第11話 燕の笛
趙が滅び、秦の版図は北へと大きく広がった。
次に秦と国境を接したのは、燕。北方の、古き国である。
その燕の公子——燕丹と、母・政は、旧知の間柄であった。
「丹とは、邯鄲で共に過ごした仲でな」
ある日、政は珍しく、懐かしげに語った。
「私が人質の子として嗤われていた頃、あの子だけは、私を蔑まなかった。燕もまた、秦に公子を人質として差し出していた。……同じ、囚われの身。女同士、身を寄せ合うようにして、育ったのだ」
母にも、そういう日々があったのか、と俺は思った。老女を嗤い一つで処刑した、あの冷たい母にも。
「丹は今も、私の友だ。燕とは、事を構えたくないものよ」
だが——俺は、知っている。
史実の燕丹が、秦王政の命を狙うことを。荊軻という刺客を放ち、始皇帝の暗殺を謀ることを。
(母上は、燕丹を友と思っている。だが、燕丹の方は……)
旧友を信じる母の横顔に、俺は、拭いきれぬ不安を覚えた。
◆
一方、その頃。燕の宮では。
燕丹は、震える手で、杯を呷っていた。
趙が、滅んだ。あの軍神・李牧の趙が、呆気なく。次は燕だと、誰もが囁いていた。秦の勢いは、もはや天災に等しい。
(政……あなたは、変わってしまった)
邯鄲で身を寄せ合った、あの少女は、もういない。今そこにいるのは、天下を呑み込まんとする、冷酷な女帝だ。友誼など、あの女の前では、紙きれ一枚の重みもあるまい。
燕丹は、決断した。
「——荊軻を、呼べ」
現れたのは、一人の男であった。
荊軻。この世で貴重な、数少ない男の一人。そして、見惚れるほどの美男であった。涼やかな目元、通った鼻筋、白い肌。剣を取れば凄腕の刺客でありながら、その容姿は、女たちの目を奪わずにはおかない。
「燕丹様。お呼びと伺いました」
「荊軻。……お前に、頼みがある」
燕丹の声は、悲壮であった。
「秦王・政を、殺してほしい」
荊軻の目が、わずかに細められた。
「あの女さえ消えれば、秦の勢いは鈍る。天下の統一は、遠のく。燕は、生き延びられる。……お前だけが、頼みだ、荊軻」
「御意」
美しい刺客は、静かに頭を垂れた。
「ですが、秦王に近づくには、相応の手土産が要りましょう」
「案じるな。……貴重なお前を、人質として差し出す。この世で男は宝。美しい男を貢物に寄越されて、喜ばぬ王はおらぬ」
◆
荊軻は、燕からの人質として、咸陽へ送られてきた。
案の定、というべきか。政は、この貢物に、上機嫌であった。
「丹の奴、話が分かるではないか。恐怖のあまり、貴重な男まで差し出してきおった」
政は、荊軻を一目見て、満足げに頷いた。
「よい面構えだ。美しい男よ。……燕が降伏の意を示したものと受け取ろう」
俺は、その様子を、冷や汗とともに見ていた。
(違う……! これは降伏の使者などではない。刺客だ!)
だが、証拠はなかった。あるのは、前世の知識——荊軻という名が、始皇帝暗殺未遂の刺客であるという、その一点のみ。
俺は、政に訴えた。
「母上。あの荊軻という男、お側に置くのは危のうございます」
「ほう。なぜだ、扶蘇」
「なぜ、と申されましても……ただ、嫌な予感がするのです。燕が、理由もなく貴重な男を手放すでしょうか」
「恐怖に駆られれば、人は何でも差し出す。丹は臆病な子だった。……案ずるな、扶蘇。お前の考えすぎだ」
母は、取り合わなかった。旧友・燕丹への情が、母の目を曇らせている。普段は氷のように冷たい洞察を持つ母が、唯一、昔の友にだけは、甘い。
◆
そして、その日が来た。
荊軻が、政に申し出たのだ。人質として迎えられた礼に、一つ芸を披露したい、と。
「燕には、古より伝わる笛の調べがございます。秦王の御前にて、吹かせていただければ光栄に存じます」
「笛か。よかろう」
政は、機嫌よく頷いた。
「一人で聞くのは惜しい。朝臣どもを集めよ。燕の調べ、皆で楽しもうぞ」
謁見の間に、朝臣たちが集められた。
この間で帯剣を許されるのは、王族のみ。すなわち、今この場では、政と、俺——扶蘇の、二人だけである。護衛の蒙恬すら、剣を帯びることは許されず、丸腰で末席に控えている。刺客を警戒しての、秦の古い法だった。
その法が、皆に油断を生んでいた。武器を持てぬ荊軻。検められ、刃物一つ持たぬことが確かめられた、その身。誰もが、燕の珍しい調べを心待ちにしている。
だが、俺だけは、叫び出したい衝動を抑えていた。
(あの笛だ。あの笛に、何かある——!)
俺は、政の袖を引いた。
「母上! なりませぬ! あの笛を、吹かせてはなりませぬ!」
謁見の間が、静まり返った。朝臣たちの視線が、一斉に俺へ集まる。政が、眉を寄せた。
「扶蘇。無礼であろう。燕の使者に対し、何たる物言いか。……控えよ」
政の声は、静かだが、有無を言わせぬ響きを持っていた。旧友の差し向けた使者を、我が子が衆人の前で侮辱している——母の目には、そう映っているのだ。
荊軻が、俺を見た。美しい顔に、柔らかな微笑みを浮かべて。だがその奥の瞳は——氷のように、冷たかった。
「扶蘇様は、慎重なお方。……ですが、ご安心を。笛の一管、王の御身を害するものでは、決してございませぬ」
荊軻が、笛を唇に当てた。
止める術は、もう、なかった。
澄んだ音色が、謁見の間に流れ始める。美しく、物悲しい、燕の調べ。朝臣たちが、うっとりと聞き入る。母も、目を細めた。
荊軻が、吹きながら、少しずつ、少しずつ、政へと歩み寄っていく。調べに合わせた、優雅な所作のように。誰も、怪しまなかった。
そして、政の間近まで来た、その刹那。
笛が、二つに割れた。
中から現れたのは、細く鋭い、一振りの短剣。
「——燕の為に死ね!」
荊軻が、政の胸めがけて、短剣を突き出した。
「母上……!」
俺は叫んだ。
政は、辛うじて身を捻った。短剣の切っ先が、肩をかすめ、鮮血が散る。避けるので、精一杯だった。氷の女帝も、この不意打ちには、なす術がなかった。
「衛兵っ、刺客だ——!」
だが、間に合わない。武器を持つ者は、この間にいない。蒙恬が飛び出すが、丸腰だ。荊軻は、たたらを踏んだ政へ、なおも追い縋る。二の太刀を、母の背へ。
考えるより先に、体が動いていた。
俺は、腰の剣を——王族にのみ許された、その剣を、抜いていた。十歳の、細い腕で。そして、母を追う荊軻の、その背中へ、渾身の力で、突き入れた。
手応えが、あった。
骨を、肉を、確かに貫く、重い手応え。
「——な……」
荊軻が、振り返った。
その美しい顔に浮かんだのは、痛みではなく、驚愕だった。まさか、十歳の子供に。刺客として幾多の修羅を潜り抜けてきたこの自分が、こんな、幼子の一撃で。
「……こ、こんな子供に......この俺が......む、無念......」
美しい刺客は、膝から崩れ、そして、動かなくなった。
母は、無事だった。
◆
助かった。母は、助かったのだ。
なのに——俺の体は、震えていた。
剣を握ったまま、俺は、その場に立ち尽くしていた。目の前に、人が倒れている。俺が、殺した。俺の手が、この剣が、一人の人間の命を、断ち切った。
温かかった。荊軻の背を貫いたとき、剣を伝って、命の温かさが、手に返ってきた。それが、忘れられない。指が、その感触を覚えている。
剣が、手から滑り落ちた。かたん、と乾いた音が、静まり返った間に響いた。
俺は、自分の両手を見た。震えて、止まらない。
(俺は……人を、殺した……)
守るためだった。母を、守るためだった。間違ってなどいない。あれ以外に、道はなかった。頭では、分かっている。
だが、体が、心が、それを受け止めきれない。歯の根が合わず、呼吸が浅くなる。目の前が、ぐらりと揺れた。
「扶蘇様」
柔らかな声が、した。
蒙恬だった。丸腰のまま、真っ先に俺のもとへ駆け寄った蒙恬が、震える俺を、そっと、抱きしめていた。
「よう、なさいました。よう、母君をお守りになりました」
「蒙恬……俺、俺は……」
「存じております。……怖かったでしょう。手が、震えて当然にございます」
蒙恬の腕は、温かかった。荊軻の命の温かさとは、違う。生きている者の、優しい温もりだった。
「人を斬るとは、こういうことにございます。……武人でさえ、初めての時は、皆、震えまする。震えぬ者こそ、恐ろしい。扶蘇様が震えておられるのは、扶蘇様に、人の心がある証にございます」
俺は、蒙恬の胸に顔を埋め、子供のように、震えていた。
母を守れた。誓いの通り、守りたい者を、守れた。
だがその代償に、俺は、人を殺す手を、初めて、この身に刻んだのだ。守るということが、これほど重く、これほど血の匂いのするものだとは——。
蒙恬は、何も言わず、ただ、俺の震えが収まるまで、抱きしめ続けてくれた。
十歳の冬。俺は、初めて人を斬り、そして、初めて知った。守るとは、綺麗事では、ないのだと。
◆
政は傷の手当を受けながら、扶蘇のことを考えていた。命を救ってくれたのに、礼を言うことが出来なかった。
扶蘇の行動が、政を救う為の咄嗟の行動なのか、それとも計算なのか一瞬、分からなくなったからだ。
あの男の面影......扶蘇が成長する度に、思い出さずにはいられなかった。




