第14話 初陣
俺が十四になった、ある日。政は俺を呼び、唐突に言った。
「扶蘇。そろそろ、戦を経験せよ」
「戦、にございますか」
「うむ。次の魏攻め、お前も従軍せよ。……なに、案ずるな。私とて、お前くらいの年に、初めて戦を見た。王たる者、机上の兵法だけでは、務まらぬ」
母の声には、珍しく、教すような響きがあった。
思えば、政もまた、若くして苛烈な権力闘争を生き抜いてきた女だ。嫪毐の乱、呂不韋の乱。血で血を洗う宮廷を、自らの才覚で渡ってきた。その母が、俺に「戦を見よ」と言う。それは、王となるための通過儀礼であった。
「……承知、いたしました」
俺は、頭を垂れた。
荊軻を斬ったとはいえ、あれは突発的な出来事。軍に身を置き、本物の戦場に立つのは、初めてだ。
◆
「緊張しておいでですね、扶蘇様」
出陣の前夜。甲冑の具合を確かめる俺の手が、わずかに震えているのを、蒙恬は見逃さなかった。
「……分かるか」
「長い付き合いにございますれば」
蒙恬は、柔らかく微笑むと、俺の震える手に、自分の手を重ねた。
「案じられますな。私が、お側におります」
その一言で、強ばっていた肩から、すっと力が抜けた。
「扶蘇様が赤子の頃から、この蒙恬、ずっとお側におりました。戦場とて、同じこと。何があろうと、私が扶蘇様をお守りいたします。……だから、安心して、戦をご覧なさいませ」
三十路を過ぎた乳母の言葉は、温かかった。母の政が与えぬ種類の、優しさだった。
「……ああ。頼りにしている、蒙恬」
俺は頷いた。震えは、いつの間にか、止まっていた。
◆
魏攻めの大将は、王賁であった。
邯鄲の夜、李牧を弔う俺を見て「珍しいものを見た」と言った、あの女将。父・王翦に並ぶ名将として、今や秦軍の柱の一人である。
そして、その軍には――王離もいた。
「お久しゅうございます、扶蘇様!」
数年前、邯鄲で会った時には、きょとんとした少女だった王離は、見違えるほど大きくなっていた。背は伸び、体躯は引き締まり、祖母・王翦、母・王賁の血を継ぐ、凛々しい若武者になっている。王離もまた、これが初陣であった。
「王離。……立派になったな」
「はい! 今日は、扶蘇様の前で、王家の武を、お見せいたします!」
王離の目は、初陣の緊張よりも、期待と闘志に輝いていた。俺とは大違いだ、と少し苦笑した。
◆
戦は、野戦から始まった。
魏の軍が、秦の進軍を阻もうと、平野に布陣している。両軍が、土煙を上げて激突した。
俺は、本陣の後方から、それを見ていた。
――凄まじい、と思った。
数万の人間が、怒号を上げてぶつかり合う。剣と剣が噛み合い、矢が雨のように降り注ぎ、馬が嘶き、人が倒れる。遠く離れた後方にいてなお、地を揺るがす震動と、血の匂いが、伝わってくる。
書物で読んだ戦。地図の上で語った戦。その正体が、これだった。
(……これが、戦場)
荊軻を斬った時の、あの手の震えが、蘇る。だが今、目の前で起きているのは、その何万倍もの規模の死だった。一つ一つが、荊軻のように、命を持った人間なのだ。それが、数えきれぬほど、死んでいく。
恐怖で、足が竦んだ。
だが、俺は目を逸らさなかった。これが、天下を獲るということ。母が背負い、いずれ俺も背負うかもしれぬ、現実なのだから。
◆
その戦場で、一際輝く影があった。
王離である。
「王家の王離、ここにあり! 魏の兵ども、かかってこい!」
初陣とは思えぬ奮迅であった。若い王離は、先頭を駆け、魏の陣へと斬り込んでいく。その槍捌きは鋭く、次々と敵を打ち倒していった。祖母譲りの用兵の才、母譲りの武勇。王家三代の血は、伊達ではなかった。
「見よ、あの若武者の働きを!」
「王家の三代目か! 末頼もしい!」
王離の活躍に鼓舞され、秦軍の士気は上がった。魏の軍は押され、じりじりと後退を始める。
初戦は、秦の勝利であった。
後方で見ていた俺は、複雑な思いだった。同じ初陣でありながら、王離は戦場を駆け回り、俺はただ、後方で震えている。立場の違いは分かっている。俺は公子で、武を振るう者ではない。だが――羨ましさが、なかったと言えば、嘘になる。
◆
勝利の後、軍は魏の王都・大梁へ向けて、進軍を続けた。
その行軍の途上。俺は、忘れがたい光景を目にする。
街道沿いの、小さな村。そこで、秦の一部隊が、魏の民から、略奪を働いていた。
「離せ! それはわしらの食い扶持だ!」
「うるさい! 敗けた国の民が、何を言う!」
兵たちは、老人を突き飛ばし、わずかな蓄えを奪い、女を引きずり回していた。泣き叫ぶ子供。抵抗して殴り倒される男。
――この時代、それは珍しい光景では、なかった。
戦に勝てば、敗れた国の民から奪う。兵にとっては、それが戦の役得であり、当たり前の習いだった。誰も、咎めない。将すら、見て見ぬふりをする。
だが。
俺の中で、何かが、沸騰した。
「――やめさせろ」
気がつけば、俺は馬を降り、その部隊の前に立っていた。
「王賁! あの部隊を、捕縛せよ!」
傍らの王賁が、戸惑った。
「捕縛……? 扶蘇様、あれはよくある略奪。兵の役得にございます。捕縛などすれば、かえって兵の不満が――」
「役得だと?」
俺は、王賁を見た。
「抵抗できぬ民から奪い、弱き者を踏みにじる。それが役得か。……俺は、認めぬ。捕えよ。これは、公子・扶蘇の命である」
俺の声には、自分でも驚くほどの力が籠もっていた。王賁は、しばし俺を見つめ、それから、命を下した。
「……聞いての通りだ。その部隊、捕縛せよ」
略奪兵たちは、呆然としながら、縄を打たれた。助けられた魏の民は、信じられぬという顔で、俺を見ていた。
だが――兵たちの間に、明らかな不満が、漂っていた。
◆
その夜。一人の古参兵が、俺の陣を訪れた。
顔中に古傷を刻んだ、老いた兵であった。幾つもの戦場を潜り抜けてきたのだろう。その目には、若造への、隠しきれぬ反発があった。
「公子様に、申し上げたきことが」
「申せ」
「……昼間の、あれにございます。略奪を禁じ、味方を縛る。……公子様は、お優しい。ですが、その優しさで、戦が勝てましょうか」
古参兵の声は、絞り出すようだった。
「わしらは、命を懸けて戦っております。田畑を捨て、家族と離れ、いつ死ぬとも知れぬ身。その見返りが、勝った国での分捕りにございます。それを取り上げられては……何のために、戦うのか。兵は、理想では動きませぬ。腹が、膨れねば」
俺は、言葉を失った。
反論しようとして、できなかった。この老兵の言うことは、間違っていない。俺の「守る」という理想は、この男の「生きる」という現実の前で、あまりにも軽い。傍らの王賁も、口を挟まず、ただ俺の答えを待っていた。その横顔にも、わずかな不満の色が、滲んでいる。
「……お前の言うことは、分かった」
俺は、それだけを言った。安易な言葉で、丸め込みたくなかった。
「一晩、考えさせてくれ」
古参兵は、一礼して、去っていった。
俺は、その夜、眠れなかった。
(なぜ、兵は略奪に走る……?)
答えは、単純だった。報いが、足りぬからだ。
命を懸けて戦っても、末端の兵に、見合う報償が行き渡らない。だから彼らは、奪う。自らの手で、役得を得ようとする。略奪は、報償の不足が生む、必然の病だった。
(ならば、奪わせぬ代わりに、報いを、正しく与えればよい。……だが、どうやって、末端まで)
考え続けた。そして、明け方近く、一つの形に、辿り着いた。
◆
翌朝。俺は、軍の前で、王離を呼び出した。
「王離。初陣での働き、見事であった」
俺は、自らの筆で認めた感状を、王離に授けた。
軍が、どよめいた。
王族からの――しかも、貴重な男である公子からの、直々の感状。それは、異例中の異例であり、受ける者にとっては、この上ない名誉であった。
「扶蘇様……! これを、私に……?」
王離は、目を見開き、声を震わせた。
そして俺は、金品の包みを王離に手渡す時、他の誰にも聞こえぬよう、そっと耳打ちした。
「王離。この金品は、お前一人で受け取るな。……お前の隊の兵に、分けてやれ。今日、共に戦った者たち全てに。名誉はお前のものだが、実は、皆で分かち合え」
王離が、はっと目を見開いた。そして、力強く頷いた。
「……はい。仰せの通りに」
俺は、軍全体に聞こえるよう、声を張った。
「手柄を立てた者には、必ず報いる。奪わずとも、正当な働きが、正当に報われる。……俺は、そういう軍を、作りたい」
その日、王離は、感状の名誉を受けながら、賜った金品を、自らの隊の兵たちに、余さず分け与えた。末端の一兵に至るまで。公子から下された金を、若き将が、独り占めせず、皆で分かつ――兵たちは、驚き、そして、沸いた。
あの古参兵の姿も、その中にあった。
分けられた金を握りしめ、老兵は、遠くの俺を、じっと見ていた。昨夜の反発は、消えていた。代わりにあったのは、値踏みを終えた者の、静かな了解だった。
奪えば、一度きり。だが、正しく報いる将の下でなら、繰り返し報われる。腹が膨れる。しかも、罪を負わずに。――理想ではなく、実利。この若い公子は、それを分かっている。老兵の目は、そう語っていた。
◆
王賁が、静かに俺へ歩み寄り、小声で言った。
「扶蘇様。……昨夜、正直に申せば、私も、あの古参兵と同じことを思うておりました。優しさだけでは、兵は動かぬ、と」
女将は、王離が兵に金を分ける様子を、眺めていた。
「ですが、あなたは、優しさを、実利に変えてみせた。略奪を禁じるだけなら、ただの理想論。ですが、それに代わる報いを示し、しかも将に分配させ、末端まで行き渡らせる。……兵は、これで、あなたに従いましょう」
王賁の目に、邯鄲の夜とは違う、確かな光があった。
「邯鄲で、私はあなたを『珍しい御方』と申しました。訂正いたします。――あなたは、珍しいのではない。得難い御方だ」
俺は、胸が熱くなるのを感じた。
邯鄲で「興味」に留まっていた王賁との絆が、この初陣を経て、確かな信頼へと変わった瞬間だった。
軍は、大梁へと進む。
魏の王都を前に、俺の初陣は、まだ続く。




