第12話 最後の講義
牢の中は、宮中とはまるで別の場所のように冷えていた。石壁には湿気が染みつき、昼間だというのに奥へ進むほど薄暗くなる。どこかで水滴が落ちる音が続き、そのたびに細い響きが石の通路を伝ってきた。
俺は蒙恬と並び、牢の奥へ向かって歩いていた。入口の牢番は俺の姿を見るなり困った顔をしたが、隣に蒙恬がいることを確認すると、結局は強く止めなかった。
やがて、韓非子が入れられている牢へたどり着いた。
「韓非子」
格子の向こうで人影が動いた。
韓非子は壁際に座っていた。牢へ入れられてからそれほど日は経っていないはずなのに、宮中で講義をしていた頃より顔色が悪く、頬にも疲れが滲んでいる。
「扶蘇様……?」
驚いたように顔を上げたあと、俺の後ろに立つ蒙恬へ視線を移した。
「ど、どうして……こちらへ」
「話を聞きたかったんです」
俺は格子の前へ腰を下ろした。
「法の話じゃありません。短刀や木簡のことです。本当に、あなたがやったんですか?」
韓非子は俺を見つめたまま、しばらく答えなかった。やがて小さく息を吐き、ゆっくり首を振る。
「い、いいえ。少なくとも……今、証拠として出ている物は、わ、私のものではありません」
「だったら、俺が母上に話します」
後ろで蒙恬がわずかに動いたが、口を挟むことはなかった。
「短刀が出て、そのあと木簡が出て、帛書まで見つかった。侍女まで急に証言したなんて、あまりにも都合がよすぎます。もう一度、最初から調べてもらえば」
「い、いけません」
韓非子は強く首を振った。
「扶蘇様が私を庇えば……こ、今度はあなたまで疑われるかもしれません。王を害そうとした疑いをかけられている韓の人間を、王子であるあなたが強く庇うのです。それを利用しようとする者が現れないと、ど、どうして言い切れますか」
「でも、俺は母上の子です」
「だからこそ、です。それに……扶蘇様は、まだ八歳でしょう」
「八歳でも話くらいできます」
「え、ええ。できます」
韓非子はそこを否定しなかった。
「ですが、李斯と論じて勝てますか」
その一言で、俺は黙った。
頭の中には前世の知識がある。史実でも、李斯は同門の韓非子を疎み、秦での死に関わったとされている。
だから俺は李斯を疑っている。
証拠の出方も出来すぎている。
けれど、それを母上の前で論じるとなれば話は別だった。
なぜ李斯を疑うのか。
そう問われたら、俺には答えられない。
未来の歴史を知っているから。
そんな説明が通るはずもないし、そもそも俺の知っている歴史自体が、すでに何度も形を変えている。
「……李斯が怪しいとは思っています」
俺はそれだけ言った。
「な、なぜです?」
予想していた問いだった。
それでも答えられなかった。
韓非子は黙り込んだ俺を責めることも、困らせるように問いを重ねることもしなかった。
「理由を言えないなら……い、言わない方がよいでしょう」
声は静かだった。
「証拠もなく、人を罪人にしてはいけません。そ、それは今の私が、一番よく分かっています」
助けに来たつもりだった。
なのに、また教えられている。
「……すみません」
「な、なぜ謝るのです?」
「何もできないからです」
韓非子は少しだけ笑った。
「八歳の子供が何でもできたら……わ、私たち大人の立場がありません」
俺もわずかに笑ったが、その表情はすぐに消えた。
韓非子も、しばらくすると真面目な顔へ戻った。
「ただ……ひ、一つだけ、覚えておいてください」
「何をです?」
「もし李斯が、これから秦の法を作る立場へ進むなら……きっと、その法は苛烈になります」
「どうして?」
「彼女は、人を信じていないからです」
韓非子は格子へ少し近づいた。
「人は放っておけば、自分の利を求める。他人を押しのけ、奪い、騙し……必要なら傷つける。李斯は、人とは生まれながらに、そういうものだと強く考えています」
「だから、厳しい法で縛る?」
「え、ええ。重い罰を恐れさせれば、人は悪いことをしなくなる。少なくとも、できなくなる。彼女はそう考えているのでしょう」
「でも、韓非子も似たことを言っていましたよね」
俺が尋ねると、韓非子は素直に頷いた。
「わ、私も……昔は、かなり近いところから考えていました。人は利に動き、放っておけば争う。だから、善意を期待するだけでは国は治まらない。法と賞罰が必要だ、と」
「今は違うんですか?」
すぐには答えが返ってこなかった。
韓非子は石床へ視線を落とし、しばらく何かを考えていた。
「……分からなくなりました」
「分からなく?」
「学べば学ぶほど、人は本当にそれだけなのかと……お、思うようになったのです」
韓非子はゆっくり顔を上げた。
「自分の利益のために人を騙す者もいます。誰かを押しのけて、自分だけ得をしようとする者もいる。でも……み、見返りもないのに人を助ける者もいます。自分が傷つくと分かっていて、それでも誰かを守ろうとする者もいる」
俺は自然と後ろに立つ蒙恬を見た。
蒙恬は何も言わなかったが、その姿を見れば、韓非子が言っていることはよく分かった。
「じゃあ、人は善なんですか?」
「そ、それも分かりません」
韓非子は少しだけ笑った。
「扶蘇様は、どう思いますか。人は善ですか。それとも、悪ですか」
「俺ですか?」
「はい」
少し考えた。
前世で覚えた言葉ならいくらでもあった。
性善説も、性悪説も知っている。環境や教育が人間に与える影響だって、大学でいくらでも聞いた。
けれど、どれか一つを借りて答えるのは違う気がした。
「どっちとも言い切れないと思います」
韓非子の目がわずかに見開かれた。
「善いことをした人が、ずっと善いことだけをするとは限らないでしょう。悪いことをした人が、何から何まで悪いとも限らない。だから、人を善だとか悪だとか、それだけで決めるのは違う気がします」
「では……」
韓非子は一度言葉につかえ、息を整えた。
「ひ、人とは、何ですか?」
今度こそ困った。
善でも悪でもないと言ったのは俺だ。
なら何なのだと聞かれれば、今の俺には答えがない。
しばらく考えた末、俺は諦めた。
「……分かりません」
韓非子が瞬きをする。
「分からないです。まだ。でも、いつか分かるなら、知りたいです」
しばらく、韓非子は俺を見つめていた。
やがて、ゆっくりと笑う。
「そ、それでよいのです」
「いいんですか?」
「分からないものを……わ、分かったつもりになる方が怖いのです」
韓非子は膝の上で手を組み、穏やかな声で続けた。
「学んでください、扶蘇様。もっと多くのものを見て、多くの人と話して……な、悩んでください」
「悩むんですか」
「ええ。たくさん」
少しだけ楽しそうだった。
「答えが出なくても構いません。問い続ければよいのです」
その言い方に、胸の奥がざわついた。
「どうして、そんな言い方をするんです?」
「ど、どんな言い方でしょう」
「もう会わないみたいな言い方です」
韓非子は答えなかった。
俺は格子へ手をかけた。
「まだ処刑が決まったわけじゃないでしょう。母上だって全部調べると言っている。だったら、諦める必要なんてない」
「扶蘇様」
韓非子は穏やかな声で俺の名を呼んだ。
「わ、私の役目は……もう、終わったのでしょう」
「そんなことない」
「最後に、あなたのような教え子を持てたことを……わ、私は幸せに思います」
「最後なんて言うな」
思わず声が強くなった。
「まだ助かるかもしれない。俺だって何かできるかもしれないんだから、勝手に諦めないでください」
韓非子は申し訳なさそうに笑った。
そのまま、ゆっくり片足を引いた。
何をするのか分からず目で追うと、彼女は履物の底へ指を差し入れ、革と木の間から指ほどの細い刃を抜き出した。最初に発見された短刀とは比べものにならないほど小さく、武器というより最後の一刺しだけを目的に作られたような刃だった。
「韓非子!」
蒙恬がすぐに動いたが、二人の間には格子がある。
牢番が鍵を取り出すより早く、韓非子はその刃を自らの身体へ突き立てた。
「やめろ!」
俺は格子を掴んだ。
鍵が開くと同時に蒙恬が中へ飛び込み、崩れ落ちようとした韓非子の身体を支えた。俺もその後を追ったが、傷口から流れ出した血はすでに衣を濡らし、石床へ滴り始めていた。
「どうして……」
うまく声が出なかった。
「どうして、そんなものを持ってるんだ」
韓非子は苦しそうに息をしながら、それでもわずかに笑った。
「ふ、不思議ですか……」
「当たり前だろ。見つかった短刀は、あなたの物じゃなかったんだろ?」
「え、ええ。あの短刀も……木簡も、帛書も……私の物ではありません」
「だったら!」
「ですが……」
韓非子は息を吸おうとして、苦しそうに顔を歪めた。
「わ、私が……王を殺そうとしていたことまで、嘘ではありません」
何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
「……何?」
「王と話して……分かってしまったのです。この方なら……ほ、本当に六国を滅ぼすかもしれないと」
韓非子は目を閉じ、浅い呼吸を繰り返した。
「わ、私は韓の王族です。秦の法を学び……王の才を認めても、それでも……韓が滅ぶのを黙って見ていることは、できませんでした」
俺は彼女の手に残っている細い刃を見た。
「じゃあ、これは……」
「これが……ほ、本当に王を狙うため、持ち込んだ刃です」
「でも、牢に入る時に調べられたはずだ」
「履物の底まで……き、気づかれませんでした」
少しだけ、韓非子の口元が緩んだ。
李斯が仕込んだ証拠は偽物だった。
短刀も、木簡も、帛書も、侍女の証言も、韓非子を罪人にするために作られたものだった。
それなのに。
罪そのものは、本物だった。
「じゃあ……李斯は」
「偽りの証拠で……ほ、本当の罪人を捕らえた」
韓非子はかすかに笑った。
「法を学んだ者としては……ず、ずいぶんと皮肉な話です」
「笑うところじゃない!」
声が震えた。
「だったら生きて話せばいいだろ! 母上に全部話して、それから裁かれればいい。死ぬ必要なんてない!」
韓非子は静かに首を振った。
「わ、私が韓のために王を狙ったと認めれば……秦は、韓そのものを疑います」
「もう疑ってるだろ!」
「それでも……違います」
韓非子は苦しそうに息を整えた。
「秦が韓へ兵を向けるための理由を……わ、私自身が与えるわけにはいきません。これは、私一人の罪として終わらせた方がよいのです」
蒙恬が傷口を押さえていたが、血は止まらなかった。顔から少しずつ色が失われ、韓非子の声も次第に細くなっていく。
「扶蘇様……」
「喋らなくていい」
「ま、学んでください」
「今は喋るな」
「悩んで……ください」
韓非子は最後まで俺を見ていた。
「ひ、人を……簡単に、決めつけないで……」
その言葉を最後に、身体から力が抜けた。
蒙恬が名前を呼んでも、もう返事はなかった。
俺はその場で何も言えず、ただ彼女の手を見つめていた。
さっきまで、俺たちは人とは善なのか悪なのかと話していた。韓非子は俺に学問を教え、母上の才を認め、最後には俺を教え子と呼んでくれた。その一方で、祖国を守るためなら、その母上を殺そうともしていた。
どちらか一方が偽物だったわけではないのだろう。
誰かを敬うことも、誰かを守りたいと思うことも、そのために別の誰かを傷つけようとすることも、一人の人間の中に同時に存在する。
人とは何か。
その答えは、まだ分からない。
ただ少なくとも、善か悪かの一言だけで割り切れるほど、人間は単純ではない。
冷たくなっていく韓非子の手を見つめながら、俺は彼女から受けた最後の教えを、胸の奥へ刻んだ。




