第179話 楚漢戦争、再び
韓信からの返書が襄陽へ届いたのは、使者を送り出してから十数日後だった。劉邦は呂雉、陳平、張良を集めると、その場で封を切った。
返答は是だった。
楚とは戦うべきである。ただし、項羽との決戦を急ぐのではなく、複数の方面から兵を進めて楚の兵力を分散させ、土地と兵站を削りながら勝機を作るべきだと記されていた。
「韓信まで賛成か。なら、もう決まりだな」
劉邦は書状を卓上へ置いた。張良が楚攻めを唱え、軍を預けている大将軍まで可能と判断した以上、迷いはほとんど消えていた。
だが、陳平だけは書状を見つめたままだった。
韓信は勝てる戦と勝てない戦を見誤る将ではない。それだけに、韓を併合したばかりの漢が今すぐ楚へ兵を向けることへ、ためらいもなく賛成したことが引っかかった。
「どうした?」
「少々、意外に思っただけでございます」
劉邦に問われ、陳平は顔を上げた。
「私は今も、まず韓の土地と兵を固めるべきだと考えております。ですが、韓信殿が軍事的に可能と判断されたのであれば、大王のお決めになったことへこれ以上異を唱えるつもりはございません」
「じゃあ、楚をやるぞ」
「ただし、秦への備えはお忘れなきよう」
陳平はそれだけは譲らなかった。
「楚が危うくなれば、秦王は動く可能性が高いでしょう。秦と楚は現在敵対しておらず、秦王は漢が楚を呑み込むことも望んでおりません」
「また扶蘇か」
劉邦は不愉快そうに鼻を鳴らした。
「だったら、あいつが動く前に楚を削れるだけ削る。今度は途中で止めねえ」
それで決まった。
漢と楚は、再び戦う。
◆
開戦に先立ち、劉邦は諸侯や各地の有力者へ書面を送ることにした。その素案を作ったのは張良だった。
義帝となった楚王心を死に追いやったこと、諸侯との約定を破り、己の意のままに天下を分けたこと。かつて漢が掲げた項羽への罪状を改めて並べ、漢は私欲ではなく天下のために兵を挙げるのだと訴える内容だった。
「前にも同じことを言ったよな」
「果たされていない大義なら、再び掲げることができます」
書面を読んだ劉邦へ、張良は静かに答えた。
「韓を取ったことまで正しく見せられねえか?」
「それは無理でしょう」
「お前、そういうところは本当に容赦ねえな」
劉邦は苦い顔をしながらも、その書面へ印を押した。
数日後、漢王の名で記された文書が各地へ送られた。楚王項羽を再び糾弾するその一通は、西へ向かい、やがて咸陽にも届いた。
◆
「また義帝か」
書面を読み終えた扶蘇は、それを卓上へ置いた。
広武で楚漢が兵を止めてから、まだそれほど長い時間は経っていない。その間に韓は滅び、北では冒頓が死に、秦にもようやく兵と国を休ませる時間ができていた。
「蒙恬はどう見る?」
「漢が本気で東へ進むのであれば、楚も受けて立つでしょう。ただ、以前ほど楚は弱っておりません」
蒙恬は地図を見ながら答えた。
「斉から龍且が戻り、鍾離眜も戦列へ復帰しております。范増を失った穴はございますが、軍そのものは立て直されつつあります」
「漢が簡単に押し切るとは思わないか」
「はい。少なくとも短期では難しいかと」
扶蘇も同じ見方だった。
楚と漢が互いに兵を使う間、秦は国を整えられる。どちらか一方が優位にならない限り、こちらから戦場へ入る理由はなかった。
「これまで通りでいこう。楚が自力で持ちこたえている間は、秦は動かない」
「楚が危うくなった場合は?」
「介入する。楚を勝たせたいからじゃない。漢に全部持っていかせないためだ」
蒙恬は静かに頷いた。
「承知いたしました」
扶蘇はもう一度地図へ目を落とした。
この時はまだ、今回の楚漢戦争もこれまでと同じように、どちらかが傾いたところで秦が均衡を戻せばよいと考えていた。
◆
間もなく、漢軍が襄陽を発った。
劉邦自身が本隊を率い、張良も同行した。正式に軍師へ復帰したわけではなかったが、今回の出兵を進言した以上、張良も戦場から離れるつもりはなかった。
先鋒を任されたのは灌嬰と曹参だった。二人は本隊に先行して東へ進み、寿春方面から楚軍へ圧力をかける。
九江にいる韓信へも、新たな命令が送られた。
東進し、さらに会稽方面まで兵を伸ばせ。
韓信が楚の南東へ入り、劉邦本隊が西から進めば、楚は広い領土へ兵を割かなければならない。韓信自身が勧めた戦い方を、そのまま実行に移す命令だった。
一方、陳平は襄陽へ残った。
旧韓領を固めながら、秦軍が東へ動いた場合に備える。それに加え、身重の呂雉を戦場から遠ざけておく必要もあった。
「あなたは最後まで反対していたわね」
出征する軍勢を見送ったあと、呂雉が言った。
「はい」
「なら、負けた時のことも考えているのでしょう?」
「勝っても負けても、秦は動く可能性がございます。備える相手は楚だけではありません」
陳平は東ではなく、北へ視線を向けた。
秦の国力すべてを正面から受け止める必要はない。秦が抱える国や人の中から、一つでも綻びを作ればよい。
その候補は、すでに頭の中にあった。
◆
漢軍東進の報は、ほどなく彭城へ届いた。
「やはり来たか」
項羽は驚かなかった。
卓上には漢王が各地へ送った糾弾文も置かれている。義帝の死を再び持ち出した内容を最後まで読むと、項羽はそれを地図の脇へ放った。
「同じ旗を何度でも掲げるものだな」
「それで兵が集まるのなら、漢王は何度でも使うでしょう」
隣にいた虞が答えた。
「だろうな」
項羽は怒るでもなく、地図へ目を移した。
広武では虞のいる場所から大きく離れることができず、結果として劉邦の動きに付き合わされる時間が長くなった。その間に他方面の戦況まで変わったことを、項羽は忘れていない。
「今回は俺が先に出る必要はない」
項羽は寿春方面を指した。
「鍾離眜と龍且に漢の先鋒を止めさせる。俺は彭城に残り、劉邦と韓信がどこへ兵を出すかを見る」
「二人が揃って動いてから、主力を向ける場所を決めるのですね」
「ああ。兵を出すなら、最も効くところへ出す」
項羽はそう答え、地図から目を離さなかった。
◆
数日後、寿春へ続く街道で、漢と楚の先鋒が向かい合った。
楚軍は街道の先へ堂々と陣を敷いていた。中央には槍兵と盾兵が厚く並び、その左右には騎兵、さらに後方には戦列を支える予備兵が控えている。
「将は?」
「鍾離眜、それに龍且です」
報告を聞いた灌嬰は、前方の楚軍を見据えた。
「揃ってきたか」
ほどなく曹参の歩兵も到着し、漢軍も街道へ陣を広げた。中央を歩兵が固め、両側には灌嬰の騎兵が並ぶ。
「ここを抜けば寿春だ」
曹参が言った。
「ああ。向こうも、ここを抜かせる気はないね」
「なら、押し切る」
灌嬰は槍を持ち直した。
楚軍側でも、鍾離眜が漢軍の陣形を確認していた。隣では龍且が馬上で槍を立て、すでに戦場へ目を据えている。
「中央は厚いですね」
「向こうが押してくるなら、こっちも押すだけだ」
「騎兵を入れる時はこちらから合図します。それまでは歩兵に任せてください」
「分かった」
両軍の角笛が鳴った。
最初に動いたのは歩兵だった。
曹参の号令で漢軍が前進し、それに合わせて楚軍も歩調を揃える。互いの間が急速に狭まり、やがて盾と盾が激しくぶつかった。
槍が盾の隙間から突き出され、前列の兵が倒れる。空いた場所にはすぐ後ろから新しい兵が入り、漢軍も楚軍も戦列を切らさないまま押し合いを続けた。
「押せ!」
曹参の声に応じ、漢軍中央が一斉に前へ踏み込んだ。
楚軍の戦列が数歩下がった。
鍾離眜は慌てず、薄くなった場所へ後列の兵を入れる。
「前列を交代させてください。中央を保ちます」
疲れた兵が下がり、新しい兵が前へ出る。勢いを取り戻した楚軍が押し返し、漢軍の盾列が今度は後ろへ下がった。
互いに一度押した程度では崩れない。
それを見た灌嬰が手を上げた。
「騎兵、前へ!」
漢騎兵が一斉に駆け出す。
鍾離眜もすぐに手を振った。
「今です」
「行くぞ!」
龍且が叫び、楚騎兵も前へ出た。
両軍の騎兵が正面から激突した。
槍同士がぶつかり、馬が倒れ、最初の衝撃だけで何騎もの兵が地面へ放り出される。それでも後続は速度を落とさず、開いた場所へ次々と突っ込んだ。
「そのまま押せ!」
灌嬰は後続の騎兵を投入した。
一方の龍且も先頭近くに留まり、漢騎兵と槍を交える。楚軍が押し込まれれば自らその場所へ入り、兵を奮い立たせて押し戻した。
「やるね!」
灌嬰が一騎を突き落とす。
「そちらこそな!」
龍且も槍を振るい、次の騎兵を馬上から叩き落とした。
中央では曹参が、まだ動かしていない兵へ視線を向けた。
「二列目を入れろ。ここで押す」
温存されていた歩兵が前線へ加わり、漢軍中央の圧力が一気に増した。楚軍の槍列が再び下がり始める。
だが、鍾離眜も同じように予備兵を送り込んだ。
「予備隊を前へ。押し返します」
新しい兵が戦列へ入り、漢軍の勢いを受け止める。
そこからは力と力のぶつかり合いになった。
曹参が兵を入れ替えて圧力を維持すれば、鍾離眜も疲れた兵を下げて新手を入れる。左右では灌嬰と龍且が騎兵を何度もぶつけ、互いの戦列を削り続けた。
昼を過ぎても勝敗は動かなかった。
漢軍が数歩押し込めば、楚軍が兵を足して押し返す。楚騎兵が勢いを得れば、灌嬰が新手を投入して止める。
地面には折れた槍と倒れた兵が増え、双方の損害は目に見えて大きくなっていた。それでも、どちらの陣からも崩れる気配はない。
夕刻が近づいた頃、曹参は戦場全体を見渡した。
これ以上続けても、今日中に決着する見込みは薄い。兵を失い続けてまで戦いを引き延ばす必要はなかった。
「今日はここまでだ。戦列を保ったまま下げろ」
灌嬰も合図を受け、騎兵をまとめた。歩兵の後退に合わせて少しずつ戦場から離れる。
楚軍も追撃には出なかった。
「追うか?」
血のついた槍を持ったまま、龍且が尋ねた。
「こちらもかなり削られています。兵を整える方が先です」
鍾離眜は退いていく漢軍を見ながら答えた。
初日の戦いは、どちらにも傾かなかった。漢軍は楚軍を破れず、楚軍も漢軍を押し切れないまま、先鋒同士の激突は日没を迎えた。
◆
同じ頃、襄陽では陳平が一人で地図を広げていた。
楚は簡単には崩れない。だが劉邦は前へ進み、韓信も命令通り東へ出ることになっている。
戦が続けば、いずれ秦も動く。
その時に秦軍を正面から受け止めるだけでは遅い。
陳平は地図の北へ指を動かした。
趙のさらに北東。
燕。
そこには、一度は匈奴と手を結び、その後は秦へ降って王位を保った者がいる。
臧荼。
秦への忠義で王になった人物ではない。生き残るためなら、つく相手を変えることのできる王だった。
陳平は燕の位置をしばらく見つめた。
秦王が兵を動かすのであれば、その兵が南へ着く前に崩せばよい。
戦場で勝つことだけが、戦ではなかった。
陳平は筆を取り、誰にも見せることなく一通の書状を書き始めた。




