第178話 九江
九江へ入ってから、すでに幾月かが過ぎていた。都の六は川沿いに開け、その先には南西へ続く山々が霞んでいる。
兵を置き、周囲へ軍を動かすには悪くない土地だった。それでも城壁の上から景色を眺める韓信には、どこか狭く感じられた。
大将軍へ抜擢された時、自分はもっと違う戦をしていると思っていた。誰も考えつかない場所から兵を出し、敵の意表を突き、天下にその名を知らしめる。
自分ならそれができると考えていたし、今でも考えは変わっていない。だが、最初に狙った陳倉では扶蘇に動きを読まれた。
秦軍の虚を突いて関中へ出るはずが、待ち構えられて退くことになった。その後は楚へ兵を進めたものの、項羽の主力との決戦を避け、隙を探しながら九江まで入り込んだに過ぎない。
無駄な戦を避けながら軍を保ち、敵地の奥まで進んできたのだから、将として間違ったことをしたとは思わない。それでも、満足しているかと問われれば違った。
「随分と退屈そうですね」
背後から聞こえた声に、韓信は振り返らなかった。
「そう見えるか」
「ええ。大将軍になった時には、もっと天下を好きに駆け回れると思っていた顔です」
隣へ立ったのは、参謀として従っている蒯通だった。飾り気のない衣をまとい、常に地図や書簡を抱えている女である。
兵を直接率いることはないが、人と国の動きを読むことについては、韓信も一目置いていた。
「勝手なことを言うな」
「違うのでしたら謝ります」
謝る気などない顔だった。韓信は鼻を鳴らし、再び城外へ目を向けた。
「俺は負け続けているわけじゃない」
「もちろんです。ここまで兵を大きく失わず九江へ進んだだけでも、並の将にはできません」
蒯通はそこで一度言葉を切った。
「ですが、あなたが欲しかったのは『並ではない』という評価ではないでしょう?」
韓信は答えなかった。図星だった。
「漢王はあなたを大将軍へ引き上げました。それが大きな恩であることは、私も否定しません」
「分かっているなら、妙なことを言うな」
「恩があることと、その方があなたの才を使い切れているかは別の話です」
韓信が横目で見ると、蒯通は城下へ広がる家々を眺めていた。
「陳倉では秦王に読まれ、その後は西楚王との正面衝突を避けながらここまで来た。漢王の命に従って戦ってはいますが、あなた自身が天下を動かしているとは言い難い」
「何が言いたい」
「九江を、あなた自身の土地にしてはいかがです?」
韓信の目が細くなる。
「俺に独立しろと?」
「今すぐではありません。ここで九江王を名乗れば、漢王だけでなく西楚王まで敵に回しかねない。それでは自立ではなく孤立です」
そこまで愚かな策ではないらしい。韓信は少しだけ興味を持った。
「では、いつだ」
「漢と楚がもう一度争った時です」
蒯通の声は静かだった。
「両国が兵を削っている間に、あなたは九江を固める。兵を増やし、人を集め、この土地があなたなしでは動かないところまで持っていけばいい」
「そのあと王になるのか」
「ええ。そして西へ手を伸ばす」
西にいるのは漢だった。韓信は眉を寄せる。
「漢王を食えと?」
「機会があれば」
蒯通は平然と答えた。
「その時には秦と結べばよいでしょう。今や秦王は関中だけでなく趙と燕を従え、西趙まで押さえている。北では冒頓も死に、しばらく匈奴の大軍が南へ来ることもありません」
九江と秦が両側から漢を圧迫すれば、漢は苦しくなる。その理屈自体は、韓信にも分かった。
「俺を拾ったのは劉邦だ。何者でもなかった俺を大将軍まで引き上げた。その恩を忘れて、自分だけ王になる気はない」
「恩義で天下は決まりません」
あまりに即答されたため、韓信は露骨に顔をしかめた。
「乱世では昨日の主君が今日の敵になることもある。漢王自身、かつて西楚王と並んで秦を倒し、その後は兵を向けたではありませんか」
「同じにするな」
「同じですよ。私は漢王があなたを評価していないとは申しませんが、才能を見抜くことと、その才能を最後まで使いこなすことは違います」
韓信は川の流れへ目を落とした。恩義があるのは本当であり、だから今すぐ劉邦へ背を向ける気はない。
だが、大将軍という地位に満足しているのかと問われれば、やはり答えは違う。
「九江王か」
「悪くない響きでしょう?」
「まだなるとは言ってない」
「今は、それで十分です」
蒯通はそれ以上勧めなかった。だが、その言葉だけは韓信の頭に残った。
◆
その日の夕刻、襄陽から使者が到着した。韓信は執務室で書状を受け取り、封を切る。
差出人は劉邦だった。内容は、漢が再び楚と戦うべきか、戦うのであれば勝算はあるかというものだった。
「……なんだこれは」
読み終えた韓信が顔を上げると、向かいに座っていた蒯通が興味深そうにこちらを見ていた。
「漢王からですか?」
「読め」
書状を渡すと、蒯通は一度目を通しただけで口元を緩めた。
「随分と都合のいい書状が来ましたね」
「さっきの話をした直後にな」
「天が私に味方しているのでしょう」
「調子に乗るな」
韓信は書状を取り返した。
「それで、お前ならどう答える」
「戦うべきだと答えます」
迷いのない返答だった。
「理由は?」
「漢と楚が戦えば、両方が弱るからです。漢王に送る意見としては聞こえが悪いでしょうが、あなたにとっては好都合です」
韓信は椅子の背へ身体を預けた。
「漢王にとっても悪い話ではありません。韓を得た今なら楚へ攻勢をかける兵力はあるでしょうし、義帝の件を持ち出せば大義も作れます」
ただし、本当に価値があるのはその先だと、蒯通は続けた。
「漢王と西楚王が戦っている間に、あなたは九江を固めればよい。どちらが勝っても、勝者が無傷で済むことはありません」
「秦はどうする」
「動くでしょうね。秦王と西楚王は敵ではありませんから、漢が楚を呑み込もうとすれば、秦王が黙って見ているとは思えません」
それも韓信には理解できた。扶蘇は以前から、漢と楚のどちらか一方が大きくなりすぎることを嫌っている。
楚が追い詰められれば、また秦軍が東へ出てくる可能性は高い。
「漢王が楚と戦い、秦王も動く。そうなれば漢王は東西を見る必要が出てきます」
「その間に俺が九江を固める」
「はい。九江王への道が、向こうから近づいてきます」
韓信は返事をせず、手元の書状をもう一度読んだ。まだ劉邦を裏切るつもりはなく、大将軍に取り立てられた恩も忘れてはいない。
ただし、この書状への回答は別だった。
楚と戦えるかと問われれば、戦える。勝つ道があるかと問われれば、それもある。
「項羽と正面からぶつかる必要はない」
韓信は卓上に地図を広げた。
「兵を分けて補給路を脅かし、土地を削る。一度の決戦で倒そうとせず、楚軍を動かし続ければいい」
「では、返答は決まりましたね」
「ああ」
韓信は筆を取った。
楚とは戦うべきである。ただし、項羽との決戦を急がず、複数の方向から兵を進めて楚を疲弊させるべきだと書き記していく。
これは嘘ではなかった。軍事だけを見れば、それが最善だと韓信自身も考えている。
書き終えると、韓信は筆を置いた。
「これでいい」
「ええ。漢王が東を向けば、それで十分です」
韓信はその言葉には答えなかった。今はまだ、漢の大将軍である。
だが、昼間に聞いた一つの言葉だけが、頭の片隅から消えなかった。
九江王。
誰かから兵を預かる将ではなく、自分の土地と兵を持つ王。その夜、韓信の返書を携えた使者が六を発ち、書状には楚と戦うべきだと記されていた。




