第172話 亡韓
新鄭の西で、秦軍八万は進軍を止めていた。
先に到着していた俺の五万へ、閼与から出てきた王賁の三万が合流したことで、兵数だけなら新鄭周辺の漢軍七万を上回っている。だが、韓を救援するために出てきた俺たちにとって、韓王成が自ら城門を開いて漢へ降ったという事実は、単純な兵力差より遥かに厄介だった。
「韓王が捕らえられて無理に降伏させられたのなら、話は早かったんだがな」
地図を前にした王賁が、不機嫌そうに新鄭を指で叩く。
「本人が漢へ降って、しかも秦の救援を拒んでいる。ここから私たちが城へ向かえば、韓を救いに来たとは言いにくくなるぞ、扶蘇」
「分かってる。だから漢も、まだこちらへ出てこないんだろう」
漢軍も秦軍も互いに相手の位置を把握していたが、どちらからも攻撃は始まっていない。韓王成が降伏したことで、漢には戦わずして得た新鄭を守ればいい理由ができ、俺たちには兵を進める理由が失われつつあった。
それでも、すぐに兵を退く決断はできなかった。
張良は秦へ援軍を求めてきた。その本人は漢軍に捕らえられたと聞いており、韓王成が突然考えを変えた経緯にも不自然なところが多すぎる。
「張良殿が援軍を求めてから、韓王が降伏するまでがあまりにも早すぎます」
蒙恬も同じ点を疑っていた。
「漢側が何らかの手を使った可能性は高いかと存じます。ただ、韓王自身が秦を拒絶したという形まで整えられてしまいますと、こちらから覆すのは容易ではございません」
「しかも張良は向こうの手の中か」
俺がそう言ったところで、陣外から漢の使者が来たとの報告が入った。
◆
使者は軍議の席へ通されると、深く頭を下げた。
「秦王扶蘇殿へ、陳平殿より申し上げます」
その名前を聞いた時点で、あまり愉快な話ではないことだけは分かった。
「韓王成殿は、自ら漢王へ帰順されました。今後も漢の庇護を受ける意思を示され、秦軍の救援についても必要ないと明言されております」
「そこまでは聞いている」
「では、話は簡単かと存じます」
使者は穏やかな口調を崩さなかった。
「これより秦軍が新鄭へ進むのであれば、それは韓を救うための進軍ではございません。漢王へ帰順した韓王の意思に反し、その領土へ兵を入れる行為となります」
横にいた王賁の眉が動いた。
「つまり、秦が進めば侵略だと言いたいわけか」
「陳平殿からは、そのように諸国から受け取られることになるだろう、と」
言い方まで腹立たしい。
漢が韓へ攻め込んだことそのものは消えない。それでも韓王成が自ら降った瞬間から、その後に進軍する俺たちの方を侵略者として描く余地が生まれる。
「それだけか?」
俺が尋ねると、使者は一度だけ目を伏せた。
「もう一つございます。陳平殿は、秦王へこうお尋ねになっております」
使者はそこで俺を見た。
「このところ北は静かなようですが、これほどの兵を南へ集めたままで、本当に大丈夫なのですか、と」
王賁の顔から、それまでの苛立ちとは別の色が消えた。
蒙恬も黙ったまま使者を見る。
「何か知っているのか」
「私には何も。ただ、そのままお伝えするよう命じられただけでございます」
使者から得られるものは、それ以上なかった。
◆
使者を帰した後も、誰もすぐには口を開かなかった。
北では、このところ匈奴の大きな動きはない。北地や上郡への侵入も目立っておらず、小規模な騎兵の目撃が時折報告される程度だったからこそ、俺も五万を南へ動かし、王賁も三万を出すことができた。
だが、陳平がわざわざ北を口にした。
「単なる脅しかもしれない」
俺が言うと、王賁はすぐに頷いた。
「だろうな。何か掴んでいるなら、あんな親切に教える必要はない」
「ええ。ただ、陳平殿であれば、脅しだけで終わらせないことも考えられます」
蒙恬の指が地図の北へ移る。
「漢が直接匈奴を動かせるかは別として、使者や商人を通じて秦軍が南へ集まっていると知らせる程度なら可能でしょう。それだけでも、北方の者たちがどう受け取るかは分かりません」
陳平なら、そのくらいはやりかねない。
実際に何も仕掛けていなかったとしても、こちらにそう思わせた時点で十分なのだろう。韓王成が秦を拒絶している今、俺がここへ八万を留め続ける意味は薄い一方、北で何か起きた場合の損失は大きすぎる。
「退こう」
俺が言うと、王賁は意外そうな顔をしなかった。
「漢とは戦わないのか」
「ああ。今ここで戦えば、韓王の意思を無視して韓へ踏み込んだことになる。張良を助けたいからといって、そのためだけに秦と漢で十万を超える兵をぶつけるわけにもいかない」
「妥当だろうな」
王賁は短く答えると、地図から手を離した。
「私は閼与へ戻る。お前も咸陽へ帰るんだろ」
「ああ。北の動きをもう一度確認する。漢が追ってくるなら別だが、こちらからは仕掛けない」
「承知いたしました。撤退の際も、漢軍が追撃できないよう後衛を厚くいたします」
蒙恬がすぐに具体的な撤収手順へ話を移した。
翌朝、秦軍八万は新鄭を目前にしながら西へ兵を返した。漢軍もそれを追わず、韓を巡って向かい合った両軍は、一度も刃を交えないまま離れていった。
◆
韓王成が襄陽へ送られてきた時、本人はまだ自分が韓王であり続けるものと思っていた。
新鄭を漢へ開いたのは、韓そのものを差し出すためではない。秦の支配を受け入れるよりも、漢王劉邦のもとで王位と国を残す方がましだと考え、そのために降伏を選んだのだ。
しかし、襄陽で待っていた呂雉は、最初から韓王成を新鄭へ帰すつもりがなかった。
「韓王には、巴蜀へ移っていただくのがよろしいかと存じます」
「……巴蜀?」
韓王成は、聞き間違えたのかと思ったようだった。
「私は韓王だ。なぜ巴蜀へ行かねばならない。漢王へ帰順した以上、私は新鄭へ戻り、漢に従って韓を治めるのではないのか」
「その必要はございません」
呂雉の前には、韓の官吏や将の名が記された竹簡が並んでいた。
新鄭の開城以前から漢へ通じていた者、開城後に土地や地位の保障と引き換えに漢への服従を誓った者、そして韓軍をそのまま漢軍へ組み込むことに同意した者。韓王成が知らないところで、韓の統治機構はすでにかなりの部分が漢へ取り込まれていた。
「韓の官吏も将も、そのまま使えます。統治のために必要な者を王とともに移す理由はありません」
「待て」
韓王成の声が震えた。
「ならば私は、何のために漢へ降ったのだ」
「秦軍を新鄭へ入れず、韓を戦場にしないためでしょう」
呂雉は、まるで当たり前のことを確認するように答えた。
少し離れたところで話を聞いていた劉邦が、さすがに口を挟む。
「おい、呂雉。それじゃ項羽がやってたことと大して変わらねえだろ。王を追っ払って、土地と兵だけ取るんだからよ」
「違います」
「何がだよ」
「殺しておりません」
あまりにさらりと言われ、劉邦まで返事に詰まった。
呂雉は韓王成へ視線を戻す。
「韓王として新鄭へ戻れば、いずれ王のもとへ漢を嫌う者が集まります。せっかく韓の臣たちがこちらへ従い始めたのですから、余計な旗は残さない方がよいでしょう」
「私は漢へ降ったのだぞ。それでも信用しないというのか!」
「信用の問題ではございません」
呂雉の表情は変わらない。
「邪魔者には、ご退場いただくだけです」
その一言で、韓王成はようやく自分の置かれた立場を理解した。
国を残すために漢へ降ったつもりだった。しかし漢に必要だったのは、韓王ではなく、新鄭と韓の兵と官吏だけだった。
「家臣を連れていく。せめて昔から仕えている者だけでも」
「韓を治めるために必要ですので、残っていただきます」
「では、私は一人で行けと?」
「巴蜀で不自由のないよう、身の回りの者はこちらで用意いたします」
韓王成が何を言っても、決定は変わらなかった。
韓王として新鄭を出た女は、その地位も臣下も失い、漢の兵に守られるという名目の監視を受けながら、一人で巴蜀へ送られることになった。
◆
その日の夕刻、張良が劉邦の前へ連れてこられた。
両手の縄は外されていたが、左右には兵が立っている。かつて同じ軍議の席で策を語っていた頃とは違い、今の張良は漢に捕らえられた敗軍の臣だった。
「……沛公」
張良が呼ぶと、劉邦はすぐに眉を上げた。
「今は漢王だ」
その言葉に、張良の口元が僅かに固くなる。
「失礼いたしました。漢王」
「そうそう。せっかく山奥へ追いやられたと思ったら、ここまで来たんだ。そこはちゃんと呼んでくれよ」
劉邦の前には、一通の書簡が置かれていた。
差出人は陳平である。
「それでな、陳平から随分と面白い手紙が来てる」
劉邦が竹簡を持ち上げると、張良の表情が露骨に嫌そうになった。
「お前が扶蘇を好いてるらしいって話と、昔から俺の助平な目が嫌だったって話。それから、まだ誰にも抱かれてねえらしいってところまで書いてある。あいつ、戦の報告より楽しそうに書いてやがる」
「……陳平殿は、本当に余計なことしかしませんね」
「否定しねえのか?」
「どの部分についてでしょう」
「俺の目が嫌だったってとこ」
「嫌でした」
間髪を入れず返され、劉邦は呆れたように笑った。
「そこは迷わねえんだな。じゃあ扶蘇は?」
今度は張良が黙った。
その様子を、呂雉は少し離れた席から冷ややかに見ている。
「なるほどな。陳平の見立ても、全部が冗談ってわけじゃなさそうだ」
「私が誰をどう思おうと、韓とは関係ありません」
「あるだろ」
劉邦の声から、少しずつ笑いが消えた。
「お前は俺の軍師だった。それなのに子嬰の一件で俺が気に入らなくなったら勝手に離れて、韓へ戻った。今度は漢が攻めたら扶蘇へ助けを求めてる」
「韓を守るためです。秦軍が最も早く援軍を送ることができ、なおかつ漢軍に対抗できる兵力を持っていました」
「理屈はそうなんだろうよ。だが、お前自身がどこまでその理屈だけで動いてたのかって話だ」
張良が劉邦を見る。
「私は軍師です。好き嫌いだけで軍を動かしたことなどありません」
「そういうところが生意気なんだよ」
劉邦は椅子へ背を預けた。
「自分はいつも正しい理屈で動いてるみてえな顔をして、人を選ぶ時だけはちゃっかり好き嫌いが入ってる。俺は助平だから嫌、扶蘇は好きだから信用する。軍師だ何だと言っても、結局はお前もそういう女だったんじゃねえのか」
「違います」
「じゃあ、扶蘇のことは何とも思ってねえのか?」
張良は答えなかった。
呂雉の目が、僅かに細くなる。
劉邦は少しの間その沈黙を眺めていたが、やがて手元の竹簡を置いた。
「まあ、もうどうでもいいけどな」
「……何がですか」
「韓だよ」
張良の顔から、微かに表情が消えた。
「韓王はどうなりました」
「巴蜀へ行ってもらうことになった」
「何を仰っているのです」
「韓の役人も将も、もうほとんどこっちについた。軍も漢へ組み込む。新鄭もこっちで治めるから、韓王が戻る場所はねえ」
「……漢王」
「だから、お前が守ろうとしてた韓はもうない」
張良はしばらく動かなかった。
「韓王は、自ら漢へ降ったのですよね」
「ああ」
「韓を残すために」
劉邦は答えず、代わりに呂雉が口を開いた。
「韓王が何を望んで降ったかと、漢が韓王を残すべきかは別の話です。王を置けば、漢に不満を持つ者がいずれそこへ集まります」
「だから王を追い出し、韓そのものを奪ったのですか」
「奪われたくなければ、降らなければよかったのです」
その言葉を聞いた瞬間、張良の足から力が抜けた。
床へ片膝をつき、それでも何か言おうとしたが、声が続かない。
「私は……韓を……」
幼い頃から、滅ぼされた国を取り戻すことだけを考えてきた。
韓王を立て、もう一度国を作り、漢軍七万を相手に新鄭を守り続けた。最後には、かつて韓を滅ぼした秦へ自ら援軍を求めてまで国を残そうとしたが、その援軍があと一日というところまで来た時、韓王自身が城門を開いてしまった。
そして今、その韓王まで韓から追い出されようとしている。
「守れなかった……」
張良は両手を床へついた。
「また、私は……守れなかった……」
それまで押し殺していたものが崩れ、涙が床へ落ちた。
声を上げまいとしているのか、喉から漏れる息だけが震えている。それでも次々と涙が溢れ、やがて張良は顔を上げることさえできなくなった。
劉邦は、そんな張良を見ていた。
乱れた髪が頬にかかり、泣き伏した身体から衣が僅かにずれている。
本人がどれほど打ちのめされているか分かっているはずなのに、劉邦の視線が一瞬だけ下へ滑った。
「漢王」
呂雉の冷たい声が飛ぶ。
「何だよ」
「今、その女をどのような目でご覧になっていました?」
「別に普通だろ」
「そうですか」
呂雉は、それ以上劉邦と話す気はないようだった。
泣き崩れたままの張良へ視線を向ける。
「この者を牢へ入れなさい」
兵たちが動き、張良の両側へ立った。
「おい、殺すのか?」
「殺しません」
劉邦へ答えながらも、呂雉は張良から目を離さなかった。
「韓はなくなりましたが、この女まで価値を失ったわけではありません。秦王がどれほど気に掛けているのかも、まだ分かりませんから」
張良は兵に腕を取られても抵抗しなかった。
韓王成は韓を失って巴蜀へ送られ、韓の臣下と軍は漢へ取り込まれた。そして最後まで韓を守ろうとした張良もまた、国を失ったまま漢の牢へ連れていかれた。




