第175話 命
羌瘣が北へ向かってから、半年近くが過ぎていた。
その間、匈奴が北地や上郡へ大軍を向けることはなく、国境では小さな衝突こそあっても、以前のような組織立った侵攻は途絶えていた。冒頓が斉から退いた後も北方には間諜を残していたため、俺のところには草原の動きが断片的ながら届き続けていた。
その日も、一人の間諜が長い旅を終えて咸陽へ戻ってきた。
報告によれば、匈奴では単于冒頓が天幕の中で死亡し、その傍で羌瘣も死んでいるのが見つかったという。二人とも刃傷を負っており、詳しい経緯まで知る者はいなかったものの、草原では二人が刺し違えたものとして受け止められていた。
俺は最後まで遮らずに聞いた。
冒頓の死後、匈奴ではすぐに次の単于を巡る動きが始まり、いくつかの有力な勢力が互いの出方を窺っているらしい。今のところ南へ大軍を送るような状況にはなく、半年近く侵攻が止まっていたことまで考えれば、少なくとも当面は秦の北辺へ大きな軍勢が押し寄せる可能性は低そうだった。
間諜が報告を終えて頭を下げる。
「そうか」
俺が返したのは、それだけだった。
もっと言うべきことがあるような気はしたが、何も出てこなかった。北へ行くと知りながら追わず、帰ってこいと願った女が、結局は帰ってこなかったという事実だけが残り、気づいた時には頬を涙が伝っていた。
拭おうとは思わなかった。
間諜も何も言わず、その場で頭を下げたまま待っていた。
しばらくしてから報告書を閉じ、机の端へ置いた。羌瘣が何を思って最後の半年を過ごしたのか、それを俺が知ることはもうない。
ただ、彼女がいなくなった北では、皮肉なほど静かな日が続いていた。
◆
それから間もなく、今度は閼与から知らせが届いた。
王離が無事に子を産んだという。
女の子だった。
北から届いた報せとはまるで違う一枚を手にしたまま、俺はしばらく文字を見つめていた。人が死んだという知らせを受けたばかりなのに、別の場所では新しい命が生まれている。
王離は世間ではすでに死んだことになっているため、王宮で盛大に祝うことはできない。
そこで俺は大きな一行を組まず、蒙凛と蘭だけを連れて閼与へ向かった。蒙凛も自分の娘に妹ができたような気分なのか、道中は珍しく機嫌がよく、まだ幼い蘭へ何度も「赤ちゃんに会えるぞ」と話しかけていた。
「分かってると思う?」
「半分くらいは」
「その根拠は?」
「俺の娘だから」
蒙凛は呆れた顔をしたが、抱いていた蘭の頬が緩んだので、それ以上は何も言わなかった。
◆
閼与へ着くと、俺たちは人目につかないよう城の奥へ通された。
出産を終えたばかりの王離は別室で休んでいるというので、まず赤子の顔だけ見せてもらうことになった。案内された部屋へ近づいたところで、中から聞き慣れた声が聞こえてきた。
「よーしよし、どうしたのでちゅかあ。お腹が空いたのでちゅかあ、それとも眠いのでちゅかあ」
俺は足を止めた。
隣の蒙凛も止まった。
二人で顔を見合わせる。
「……今の、誰?」
「俺も同じことを聞こうと思った」
扉の向こうからは、さらに声が続いた。
「ばあばがいまちゅからねえ。泣かなくても大丈夫でちゅよお」
間違いない。
王賁だった。
俺は無言で扉を開けた。
そこには、普段なら兵を一睨みしただけで黙らせる王賁が、赤子を両腕で抱えながら満面の笑みを浮かべていた。
「ほらほら、いい子でちゅねえ。お目々もぱっちり開きまちたねえ」
蒙凛が隣で固まった。
俺もたぶん似た顔をしていたと思う。
その横では蘭だけが何もおかしいと思っていないらしく、蒙凛の腕の中から赤子の方へ手を伸ばしていた。
やがて王賁がこちらに気づいた。
笑顔が消えた。
部屋の中に妙な沈黙が落ちる。
「……いつからいた」
「ばあばがいまちゅからねえ、の辺りから」
王賁の目が細くなった。
「忘れろ」
「無理だろ」
「忘れろ」
俺が答える前に、蒙凛が顔を背けた。
肩が震えている。
「おい、蒙凛」
「ごめん。でも、無理」
とうとう吹き出した。
王賁は赤子を抱いているせいで怒鳴ることもできず、ただこちらを睨んでいる。その腕の中では当の赤子が何も知らずに小さな欠伸をしており、それを見た瞬間、王賁の表情がまた緩みかけた。
俺と蒙凛は同時にそれを見た。
王賁はすぐに顔を引き締めた。
「見るな」
「いや、今また戻りかけただろ」
「黙れ、扶蘇」
娘を抱く祖母に睨まれても、さすがに今日は怖くなかった。
◆
少しして、身体を休めていた王離のところへ通された。
寝台に横たわる王離は、戦場で巨大な剣を振り回していた頃とはまるで違って見えた。まだ疲労は濃く残っていたが、俺を見るとゆっくり身体を起こそうとしたので、慌てて止めた。
「そのままでいい」
「ですが、扶蘇様が来てくださったのに」
「今だけは王より自分の身体を優先してくれ」
王離は少し迷った後、素直に横になったまま頭を下げた。
そこへ王賁が赤子を連れてきたが、先ほどまでの赤ちゃん言葉など最初から存在しなかったかのような顔をしている。蒙凛は口元を押さえていたものの、王賁に睨まれると何も言わずに蘭を抱き直した。
俺は赤子を受け取った。
小さい。
蘭が生まれた時にも同じことを思ったはずなのに、改めて腕へ抱くと驚くほど軽く、少し力を入れただけで壊れてしまいそうだった。
赤子が目を開いた。
俺の顔など分かるはずもないのに、しばらくこちらを見た後、小さな手を動かした。
指を差し出すと握られた。
ほんの僅かな力だった。
その感触に、北から届いた報告がふと蘇った。
半年前、一人で北へ向かった女はもういない。
その一方で、今は俺の腕の中に新しい命がいる。
どちらかで帳尻が合うような話ではないし、誰かが生まれたから誰かの死が軽くなるわけでもない。それでも、失うことだけが続くわけではないのだと、この小さな手に教えられている気がした。
「扶蘇様」
王離に呼ばれて顔を上げる。
「その子を、抱いてくださってありがとうございます」
俺は何も言わず、もう一度赤子を見た。
隣から蘭も覗き込み、手を伸ばしている。
「妹だぞ」
そう言うと、蒙凛が少しだけ眉を上げた。
「まだ分かんないでしょ」
「そのうち分かる」
蘭の指が、赤子の小さな手へ触れた。
その光景を見ていた王賁の口元がまた緩んだ。
俺と蒙凛は同時にそちらを見る。
「……何だ」
「いや、別に」
「何でもない」
今度は二人とも笑わなかった。
笑えば、たぶん追い出される。
ただ、王賁が赤子へ向けた顔だけは、しっかり覚えておくことにした。




