第11話 作られた証拠
韓非子が咸陽へ来てから、政は彼女をたびたび宮中へ呼ぶようになった。
身重となった政は、以前ほど長く朝議に出ることができない。その代わりに自室へ官吏や学者を招くことが増え、中でも韓非子の話を好んで聞いていた。
「罰を重くすれば、それだけ罪を恐れる者も増えるのではないか?」
「お、恐れさせるだけでは……罪を犯さなくなるとは限りません。み、見つからぬよう隠すことばかり、上手くなる者もおります」
韓非子は言葉を口にするとき、しばしば最初の音につかえた。それでも政が急かすことはなく、言葉が出てくるまで待っている。そうして語られる内容は明快で、人の善意に頼るのではなく、賞罰と制度によって国を治めるという彼女の考えを、政は日を追うごとに面白がるようになっていた。
俺も何度か、その講義を聞かせてもらった。
前世では書物の中にしかいなかった人物が、目の前で自らの思想を語っている。それだけでも妙な気分になるが、その言葉を後の始皇帝となる母上が熱心に聞いている光景は、俺にとってなおさら特別なものだった。
ただ、その二人が近づいていくことを、快く思っていない女もいた。
李斯だった。
◆
呂不韋がいなくなってから、李斯は朝廷の中で急速に頭角を現していた。
法と文書に強く、命じられた仕事も早い。政が何を求めているかを察することにも長けており、呂不韋という巨大な存在が消えた今、空いた場所へ入り込むように王の近くへ進んでいた。
韓非子とは同門である。
同じ師から学んだからこそ、李斯は彼女の才を誰よりよく知っていた。書においては自分を凌ぐところがあり、法についての考えも深い。吃音のため弁舌には恵まれていなかったが、それすら政が待って聞くようになってしまえば、大きな弱みにはならない。
このまま秦へ仕えれば、いずれ重用される。
そうなれば、自分の出世を阻む。
李斯には、それを黙って見ているつもりはなかった。
◆
最初に見つかったのは、一本の短刀だった。
場所は韓非子の居室、寝台の下。王宮内へ武器を持ち込むこと自体が禁じられているうえ、今の政は懐妊中であり、普段より身動きが取りにくい。
韓から送られてきた人質の部屋から刃物が見つかったとなれば、見過ごせるはずもなかった。
「ち、違います。わ、私は……そのような物を、持ち込んでおりません」
呼び出された韓非子は、布の上へ置かれた短刀を見るなり否定した。
李斯は彼女を責め立てず、政へ向かって静かに頭を下げた。
「韓非子殿の部屋から出たことは事実ですが、これだけで本人の物と決めつけるべきではございません。まずは、誰が居室へ出入りしたのかを調べるべきでしょう」
「そうしろ」
政もすぐには罪を決めなかった。
韓非子には宮から出ないよう命じたものの、その時点では拘束もしなかった。短刀一本なら、誰かが置いた可能性を否定できなかったからだ。
俺も、この時はそれで終わると思っていた。
だが、終わらなかった。
数日後、今度は韓非子の荷から細い木簡が見つかった。
そこには政が政務を終える時刻や、自室へ戻る道が記されていた。身重になってから昼に休むようになった時間まで書かれており、王の動きを調べていたと疑われても仕方のない内容だった。
「わ、私の物ではありません」
韓非子は木簡を見ながら、はっきりと首を振った。
「では、なぜ荷の中に?」
「だ、誰かが入れたのです。た、短刀と同じように」
李斯は追及しなかった。
その代わり、さらに調べるべきだと政へ進言した。
そして調べれば調べるほど、韓非子にとって都合の悪いものが出てきた。
◆
三つ目に発見されたのは、小さく折り畳まれた帛書だった。
薄い絹布に書かれていたのは、わずかな文だけだった。
秦王は懐妊し、身体が重くなっている。
以前ほど自由には動けない。
機会は近い。
「わ、私が書いたものではありません」
韓非子は声を震わせながら否定した。
「筆跡は?」
政が尋ねる。
「一致しておりません」
李斯が答えた。
「ならば、これも証拠とは言い切れぬな」
「はい。ただ、使われた墨は韓非子殿の部屋にあるものと同じで、帛も韓から持ち込まれた物と同じ織りでございます」
「そ、それだけで私の物とは……」
「もちろん、断定はできません」
李斯は淡々としていた。
不思議なくらい、いつも韓非子の言い分を認める。
短刀だけでは足りない。
木簡だけでも足りない。
帛書だけでも決め手ではない。
だが、一つ一つは弱い証拠でも、それが重なるほど疑いは濃くなっていった。
さらに数日後、決定的に見えるものまで現れた。
韓非子付きの侍女が、夜中に韓から来た商人と会っていたところを捕らえられたのだ。
「そ、その者を呼んでください」
報告を聞いた韓非子は、むしろ安堵したようだった。
「き、聞けば分かります。私は何も命じておりません」
「既に聞き取りは済んでおります」
李斯が答える。
「侍女は、あなたから帛書を韓へ届けるよう命じられたと証言しております」
韓非子の表情が消えた。
「……え」
「商人の荷からも、韓王家へ渡すための印が見つかりました」
「ち、違います」
首を振る。
「わ、私は……そのような命令をしておりません。そ、その者が、嘘を……」
短刀。
王の動静を記した木簡。
暗殺を思わせる帛書。
そして侍女の証言。
一つだけなら、偶然や嫌がらせで済ませられたかもしれない。しかし互いに関係する証拠がこれほど重なれば、誰かに陥れられたという韓非子の訴えの方が、次第に苦しい言い逃れに見えてくる。
もちろん、俺たちの知らないところでは、そのすべてが李斯によって用意されていた。
短刀を忍ばせたのも、木簡を書かせたのも、帛書を用意したのも、侍女に偽りの証言をさせたのも彼女だった。
だが、その時の俺には知る由もなかった。
ただ、妙だとは感じていた。
証拠が、あまりにも都合よく出てくる。
◆
「韓非子」
最後の報告を聞き終えた政は、しばらく黙ってから彼女を見た。
「お前は今も、何もしていないと言うのだな」
「は、はい」
韓非子は青ざめていたが、視線を逸らさなかった。
「わ、私は……王を害そうなどとは、一度も考えておりません。だ、誰かが私を陥れています」
「誰だ」
問いかけられた韓非子の視線が、ほんの一瞬だけ横へ動いた。
そこには李斯がいた。
同じ師のもとで学んだ女。
自分の才も、弱みもよく知っている女。
だが、韓非子はその名を口にしなかった。自分が証拠によって追い詰められている以上、証拠もなく誰かを犯人と呼ぶことが、どれほど空しく聞こえるかを誰より理解していたのだろう。
「……わ、分かりません」
ようやく、それだけ答えた。
政は目を閉じて考えた。
少し前まで法について語り合っていた女だ。その才を気に入っていたことを俺も知っている。
だからこそ、すぐに罪を決めなかった。
それでも、もはや何もなかったことにはできない。
「身柄を拘束する」
政は静かに命じた。
「残る事実を調べ終えるまで、牢へ入れろ」
「王……」
「まだ処刑すると決めたわけではない」
政は韓非子を見据えた。
「無実ならば、それを示すものが見つかるかもしれぬ。だが今のお前を自由にしておくことはできない」
韓非子は何かを言おうとして唇を動かしたが、結局そのまま頭を下げた。
兵に連れられていく間際、彼女は一度だけ李斯を見た。
李斯は、何も言わなかった。
◆
夕方になっても、俺はそのことばかり考えていた。
短刀も、木簡も、帛書も、侍女の証言もある。母上の判断はおかしくないし、俺が王でも同じように韓非子を拘束したかもしれない。
それでも、何かが引っかかる。
前世で知っていた歴史の中でも、韓非子と李斯は同門だった。
そして韓非子は、秦へ来てから死ぬ。
詳しい経緯まで同じではない。俺が知っている歴史と、この世界の出来事は既に何度もずれている。
だからこそ、気になった。
俺は読んでいた木簡を閉じた。
「蒙恬。韓非子に会いたい」
蒙恬は少し考えたあと、立ち上がった。
「では、私も参ります」
「ありがとう」
それだけで話は決まった。
日が沈み始める頃、俺たちは牢へ向かった。
入口を守っていた牢番は、俺を見ると明らかに困った顔をしたものの、隣に蒙恬が立っていることを確認すると、結局は道を開けた。
「扶蘇様。長居はなさらぬようお願いいたします」
「分かった」
重い戸が開き、湿った冷気が流れてきた。
俺は蒙恬とともに薄暗い通路へ入り、韓非子のいる牢へ向かった。




