第180話 新たな王
寿春へ続く街道では、翌日も漢と楚の先鋒がぶつかった。
曹参と鍾離眜は中央の歩兵を入れ替えながら押し合い、両翼では灌嬰と龍且が騎兵を率いて激突する。初日と同じく真正面からの戦いとなり、どちらかが押しても、そのまま戦列を破るところまでは届かなかった。
劉邦の本隊も次第に前線へ近づいていた。
ここまで来れば、南東から韓信が動くはずだった。九江軍が東へ進めば、楚は寿春だけを見ていることができなくなる。
ところが、三日経っても九江軍が動いたという報告はなかった。
「まだ出てねえのか?」
劉邦は地図から顔を上げた。
「はい。六周辺に軍を留めたままとのことです」
使者の答えに、劉邦の眉間へ皺が寄る。
「何やってんだ、あいつは」
隣にいた張良も、九江の位置へ目を落とした。
楚へ兵を向けることを勧めたのは、他ならぬ韓信である。それにもかかわらず、自分だけが軍を止めている理由は見えなかった。
「兵站に問題があるのでしょうか」
「そんな報告は来てねえ。そもそも戦えるって言ったのはあいつだぞ」
劉邦は苛立ちを隠さず、すぐに進軍を促す書状を書かせた。
命令は明確だった。
九江軍は予定通り東進し、会稽方面へ進め。
◆
その書状が六へ届いた時、韓信は軍を動かす準備すら始めていなかった。
「催促が来たぞ」
書状を読み終え、韓信は向かいにいる蒯通へ放った。
「当然でしょう」
「戦えと言ったのは俺だからな」
「だからこそ、漢王はあなたがすぐに動くと思っております」
蒯通は書状を拾い、内容を確認した。
「ですが、今動いてはいけません」
「理由は?」
「漢王が、あなたなしでは困るところまで待つためです」
前線ではすでに激戦が続いている。
曹参と灌嬰だけでは楚軍を押し切れず、項羽本人もまだ動いていない。漢にとって、九江軍が東へ出ることの意味は日に日に大きくなっていた。
「困らせてから値を吊り上げろってことか」
「その通りです」
蒯通は悪びれなかった。
「大将軍として命令に従って東へ進めば、勝っても得るのは漢王です。あなたは功績を挙げても、次の命令を待つ身に変わりありません」
韓信は黙って書状を見た。
「九江王になれば違います。この地の兵も税も、あなた自身のものになる。漢王と肩を並べるとまでは申しませんが、少なくとも一将軍ではなくなります」
「まだ王位を寄越せと言うのか」
「今こそ言うべきです」
蒯通は地図の九江を指した。
「漢王はあなたの兵を必要としている。必要としている時に求めなければ、戦が終わってから王位など与えるはずがありません」
理屈は通っていた。
それでも、韓信はすぐには頷かなかった。
劉邦への恩義が消えたわけではない。何者でもなかった自分を大将軍まで引き上げたことは、どれほど不満があろうと事実だった。
「俺が王になったら、漢王を裏切ったことになると思うか?」
「王になっただけでは裏切りではありません。漢王のために楚と戦うのですから」
蒯通はさらりと答えた。
「ただ、自分の国を持つだけです」
「言い方だけは綺麗だな」
「乱世では言い方も大切ですよ」
韓信は鼻を鳴らした。
しばらく考えたあと、筆を取る。
「九江王に封じろ。それなら東へ出る」
「よろしいかと」
「随分嬉しそうだな」
「あなたがようやく、自分のために一歩進まれるのですから」
韓信は返事をせず、書状を書き続けた。
◆
漢軍が動かない九江を警戒していたのは、劉邦だけではなかった。
彭城の項羽にも、同じ報告が届いている。
「九江軍はまだ動かないのか」
「はい」
鍾離眜から送られてきた報告を読み、項羽は地図の前で腕を組んだ。
漢は西から押している。
それなら韓信が東へ出て楚を広く揺さぶるのが自然だった。ところが数日経っても、九江軍は六からほとんど離れていない。
「誘っているのでは?」
虞が尋ねた。
「その可能性はある」
項羽は否定しなかった。
「だが、劉邦が正面で兵を削っているのに、韓信だけがいつまでも待つ理由がない」
罠なら、そろそろ動かなければ意味が薄れる。
それでも動かないとなれば、別の理由を考えるべきだった。
「仲違いでしょうか」
「まだ分からん」
項羽は即断しなかった。
「だが、九江が動くまで俺も出ない。鍾離眜と龍且には今の位置を保たせろ」
漢の前線を止めるだけなら、今の二人で足りている。
項羽は、動くべき瞬間を待つことにした。
◆
同じ頃、北では一人の使者が燕へ入っていた。
使者が持っていたのは、陳平から臧荼へ宛てた密書だった。
内容は長くない。
秦王は趙を残し、燕も残した。
だが、それがいつまで続くと思うのか。
かつて匈奴と結び、秦へ刃を向けた王を、扶蘇が永遠に信用すると考えているのか。漢へつくのであれば、燕王としての地位を認める。
臧荼は書状を二度読んだ。
すぐには返事を書かない。
だが、火へ投げ入れることもしなかった。
◆
数日後、韓信からの返書が劉邦のもとへ届いた。
劉邦は前線近くの陣で封を切り、数行読んだところで動きを止めた。
「……は?」
張良が顔を上げる。
「何が書かれているのです?」
劉邦は答えず、最後まで読んだ。
そして書状を卓へ叩きつけた。
「ふざけやがって!」
周囲の者が一斉に振り向いた。
「大将軍にしてやった俺に、今度は王位を寄越せだと?」
張良は卓上の書状を取った。
そこには、九江を安定させ、東方攻略を確実にするため、自らを九江王へ封じてほしいと記されていた。王として九江を治めることが認められれば、すぐに東進するともある。
張良は読み終えても、しばらく何も言えなかった。
韓信が楚攻めに賛成した理由。
その一端が、ようやく見えた。
「俺が戦ってる間に、あいつは自分の国を作る気だったのか!」
劉邦の怒声が陣幕の中へ響いた。
「王になりてえなら、最初からそう言え!」
張良は書状へ目を落としたまま、眉を寄せた。
自分は漢と楚を争わせようとした。
だが、盤上にいたのは漢と楚だけではなかった。
韓信もまた、自分のために動き始めていた。




