第10話 邯鄲の骨
趙は、呆気なく終わった。
軍神・李牧を失い、副将・司馬尚を失った趙軍に、王翦の大軍を阻む力は、もはや残っていなかった。秦軍は堰を切ったように雪崩れ込み、王都・邯鄲へと殺到した。
都を守るべき奸臣・郭開は、真っ先に逃げた。秦から受け取った黄金を山と積み、城が落ちる前に、我先にと都を捨てた。守るべき将を売り、守るべき都を捨てる——それが、この男の正体だった。
残された趙王・遷は、為す術もなく捕らえられた。だが、趙の血が完全に絶えたわけではない。趙王の公子・嘉が、わずかな臣とともに包囲を抜け、北の代の地へと落ち延びたのだ。趙は滅びてなお、その残り火を、細々と北の果てに灯し続けることになる。
だが、それは些細なことだった。
韓に続き、趙。戦国七雄の二つ目が、地図の上から消えた。天下統一への歯車は、もはや誰にも止められぬ勢いで、回り始めていた。
◆
趙を滅ぼした政は、邯鄲へ入った。
俺は、母に連れられ、その地を踏んだ。護衛には、蒙恬。母が幼い日を過ごしたという、因縁の都である。
政は、人質の子として、この邯鄲で生まれ育った。秦の公女でありながら、敵国の地で、白い目に晒されて。父・呂不韋の金と策によって秦へ帰り、やがて王となるまで——この都は、母にとって、屈辱の記憶が染みついた場所だった。
「……変わらぬな。この、湿った風の匂いも」
馬上の政は、静かに呟いた。その横顔に、俺は初めて、王でも母でもない、一人の女の翳りを見た気がした。
だが、次の瞬間。
政の目が、ぞっとするほど冷たく光った。
「探せ」
「は?」
「昔、この地で、私を嗤った女がいる。石を投げ、泥をかけ、人質の子と罵った女だ。……まだ、生きていよう。探し出せ」
俺の背筋を、冷たいものが走った。
◆
女は、すぐに見つかった。
今はもう、老いた一人の民に過ぎなかった。かつて幼い政に石を投げたという記憶すら、あるいは薄れていたかもしれない。その女が、兵に引き据えられ、政の前に転がされた。
「覚えているか」
政の声は、感情を欠いていた。
「お前が石を投げた、人質の子だ。私は、あの日から一日も、忘れたことはない」
「お、お許しを……! 昔のことにございます! どうか、どうか……!」
「母上」
俺は、思わず口を挟んだ。
「もう、済んだことです。子供の頃の、些細な諍いではありませんか。天下を獲らんとする母上が、老いた民一人に、なぜ……」
「扶蘇」
政は、俺を見なかった。老いた女を見据えたまま、言った。
「お前は優しい。だが、その優しさは、王の器ではない」
そして、ただ一言。
「殺せ」
女の悲鳴が、短く上がり、そして——途切れた。
俺は、目を逸らさなかった。逸らしてはならない気がした。母が、母である前に、これほどまでに冷たい復讐の女であることを、俺はこの目に、焼き付けておかねばならなかった。
(これが……始皇帝となる、女……)
幼い日の屈辱を、天下を獲ってもなお忘れず、老女一人を探し出して殺す。その執念。その冷たさ。俺が時折、垣間見た「王の顔」の、さらに奥にある昏い淵を、俺は見た気がした。
母は、恐ろしい人だ。
その恐ろしさの内に、俺は生きている。
◆
その夜。俺は、蒙恬だけを連れて、宿を抜け出した。
公子である俺を、咎める兵はいない。護衛の蒙恬がいれば、どこの門であろうと、静かに開いた。
向かった先は、都の外れ。刑場の跡だった。
軍神・李牧が、この地で最期を遂げたと聞いていた。反逆者として処刑された者の亡骸は、弔われることもなく、打ち捨てられるのが常だった。
果たして、そこにあったのは。
——一人の女の、亡骸だった。
俺は、息を呑んだ。
言葉が、出なかった。傍らの蒙恬も、絶句していた。歴戦の武人である蒙恬が、口を手で覆い、目を逸らした。
その亡骸が、生前どれほどの辱めを受けたか。処刑の刃を受ける前に、何をされたのか。それは、変わり果てた姿が、雄弁に物語っていた。軍神と呼ばれ、秦を震え上がらせ、王翦をして「正面からは勝てぬ」と言わしめた、あの李牧が。守るべき王の手によって、人としての尊厳を、これほどまでに——。
俺は、直視できなかった。だが、逃げてもいけないと思った。
「……ひどい」
絞り出した声は、震えていた。
これが、司馬尚と生きたいと願った女の、末路か。腐った祖国のためではなく、愛する男と生き延びるために戦った、あの——。
「蒙恬。手を貸してくれ」
「扶蘇様……。よろしいのですか。この者は、秦の敵にございますが」
「敵だ。だが、俺は、この人を弔いたい」
俺は、蒙恬にだけ聞こえる声で、続けた。
「郭開を買収し、李牧を失脚させろと母上に献じたのは、俺だ。この人を、戦場ではなく、宮で殺せと言ったのは、俺なのだ。……ならばせめて、俺には、弔う義務がある」
蒙恬は、しばし俺を見つめ、そして静かに頷いた。この秘密を、生涯漏らすまいと決めた目だった。
二人で、土を掘った。月明かりの下、俺と蒙恬は、変わり果てた軍神を、そっと横たえ、土に還した。
土をかけ終えた後、俺は、その小さな盛り土の前に、長いあいだ、座り込んでいた。
「あなたは、守れなかった」
俺は、囁いた。
「愛する男も、自分の尊厳も。腐った王のために、利用され、裏切られて。……だが、俺は守る。あなたが守れなかったものを」
俺は、拳を握った。
「この、女が使い捨てられる世界で。俺は——趙王のような男には、決してならぬ」
それは、会ったこともない敵将への、奇妙な誓いだった。
だが、俺にとっては、必要な誓いだった。母の昏い淵を見た、その同じ夜に。人の愛を策で踏み潰した、その手で。俺は、自分が何のために強くなるのかを、この土の前で、確かめずにはいられなかった。
◆
——その姿を、見ている者がいた。
「……珍しいものを見た」
声に、俺と蒙恬は、はっと振り返った。
月明かりの中に、一人の女将が立っていた。堂々たる体躯、隙のない立ち姿。その顔には、見覚えがあった。趙攻めの大将・王翦の傍らで、幾度か見た顔。
「王翦が娘、王賁」
女将は、名乗った。秦の宿将・王翦の子であり、それ自身、既に将として名を上げつつある猛者である。
その傍らには、俺と同じ年頃の少女が、きょとんとした顔で立っていた。
「我が娘、王離だ」
「……お、王離です」
少女が、ぺこりと頭を下げた。祖母が王翦、母が王賁。秦の武の名門・王家の、三代目である。
「王賁殿。……これは、その」
俺は、狼狽えた。敵将を弔うところを、秦の将に見られた。咎められても、おかしくはない。
だが、王賁は、笑った。
「案ずるな、公子。誰にも言わぬ」
そして、埋めたばかりの小さな墓を、静かに見やった。
「敵将を弔う。……本来、将のすることではない。趙の者が見れば感涙し、秦の者が見れば眉を顰める。愚かなことよ」
「……はい」
「だが」
王賁の目が、俺を見た。値踏みするのでも、咎めるのでもない。ただ、興味を引かれた——そういう目だった。
「勝った側の公子が、敗れた敵将を、幼い身で自ら土に還してやる。……面白い。あなたは、少し、変わっておられるな」
王賁は、それ以上は言わなかった。評するでも、褒めるでもなく、ただ俺という存在を、目に留めた。それだけだった。
「離。行くぞ」
「あ、はい。……えっと、扶蘇様。さようなら」
王離が、もう一度ぺこりと頭を下げ、母の後を追う。
去り際、王賁は一度だけ振り返り、小さな墓と、俺を、交互に見た。何かを言いかけて、やめた。ただ、その口元に、かすかな笑みがあった。
——覚えておこう。
そう言われた気が、した。
月が、李牧の墓を、静かに照らしていた。
趙は滅んだ。二つ目の国が消えた。
だが俺は、この邯鄲の夜に、忘れ得ぬものを二つ得た。母という人の、底知れぬ恐ろしさ。そして——王賁という将の、心に留めるような、あの一瞥を。




