第177話 大義
翌朝、張良は運ばれてきた粥を残さなかった。死ぬのをやめたからといって、劉邦を信じたわけではない。
昨夜の言葉にどれほど本心が混じっていたとしても、人を懐へ引き込むことに長けた男だという認識は変わらなかった。ならば、こちらも利用すればいい。
韓はもうない。それでも、まだ知恵を使いたい相手はいた。
扶蘇。
韓を救うために兵を出し、滅亡したあとも自分の返還を求め続けている。あの人のためなら、もう一度働いてもいいと張良は思った。
そのためには、まず漢の目を秦から逸らさなければならない。今、秦と楚は敵対しておらず、扶蘇と項羽の関係も悪くない。
ならば、劉邦を東へ向かせる。
再び楚と戦わせ、両軍が刃を交えたところで秦を動かす。漢が楚へ深く踏み込めば、扶蘇にも動く理由が生まれる。
楚と秦が手を結び、漢を挟めばいい。韓を滅ぼした漢を潰すことこそ、張良の本心だった。
◆
「楚を討つべきです」
数日後、張良からそう告げられた劉邦は眉を上げた。
「食えるようになったと思ったら、随分でかい話を持ってきたな」
「以前、漢王ご自身が掲げられた大義です。項羽は楚王心を死に追いやり、漢王はその罪を天下へ問われたはずです」
「そのあと停戦した」
「はい。そして次に滅ぼしたのは韓でした。天下から見れば、義帝の仇とは和し、弱い韓を呑み込んだことになります」
劉邦の顔が険しくなる。
「俺にそれを言うか」
「だからこそ申し上げています。韓を得たことで漢の国力は増しました。今こそ再び大義を掲げ、楚へ向かうべきです」
劉邦はすぐには答えなかった。しばらく腕を組んだまま考えたあと、呂雉と陳平を呼ばせた。
◆
「私は反対です」
話を聞き終えた陳平は、ほとんど迷わずそう答えた。口調は丁寧で、劉邦の前では張良に対しても礼を崩さない。
「現在、漢が楚と争う利点はほとんどございません。韓を得たばかりで、旧韓の官吏と兵を組み込み、国を整えるだけでも時間が必要です」
「大義を取り戻すことはできます」
「大義だけでは兵糧も兵も増えません。それに楚には龍且が戻り、鍾離眜も復帰しております」
張良は表情を変えなかったが、内心では舌打ちしたい気分だった。相変わらず、こちらの狙いを潰すために必要な場所を正確に突いてくる。
「何より、漢と楚が争えば秦が得をします」
陳平の視線が張良へ向いた。
「北では冒頓が死に、匈奴はまとまっていません。趙と燕も秦に従っている。その状態で漢と楚が消耗すれば、秦だけが力を残すことになります」
「秦にも利益がある。それだけのことでしょう」
「本当に、それだけでしょうか」
穏やかな口調だったが、その言葉の意味は明らかだった。漢を楚へ向かわせ、その背後から秦を動かすつもりではないかと、陳平は疑っている。
「秦と楚は敵対しておりません。漢が楚へ大軍を向ければ、秦王がそれを看過する保証もないでしょう」
張良は黙って陳平を見る。やはり、この男は厄介だった。
「以前、私に太公望の兵法など古いと仰いましたね」
突然の言葉に、陳平の眉がわずかに動いた。
「覚えておられましたか」
「ええ。閨の秘書にでもなればよいとも」
劉邦が陳平を見る。
「お前、そんなこと言ったのか?」
「捕虜となった直後でしたので、多少の軽口を申し上げました」
「随分と軽い口ですね。ですから、古い兵法でもまだ役に立つところをお見せしたいと思いまして」
「それは楽しみです」
二人とも口調は穏やかだったが、互いに笑ってはいなかった。
呂雉は二人の間を一瞥すると、そのまま話を戻した。
「私は陳平に賛成よ。今の漢に、わざわざ楚との戦を再開する必要はないわ」
「でも、大義って話も分からなくはねえんだよな」
劉邦が腕を組む。
「韓を取ったあと、次はどこへ行くんだって話になる。秦へ向かえば、今度は扶蘇と戦うことになるしな」
「だからといって楚へ向かえばよい、とはなりません」
陳平はすぐに返した。
そこが二人の考えの違いだった。張良は漢を楚へ向かわせたいが、陳平はどこにも深入りせず、まず韓を吸収して国力を蓄えるべきだと見ている。
「軍の話なら、もう一人聞いた方がいいな」
やがて劉邦が言った。
「韓信かしら」
「そうだ。楚ともう一度やる価値があるのか、やるなら勝てるのか。あいつに聞く」
現在、韓信は九江にいる。楚と再戦するのであれば、その戦い方を最も正確に見積もれる将だった。
陳平も止めなかった。
「よろしいかと存じます」
張良も何も言わなかった。
その日のうちに、漢王の書簡を携えた使者が襄陽を発った。目的地は九江だった。
部屋へ戻った張良は、夕餉へ箸を伸ばした。
陳平には狙いの一端を読まれたが、まだ止められてはいない。劉邦が楚へ向かえば、あとは扶蘇を動かせばいい。
楚と秦の間に漢を置き、その退路を断つ。
韓を奪った代償は、漢そのものに払わせる。
張良は、その日の食事も最後まで残さなかった。




