第13話 届かなかった願い
韓非子が死んでから、まだそれほど日は経っていなかった。
牢で交わした最後の言葉は、今も頭の奥に残っている。もっと学べ、もっと悩め、人を簡単に決めつけるな。そう言い残した本人は、韓を守るために母上を殺そうとしていたことを明かし、自ら命を絶った。
あの人のしたことを、正しいとは思わない。
母上を殺そうとしていたのなら、それは明らかな罪だ。けれど、それでも李斯が偽りの証拠を作って韓非子を陥れたことまで正しくなるわけではない。
真実の罪を、偽物の証拠で裁こうとした。
考えれば考えるほど気分の悪くなる話だった。
そんな俺の気持ちなど関係なく、秦の朝廷は動き続けていた。
◆
「韓を攻めるべきです」
朝議の席で、李斯はそう進言した。
声に迷いはなかった。
「韓は六国の中でも国力が乏しく、領土も狭い。秦が天下を望むのであれば、まずここを呑み込むのが最も理に適っております」
政は王座に座ったまま、黙って李斯を見ていた。
「韓を取れば、次は趙と魏が警戒する」
「だからこそ、時間をかけるべきではございません」
李斯は地図を指した。
「韓へ攻め込んだと知れば、趙も魏も援軍を考えましょう。しかし、両国が兵を集め、諸将の意見をまとめ、実際に動き始めるまでには時間がかかります。その前に韓王都まで進み、国そのものを降伏させればよいのです」
言っていることは分かる。
韓をじっくり削るのではなく、相手が状況を理解するより早く首を取る。
前世の言葉を借りるなら、電撃戦に近い。
問題は、誰にそれをやらせるかだった。
「大将には、昌平君を」
その名が出た瞬間、朝議の空気がわずかに変わった。
昌平君は、かつて呂不韋の計画に加わった女だ。
最終的には呂不韋を裏切り、母上と俺たちを救った。それでも一度は王を替える企てに乗った事実までは消えず、あの夜以来、軍務から外されて謹慎の日々を送っていた。
「……昌平君か」
母上の声は低かった。
「はい。韓を短期間で落とすには、兵を動かすだけでは足りません。どこへ兵を集め、どの城を無視し、どこだけは必ず押さえるか。国全体を見ながら軍を進められる者が必要です」
李斯はそこで一礼した。
「謀反への関与と、軍才とは別にお考えいただくべきかと」
皮肉な話だと思った。
李斯自身が、法は人によって曲げるべきではないと語っていた。今度は罪を犯した昌平君であっても、使える能力は使うべきだと主張している。
母上はしばらく考えた末、昌平君を呼び戻した。
◆
久しぶりに宮中へ姿を見せた昌平君は、以前より少し痩せていた。
謹慎中も鍛錬は怠っていなかったのか、立ち姿そのものは変わっていない。それでも王座の前へ進んだ彼女には、以前のような余裕はなかった。
「昌平君」
「はっ」
「お前を許したわけではない」
母上は前置きもなく言った。
昌平君は深く頭を下げる。
「承知しております」
「ならば働け」
「御意」
それだけだった。
命じられたのは、韓への侵攻。
目的は国境の城をいくつか奪うことではない。
韓という国そのものを、一息に終わらせることだった。
昌平君は命令を受けると、すぐに軍の編成へ入った。
そして、動き始めてからは速かった。
◆
秦軍が韓国境を越えたという第一報が咸陽へ届いた時、俺は蒙恬と兵書を読んでいた。
「始まりましたか」
俺が木簡を見ながら呟くと、蒙恬は小さく頷いた。
「昌平君は、かなり急いでいるようですね」
それから数日のうちに、次々と戦況が入ってきた。
韓軍は国境近くの要地へ兵を集め、秦軍を止めようとした。しかし昌平君は、抵抗の強い城を一つずつ攻め落とすような真似をしなかった。
守りの厚い城には最低限の兵だけを残して動きを封じ、主力はその横を抜けて先へ進んだ。
敵を全部倒してから進むのではない。
後ろに敵が残っていても、こちらの補給路を脅かせない程度に押さえ込めれば、それで十分だと割り切っている。
韓側からすればたまったものではなかっただろう。
目の前の秦軍を止めようとしているうちに、その別働隊がさらに後ろへ回る。援軍を集めている間に、次の拠点へ秦軍が現れる。
韓の諸城は、それぞれが戦う準備を整える前に切り離されていった。
「次の報告です」
伝令が持ち込んだ木簡を、蒙恬が受け取る。
「韓軍主力、一度目の会戦で敗退。昌平君は追撃を続け、王都方面へ進軍中とのことです」
「もう?」
思わず聞き返した。
「国境を越えてから、まだそんなに経っていませんよね」
「ええ。だからこそなのでしょう」
蒙恬は地図へ目を落とした。
「時間を与えれば韓は守りを固めますし、趙や魏も動きます。昌平君は、韓軍に立て直す時間を与えないつもりです」
数日後、魏で援軍を出すべきだという議論が始まったとの報告が届いた。
さらに趙でも秦軍の動きを警戒し、国境方面へ兵を集め始めたという。
それでも遅かった。
韓の王都へ向かう道では、すでに秦軍が韓軍を押し退けながら進んでいた。
◆
昌平君は、戦場でも迷わなかった。
「止まるな! 前へ出ろ!」
号令とともに、秦軍が進む。
前方では韓軍が道を塞ぐように陣を敷いていたが、すでに何度も敗れながら後退を続けた部隊だった。兵の数そのものより、疲労と恐怖が軍全体へ広がっている。
「左翼は敵を押さえろ。中央は突破する!」
昌平君は、敵軍を包囲して全滅させることにこだわらなかった。
韓兵を逃がしても構わない。
逃げる方向さえ、こちらの進軍を邪魔しなければいい。
秦軍中央が韓軍の薄くなった箇所へ突入すると、その一角はほどなく崩れた。敗れた兵たちは王都へ逃げようとしたが、今度はその敗走そのものが韓側を苦しめた。
秦軍が迫っている。
国境は突破された。
主力も敗れた。
そんな兵たちが王都へ次々と流れ込めば、城内に広がるのは安心ではなく恐慌だった。
韓王が諸国へ援軍を求める使者を出した頃には、秦軍の先鋒はすでに王都を望める位置まで迫っていた。
昌平君は、そこで初めて進軍を止めた。
兵を整え、後続を待ち、包囲の準備をするためだった。
ここまで来れば、もう急ぐ必要はない。
韓が助かるために必要だったのは、秦軍がここへ来る前に趙か魏の大軍が現れることだった。
その可能性は、もうほとんど残っていなかった。
◆
王都包囲の報告が咸陽へ届いた翌日。
俺は母上のところへ呼ばれた。
部屋には李斯もいた。
「韓王から使者が来た」
母上は短く言った。
「降るそうだ」
あまりにあっさりした言葉で、しばらく意味が頭に入ってこなかった。
「……降伏するんですか」
「ああ。王都をこれ以上攻めれば、多くの民が死ぬ。韓王は城を開き、秦に国を差し出すと申し出てきた」
俺は何も言えなかった。
李斯は淡々と話を続けた。
「韓王族の身柄を確保し、旧領には秦の官吏を置くべきでしょう。抵抗する城も残っておりますが、王が降れば長くは続きません」
「そうしろ」
母上は迷わなかった。
こうして、韓という国はなくなった。
秦が初めて、六国の一つを完全に呑み込んだ。
朝廷では喜ぶ者が多かった。
これまで何百年と争い続けてきた国の一つが消えたのだから、秦にとっては途方もなく大きな勝利だ。昌平君の用兵も高く評価され、彼女は謹慎から完全に解かれて、再び軍務の中枢へ戻ることになった。
母上があの人を選んだことも、結果だけを見れば正しかった。
昌平君自身も、かつて俺ではなく母上を選んだ理由を証明したのだろう。
戦乱を終わらせる。
そのために、まず一つの国を滅ぼした。
俺には、それをどう受け止めればいいのか分からなかった。
ただ、韓が降伏したという言葉を聞いた瞬間から、別の顔がずっと頭に浮かんでいた。
薄暗い牢の中。
血に濡れながら、それでも韓のことを気にしていた女。
韓非子は、自分が母上を殺そうとしていたと知られれば、それが秦に韓を攻める理由を与えるかもしれないと考えた。だから真実を外へ漏らさず、自分一人の罪として終わらせるために死んだ。
けれど、秦にはそんな理由など必要なかった。
韓が弱いから。
天下統一のためには、最初に呑み込むのが都合いいから。
それだけで十分だった。
李斯が攻撃を進言し、母上が決断し、昌平君が軍を率いた。そして趙や魏が助ける暇もないほどの速さで、韓非子が命を懸けて守ろうとした国は消えた。
ならば。
あの人は、何のために死んだのだろう。
牢の中で問いかけられた「人とは何か」という言葉には、いつか答えられる日が来るかもしれない。
けれど、この問いにだけは、今の俺にはどうしても答えが見つからなかった。




