第181話 南下
韓信から届いた要求に、劉邦は二日間返事をしなかった。
何者でもなかった将を大将軍まで引き上げたのは自分である。その相手から、今度は九江王に封じなければ兵を動かさないと突きつけられたのだから、腹が立たないはずがなかった。
それでも前線では、灌嬰と曹参が楚軍と連日ぶつかっている。韓信を切れば東から楚を揺さぶる計画そのものが崩れる以上、怒りだけで決めることもできなかった。
「王にしてやる」
三日目、劉邦はようやくそう言った。
傍らにいた張良は顔を上げたが、異を唱えなかった。ここまで来て九江軍を失えば、楚を攻めるどころか漢軍の方が苦しくなる。
「ただし、俺も六へ行く」
「漢王ご自身がですか?」
「あいつの顔を見て、直接言ってやる。王にしてやったんだから、今度こそ動けってな」
劉邦は前線を灌嬰と曹参に任せ、一部の直属兵を率いて九江へ向かった。張良も同行し、数日後、一行は六へ入った。
◆
漢王自らが来たと聞いた時、韓信はさすがに意外だった。
使者が封冊を持ってくるものだと思っていた。ところが実際には、劉邦本人が兵まで連れて城へ入ってきた。
信用されていないのだろう。
王位を求めたことで、自分がさらに欲を出すと思われたのかもしれない。九江王にした途端に漢から離れ、軍まで奪う可能性を疑っていると考えれば、劉邦自身が来た理由にも納得できた。
広間へ入ってきた劉邦は、挨拶もそこそこに封冊を卓上へ置いた。
「ほらよ」
韓信は卓上へ目を落とした。
「何だ」
「九江王だ。欲しかったんだろ」
あまりに簡単だった。
王というものは、もっと重いものだと思っていた。領地を持ち、民を治め、軍を率い、天下に一国の主として認められる。その地位へ自分が上がるのだから、何か大仰な儀式でもあるのかと、どこかで考えていたのかもしれない。
だが現実には、目の前へ一つの封冊が置かれただけだった。
「これで、俺が九江王か」
「そうだよ。俺が認めた。文句あるか?」
「いや」
韓信は封冊を手に取った。
これほどのものなのか。
そんな思いが一瞬だけ胸をよぎった。
大将軍になった時も、肩書が変わった瞬間に自分まで別人になったわけではない。王も同じなのだろう。
結局、名を与えられたあとに何をするかで、その名の価値が決まる。
「で?」
劉邦が腕を組んだ。
「約束は覚えてるよな」
「ああ」
「王にしたら東へ出る。お前がそう言ったんだぞ」
「言った」
韓信は封冊を卓上へ戻した。
「だから動く」
即答され、今度は劉邦が少し黙った。
「……本当だろうな」
「何のために俺が王位を求めたと思ってる」
「それが分からねえから俺が来たんだよ」
劉邦は隠そうともしなかった。
「大将軍にしたら九江王が欲しいと言い出した。九江王にしたら、次は何が欲しいって言うのか分かったもんじゃねえ」
やはりそうかと、韓信は思った。
欲を見せたから警戒された。
だが、それ自体を責める気にはならなかった。自分が劉邦の立場でも、同じように考えただろう。
「次に何が欲しくなるかは、俺にも分からない」
「おい」
「でも、今の約束は守る。九江王にしたら東へ出ると言った。それを違える気はない」
韓信はまっすぐ劉邦を見た。
「俺は明日、軍を出す」
劉邦はしばらく睨むように見ていたが、やがて息を吐いた。
「最初からそう言えよ」
「最初から言ってる」
「お前と話してると腹立つな」
「そうか」
横で聞いていた張良は何も言わなかった。
韓信は確かに欲を出した。
だが、王位を得た以上は約束通り兵を動かす。その言葉には迷いがなく、少なくとも今この場で劉邦を裏切るつもりはないように見えた。
「それで、どうする」
劉邦が地図を指した。
「会稽まで行けって命令は出したが、本当にそこまで行くのか?」
「行く」
韓信は地図を広げ直した。
「会稽を攻める」
その名を聞いて、張良も地図へ目を向けた。
会稽は楚にとって、ただの一地方ではない。かつて項梁と項羽が兵を挙げ、秦に抗う道を歩み始めた土地でもある。
「そこまで踏み込めば、項羽は出てくる」
韓信は言った。
「彭城に座ったままじゃいられない。楚の東まで俺たちに荒らされるのを見ている王じゃない」
「出てきたらどうする?」
「迎え撃つ」
韓信の指が地図の上を戻っていく。
会稽へ向かうと見せ、楚軍を東へ引き出す。項羽が追ってくれば、その軍勢を迎える場所はこちらで選べる。
指が止まった。
垓下。
「ここだ」
劉邦が地図を覗き込んだ。
「垓下?」
「ああ。項羽をここまで引き出して討つ」
韓信の声に迷いはなかった。
東へ進むのは土地を取るためだけではない。
楚の原点ともいえる会稽を脅かし、項羽自身を戦場へ引きずり出す。そして自分が選んだ場所で迎え撃つ。
大将軍となった時から望んでいた戦が、ようやくできる。
「項羽を討てるのか?」
「討つために呼ぶ」
韓信はそう答えた。
劉邦は地図の垓下をしばらく見つめたあと、口元を緩めた。
「いいじゃねえか。そこまで言うなら俺も行く」
「漢王も?」
「お前だけ東へやって、また途中で何を言い出すか分からねえからな」
「やっぱり信用してないな」
「当たり前だろ」
劉邦は即答した。
韓信は少しだけ笑った。
王になったからといって、二人の関係が急に変わるわけではないらしい。
翌朝、九江軍が六を発った。
先頭に立つのは九江王となった韓信。劉邦と張良も軍に加わり、漢と九江の兵は東へ進み始めた。
目指す先は会稽。
だが、韓信が本当に戦いたい場所は、すでに決まっていた。
垓下だった。
◆
漢王と九江王が揃って東へ動いたとの報せは、ほどなく彭城へ届いた。
項羽は二人の進路を地図で確認し、すぐに意図を察した。
「会稽か」
楚が秦へ反旗を翻した始まりの土地でもある。
そこを漢王と韓信に踏みにじらせるつもりはなかったが、感情だけで動けば相手の思う壺になることも分かっていた。
「寿春は鍾離眜と龍且に任せる」
西の前線では二人が灌嬰と曹参を止めている。均衡している以上、自分までそこへ加わる必要はなかった。
「彭城には項荘を残す。俺は東へ行く」
虞が地図を見た。
「会稽を守るのですね」
「それだけではない」
項羽は韓信の進路を指で追った。
「奴は俺を呼んでいる」
虞が顔を上げる。
「分かっていて行くのですか?」
「構わん。呼ばれているなら、こちらも奴が何を用意しているか見てやる」
項羽は東へ向かう準備を命じた。
今度こそ、韓信と正面から戦うことになる。
◆
燕王臧荼のもとへ陳平の密書が届いてから、数日が経っていた。
その書状はまだ焼かれていない。
臧荼は自分が忠義だけで生きてきた人間ではないことを知っていた。項羽の分封で燕王となり、その後は匈奴へ近づき、冒頓の勢いが衰えれば秦へ降った。
そのたびに理由はあった。
燕を残すため。
自分の兵や民まで道連れにして滅びないため。
だが、結局は勝つ側を選んできたのだと言われれば、否定もできなかった。
今なら秦が強い。
北では冒頓が死に、趙も燕も秦の勢力下へ入り、関中も安定している。扶蘇に従い続けることが最も安全な道だということは、臧荼にも分かっていた。
それでも、不満がないわけではない。
斉との戦では、南から進んできた龍且とともに田横を追い詰めた。燕軍も兵を失い、長く戦ったにもかかわらず、斉の土地が燕へ与えられることはなかった。
秦は王位を守ってくれた。
だが、それだけだった。
「燕王のままで満足していろ、か」
臧荼は卓上の密書へ目を落とした。
陳平は漢へつけば燕王位を認めると書いている。
それだけなら、乗り換える理由にはならなかった。
臧荼は筆を取った。
漢へつく条件として、斉の地を求める。
楚を破った後、斉を燕へ与えるのであれば、秦を離れて漢につく。
書き終えた密書を使者へ渡しながらも、臧荼はまだ自分に言い聞かせていた。
返事を見るだけだ。
決めるのは、そのあとでいい。
◆
襄陽で密書を受け取った陳平は、斉を要求する一文を読んでも驚かなかった。
「欲を出してきたわね」
呂雉が言った。
「その方が扱いやすいでしょう」
「斉を与える権限を、あなたは持っているの?」
「ございません」
平然と答えられ、呂雉が目を細めた。
「漢王に確認するつもりもないのね」
「返事を待つ時間が惜しいので」
陳平は地図へ目を落とした。
今なら項羽本人も東へ向かおうとしている。ここで秦の援軍まで南へ入れば、楚を滅ぼす機会を逃しかねない。
扶蘇に介入する余地を与えてはならない。
「斉を与えても構いません。燕が秦から離れれば、秦王は北を無視できなくなる。趙にも兵を残さざるを得ず、楚へ向けられる戦力が減ります」
「漢王が後で怒るわよ」
「勝った後に叱られます」
呂雉はしばらく陳平を見ていたが、止めなかった。
陳平はすぐに返書を書いた。
漢は臧荼の燕王位を認める。
楚を破った後には、斉の地も燕へ与える。
その代わり、秦を離れて漢につけ。
劉邦の許可は得ていなかった。
だが、今の陳平にとって必要なのは許可ではなく、秦の足を止める手段だった。
◆
返書を受け取った臧荼は、今度は長く迷わなかった。
斉まで与える。
それが実現すれば、燕は北東の一国ではなくなる。
秦に残れば安全ではあるが、今以上に大きくなる保証はない。漢へ移れば危険は増すものの、その先には斉まで含めた国が見える。
また勝つ側へ乗り換えるのか。
その思いが胸をよぎった。
だが、乱世で一つの旗に殉じて滅びることを、臧荼は美しいとは思わなかった。
生き残った者が、次の国を作る。
それが自分のやり方だった。
臧荼は漢へ返事を送った。
条件を受ける、と。
その直後、今度は西から秦王の使者が到着した。
「秦王より燕王へ」
差し出された書状には、燕軍を率いて南下し、趙と楚の境付近まで進んで待機するよう記されていた。楚漢の戦況が大きく動いた場合、秦もすぐ兵を出せるよう備えるためだった。
臧荼は最後まで読み終えた。
秦王自身が、燕軍を南へ出す理由を与えてくれた。
「承知したと伝えろ」
使者にはそう答えた。
数日後、燕軍が南へ向けて動き始めた。
表向きは秦王扶蘇の要請に応じた援軍であり、趙を通って楚との境へ進むだけだった。その軍を率いる臧荼の懐には、漢へ寝返ることを約した陳平の書状が収められていた。




