第176話 生きる
張良が襄陽に留置されてからも、俺は何度か漢へ使者を送っていた。
求めているのは、張良の身柄だった。彼女が秦へ助けを求めて咸陽まで来たことも、俺の客将としてしばらく過ごしたこともある以上、このまま漢の手に置いておく理由はないと考えていた。
だが、返ってくる答えは毎回ほとんど同じだった。
『張良は韓王に仕えた韓の臣であり、秦の臣ではない。秦王が返還を要求する根拠はない』
言われてみれば、その理屈自体は間違っていなかった。
張良は俺に仕えるため咸陽へ来たのではなく、韓を守るため秦の援軍を求めに来ただけだ。俺も客として迎えはしたが、秦への臣従を誓わせたことはなく、韓が漢へ降った以上、その旧臣を秦へ引き渡せと主張しても漢が応じる義務はなかった。
それでも諦めず、条件を変えながら何度か交渉を続けた。
捕虜との交換も持ちかけたし、秦が韓の旧領に手を出さないことを改めて確認する代わりに解放する案も出した。だが漢側は張良についてだけは譲らず、そのうち使者が往復する間隔も少しずつ長くなっていった。
戦そのものが止まっていたことも、それを急がせなかった。
漢と楚の停戦は続き、秦も北方が静まったことで、大きな軍を動かさずに済む時間が生まれている。三国が互いに相手の出方を窺ううち、張良の返還交渉だけが決着しないまま、季節だけが進んでいった。
◆
その頃、襄陽では劉邦自身が何度も張良のもとへ足を運んでいた。
牢へ入れられているわけではなかったが、自由に城外へ出ることは許されず、与えられた一室で暮らす毎日が続いている。書物や筆は求めれば与えられたものの、韓を失った張良は以前ほどそれらに手を伸ばさず、窓の外を眺めて一日を終えることも増えていた。
「なあ、そろそろ考え直さないか」
ある日も、劉邦は卓を挟んで向かいに座った。
「韓はもうない。だったら俺のところへ戻ってこいよ。お前ほど頭の切れる軍師を、いつまでも部屋へ閉じ込めておくのはもったいねえ」
「お断りします」
張良は迷わず答えた。
劉邦は残念そうに頭を掻いたものの、すぐに気を取り直して別の条件を並べ始めた。軍権を与える、好きなだけ兵を動かしてよい、陳平と同格に扱うとまで言ったが、張良の返事は変わらなかった。
そして話をしている間にも、劉邦の視線は時折、彼女の顔から下へ滑った。
本人は隠しているつもりなのだろうが、以前から何度も見られている張良には分かる。
「……ですから、嫌なのです」
「何が?」
「それです」
張良が冷たい目を向けると、劉邦は一瞬だけ視線を逸らした。
「いや、今のは違うぞ」
「何も申し上げておりませんが」
返す言葉がなくなった劉邦は、その日も軍師への復帰を諦めて部屋を出ていった。
◆
それでも、張良の状態は少しずつ悪くなっていった。
最初は食事の量が減っただけだった。やがて肉を残し、粥にもほとんど手をつけなくなり、侍女が下げる膳は毎日ほぼそのままになった。
知らせを受けた劉邦が様子を見に来ると、以前より頬が痩せ、衣の上からでも身体が細くなったことが分かる。それでも本人は特に苦しそうな顔をせず、窓際に座ったまま静かに外を眺めていた。
「お前、飯を食ってないのか」
「必要ありません」
「必要ないわけあるか」
「いずれ仙人になりますので」
劉邦はしばらく黙って張良を見た。
「……何を言ってるんだ、お前は」
「穀物を断ち、俗世から離れれば仙人になれるそうです。韓もなくなりましたし、ちょうどよいでしょう」
冗談を言っているような声ではなかった。
劉邦は何か言い返そうとしたが、結局その日は食べろと何度か言っただけで、張良を説得できないまま部屋を出た。
◆
「それで、また断られたのですか」
話を聞いた呂雉は、呆れたように劉邦を見た。
「俺だって何度も言ってるんだぞ。軍師に戻れば好きなだけ兵を動かしていいって」
「そこではありません」
呂雉は膨らみ始めた腹へ片手を添えながら、冷えた視線を夫へ向けた。
「張良はまだ使い道があります。秦王が何度も返還を求めていることだけを見ても、手元へ置いておく価値は十分にあるでしょう。本人が軍師へ戻る気になれば、なおさらです」
「だから戻ってこいって言ってるだろ」
「その助平ヅラで?」
劉邦の口が止まった。
呂雉は容赦しなかった。
「会うたびに女として眺めておいて、私の軍師になれと迫る男のところへ戻りたいと思う方が不思議です。少なくとも、戻ってきてほしいのであれば、その顔を何とかしてください」
「顔は生まれつきだ」
「では視線を何とかしてください」
劉邦は何か反論しようとしたが、呂雉の目を見てやめた。
「それから、今は軍師へ戻すことより食べさせる方が先です。このまま死なれれば、使えるも使えないもありません」
「分かってるよ」
「本当に分かっているなら、次は軍師という言葉を出さないことです」
劉邦は面倒そうに頭を掻いたものの、今度ばかりは言い返さなかった。
◆
翌日から、劉邦はまた何度も張良の部屋を訪れた。
最初の日には、軍の話をしなかった。
卓の上にほとんど手をつけられていない膳があるのを見て、その前へ座る。
「食え」
「結構です」
「軍師に戻れとは言わん。今日はそれを言いに来たんじゃない」
張良は僅かに目を動かしたが、返事はしなかった。
劉邦も、それ以上は説得せずに帰った。
次の日も来た。
さらに次の日も来た。
最初のうちは張良も、また軍師に戻れと言われるのだと思っていた。だが劉邦は軍の話をせず、韓の話もせず、食事の前に座っては、少しでも食べろとだけ言って帰っていった。
それでも張良は食べなかった。
日が経つにつれて立ち上がることさえ少なくなり、寝台に横になる時間が増えていく。ある日、部屋へ入った劉邦は、以前なら無意識に追っていた身体へ視線を向けることもなく、痩せた顔を見たまましばらく言葉を失った。
「……本当に死ぬ気か」
「仙人になるだけです」
「それを死ぬっていうんだよ」
いつものように軽口で返す声ではなかった。
劉邦は膳に置かれた粥を見てから、再び張良へ目を向けた。
「韓がなくなったことは、俺には戻せない。お前が俺を嫌ってるのも分かったし、軍師に戻りたくないなら今はそれでもいい」
張良は黙って聞いていた。
「だから、まず食ってくれ」
返事はなかった。
劉邦は立ち上がらず、そのまま続けた。
「一口でいい。俺のためじゃなくてもいいし、漢のためでもなくていい。お前がこれから何をするかなんて、飯を食ってから考えりゃいいだろ」
「……何故、そこまでなさるのです」
ようやく張良が口を開いた。
劉邦は少し考えたが、いつもの笑いで誤魔化さなかった。
「死んでほしくないからだ」
張良は何も言わなかった。
その日は、劉邦もそれ以上求めなかった。
「また来る」
そう言い残し、部屋を出ていった。
◆
扉が閉じた後も、張良はしばらく動かなかった。
卓には朝から置かれていた粥が残っている。すでに温かさはほとんど失われていたが、それを見つめながら、先ほどの劉邦の顔を思い返した。
軍師として欲しいと言わなかった。
女を見る時の、あの嫌な視線もなかった。
ただ食べてくれと言った。
張良はゆっくり身体を起こし、卓へ近づいた。椀の傍に置かれていた匙へ手を伸ばすまでにも少し時間がかかったが、やがて冷めかけた粥をほんの少し掬った。
口へ運び、飲み込む。
それだけで胃が驚いたように重くなり、二口目へすぐ手を伸ばすことはできなかった。
それでも、匙を置かなかった。
しばらくしてから、張良はもう一口だけ粥を食べた。




