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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第1章 戦国の終焉編

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第9話 讒言

 地震は、ちょうを芯から砕いた。


 王都・邯鄲かんたん瓦礫がれきの山と化し、地の裂け目からは火が噴き、民は飢えと寒さに喘いだ。城壁じょうへきは崩れ、備蓄びちくの倉は潰れ、趙という国は、秦の兵が一歩も踏み込まぬうちから、内からくさり落ちようとしていた。


 その混乱の宮で。


 奸臣かんしん郭開かくかいは、北の戦線せんせんへ放つ一通の命令書を、満足げに眺めていた。


 ——秦からの使者が郭開かくかいのもとを訪れたのは、地震の数日前のことだった。


 黄金の山と、一枚の密書。中身は単純だった。李牧りぼくを失脚させよ、と。


軍神ぐんしんを戦場で討てぬなら、宮で討てばよい。まったく、秦の王は話が分かる)


 郭開かくかいに、趙への忠義などなかった。あるのは金への欲と、保身のみ。李牧りぼくという煙たい将軍が消えれば、宮での己の権勢は揺るぎなくなる。秦の金は、その背中を押す絶好の口実だった。


 そこへ、地震である。


(天の配剤よ。この非常時、軍神を呼び戻す大義は、いくらでも立つ)


 郭開かくかいは、趙王ちょうおうせんの御前に進み出た。



「王よ。由々しき事態にございます」


 残虐な暴君・遷は、地震で半ば傾いた宮の玉座で、不機嫌に眉を寄せていた。


「何だ、郭開かくかい。この忙しい時に」


李牧りぼくのことにございます。……あの者、近頃、目に余りまする」


 郭開かくかいの声は、蜜のように滑らかだった。


「秦の大軍を前に、李牧りぼくは防ぐばかり。一度として、打って出ようとせぬ。臆病風に吹かれておるのか、それとも——別の企みがあるのか」


「別の、企みだと?」


「思い出されませ、王よ。あの李牧りぼく、平素より王を軽んじる態度。王のご命令にも、幾度となく異を唱えてまいりました。……兵を握り、王を敬わぬ将軍。それが何を意味するか」


 暴君の狭量な心に、疑いの種が蒔かれた。


 もとよりせんは、己を軽んじる者を許さぬ質である。李牧りぼく剛直ごうちょくな物言いは、以前からせんかんに障っていた。


郭開かくかい。どうせよと言うのだ」


「この国難の時、まず李牧りぼくを都へ呼び戻し、王の御前で忠誠を問い質すべきかと。——もし帰還をこばむようなら」


 郭開かくかいは、唇の端を、吊り上げた。


「それこそが、謀反むほんの証。動かぬ証拠にございます」



 帰還命令の使者は、北の陣に届いた。


 李牧りぼくは、その命令書を前に、静かに目を閉じた。


「……今、私が前線を離れれば、どうなる」


李牧りぼく」傍らの司馬尚しばしょうが、険しい顔をした。「従うな。今、軍の要であるお前が抜ければ、王翦おうせんは即座に突いてくる。趙は終わりだ」


「そうだな。地震で民は傷つき、国は傾いた。この時に前線を空ければ、秦は一気に雪崩れ込む。……将として、従えぬ命令だ」


 李牧りぼくは帰還を拒み、前線に留まった。


 それは、軍神として、将として、完全に正しい判断だった。前線を離れれば、趙は即に滅ぶ。民を守るには、ここを動くわけにはいかない。


 だが——その正しさこそが、罠だった。


「申し上げます! 李牧りぼく将軍、帰還命令を拒否!」


 その報せは、郭開かくかいの待ち望んだものだった。


「お聞きになりましたか、王よ! 国難の時、王命を拒むとは! これぞ謀反の証! 李牧りぼくは、この混乱に乗じて、兵を以て都を奪わんとしておるのです!」


 暴君の顔が、怒りに歪んだ。


「おのれ李牧りぼく……! 朕の命を拒むかっ!」


「直ちに将軍を解任し、捕縛ほばくの使者を遣わすべきです。王命に背いた逆賊として」


 こうして——地震と奸臣かんしんの舌によって、趙を守り続けた軍神は、反逆者の烙印らくいんを押された。



 捕縛の勅使ちょくしが、王の印を掲げて陣に現れたとき、司馬尚しばしょうは激高した。


「馬鹿な! 李牧りぼくが逆賊だと!? この将軍が、どれだけ趙のために血を流してきたと思っている!」


司馬尚しばしょう、やめろ」


 李牧りぼくが、静かに制した。


「勅使をれば、それこそ本物の謀反だ。……そうなれば、趙は内から割れる。秦を前にして、同士討ちをするなど、愚かにも程がある」


「だが、このまま縛につけば、お前は——!」


「分かっている」


 李牧りぼくは、自らの剣を外し、地に置いた。抵抗の意思がないことを、示すために。


 軍神は、知っていた。都へ戻れば、待っているのは忠誠の問答などではなく、死であることを。それでも、縛についた。自らが剣を抜けば、趙の兵が同士討ちで血を流す。地震で傷ついた民の上に、さらに内乱の災いを重ねることになる。


 最期の瞬間まで、この女は、守る者であろうとした。


司馬尚しばしょう


 縄をかけられながら、李牧りぼくは、愛する男を見た。


「後を託す。……兵を守れ。一人でも多く、生きて返してやってくれ」


李牧りぼく……」


「大丈夫だ」


 軍神は、微笑んだ。戦場で一度も見せたことのない、ただの女の、柔らかな笑みだった。


「王の前で、すべて申し開きをする。私に謀反の心なきこと、必ず分かってもらう。……だから、案ずるな」


 それが、嘘であることを、二人とも知っていた。


 だが司馬尚しばしょうは、唇を噛み、頷くしかなかった。ここで李牧りぼくを奪い返せば、趙は割れる。李牧りぼくが命を懸けて守ろうとしたものが、崩れる。


 護送の列が、南へ去っていく。


 軍神の背中が雪の向こうに小さくなるまで、司馬尚しばしょうはただ立ち尽くしていた。



 李牧りぼくなき趙軍を託された司馬尚しばしょうは、奮戦した。


 だが——相手は、王翦おうせんである。


 軍神・李牧りぼくが去った瞬間を、老練な宿将が見逃すはずがなかった。王翦おうせんは、李牧りぼく捕縛の報せを受けるや、全軍に総攻撃を命じた。


「軍神は、もういない。——攻めよ。趙を飲み込め」


 司馬尚しばしょうは強かった。個の武においては、秦のいかなる将にも劣らぬ。だが、戦は個の武だけでは決まらぬ。


 王翦おうせんの用兵は、李牧りぼくのような奇策こそないが、水が低きに流れるように確実で、隙がなかった。司馬尚しばしょうが支えようとする端から、秦軍は趙の陣を削り、包み、押し潰していく。


李牧りぼく……! お前がいれば……!)


 地震で疲弊した兵。軍神を失った動揺。補給の絶えた前線。すべてが趙に不利だった。司馬尚しばしょう一人の奮闘では、覆しようのない大勢だった。


 最期は、乱戦の中だった。


 幾つもの矢を受け、幾つもの剣を浴びながら、司馬尚しばしょうは最後まで剣を振るい続けた。李牧りぼくに託された兵を、一人でも多く逃がすために。


 薄れゆく意識の中で、司馬尚しばしょうが見たのは、北の空だった。


(……李牧りぼく。俺は、お前と……同じ時に、逝けただろうか……)


 愛する女と生き延びる。その願いは、叶わなかった。


 だがせめて、離れ離れの地で、同じ頃に果てられるなら——それは、不幸中の幸いと、呼べるのかもしれなかった。


 趙の将・司馬尚しばしょう、戦死。


 これにより、趙の抵抗は事実上潰えた。



 そして——王都に護送された李牧りぼくが、その後どうなったかを、詳しく語る記録は、残っていない。


 ただ、暴君・せんが、かねてより李牧りぼくの美貌に昏い関心を抱いていたこと。反逆者として捕えられた軍神が、王の前に引き据えられたこと。そして、処刑の前に幾夜か、王の私室へ運ばれたこと。


 ——それだけが、囁きとして、伝わっている。


 軍神・李牧りぼくが、如何なる最期を迎えたか。趙を守り続けた女が、守るべき王の手によって、どのように尊厳を奪われたか。


 それは、語るに忍びない。


 確かなのは、ただ一つ。愛する男と生きることを願った一人の女が、腐りきった祖国の王の手で無残に散ったという、その事実だけであった。



 その一部始終を、俺は、遠い咸陽かんようで聞いた。


 趙の軍神・李牧りぼくの失脚と死。副将・司馬尚しばしょうの戦死。そして、秦軍が邯鄲かんたんに迫っているという報せを。


 俺の献じた策は、完璧に成った。


 郭開かくかいは買収され、李牧りぼく盤外ばんがいから葬られ、軍神なき趙は王翦おうせんの前に崩れ落ちた。俺の言葉は、寸分違わず、現実になった。


 だが。


 俺の胸にあったのは、勝利の喜びではなかった。


 俺は、会ったこともない李牧りぼくという女を、想った。愛する男と生きるために戦った、一人の女。その願いを、俺の策が、踏み潰した。軍神を戦場で討てぬなら宮で討て——その冷たい一言が、遠い北の地で、二人の人間の愛を、引き裂いたのだ。


(……これが、俺の望んだ力なのか)


 盤を打つ側になる、と誓った。転がされる駒には戻らぬ、と。だが、盤を打つとは——こういうことだった。遠い盤上で、顔も知らぬ駒を、平然と切り捨てることだった。


 俺は、窓の外の、北の空を見た。


 この世界では、女が九割だという。ゆえに戦場は女で満ち、数えきれぬ女たちが、駒のように死んでいく。李牧りぼくのように。名もなき無数の兵のように。貴重な男が後宮で守られる裏で、女たちは、使い捨てられていく。


 そして俺は、その使い捨てを命じる側の、策を授けた。


趙王ちょうおうのような男には、絶対に、ならぬ)


 民の為に戦った者を凌辱りょうじょくし、使い捨てる暴君。その対極に、俺は立ちたい。守りたいものを、守れる男に。この冷たい盤の上で、それでも、守り抜ける男に。


 北の空は、どこまでも重く、鉛色に曇っていた。


 軍神の死を悼むように。

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