第173話 北へ
斉で続いていた戦は、冒頓が匈奴を率いて北へ去ったことで、大きく流れを変えた。
最大の後ろ盾を失った田横に対し、南からは龍且の楚軍、北からは秦に服属した燕王臧荼の軍が圧力を強めていった。両軍は一つの指揮下で動いていたわけではないものの、二方向から攻められる田横には兵をまとめる余裕がなく、幾度かの戦闘を経て主力を崩されると、残兵を率いて海岸まで退いた。
そこで集められるだけの船を集めた田横は、斉の地を捨てて海へ逃れた。
後に届いた報告では、その船団は遼東の沿岸を越え、さらに東へ向かったらしい。龍且も臧荼も海へ出てまで追うことはせず、斉で組織立った抵抗を続けていた勢力は、これで中原からほぼ姿を消すことになった。
その戦が終わろうとしていた頃、長く療養を続けていた羌瘣の傷も、ようやく剣を握れるところまで癒えていた。
◆
まだ空が白み始める前、羌瘣は一人で馬へ鞍を置いた。
深かった傷はすでに塞がり、剣を振っても開くことはなくなっている。長く身体を動かせば古傷の奥に鈍い痛みは残ったが、それでも馬を走らせ、戦うには十分だった。
供を連れるつもりはなく、荷も旅に必要なものだけに留めた。腰には使い慣れた剣を差し、眠っている陣を背にして、そのまま北へ馬首を向けた。
冒頓に正面から挑んでも、自分の剣では勝ち切れない。
以前に刃を交えた時、速さと技で食らいつくことはできても、一度まともに力を受ければ押し負け、長く戦うほど身体そのものの差が出た。傷が癒えたからといって、その差まで埋まったわけではないことくらい、羌瘣自身が最もよく分かっている。
それでも北へ行くことに迷いはなかった。
冒頓が単于として匈奴を束ねている限り、秦の北辺が完全に静まることはない。今回のように一度退いたとしても、秦が南で漢や楚へ兵を向ければ、またその隙を突いて北地や上郡へ騎兵を入れることができる。
もちろん、羌瘣一人が冒頓を殺したところで匈奴そのものが消えるわけではない。それでも、多くの部族をまとめ、南へ兵を向ける力を持った単于を失えば、今と同じ勢いで秦を脅かし続けることは難しくなる。
扶蘇が北を警戒するために兵を縛られ続ける理由を、一つでも減らしたかった。
ただし、それだけなら誰かに命じてもよかったし、兵を連れて討ちに行く方法もあった。
羌瘣が一人で行く理由は、もっと個人的なところに残っていた。
冒頓は敵であり、今でも殺すべき男だと思っている。それでもかつて夫として傍にいた時間まで消えたわけではなく、その男との間に残ったものを他人の手で終わらせる気にはなれなかった。
だから自分で行く。
誰にも告げずに馬を出した羌瘣は、一度も後ろを振り返らなかった。
◆
俺がそのことを知ったのは、咸陽へ戻って数日が経ってからだった。
楊端和から届いた書簡には、羌瘣の傷が戦えるところまで癒えたことと、すでに一人で北へ向かったことが簡潔に記されていた。そして途中には、俺が追手を出すことまで予想していたらしい一文があった。
『追わせるな』
そこで読む手が止まったが、その先には楊端和自身の判断も書かれていた。
『止めようと思えば止めることはできた。だが、これは羌瘣自身が終わらせなければならない。無理に連れ戻せば、あれはこの先もずっと同じところに残る』
説明はそれだけだった。
だが、楊端和がどうでもいいと思って送り出したわけではないことは分かる。彼女自身も北で頭曼との間に消えないものを残した一人だからこそ、羌瘣がなぜ他人に任せられないのか、俺よりよく理解していたのかもしれない。
今から騎兵を出して道を探らせれば、追いつける可能性はある。
その命令を出すことも考えたが、結局はやめた。
羌瘣が何をしようとしているのかは想像できるし、無事に済む保証などどこにもない。それでも本人が自分で選んだ決着を、安全な場所にいる俺が力ずくで奪っていいとも思えなかった。
書簡を机へ置き、窓の向こうに広がる北の空をしばらく眺めた。
「無事に帰ってこい、羌瘣」
今の俺にできるのは、それを願うことだけだった。
◆
冒頓がいたのは、秦の国境から遥か北へ離れた草原だった。
城壁も街道もなく、乾いた草に覆われた土地が低い丘の向こうまで続き、その中に大小の天幕と馬の群れが点在している。羌瘣が一人で近づいてくる姿を見つけた兵たちは弓へ手を伸ばしたが、その中に彼女の顔を覚えている者がいた。
かつて単于の妻だった女が戻ってきた。
その報せが奥へ伝わってから、さほど時間はかからなかった。
やがて数騎を従えて現れた冒頓は、馬上から羌瘣を見下ろしたまま、しばらく何も言わなかった。羌瘣も馬から降りると、その場から先へは進まず、互いに相手の顔を見たまま風の音だけを聞いていた。
「戻ったか」
先に口を開いた冒頓に対し、羌瘣は返事の代わりに剣を抜いた。
それだけで用件は伝わったらしい。
冒頓は周囲の兵へ下がるよう手を上げると、自らも馬を降りて剣を抜いた。
「殺しに来たか」
羌瘣は答えず、切っ先を向ける。
「前にも負けた」
「覚えている」
その先を冒頓が問うことはなかった。
しばらく羌瘣を見つめた後、ただ一つだけ確かめる。
「秦王のためか」
「お前がいる限り、北は終わらない」
冒頓は黙った。
秦のためだけなら兵を連れてくればいいし、扶蘇のためだけなら他の誰かに任せることもできる。それでも羌瘣が一人でここまで来た理由について、二人ともそれ以上は口にしなかった。
冒頓が剣を構えたのを見て、羌瘣も重心を落とす。
次の瞬間には、二人の足が同時に草を蹴っていた。
◆
最初に間合いを潰したのは羌瘣だった。
真正面から剣を受ければ力で押し切られるため、低く身体を沈めながら冒頓の左へ回り、手首を狙って伸ばした剣先を、そのまま脇へ滑らせていく。
冒頓は半歩だけ退いて切っ先を外し、腰を回しながら横薙ぎに剣を返した。羌瘣は上体を反らして避けると、剣が目の前を通り過ぎた直後には再び前へ入り、返した刃で冒頓の頬を浅く裂いた。
細い血が流れたが、冒頓は傷へ手をやることもなく、そのまま前へ出た。
今度の一撃は避け切れず、羌瘣も剣を合わせるしかなかった。刃同士がぶつかった瞬間、両腕を伝った衝撃が肩まで突き抜け、足元の草を削りながら身体が押し戻される。
二撃目まで受ければ持たない。
そう判断した羌瘣は横へ抜けながら足を狙ったが、冒頓は身体を引いてそれをかわし、一歩踏み込むだけでもう一度間合いを詰めた。
大柄な身体に似合わず、動きは速かった。
しかも、力に任せて追ってくるわけではない。羌瘣が横へ回ればその先へ身体を入れ、距離を取ろうとすれば深く踏み込むことで、逃げられる方向を少しずつ削っていく。
羌瘣も足を止めず、懐へ入った時には腹を、離れれば手首を狙って剣を伸ばした。幾度か刃は届き、冒頓の腕や脇腹に傷を増やしたものの、どれも浅く、致命傷にはほど遠い。
反対に、冒頓の剣を一度まともに受けるだけで腕の感覚が鈍くなり、踏ん張った足にも少しずつ疲労が溜まっていった。
傷そのものは治っていても、長く伏せていた身体まで以前と同じではない。
戦いが長引くにつれ、羌瘣の呼吸は明らかに荒くなっていった。
それでも冒頓は攻め急がなかった。
右へ逃げれば右を塞ぎ、羌瘣が間合いを開けば、無理に斬り込まず次に逃げる場所を潰す。その剣筋は相変わらず重かったが、何度打ち込んでも首や胸を真正面から狙わず、殺し切るための一撃だけを避けているようにも見えた。
そのことに気づいた時、羌瘣の表情が変わった。
次に肩口へ刃が落ちてきても、今度は退かなかった。
身体を斜めに入れ、自ら剣の内側へ飛び込む。肩を裂かれても、そのまま首まで届けばいいと決めた動きだった。
刃が衣を裂き、肩口に焼けるような痛みが走ったが、羌瘣は止まらず、至近距離から冒頓の喉へ剣を振り上げた。
あと僅かというところで、冒頓の手が剣を握る手首を掴んだ。
骨が軋むほど強く握られても、羌瘣は剣を手放さず、空いた手を腰の短刀へ伸ばした。しかし、それも冒頓には見えており、短刀を抜かれるより先に腕ごと身体を引き寄せられ、崩れた足元を払われた。
背中から草の上へ落ちた衝撃で息が詰まり、剣が指から離れる。
それでも羌瘣はすぐに身を起こし、腰の短刀を抜いて斬りつけたが、冒頓は剣の腹で受けながら強く横へ弾き、二本目の武器まで草の上へ転がした。
今度こそ手には何も残らなかった。
冒頓の剣先が、羌瘣の胸元へ向けられる。
頬や腕、脇腹から血を流しているのは冒頓の方だったが、最後まで立っていたのもまた冒頓だった。
羌瘣は乱れた呼吸を整えようともせず、剣先の向こうにいる男を睨んだ。
「殺せ」
冒頓は何も答えず、しばらくその顔を見下ろしていた。
やがて胸元へ向けていた剣を下ろすと、地面に落ちた羌瘣の剣を拾い、遠巻きに待っていた兵へ投げ渡した。
羌瘣はすぐに立ち上がり、剣を取り戻そうとしたが、その腕を冒頓に掴まれた。
振りほどこうとしても離れないまま、二人はしばらく無言で睨み合った。
「放せ」
冒頓は返事をせず、そのまま天幕の並ぶ方へ歩き始めた。
羌瘣がその場に足を踏ん張っても、掴む手の力は緩まない。
「私は帰らない」
そこで冒頓が一度だけ振り返った。
「寝ている時に殺す」
羌瘣の言葉を聞いても、表情は変わらなかった。
「好きにしろ」
返ってきたのは、それだけだった。
◆
単于の天幕へ連れていかれても、羌瘣の剣は返されなかった。
逃げようと思えば、いずれ隙は見つかるかもしれない。だが逃げるために遥かな草原まで来たわけではなく、ここで冒頓から離れてしまえば、次にこれほど近くまで入り込める保証もない。
羌瘣は抵抗をやめ、黙ったまま天幕へ入った。
冒頓は身につけていた武具を外し、頬や脇腹の血を布で拭っていた。その姿には、かつて妻として傍にいた頃と変わらない仕草がいくつも残っており、忘れたつもりだったものまで勝手に思い出されることが、羌瘣には何より腹立たしかった。
血を拭い終えた冒頓が近づいてきても、羌瘣は退かなかった。
今ここで拒み続ければ警戒は解けず、武器からも遠ざけられる。殺すために来た以上、離れるより近くにいる方がいいと自分へ言い聞かせ、頬へ手を触れられても払い除けずに、その顔を黙って見返した。
「まだ殺すか」
羌瘣は答えなかった。
その沈黙をどう受け取ったのか、冒頓も答えを求めず、腕を回して自分の方へ引き寄せた。
触れられた身体の感覚も、近づいた時の匂いも知っている。その事実が消えていないことに苛立ちながらも、羌瘣は動かず、胸の奥に浮かびかけたものにも名前をつけなかった。
やがて冒頓が、抱いた腕を緩めないまま低く告げた。
「他の女はいらん。次の単于は、お前が産め」
羌瘣は何も答えなかった。




