第174話 羌瘣の決着
羌瘣が草原へ戻ってから、いくつもの夜が過ぎた。
最初のうち、冒頓は彼女を完全には信用しておらず、天幕の外には常に兵が立ち、馬に乗る時にも見張りがついた。一騎討ちで奪われた剣も返されなかったが、それ以外については無理に縛ろうとはせず、夜も羌瘣が拒めばそれ以上触れてこなかったため、かえって彼女の方が自分から離れずにいる必要があった。
逃げるために戻ったのではなく、冒頓を殺すために戻ったのだから、警戒を解かせるには再び妻だった頃と同じ場所まで入り込まなければならない。そう考えて同じ寝床へ入った最初の夜、羌瘣は抱かれながらも、武器の位置や眠りに落ちるまでの時間ばかりを頭の中で数えているつもりだった。
だが、身体は頭ほど綺麗に過去を切り捨ててはいなかった。
冒頓の胸へ触れた瞬間、忘れたと思っていた体温が戻ってきた。首筋へかかる息も、自分を抱き寄せる腕の重さも、低い声で名を呼ばれる感覚も、妻だった頃に何度となく味わったものと変わらず、警戒していたはずの身体から少しずつ力が抜けていく。
それが羌瘣には耐え難かった。
憎んでいる男に触れられているのに、身体はその手を拒むより先に思い出してしまう。呼吸を抑えようとしても次第に乱れ、汗ばんだ肌が触れ合うたびに細かな震えが走り、夜が深くなる頃には思考まで熱の中へ沈みそうになる。
朝になり、隣で眠る冒頓を見てから、ようやく自分が何のためにここへ来たのかを思い出した。
殺すためだと、改めて自分へ言い聞かせなければならなかった。
◆
二度目の夜からは、さらに厄介だった。
最初は久しぶりだったから身体が戸惑ったのだと思えたが、今度は冒頓が近づいてくるだけで、この後に何が待っているのかを身体の方が先に知っている。そんな反応を悟られたくなくて顔を背けても、冒頓はからかうことも問い詰めることもせず、以前と同じように静かに腕を回してきた。
その沈黙が、かえって羌瘣を追い詰めた。
拒もうと思えば拒めるのに、それをしない理由を、最初は暗殺のためだと説明できた。だが夜を重ねるうちに、触れられれば身体が熱を持ち、力を入れていた指がいつの間にか緩み、気づけば自分から冒頓へ身体を預けていることさえあった。
かつて夫婦だった頃の記憶も、一つずつ戻ってきた。
自分がどんなふうに抱かれることを好んでいたかも、冒頓がそれを覚えていることも、思い出したくないのに身体だけは忘れていない。夜が深くなり、汗で髪が頬へ張りつく頃には、堪えていた息も震えも隠せなくなり、その腕から離れることさえ億劫になっていた。
それでも朝になれば、羌瘣は腹を立てた。
冒頓にではなく、殺そうとしている男の腕の中で、一瞬でも心地よさを覚えてしまった自分にだった。
◆
何度目かの夜、羌瘣は自分から冒頓へ触れていた。
胸元へ置いた手に気づき、すぐ引こうとしたが、その手を冒頓が静かに捕まえた。何も言わず見つめられたことで言い訳もできず、羌瘣は目を逸らしながら、それでも手を振りほどかなかった。
その夜は、今までよりも深く過去が蘇った。
戦場で斬り合ったことも、秦へ戻るためにこの男から離れたことも、一時は遠く感じるほどだった。身体の芯まで熱が残り、何度も呼吸が崩れ、最後には冒頓の胸へ額を預けたまま、しばらく起き上がれなかった。
気づけば涙が流れていたが、悲しいのか、悔しいのか、それとも別のものなのか、自分でも分からない。冒頓も理由を聞かず、ただ腕の力を少し緩めただけで、その静けさがまた羌瘣の胸を締めつけた。
このままでは駄目だと思った。
暗殺の機会を待つために近づいたはずなのに、日を重ねるほど、いざ剣を取った時に本当に振り下ろせるのか分からなくなっている。それでも離れれば終わらせられないことだけは、まだ忘れていなかった。
◆
日が経つにつれて、冒頓の警戒は少しずつ薄れていった。
天幕の外に立っていた兵は減り、羌瘣が一人で馬へ乗ることも許されるようになった。剣だけは返されなかったものの、昼間の行動まで監視されることはなくなり、二人で草原へ出たり、同じ場所で食事を取ったりする時間も増えていく。
そうした何でもない時間の方が、羌瘣には苦しかった。
敵として刃を向けてくる冒頓だけを見ていれば、憎むことは簡単だった。だが、馬を見ながら黙って食事をし、部族の争いについて愚痴をこぼし、夜になれば妻だった頃と同じように隣へ戻ってくる男まで含めて殺さなければならないとなると、胸の中に残った感情を無視することが難しくなる。
ある夜には、眠っている冒頓の首へ手を伸ばした。
武器はなくても、眠っている今なら何かできるかもしれない。そう思って指先を首筋へ触れさせたものの、力を込めることはできず、その手はいつの間にか頬へ移っていた。
自分が何をしているのか気づいた瞬間、羌瘣は慌てて手を引き、翌朝はほとんど冒頓と目を合わせられなかった。
◆
身体の変化に最初に気づいたのは、羌瘣自身ではなかった。
朝から吐き気が続き、食事の匂いを嗅いだだけで顔をしかめる日が重なったため、年嵩の匈奴の女が呼ばれた。腹へ触れ、脈を確かめ、いくつか問いかけた後、その女が浮かべた笑みだけで羌瘣にも意味が分かった。
自分の腹へ手を置いた。
まだ外から見れば何も変わっていないのに、その中には冒頓の子がいる。殺すために近づいた男の子を、自分の身体が育て始めているという事実をどう受け止めればいいのか分からず、羌瘣は長い間そこから手を離せなかった。
知らせを聞いた冒頓はすぐに戻ってきた。
女から説明を受けた後もしばらく何も言わず、羌瘣の前へ腰を下ろして、その腹へ目を向けていた。
「そうか」
言ったのは、それだけだった。
だが、羌瘣はその顔をまともに見ることができなかった。単于となった時にも、戦に勝った時にも見せなかったほど、冒頓は無防備に喜んでいた。
その夜、二人の間にあったものも少し変わった。
冒頓は彼女の身体を以前より慎重に扱い、羌瘣もいつの間にか抵抗する理由を探すことをやめていた。昔から知っている熱の中へ沈むにつれて何度も身体を震わせ、最後には自分から冒頓へ腕を回していたことに気づいても、もう手を離すことができなかった。
このままでいい。
草原に残り、子を産み、またこの男の妻として暮らしていけばいい。
一瞬だけ浮かんだその考えがあまりにも自然だったことで、羌瘣はその夜ほとんど眠れなかった。
◆
妊娠が分かってから、冒頓は最後に残っていた警戒まで解いていった。
見張りはほとんど外され、羌瘣が一人で馬へ乗っても止められない。かつて自分を殺すために戻ってきた女が逃げもせず、自分の子まで宿した以上、もう妻として残るのだと考え始めていたのだろう。
それでも、剣だけは返さなかった。
だから羌瘣は、自分で用意した。
匈奴の陣には兵が使う武器がいくらでもあり、剣や槍をまとめて置いた天幕もある。自由に歩けるようになった羌瘣は急ぐことなく人の出入りを覚え、冒頓が部族の長たちと遠くへ出ている日に一本だけ剣を持ち出した。
自分が使っていたものとは重さも柄の感触も違ったが、人を殺すには十分だった。
衣の下へ隠して単于の天幕まで運び、寝床の奥に敷かれていた厚い毛皮をめくる。外から見えない位置へ剣を滑り込ませ、手を伸ばせば届くことを確かめてから、何事もなかったように毛皮を戻した。
準備は整った。
あとは冒頓が眠った時に取り出し、胸へ突き立てればいい。
それなのに、その夜もできなかった。
次の夜も、その次の夜も、羌瘣の指は毛皮の下に隠した剣の柄まで届きながら、そこから先へ進まなかった。隣では冒頓が無防備に眠っており、僅かに身体を起こして剣を抜けば終わるはずなのに、腹へ手を置くたびに腕が止まる。
この男を殺せば、腹の子は父を失う。
自分まで生きて帰れなければ、母も失う。
それでも冒頓を生かしておけば、単于として匈奴をまとめる力は残り、扶蘇はこれからも北を警戒し続けなければならない。
どちらを選んでも、自分が望むものすべてを残すことはできなかった。
そのことを認めてから、羌瘣は剣の柄へ触れるたび、以前より長く迷うようになった。
◆
その夜、冒頓は部族の長たちとの話し合いを終え、いつもより遅く天幕へ戻ってきた。
酒を飲んでいるわけではなかったが、長く話して疲れたのか、寝床へ横になると早い段階で目を閉じた。羌瘣も隣へ横たわり、暗い天幕の中で聞こえる呼吸を聞きながら、何度目か分からない夜を迎えていた。
「子が生まれたら、南へはしばらく行かない」
眠りに落ちる前、冒頓が不意に口にした。
羌瘣は顔だけを向けた。
「何故だ」
「お前が嫌がる」
「今までは気にしなかった」
「今までは、お前がいなかった」
それ以上は言わなかった。
しばらくすると、冒頓の呼吸がゆっくり深くなっていった。
羌瘣は隣で眠る男を見ていた。
ここで何もしなければ、明日も同じ朝が来る。その次の日も、さらにその先も、二人で同じ天幕へ戻り、この子が生まれるのを待つことになるのかもしれない。
その未来を嫌だと思えなくなっていた。
だからこそ、今夜終わらせなければならなかった。
羌瘣は腹へ手を置き、長く目を閉じた。まだ胎動を感じる時期ではないが、何も返ってこない腹を一度撫でてから、寝床の奥へ手を伸ばした。
毛皮の下で指先が剣の柄に触れる。
今度は離さなかった。
ゆっくりと剣を引き出し、鞘から刃を抜いた時、小さな音がした。
冒頓の目が開く。
二人の視線が合った。
驚きより先に、冒頓の顔には理解が浮かんでいた。
羌瘣は剣を両手で握り、そのまま胸へ突き下ろした。
冒頓は寝た姿勢から身体を捻ったが完全には避けられず、刃が脇の下から深く入った。血が寝床へ広がるより早く、冒頓の手が羌瘣の手首を掴んだ。
「……隠していたか」
羌瘣は答えず、両腕へ力を込めて剣をさらに押し込んだ。
冒頓のもう一方の手が寝床の脇へ伸び、そこに置いていた短刀を掴む。羌瘣にもそれは見えていたが、避ければ自分の剣も抜けると分かっていたため、その場から動かなかった。
短刀が羌瘣の脇腹へ深く入った。
身体の奥へ焼けるような痛みが走り、一瞬だけ視界が白くなった。それでも剣を握った手は離さず、二人は互いの身体へ刃を残したまま、支え合うように寝床へ崩れ落ちた。
しばらく聞こえたのは、二人の荒い呼吸だけだった。
やがて冒頓が血に濡れた口元を僅かに動かした。
「最初から……これが目的だったのか」
羌瘣はすぐには答えず、呼吸を整えるように一度目を閉じた。
「そうだ」
冒頓は微かに笑った。
「嘘だな。何度も、殺せた」
その言葉だけで十分だった。
寝床の下には、何日も前から剣があった。それでも羌瘣は毎晩、柄に触れては手を離し、朝を迎えていた。
目を伏せたまま、ようやく答える。
「……何度も、やめようと思った。ここに残って、お前の子を産んで、また以前みたいに暮らしてもいいと考えた」
口にすると、胸の奥が痛んだ。
「それでも、お前を生かしたまま帰れなかった」
血に濡れた冒頓の手がゆっくり上がり、羌瘣の頬へ触れた。
何度も夜に触れられたのと同じ手だった。
「なら、それでいい」
「何がいい」
「俺だけが、お前を手放せなかったわけじゃない」
羌瘣は僅かに顔をしかめた。
「勝手に決めるな」
「最後くらい、好きに言わせろ」
その言葉を最後に、冒頓の手から力が抜け、頬に触れていた指がゆっくり落ちた。
羌瘣はしばらく動かず、目の前の男を見ていた。
殺したかったし、何度も憎んだ。
それでも、憎しみだけでここまで来たのではなかった。
最後まで一つの言葉へまとめることのできなかった感情を抱えたまま、羌瘣は自分の腹へ手を添えた。
まだ何も感じない。
けれど、自分と冒頓の間に生まれた命がそこにいることだけは分かっていた。
何かを言おうとして、結局何も言わなかった。
羌瘣は冒頓の胸へゆっくり額を預け、残っている温もりを感じながら目を閉じた。




