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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第1章 戦国の終焉編

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第13話 届かなかった願い

 韓非子(かんぴし)が死んでから、まだそれほど日は経っていなかった。


 牢で交わした最後の言葉は、今も頭の奥に残っている。もっと学べ、もっと悩め、人を簡単に決めつけるな。そう言い残した本人は、韓を守るために母上を殺そうとしていたことを明かし、自ら命を絶った。


 あの人のしたことを、正しいとは思わない。


 母上を殺そうとしていたのなら、それは明らかな罪だ。けれど、それでも李斯(りし)が偽りの証拠を作って韓非子(かんぴし)を陥れたことまで正しくなるわけではない。


 真実の罪を、偽物の証拠で裁こうとした。


 考えれば考えるほど気分の悪くなる話だった。


 そんな俺の気持ちなど関係なく、秦の朝廷は動き続けていた。



「韓を攻めるべきです」


 朝議の席で、李斯(りし)はそう進言した。


 声に迷いはなかった。


「韓は六国の中でも国力が乏しく、領土も狭い。秦が天下を望むのであれば、まずここを呑み込むのが最も理に適っております」


 (せい)は王座に座ったまま、黙って李斯(りし)を見ていた。


「韓を取れば、次は(ちょう)()が警戒する」


「だからこそ、時間をかけるべきではございません」


 李斯(りし)は地図を指した。


「韓へ攻め込んだと知れば、(ちょう)()も援軍を考えましょう。しかし、両国が兵を集め、諸将の意見をまとめ、実際に動き始めるまでには時間がかかります。その前に韓王都まで進み、国そのものを降伏させればよいのです」


 言っていることは分かる。


 韓をじっくり削るのではなく、相手が状況を理解するより早く首を取る。


 前世の言葉を借りるなら、電撃戦に近い。


 問題は、誰にそれをやらせるかだった。


「大将には、昌平君(しょうへいくん)を」


 その名が出た瞬間、朝議の空気がわずかに変わった。


 昌平君(しょうへいくん)は、かつて呂不韋(りょふい)の計画に加わった女だ。


 最終的には呂不韋(りょふい)を裏切り、母上と俺たちを救った。それでも一度は王を替える企てに乗った事実までは消えず、あの夜以来、軍務から外されて謹慎の日々を送っていた。


「……昌平君(しょうへいくん)か」


 母上の声は低かった。


「はい。韓を短期間で落とすには、兵を動かすだけでは足りません。どこへ兵を集め、どの城を無視し、どこだけは必ず押さえるか。国全体を見ながら軍を進められる者が必要です」


 李斯(りし)はそこで一礼した。


「謀反への関与と、軍才とは別にお考えいただくべきかと」


 皮肉な話だと思った。


 李斯(りし)自身が、法は人によって曲げるべきではないと語っていた。今度は罪を犯した昌平君(しょうへいくん)であっても、使える能力は使うべきだと主張している。


 母上はしばらく考えた末、昌平君(しょうへいくん)を呼び戻した。



 久しぶりに宮中へ姿を見せた昌平君(しょうへいくん)は、以前より少し痩せていた。


 謹慎中も鍛錬は怠っていなかったのか、立ち姿そのものは変わっていない。それでも王座の前へ進んだ彼女には、以前のような余裕はなかった。


昌平君(しょうへいくん)


「はっ」


「お前を許したわけではない」


 母上は前置きもなく言った。


 昌平君(しょうへいくん)は深く頭を下げる。


「承知しております」


「ならば働け」


「御意」


 それだけだった。


 命じられたのは、韓への侵攻。


 目的は国境の城をいくつか奪うことではない。


 韓という国そのものを、一息に終わらせることだった。


 昌平君(しょうへいくん)は命令を受けると、すぐに軍の編成へ入った。


 そして、動き始めてからは速かった。



 秦軍が韓国境を越えたという第一報が咸陽(かんよう)へ届いた時、俺は蒙恬(もうてん)と兵書を読んでいた。


「始まりましたか」


 俺が木簡を見ながら呟くと、蒙恬(もうてん)は小さく頷いた。


昌平君(しょうへいくん)は、かなり急いでいるようですね」


 それから数日のうちに、次々と戦況が入ってきた。


 韓軍は国境近くの要地へ兵を集め、秦軍を止めようとした。しかし昌平君(しょうへいくん)は、抵抗の強い城を一つずつ攻め落とすような真似をしなかった。


 守りの厚い城には最低限の兵だけを残して動きを封じ、主力はその横を抜けて先へ進んだ。


 敵を全部倒してから進むのではない。


 後ろに敵が残っていても、こちらの補給路を脅かせない程度に押さえ込めれば、それで十分だと割り切っている。


 韓側からすればたまったものではなかっただろう。


 目の前の秦軍を止めようとしているうちに、その別働隊がさらに後ろへ回る。援軍を集めている間に、次の拠点へ秦軍が現れる。


 韓の諸城は、それぞれが戦う準備を整える前に切り離されていった。


「次の報告です」


 伝令が持ち込んだ木簡を、蒙恬(もうてん)が受け取る。


「韓軍主力、一度目の会戦で敗退。昌平君(しょうへいくん)は追撃を続け、王都方面へ進軍中とのことです」


「もう?」


 思わず聞き返した。


「国境を越えてから、まだそんなに経っていませんよね」


「ええ。だからこそなのでしょう」


 蒙恬(もうてん)は地図へ目を落とした。


「時間を与えれば韓は守りを固めますし、(ちょう)()も動きます。昌平君(しょうへいくん)は、韓軍に立て直す時間を与えないつもりです」


 数日後、()で援軍を出すべきだという議論が始まったとの報告が届いた。


 さらに(ちょう)でも秦軍の動きを警戒し、国境方面へ兵を集め始めたという。


 それでも遅かった。


 韓の王都へ向かう道では、すでに秦軍が韓軍を押し退けながら進んでいた。



 昌平君(しょうへいくん)は、戦場でも迷わなかった。


「止まるな! 前へ出ろ!」


 号令とともに、秦軍が進む。


 前方では韓軍が道を塞ぐように陣を敷いていたが、すでに何度も敗れながら後退を続けた部隊だった。兵の数そのものより、疲労と恐怖が軍全体へ広がっている。


「左翼は敵を押さえろ。中央は突破する!」


 昌平君(しょうへいくん)は、敵軍を包囲して全滅させることにこだわらなかった。


 韓兵を逃がしても構わない。


 逃げる方向さえ、こちらの進軍を邪魔しなければいい。


 秦軍中央が韓軍の薄くなった箇所へ突入すると、その一角はほどなく崩れた。敗れた兵たちは王都へ逃げようとしたが、今度はその敗走そのものが韓側を苦しめた。


 秦軍が迫っている。


 国境は突破された。


 主力も敗れた。


 そんな兵たちが王都へ次々と流れ込めば、城内に広がるのは安心ではなく恐慌だった。


 韓王が諸国へ援軍を求める使者を出した頃には、秦軍の先鋒はすでに王都を望める位置まで迫っていた。


 昌平君(しょうへいくん)は、そこで初めて進軍を止めた。


 兵を整え、後続を待ち、包囲の準備をするためだった。


 ここまで来れば、もう急ぐ必要はない。


 韓が助かるために必要だったのは、秦軍がここへ来る前に(ちょう)()の大軍が現れることだった。


 その可能性は、もうほとんど残っていなかった。



 王都包囲の報告が咸陽(かんよう)へ届いた翌日。


 俺は母上のところへ呼ばれた。


 部屋には李斯(りし)もいた。


「韓王から使者が来た」


 母上は短く言った。


「降るそうだ」


 あまりにあっさりした言葉で、しばらく意味が頭に入ってこなかった。


「……降伏するんですか」


「ああ。王都をこれ以上攻めれば、多くの民が死ぬ。韓王は城を開き、秦に国を差し出すと申し出てきた」


 俺は何も言えなかった。


 李斯(りし)は淡々と話を続けた。


「韓王族の身柄を確保し、旧領には秦の官吏を置くべきでしょう。抵抗する城も残っておりますが、王が降れば長くは続きません」


「そうしろ」


 母上は迷わなかった。


 こうして、韓という国はなくなった。


 秦が初めて、六国の一つを完全に呑み込んだ。


 朝廷では喜ぶ者が多かった。


 これまで何百年と争い続けてきた国の一つが消えたのだから、秦にとっては途方もなく大きな勝利だ。昌平君(しょうへいくん)の用兵も高く評価され、彼女は謹慎から完全に解かれて、再び軍務の中枢へ戻ることになった。


 母上があの人を選んだことも、結果だけを見れば正しかった。


 昌平君(しょうへいくん)自身も、かつて俺ではなく母上を選んだ理由を証明したのだろう。


 戦乱を終わらせる。


 そのために、まず一つの国を滅ぼした。


 俺には、それをどう受け止めればいいのか分からなかった。


 ただ、韓が降伏したという言葉を聞いた瞬間から、別の顔がずっと頭に浮かんでいた。


 薄暗い牢の中。


 血に濡れながら、それでも韓のことを気にしていた女。


 韓非子(かんぴし)は、自分が母上を殺そうとしていたと知られれば、それが秦に韓を攻める理由を与えるかもしれないと考えた。だから真実を外へ漏らさず、自分一人の罪として終わらせるために死んだ。


 けれど、秦にはそんな理由など必要なかった。


 韓が弱いから。


 天下統一のためには、最初に呑み込むのが都合いいから。


 それだけで十分だった。


 李斯(りし)が攻撃を進言し、母上が決断し、昌平君(しょうへいくん)が軍を率いた。そして(ちょう)()が助ける暇もないほどの速さで、韓非子(かんぴし)が命を懸けて守ろうとした国は消えた。


 ならば。


 あの人は、何のために死んだのだろう。


 牢の中で問いかけられた「人とは何か」という言葉には、いつか答えられる日が来るかもしれない。


 けれど、この問いにだけは、今の俺にはどうしても答えが見つからなかった。

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