。
「王賁。……水攻めにするつもりだな」
王賁が弾かれたように俺を見た。
「――お分かりに、なりますか」
「この地形で、この堅城だ。力攻めを避けるなら水しかない。……お前ほどの将が、この黄河を見過ごすはずがない」
傍らの蒙恬すら目を見張っていた。
「扶蘇様。将の腹の内を読まれるとは……この蒙恬、舌を巻きまする」
王賁は苦笑した。
「仰せの通り。黄河と鴻溝の堤を切り、一気に大梁へ流し込む。城もろとも水底に沈めてご覧に入れましょう」
――一気に、沈める。
その言葉に、俺は眉を寄せた。
◆
「王賁。……一気に、と言ったな」
「はい。堤を大きく切り、濁流を叩き込みます。城は半日で水没し、抵抗する間もなく陥落いたしましょう」
「ならぬ」
俺は遮った。
「一気に沈めれば、城の中の民はどうなる」
王賁が口を噤んだ。
「あの城の中には兵だけではない。何万という魏の民がいる。老人も女も子供も。……濁流を叩き込めば、その者たちは逃げる間もなく溺れて死ぬ」
「ですが扶蘇様。それが水攻めというもの」
「一気にやるから、そうなる」
俺は城を指した。
「徐々にやれ。堤を少しずつ切る。水をゆっくりと城へ滲み込ませるのだ。折よく、この数日は長雨が続いている。天の水と黄河の水。二つを合わせ、時をかけて水位を上げていく」
「時をかけて……? なぜ、わざわざ手間のかかる方を」
「その方が、民が逃げられるからだ」
俺は王賁の目をまっすぐに見た。
「水が徐々に満ちれば、城内の者は皆、逃げ場を求めて外へ出ようとする。……その出てきた者を、俺たちが救うのだ」
◆
水攻めが始まった。
王賁は俺の策を容れた。堤は少しずつ切られ、折からの長雨がそれを助けた。大梁の周りに、水はゆっくりと、しかし確実に満ちていく。濠が溢れ、城壁の裾が浸かり、城内の低い土地から順に沈んでいった。
城内の民は恐怖に駆られた。
日ごとに水位が上がる。家が沈み、井戸が濁り、食料が水に浸かる。このままでは城ごと水底に沈む。……民たちは次々と城の外へ逃げ出し始めた。
そして、その逃げ出してきた者を。
秦軍は――救った。
「舟を出せ! 溺れる前に引き上げよ!」
王賁の号令で、無数の舟が水面を進む。城を出て水に難儀する民を舟に乗せ、高台へ運ぶ。高台には炊き出しの支度が整えられていた。温かい粥が配られ、濡れた体を拭う布が渡される。
「敵国の我らを……なぜ助ける」
震える魏の民に、秦の兵は言った。
「公子・扶蘇様のお指図だ。……城を出た者は、敵味方問わず救えとな」
◆
噂は城内へ逆流するように広がった。
――城を出れば秦に救われる。舟で助けられ、炊き出しが振る舞われ、高台で守られる、と。
最初は民だけだった。だがやがて、城を守る兵の中にも脱走する者が現れ始めた。水に沈みゆく城で飢えと恐怖に耐えるより、城を出て秦に降る方が生きられる。そう考える兵が後を絶たなくなった。
脱走兵もまた、扶蘇の命で殺されることなく受け入れられた。降る者は救われる。その一事が、城の守りを内側から溶かしていった。
水が城を沈め、噂が人の心を沈める。
大梁は外からの水と、内からの離散で、二重に崩れていった。
城を守る兵は日に日に減っていく。水攻めが始まって三月の後、大梁を守る兵は、もはや城壁を埋める数すら残っていなかった。
魏王・仮は、ついに降伏した。
◆
魏王は捕縛され、秦へと護送されていく。
韓、趙、燕、そして魏。四つ目の国が地図から消えた。残るは楚と斉。天下統一は、もはや目前に迫っていた。
水の引き始めた大梁を、俺は高台から見下ろしていた。
泥にまみれた街。それでも城を出て生き延びた民は、数えきれぬほどいた。高台には救われた魏の民と、降った兵が身を寄せ合っている。城を一つ落とすのに、これほど人が生き残った戦は、かつてなかったかもしれない。
王賁が俺の隣に立った。
「……正直、驚きました」
女将は静かに言った。
「徐々に水を満たせば、城を落とすのに三月もかかる。一気に沈めれば半日であったものを。将として見れば、愚策にございます」
「そうだな」
「ですが」
王賁は高台の民を見た。
「三月かけて、あなたは城を落とし、民を救い、敵兵すら味方に変えた。水で城を攻め、情けで人を攻める。……一気に沈めるより、余程恐ろしい攻め方だ」
俺は答えなかった。
恐ろしいと言われて、素直に喜べはしなかった。三月の間、救えなかった者も大勢いた。水に呑まれ、逃げ遅れ、命を落とした者が。俺の策は決して完全ではない。
だが、城を出れば助かると知って生きることを選んだ者たちが、今、目の前にいる。
それで良しとするしかなかった。
魏は滅んだ。
◆
咸陽に勝報が届いたのは、それから半月の後であった。
玉座の政の前で、使者が声を張る。
「魏王・仮、降伏。大梁、陥落にございます」
政は静かに頷いた。だが使者の言上は、それで終わらなかった。
「此度の戦、公子・扶蘇様は……まず、村々で略奪を働いた兵をことごとく捕縛し、軍法に照らして裁かれましてございます」
「……ほう」
「さらに戦功を上げた者を、身分の上下を問わず調べ上げ、その場で報償されました。兵の士気は、いまだかつてなく高こうございます」
政の指が玉座の肘掛けを、とん、と叩いた。
「そして大梁は、水攻めにて。……ただし一気にではなく、三月をかけて水を満たし、逃れ出た魏の民と兵をことごとく救い上げられました」
◆
使者が退がった後も、政はしばらく動かなかった。
……初陣である。
まだ年端もゆかぬ子が、軍の規律を正し、将の功を見抜き、堅城を水で沈めた。しかもその水すら、民を殺さぬために遅らせたという。
(末恐ろしい子だ)
武を知り、法を知り、人の心を知っている。……己の跡を継ぐ器として、これほどの者は、他におらぬ。
王の素質がある。認めるほか、なかった。
だが。
その先を思うと、政の胸は塞がった。
……あの子の血。嬴氏の血は、四分の一に過ぎぬ。残る大半は、あの男のものだ。
呂不韋。
(私が父を斃し、この手で握った秦を。天下を。……あの商人の血に、渡すのか)
継がせるに足る子は、扶蘇しかおらぬ。だが、その扶蘇こそが最も濃く、あの男の血を引いている。
政は玉座で、長いあいだ、目を閉じていた。
誰にも告げられぬ迷いだけが、静かに胸の底へ沈んでいった。




