第14話 守るために
韓が滅びてから、一年が過ぎた。
俺は九歳になっていた。
この一年、以前より多くの時間を学問に使うようになった。法、兵法、歴史、地理。韓非子が最後に残した「学べ、悩め」という言葉が、頭のどこかから離れなかったからだ。
ただ、机に向かっているだけでは足りないとも思うようになった。
韓という国は消えた。
韓非子は、自分の国を守ろうとして命まで捨てた。それでも結局、韓を守ることはできなかった。
正しいか間違っているかとは別に、俺にはそのことがずっと引っかかっていた。
守りたいものがあるのに、何もできない。
それが嫌だった。
未来を知っているだけでは足りない。歴史を知っていても、実際に人を動かせなければ意味がないし、いざという時に自分の身すら守れないようでは、誰かを守ることなどできるはずがない。
だから俺は、蒙恬に頼んだ。
「武芸を教えてください」
最初にそう言った時、蒙恬は少し驚いた顔をした。
「以前から木剣は握っておられたでしょう?」
「もっとちゃんとです。剣だけじゃなくて、弓も。馬にも乗れるようになりたい」
「急にどうされたのです?」
「できないより、できた方がいいから」
全部を説明するのは難しかった。
韓非子の死を見て、自分もいつまでも守られる側だけではいたくないと思った。そんなことを九歳の子供が真顔で語れば、かえって心配させる気がした。
蒙恬はしばらく俺を見たあと、やがて頷いた。
「分かりました。ただし、無茶はさせません」
「大丈夫です」
「その言葉を信用してはいません」
「なんで?」
「扶蘇様は、できないことほど意地になりますから」
否定できなかった。
◆
そうして始まった稽古は、想像していたほど過酷ではなかった。
朝から晩まで走らされたり、倒れるまで剣を振らされたりすることはない。そもそもこの国では男に危険な鍛錬をさせること自体、あまり好まれない。
まして俺は王の子だ。
少しでも大きな怪我をすれば、蒙恬だけの責任では済まない。
だから彼女は慎重だった。
けれど、優しいだけでもなかった。
「あと十回です」
「腕がもう上がりません」
「上がっています」
「痛いです」
「痛いだけなら続けられます」
「鬼」
「聞こえておりますよ」
木剣を振るたびに肩が重くなる。
最初の頃なら、とっくに終わらせてもらえていたはずだ。それでも最近の蒙恬は、俺が本当に限界なのか、それとも弱音を吐いているだけなのかを見分けるようになっていた。
それが少し悔しい。
「九、十……!」
最後の一振りを終えたところで、腕が落ちた。
「はい。今日はそこまでです」
「最初から十回で終わるなら、もっと早く言ってください」
「先に言えば、九回目から急に疲れた顔をするでしょう?」
「しません」
「昨日しました」
覚えていたらしい。
蒙恬は笑いながら俺の木剣を受け取った。
武芸より苦戦したのは、馬だった。
前世では自転車にもろくに乗らなかった俺にとって、生き物の背に乗り、その動きに合わせて自分の身体を動かすという感覚は簡単ではない。
馬は当然、俺の都合で止まってくれない。
「手綱を引きすぎです」
「でも速い」
「まだ歩いています」
「俺には速いんです!」
隣で馬を歩かせていた蒙凛が吹き出した。
「扶蘇様、顔が怖いですよ」
「うるさい」
「馬の方が落ち着いてます」
「本当にうるさい」
蒙凛は同じ九歳とは思えないほど自然に馬へ乗っていた。
さすがは蒙恬の娘というべきか、身体を動かすことに関しては昔から俺よりずっと上手い。
俺が馬上で姿勢を崩すたび、楽しそうに笑っている。
「蒙凛、人を笑っている暇があるなら自分の稽古をしなさい」
「ちゃんとやってます」
「では、あちらまで二往復」
「ええっ」
今度は俺が笑った。
「行ってらっしゃい」
「扶蘇様のせいです!」
「俺は何もしてない」
文句を言いながらも、蒙凛は馬を走らせていった。
それを見送ったあと、蒙恬が俺の馬の横へ近づく。
「怖ければ、今日はここまででも構いませんよ」
優しい声だった。
でも、ここで降りたら明日も同じだと思った。
「もう一回やります」
「そう言うと思いました」
蒙恬は馬の首を撫で、それから俺の手元を指した。
「では、肩の力を抜いてください。手綱で馬を押さえ込もうとするのではなく、動きを感じるのです」
「感じるって難しいです」
「難しいから稽古するのでしょう?」
その通りだった。
俺は息を吐き、もう一度姿勢を整えた。
◆
少しずつではあるが、できることは増えていった。
木剣を振っても以前ほど腕が震えなくなり、馬の上でも身体を固めなくなった。弓はまだ的の端へ当たれば喜ぶ程度だったが、それでも最初の頃よりはずっとましだ。
何より、身体を動かすことそのものが少し楽しくなっていた。
前世の俺は、本を読んだり調べ物をしたりすることの方が好きだった。
今もそれは変わらない。
ただ、自分の身体が昨日より少しできることを増やしていると分かるのは、悪くない。
「今日はここまでにしましょう」
蒙恬がそう言って木剣を置いた。
日が傾き始めていた。
俺は地面へ座り込み、息を整える。
蒙恬は少し離れたところで髪を結い直していた。稽古で乱れた長い髪を片手でまとめ、もう一方の手で紐を結ぶ。
昔から見ている姿のはずなのに、その日はなぜか目が止まった。
俺を育ててきた人。
武芸を教える師。
母親のようでもある。
それなのに、最近はそれだけではなく、きれいな女性だと思う瞬間が増えていた。
前世の記憶を持ったまま九歳になったせいなのかもしれない。
身体は子供でも、見方まで完全に子供へ戻ったわけではない。
「扶蘇様」
「何?」
「母上のこと見すぎです」
いつの間に戻ってきたのか、蒙凛が俺のすぐ横に立っていた。
「見てない」
「見てました」
「見てないって」
「ずっと見てました」
妙に楽しそうな顔をしている。
嫌な予感がした。
「扶蘇様、母上のこと好きなんでしょ?」
「は?」
思ったより大きな声が出た。
蒙凛は満足そうに笑った。
「やっぱり」
「何がやっぱりなんだよ」
「顔赤いです」
「稽古したからだ」
「もう休んでたのに?」
「うるさい」
俺が睨んでも、蒙凛は全く怯まなかった。
「いいじゃないですか。母上、きれいですし」
「そういう話じゃない」
「じゃあ、どういう話です?」
「知らない」
「変なの」
九歳のくせに、こういう時だけ妙に鋭い。
「二人とも、何を話しているのですか?」
声がして振り返る。
髪を結び直した蒙恬がこちらへ歩いてきていた。
「何でもないです」
「扶蘇様が母上のこと好きだって話です」
「蒙凛!」
即座に売られた。
蒙恬はきょとんとして、それから笑った。
「それは嬉しいですね」
「いや、その……」
「私も扶蘇様のことは大好きですよ」
そういう意味ではない。
たぶん。
俺自身も、どういう意味なのかよく分かっていない。
それ以上考えると余計に困りそうなので、俺は黙って顔を逸らした。
横では蒙凛が声を殺して笑っている。
あとで覚えていろ。
◆
帰る頃には、空が赤く染まっていた。
蒙凛は先に屋敷へ戻り、俺と蒙恬だけが少し遅れて歩いていた。
稽古で疲れていたせいか、しばらく会話はなかった。
ただ、隣を歩く蒙恬を見ているうちに、ふと牢でのことを思い出した。
韓非子は、もういない。
韓という国すら消えた。
昨日までそこにあったものが、明日もあるとは限らない。
前世では知識として分かっていたことを、この世界に来てから何度も実感させられている。
「蒙恬」
「はい」
「ずっと俺のそばにいてくれますか?」
口にしてから、少し子供っぽすぎたかと思った。
でも今の俺は実際に九歳なのだから、それでもいいのかもしれない。
蒙恬は足を止めた。
からかわれるかと思ったが、そうはならなかった。
彼女は少しだけ腰を屈め、俺と目線を近づけた。
「もちろんです」
「本当に?」
「はい。扶蘇様が私を必要としてくださる限り、いつまでもおそばにおります」
その言葉を聞くと、胸の奥に張りついていたものが少しだけ軽くなった。
「約束だぞ」
「ええ。約束です」
蒙恬は笑った。
俺も笑った。
守られているだけでは嫌だと思って、剣を握り始めた。
けれど今はまだ、こうして誰かにそばにいてもらえることが素直に嬉しい。
いつか俺も、そう言える側になりたい。
大切な人に、何があってもそばにいると。
その言葉をただの願いではなく、自分の力で守れる男になりたい。
九歳になった俺には、まだ遠い話だった。
それでも、そのための一歩くらいは、もう踏み出しているつもりだった。




