第13話 宮中の睦み、宮中の棘
燕が敗走し、天下統一の戦は、束の間、小休止を迎えていた。
残るは、魏・楚・斉。だが、それらを攻める軍の支度には、時が要る。俺は十三になり、宮での日々は、束の間の穏やかさを取り戻していた。
その日も、俺は蒙恬と、木剣を交えていた。
「――甘い!」
蒙恬の一撃が、俺の木剣を弾き飛ばす。だが、以前ほど、簡単には転ばなくなった。十三の体は、日ごとに力をつけ、蒙恬の太刀筋にも、喰らいついていける。
「お見事です、扶蘇様。ずいぶんと、腕を上げられました」
汗を拭いながら、蒙恬が笑った。
三十一になった蒙恬は――俺が乳を飲んでいた頃の若い母の顔でも、二十五の凛とした武人の顔でもない、また別の美しさを湛えていた。年を重ねて落ち着きを増し、その分、匂い立つような色香が、にじみ出ている。汗ばんだ首筋に、後れ毛が張りついているのを見て、俺は思わず、目を逸らした。
(……いかん。修行に、集中しろ)
十三になって、困ったことがある。この体が、明確に、蒙恬を「女」として見るようになってしまったことだ。前世の記憶では、とうに大人の分別があるはずなのに、十三の肉体の昂りは、それを軽々と超えてくる。
◆
「――で。今日も、母上のことを考えていたんでしょう」
稽古の後。井戸端で水を浴びていると、不意に声をかけられた。
蒙凛であった。
俺と同じ、十三。かつて木剣を振り回していた活発な少女は、近頃、急に大人びてきた。体つきに丸みが生まれ、母の蒙恬に似た美しさの片鱗が、はっきりと現れ始めている。
「な、何の話だ、凛」
「とぼけないでください。扶蘇様、母上を見る目が、昔と違います。……女を見る目に、なってます」
図星であった。俺は、水を浴びる手を止めた。
「凛、お前――」
「私、気づいてるんですよ」
凛は、頬を少し赤らめながら、それでもまっすぐに俺を見た。
「扶蘇様が、母上のこと、好きなの。……ずっと前から」
沈黙が落ちた。否定は、できなかった。
「……悪いか」
「悪くは、ないです。母上は綺麗だし、強いし。……扶蘇様が好きになるのも、分かります」
凛は、水面に映る自分の顔を、指先でかき乱した。
「でも、ずるいです」
「ずるい?」
「私だって……その、扶蘇様のこと……」
言いかけて、凛は口を噤んだ。耳まで真っ赤になっている。だが、逃げずに、最後まで言った。
「母娘で、同じ人を好きになるなんて。……こんなの、変ですよね」
俺は、言葉に詰まった。
この世界は、男が一割。一人の男が複数の女を娶ることは、珍しくない。むしろ、貴重な男には、自然と複数の女が集まる。母娘が同じ男に嫁ぐことすら、この世では、禁忌ではないのだ。
だが――俺の中の、前世の倫理が、まだ、それを「変」だと感じている。
「凛。俺は……」
「あ、言わなくていいです!」
凛は、慌てて立ち上がった。
「まだ、答えなくていいですから! ……ただ、覚えておいてください。私も、いるってこと」
そう言い残して、凛は走り去っていった。
残された俺は、水面に映る自分を見つめた。
(母娘で、同じ男を……か)
この世界の理と、前世の感覚の狭間で、俺の心は、揺れていた。
◆
だが、宮には、甘やかな悩みだけが漂っているわけではなかった。
棘もまた、静かに育っていた。
胡亥である。
嫪毐の血を引く、俺の異父弟。今や八つになり、宰相・李斯が家庭教師として、その教育にあたっていた。
李斯。法家の大物であり、後に秦の統治を支える切れ者。その李斯が付いているのだから、胡亥もさぞ立派に育つかと思いきや――。
「きゃっ! 胡亥様、おやめください!」
廊下の向こうで、女官の悲鳴が上がった。
見れば、八つの胡亥が、女官の尻を撫で回して、きゃっきゃと笑っている。
「逃げるな! この胡亥が触ってやっておるのだぞ! 貴重な男の手に触れられて、光栄に思え!」
(……相変わらず、だな)
俺は、溜息をついた。
この世界で男は貴重。それをいいことに、胡亥は幼い頃から、女たちを好き放題に扱っていた。尊大で、わがままで、己が世界の中心だと信じて疑わない。李斯の教育も、どこ吹く風であった。
「胡亥。女官を困らせるな」
俺が声をかけると、胡亥は振り返り、不満げに唇を尖らせた。
「なんだ、兄上か。堅苦しいことを言うな。少し遊んでいるだけではないか」
「遊び? 相手が嫌がっているだろう」
「嫌がる? 女が、男に触られて嫌がるものか。悦んでおるのだ。兄上は、物を知らんな」
俺の中で、何かが冷たく音を立てた。
「……胡亥。力の弱い者、逆らえない者に、己の欲を押し付けることを、遊びとは言わん。それを――下劣と言うのだ」
「なっ……! 兄上のくせに、この胡亥に説教する気か!」
「兄だから言っている。お前は、次の世を担うかもしれん王族だ。その振る舞いを、恥じよ」
「うるさい! 兄上なんか、大っ嫌いだ!」
胡亥は、地団駄を踏んで、走り去っていった。
俺は、その背中を見送りながら、重い溜息をついた。
好きに、なれない。どうしても、あの弟を、好きになれない。史実で俺に毒を賜る相手だから――だけではない。人として、あの尊大さ、あの弱い者への振る舞いが、受け入れられないのだ。
だが、好き嫌いだけで済む話なら、まだ良かった。
問題は――この兄弟の不仲を、嗤って見ている者が、いることだった。
◆
柱の陰から、一つの影が、二人の言い争いを見つめていた。
趙高である。
今や尚書として頭角を現し、宮中の文書を司る立場にまで昇っていた女。獄の闇で王家の血の秘密を拾った、あの女。
趙高は、兄弟喧嘩の一部始終を見届け、唇の端を、ゆっくりと吊り上げた。
(仲が悪い。実に、結構なこと)
扶蘇と胡亥。優れた兄と、愚かな弟。この二人が反目すればするほど、趙高の描く絵図には、好都合であった。
愚かな弟は、御しやすい。尊大で欲深く、己を賢いと信じている者ほど、裏で操るのは、容易い。一方、優れた兄は――邪魔だ。
(扶蘇様。あなたは、賢すぎる。賢すぎる者は、扱いにくい。……ならば、いずれ除くしか、ないでしょうなあ)
趙高は、懐から一つの竹簡を取り出し、そっと撫でた。
それは、扶蘇の出生に関する、古い記録の写し。王家の血の秘密へと繋がる、一つの糸口であった。
(時が、来れば……これが、王をも揺るがす刃になる)
宮の片隅で、甘やかな恋の睦みが育つ一方で。
静かに、着々と、破滅の棘もまた、その根を伸ばしていた。




