第10話 法を説く女
呂不韋を失い、嫪毐も処断されたことで、秦の政は急速に政の手へ集まり始めた。
これまでなら丞相や有力臣下の意向を無視できなかった場面でも、今は王の判断がそのまま国の方針になっていく。身重になったことで表へ出る時間こそ減っていたが、母上が以前より弱くなったとは、誰も思っていなかった。
むしろ逆だった。
邪魔をする者が消えた分だけ、母上はまっすぐ前を見るようになった。
そして次に狙いを定めたのは、趙ではなかった。
「韓、ですか」
俺は地図を見ながら聞いた。
隣にいた蒙恬が頷く。
「はい。王は、まず韓へ圧力をかけるお考えです」
六国の中でも韓は弱い。
領土は狭く、秦に長く削られ続けている。一方の趙には李牧がいて、桓齮を破ったばかりだ。
今すぐ趙へ再び大軍をぶつけるより、先に弱い国を呑み込む。
合理的だった。
そして、嫌になるほど覚えがある。
前世で学んだ歴史でも、秦が最初に滅ぼした六国は韓だった。
司馬尚が俺の知る時期より早く現れ、桓齮も違う形で死んだ。それでも大きな流れだけは、また俺の知っている歴史へ近づこうとしている。
だからといって、もう安心して未来を知っているとは思えない。
一度ずれた歴史は、いつどこでまた道を変えるか分からない。
「秦は韓に何を要求したんだ?」
「服従の証を示せ、と」
「それは要求というより脅しだな」
「戦を仕掛けるよりは穏やかでしょう」
蒙恬は平然としていた。
確かにそうなのだろう。
ただ、韓からすれば秦に睨まれた時点で、選べる道などほとんど残っていない。
そして数日後。
韓は一人の女を咸陽へ送ってきた。
「韓非子?」
その名を聞いた瞬間、俺は読んでいた木簡から顔を上げた。
「はい」
蒙恬が少し不思議そうに俺を見る。
「ご存じなのですか?」
「……名前だけ」
危ない。
つい反応しすぎた。
韓非子。
法家思想を代表する人物。
前世では書物の中で何度も名前を見た。人の善意や徳だけを頼りにせず、法と仕組みによって国を治めることを説いた思想家だ。
本物がいる。
しかも、この宮中に。
「会いたい」
「ずいぶん急ですね」
「話を聞いてみたいんだ」
「珍しい方ですね。普通の七歳なら、もっと別のものに興味を持つと思いますが」
「それ、前にも言われた」
俺が返すと、蒙恬は少し笑った。
◆
韓非子は、人質に近い立場で秦へ送られてきた。
けれど政は彼女を牢へ入れなかった。最初の謁見で国の治め方について問うたところ、その考えに興味を持ったらしい。
身重の母上は長時間の政務を控えるよう医官に言われていたこともあり、最近は宮中へ少人数だけを呼び、座ったまま話を聞くことが増えていた。
俺も頼み込んで、その席へ混ぜてもらった。
初めて見る韓非子は、想像していたより地味な女だった。
衣も飾りも質素で、姿勢も控えめだったが、目だけは鋭い。
「ほ、法とは……」
口を開いたところで、韓非子の言葉が詰まった。
少し息を整える。
「法とは、王の気分によって変わるものでは、あ、ありません」
俺は黙って聞いた。
吃音がある。
前世の知識としては知っていたが、実際に目の前で聞くと印象が違う。
言葉は時々止まる。
けれど、考えは止まっていない。
「功があれば賞し、罪があれば罰する。その基準を、だ、誰に対しても明らかにする。それが国を治める土台になります」
政は急かさなかった。
「王が賢ければ、それで国は治まるのではないか?」
韓非子は少し考えた。
「す、優れた王一人だけに頼る国は、その王が死ねば弱くなります」
「では、臣下にも頼るなと?」
「人を信じるな、ということではありません」
一度詰まり、言い直す。
「ただ、し、信用だけで国を動かしてはならない。忠臣がいなくとも動く仕組みを作るべきです」
母上の目が細くなった。
「人は裏切るからか」
「はい」
その返事だけは、詰まらなかった。
政はしばらく黙った。
俺には、誰を思い出しているのか分かる気がした。
呂不韋。
あれほど長く国を支えた男でさえ、最後には王を討とうとした。
「ならば、法があれば裏切りはなくなるのか?」
今度は俺が口を挟んだ。
韓非子がこちらを見る。
「扶蘇様は、どう思われますか?」
「なくならないと思います」
「なぜです?」
「人が決まりを作るなら、破る人も出ると思うから」
七歳らしく言ったつもりだったが、韓非子は真面目な顔で頷いた。
「その通りです」
少し言葉を探してから続ける。
「法は、人を善人にするためのものではありません。裏切る者がいても、国が簡単には壊れないようにするためのものです」
政が小さく笑った。
「面白いな」
韓非子は母上へ視線を戻した。
「人の心は変わります。ですが、制度は、か、簡単には変わらないように作ることができます」
「王自身も、その法に従うべきか?」
少しだけ長い沈黙があった。
韓非子は逃げなかった。
「王が自ら定めた法を軽んじれば、下の者も軽んじます」
母上は腹へ手を添えながら、ゆっくり頷いた。
「続けろ」
「はい」
その日の講義は、日が傾くまで続いた。
俺は途中から、前世で覚えた言葉と、今ここで語られている言葉を頭の中で比べるのをやめていた。
本の中の韓非子ではない。
言葉に詰まりながら、それでも自分の考えを王へ伝えようとしている一人の人間が、そこにいる。
母上もまた、ただ珍しい学説を聞いているわけではない。
人を信じて裏切られたばかりだからこそ、誰か一人に頼らず国を動かすという考えが、以前より深く刺さっているように見えた。
それが秦をどこへ連れていくのか。
俺にはまだ分からない。
ただ、前世で知っている秦が、強い法によって国を束ねていったことだけは知っている。
その始まりになるかもしれない言葉を、今、母上は目の前で聞いていた。
そして俺もまた、その席にいる。
未来はもう、本の中に書かれた通りではない。
それでも歴史は、止まらず前へ進んでいた。




