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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第6章 定まらぬ天下

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第177話 大義

 翌朝、張良(ちょうりょう)は運ばれてきた粥を残さなかった。死ぬのをやめたからといって、劉邦(りゅうほう)を信じたわけではない。


 昨夜の言葉にどれほど本心が混じっていたとしても、人を懐へ引き込むことに長けた男だという認識は変わらなかった。ならば、こちらも利用すればいい。


 韓はもうない。それでも、まだ知恵を使いたい相手はいた。


 扶蘇(ふそ)。


 韓を救うために兵を出し、滅亡したあとも自分の返還を求め続けている。あの人のためなら、もう一度働いてもいいと張良(ちょうりょう)は思った。


 そのためには、まず漢の目を秦から逸らさなければならない。今、秦と楚は敵対しておらず、扶蘇(ふそ)と項羽(こうう)の関係も悪くない。


 ならば、劉邦(りゅうほう)を東へ向かせる。


 再び楚と戦わせ、両軍が刃を交えたところで秦を動かす。漢が楚へ深く踏み込めば、扶蘇(ふそ)にも動く理由が生まれる。


 楚と秦が手を結び、漢を挟めばいい。韓を滅ぼした漢を潰すことこそ、張良(ちょうりょう)の本心だった。


◆


「楚を討つべきです」


 数日後、張良(ちょうりょう)からそう告げられた劉邦(りゅうほう)は眉を上げた。


「食えるようになったと思ったら、随分でかい話を持ってきたな」


「以前、漢王ご自身が掲げられた大義です。項羽(こうう)は楚王心(そおうしん)を死に追いやり、漢王はその罪を天下へ問われたはずです」


「そのあと停戦した」


「はい。そして次に滅ぼしたのは韓でした。天下から見れば、義帝の仇とは和し、弱い韓を呑み込んだことになります」


 劉邦(りゅうほう)の顔が険しくなる。


「俺にそれを言うか」


「だからこそ申し上げています。韓を得たことで漢の国力は増しました。今こそ再び大義を掲げ、楚へ向かうべきです」


 劉邦(りゅうほう)はすぐには答えなかった。しばらく腕を組んだまま考えたあと、呂雉(りょち)と陳平(ちんぺい)を呼ばせた。


◆


「私は反対です」


 話を聞き終えた陳平(ちんぺい)は、ほとんど迷わずそう答えた。口調は丁寧で、劉邦(りゅうほう)の前では張良(ちょうりょう)に対しても礼を崩さない。


「現在、漢が楚と争う利点はほとんどございません。韓を得たばかりで、旧韓の官吏と兵を組み込み、国を整えるだけでも時間が必要です」


「大義を取り戻すことはできます」


「大義だけでは兵糧も兵も増えません。それに楚には龍且(りゅうしょ)が戻り、鍾離眜(しょうりばつ)も復帰しております」


 張良(ちょうりょう)は表情を変えなかったが、内心では舌打ちしたい気分だった。相変わらず、こちらの狙いを潰すために必要な場所を正確に突いてくる。


「何より、漢と楚が争えば秦が得をします」


 陳平(ちんぺい)の視線が張良(ちょうりょう)へ向いた。


「北では冒頓(ぼくとつ)が死に、匈奴はまとまっていません。趙と燕も秦に従っている。その状態で漢と楚が消耗すれば、秦だけが力を残すことになります」


「秦にも利益がある。それだけのことでしょう」


「本当に、それだけでしょうか」


 穏やかな口調だったが、その言葉の意味は明らかだった。漢を楚へ向かわせ、その背後から秦を動かすつもりではないかと、陳平(ちんぺい)は疑っている。


「秦と楚は敵対しておりません。漢が楚へ大軍を向ければ、秦王がそれを看過する保証もないでしょう」


 張良(ちょうりょう)は黙って陳平(ちんぺい)を見る。やはり、この男は厄介だった。


「以前、私に太公望の兵法など古いと仰いましたね」


 突然の言葉に、陳平(ちんぺい)の眉がわずかに動いた。


「覚えておられましたか」


「ええ。閨の秘書にでもなればよいとも」


 劉邦(りゅうほう)が陳平(ちんぺい)を見る。


「お前、そんなこと言ったのか?」


「捕虜となった直後でしたので、多少の軽口を申し上げました」


「随分と軽い口ですね。ですから、古い兵法でもまだ役に立つところをお見せしたいと思いまして」


「それは楽しみです」


 二人とも口調は穏やかだったが、互いに笑ってはいなかった。


 呂雉(りょち)は二人の間を一瞥すると、そのまま話を戻した。


「私は陳平(ちんぺい)に賛成よ。今の漢に、わざわざ楚との戦を再開する必要はないわ」


「でも、大義って話も分からなくはねえんだよな」


 劉邦(りゅうほう)が腕を組む。


「韓を取ったあと、次はどこへ行くんだって話になる。秦へ向かえば、今度は扶蘇(ふそ)と戦うことになるしな」


「だからといって楚へ向かえばよい、とはなりません」


 陳平(ちんぺい)はすぐに返した。


 そこが二人の考えの違いだった。張良(ちょうりょう)は漢を楚へ向かわせたいが、陳平(ちんぺい)はどこにも深入りせず、まず韓を吸収して国力を蓄えるべきだと見ている。


「軍の話なら、もう一人聞いた方がいいな」


 やがて劉邦(りゅうほう)が言った。


「韓信(かんしん)かしら」


「そうだ。楚ともう一度やる価値があるのか、やるなら勝てるのか。あいつに聞く」


 現在、韓信(かんしん)は九江にいる。楚と再戦するのであれば、その戦い方を最も正確に見積もれる将だった。


 陳平(ちんぺい)も止めなかった。


「よろしいかと存じます」


 張良(ちょうりょう)も何も言わなかった。


 その日のうちに、漢王の書簡を携えた使者が襄陽を発った。目的地は九江だった。


 部屋へ戻った張良(ちょうりょう)は、夕餉へ箸を伸ばした。


 陳平(ちんぺい)には狙いの一端を読まれたが、まだ止められてはいない。劉邦(りゅうほう)が楚へ向かえば、あとは扶蘇(ふそ)を動かせばいい。


 楚と秦の間に漢を置き、その退路を断つ。


 韓を奪った代償は、漢そのものに払わせる。


 張良(ちょうりょう)は、その日の食事も最後まで残さなかった。


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