第9話 讒言
地震は、趙を芯から砕いた。
王都・邯鄲は瓦礫の山と化し、地の裂け目からは火が噴き、民は飢えと寒さに喘いだ。城壁は崩れ、備蓄の倉は潰れ、趙という国は、秦の兵が一歩も踏み込まぬうちから、内から腐り落ちようとしていた。
その混乱の宮で。
奸臣・郭開は、北の戦線へ放つ一通の命令書を、満足げに眺めていた。
——秦からの使者が郭開のもとを訪れたのは、地震の数日前のことだった。
黄金の山と、一枚の密書。中身は単純だった。李牧を失脚させよ、と。
(軍神を戦場で討てぬなら、宮で討てばよい。まったく、秦の王は話が分かる)
郭開に、趙への忠義などなかった。あるのは金への欲と、保身のみ。李牧という煙たい将軍が消えれば、宮での己の権勢は揺るぎなくなる。秦の金は、その背中を押す絶好の口実だった。
そこへ、地震である。
(天の配剤よ。この非常時、軍神を呼び戻す大義は、いくらでも立つ)
郭開は、趙王・遷の御前に進み出た。
◆
「王よ。由々しき事態にございます」
残虐な暴君・遷は、地震で半ば傾いた宮の玉座で、不機嫌に眉を寄せていた。
「何だ、郭開。この忙しい時に」
「李牧のことにございます。……あの者、近頃、目に余りまする」
郭開の声は、蜜のように滑らかだった。
「秦の大軍を前に、李牧は防ぐばかり。一度として、打って出ようとせぬ。臆病風に吹かれておるのか、それとも——別の企みがあるのか」
「別の、企みだと?」
「思い出されませ、王よ。あの李牧、平素より王を軽んじる態度。王のご命令にも、幾度となく異を唱えてまいりました。……兵を握り、王を敬わぬ将軍。それが何を意味するか」
暴君の狭量な心に、疑いの種が蒔かれた。
もとより遷は、己を軽んじる者を許さぬ質である。李牧の剛直な物言いは、以前から遷の癇に障っていた。
「郭開。どうせよと言うのだ」
「この国難の時、まず李牧を都へ呼び戻し、王の御前で忠誠を問い質すべきかと。——もし帰還を拒むようなら」
郭開は、唇の端を、吊り上げた。
「それこそが、謀反の証。動かぬ証拠にございます」
◆
帰還命令の使者は、北の陣に届いた。
李牧は、その命令書を前に、静かに目を閉じた。
「……今、私が前線を離れれば、どうなる」
「李牧」傍らの司馬尚が、険しい顔をした。「従うな。今、軍の要であるお前が抜ければ、王翦は即座に突いてくる。趙は終わりだ」
「そうだな。地震で民は傷つき、国は傾いた。この時に前線を空ければ、秦は一気に雪崩れ込む。……将として、従えぬ命令だ」
李牧は帰還を拒み、前線に留まった。
それは、軍神として、将として、完全に正しい判断だった。前線を離れれば、趙は即に滅ぶ。民を守るには、ここを動くわけにはいかない。
だが——その正しさこそが、罠だった。
「申し上げます! 李牧将軍、帰還命令を拒否!」
その報せは、郭開の待ち望んだものだった。
「お聞きになりましたか、王よ! 国難の時、王命を拒むとは! これぞ謀反の証! 李牧は、この混乱に乗じて、兵を以て都を奪わんとしておるのです!」
暴君の顔が、怒りに歪んだ。
「おのれ李牧……! 朕の命を拒むかっ!」
「直ちに将軍を解任し、捕縛の使者を遣わすべきです。王命に背いた逆賊として」
こうして——地震と奸臣の舌によって、趙を守り続けた軍神は、反逆者の烙印を押された。
◆
捕縛の勅使が、王の印を掲げて陣に現れたとき、司馬尚は激高した。
「馬鹿な! 李牧が逆賊だと!? この将軍が、どれだけ趙のために血を流してきたと思っている!」
「司馬尚、やめろ」
李牧が、静かに制した。
「勅使を斬れば、それこそ本物の謀反だ。……そうなれば、趙は内から割れる。秦を前にして、同士討ちをするなど、愚かにも程がある」
「だが、このまま縛につけば、お前は——!」
「分かっている」
李牧は、自らの剣を外し、地に置いた。抵抗の意思がないことを、示すために。
軍神は、知っていた。都へ戻れば、待っているのは忠誠の問答などではなく、死であることを。それでも、縛についた。自らが剣を抜けば、趙の兵が同士討ちで血を流す。地震で傷ついた民の上に、さらに内乱の災いを重ねることになる。
最期の瞬間まで、この女は、守る者であろうとした。
「司馬尚」
縄をかけられながら、李牧は、愛する男を見た。
「後を託す。……兵を守れ。一人でも多く、生きて返してやってくれ」
「李牧……」
「大丈夫だ」
軍神は、微笑んだ。戦場で一度も見せたことのない、ただの女の、柔らかな笑みだった。
「王の前で、すべて申し開きをする。私に謀反の心なきこと、必ず分かってもらう。……だから、案ずるな」
それが、嘘であることを、二人とも知っていた。
だが司馬尚は、唇を噛み、頷くしかなかった。ここで李牧を奪い返せば、趙は割れる。李牧が命を懸けて守ろうとしたものが、崩れる。
護送の列が、南へ去っていく。
軍神の背中が雪の向こうに小さくなるまで、司馬尚はただ立ち尽くしていた。
◆
李牧なき趙軍を託された司馬尚は、奮戦した。
だが——相手は、王翦である。
軍神・李牧が去った瞬間を、老練な宿将が見逃すはずがなかった。王翦は、李牧捕縛の報せを受けるや、全軍に総攻撃を命じた。
「軍神は、もういない。——攻めよ。趙を飲み込め」
司馬尚は強かった。個の武においては、秦のいかなる将にも劣らぬ。だが、戦は個の武だけでは決まらぬ。
王翦の用兵は、李牧のような奇策こそないが、水が低きに流れるように確実で、隙がなかった。司馬尚が支えようとする端から、秦軍は趙の陣を削り、包み、押し潰していく。
(李牧……! お前がいれば……!)
地震で疲弊した兵。軍神を失った動揺。補給の絶えた前線。すべてが趙に不利だった。司馬尚一人の奮闘では、覆しようのない大勢だった。
最期は、乱戦の中だった。
幾つもの矢を受け、幾つもの剣を浴びながら、司馬尚は最後まで剣を振るい続けた。李牧に託された兵を、一人でも多く逃がすために。
薄れゆく意識の中で、司馬尚が見たのは、北の空だった。
(……李牧。俺は、お前と……同じ時に、逝けただろうか……)
愛する女と生き延びる。その願いは、叶わなかった。
だがせめて、離れ離れの地で、同じ頃に果てられるなら——それは、不幸中の幸いと、呼べるのかもしれなかった。
趙の将・司馬尚、戦死。
これにより、趙の抵抗は事実上潰えた。
◆
そして——王都に護送された李牧が、その後どうなったかを、詳しく語る記録は、残っていない。
ただ、暴君・遷が、かねてより李牧の美貌に昏い関心を抱いていたこと。反逆者として捕えられた軍神が、王の前に引き据えられたこと。そして、処刑の前に幾夜か、王の私室へ運ばれたこと。
——それだけが、囁きとして、伝わっている。
軍神・李牧が、如何なる最期を迎えたか。趙を守り続けた女が、守るべき王の手によって、どのように尊厳を奪われたか。
それは、語るに忍びない。
確かなのは、ただ一つ。愛する男と生きることを願った一人の女が、腐りきった祖国の王の手で無残に散ったという、その事実だけであった。
◆
その一部始終を、俺は、遠い咸陽で聞いた。
趙の軍神・李牧の失脚と死。副将・司馬尚の戦死。そして、秦軍が邯鄲に迫っているという報せを。
俺の献じた策は、完璧に成った。
郭開は買収され、李牧は盤外から葬られ、軍神なき趙は王翦の前に崩れ落ちた。俺の言葉は、寸分違わず、現実になった。
だが。
俺の胸にあったのは、勝利の喜びではなかった。
俺は、会ったこともない李牧という女を、想った。愛する男と生きるために戦った、一人の女。その願いを、俺の策が、踏み潰した。軍神を戦場で討てぬなら宮で討て——その冷たい一言が、遠い北の地で、二人の人間の愛を、引き裂いたのだ。
(……これが、俺の望んだ力なのか)
盤を打つ側になる、と誓った。転がされる駒には戻らぬ、と。だが、盤を打つとは——こういうことだった。遠い盤上で、顔も知らぬ駒を、平然と切り捨てることだった。
俺は、窓の外の、北の空を見た。
この世界では、女が九割だという。ゆえに戦場は女で満ち、数えきれぬ女たちが、駒のように死んでいく。李牧のように。名もなき無数の兵のように。貴重な男が後宮で守られる裏で、女たちは、使い捨てられていく。
そして俺は、その使い捨てを命じる側の、策を授けた。
(趙王のような男には、絶対に、ならぬ)
民の為に戦った者を凌辱し、使い捨てる暴君。その対極に、俺は立ちたい。守りたいものを、守れる男に。この冷たい盤の上で、それでも、守り抜ける男に。
北の空は、どこまでも重く、鉛色に曇っていた。
軍神の死を悼むように。




