第171話 敗者
新鄭まであと一日の距離に迫ったところで、先行させていた騎兵が戻ってきた。
馬から降りた兵の表情を見た時点で、良い報せではないことは分かったが、告げられた内容は予想していたものより遥かに悪かった。
「申し上げます。新鄭は漢へ降伏いたしました。韓王成自らが降伏を申し入れ、昨日、城門を開いたとのことです」
俺はすぐには言葉を返せなかった。
「……城を破られたのか?」
「いえ。城壁には投石を受けた痕がございますが、大きく崩された箇所は見当たりません。韓兵もかなりの数が残っており、漢軍が力ずくで落としたわけではないようです」
隣にいた蒙恬も表情を曇らせた。
出発した時点で、張良が三万近い兵を新鄭へ集めたことは分かっていた。七万の漢軍に囲まれたとしても、あの女が三万と堅城を持っているなら容易には落ちないと考え、その時間を頼りに俺たちも行軍を急いできた。
実際、城は落とされていない。
それなのに、韓王自身が門を開いた。
「いつ降伏した」
「昨日の昼頃です」
あと一日だった。
王賁の三万を待たなくても、俺の五万だけなら今日中には新鄭の近くへ入れたはずだ。秦軍の接近を知れば漢軍も攻城を続けることは難しくなり、少なくとも張良が求めていた時間には間に合った。
「張良は?」
俺が尋ねると、兵は少し迷ってから首を振った。
「安否は確認できておりません。開城前に少人数で西へ脱出したとの話はございますが、その後を漢の騎兵が追ったようです。こちらへ合流した者はおりません」
「捕まった可能性があるのか」
「ございます」
胸の奥に嫌なものが残った。
張良が韓王とともに漢へ降ったとは考えにくい。かつて劉邦のもとを自ら去り、今は俺の客卿として韓の救援まで求めた以上、漢側もただの韓臣として扱うとは思えなかった。
「斥候を増やしてくれ。逃げ延びている可能性もある。西へ向かう道だけじゃなく、周辺の村や林も調べるんだ。ただし、漢軍の騎兵とぶつかるほど近づくな」
「はっ」
兵が下がると、酈商が東へ顔を向けた。
「このまま進めば、漢軍と向かい合うことになりますね」
「ああ。七万のほとんどが残っていると見た方がいい」
「五万でも戦えない数ではありません」
「戦えることと、今ここで戦うべきかは別だ」
酈商は不満そうではあったものの、それ以上は言わなかった。
韓王成が抵抗を続けているのであれば、俺たちは韓を救うために漢軍を攻撃できた。だが当の韓王が自ら降り、韓兵まで武器を置いた後では、同じ攻撃をしても意味が変わる。
「新鄭の手前で止まる。漢軍と十分な距離を取って陣を敷き、王賁を待つぞ」
蒙恬が静かに頷いた。
「それがよろしいかと存じます。こちらが五万のうちに戦端を開く必要はございません。王賁殿の三万が合流すれば、漢軍も簡単には動けなくなります」
「問題は、それまでに張良がどうなるかだな」
答えを持つ者はいなかった。
その日の夕刻、秦軍五万は新鄭から距離を置いた場所に陣を敷いた。東には漢軍の無数の旗が並び、そのさらに向こうには、救いに来たはずの韓の王都があった。
◆
張良は、灌嬰の騎兵に囲まれて漢軍の陣へ連れ戻されていた。
縄こそ掛けられていなかったが、腰の剣は取り上げられ、左右には兵が付いている。逃げようと思えばいつでも逃げられるという扱いではなく、ただ昔の仲間として最低限の体面だけを残されているに過ぎなかった。
案内された天幕へ入ると、卓の向こうには陳平が座っていた。
「来たか」
杯を手にしたまま、陳平は立とうともしない。
目の前へ連れてこられた張良を一度ゆっくり眺めると、向かいの席を顎で示した。
「座れよ。今のお前なら俺の前に跪かせても文句は言えないだろうが、そこまでして勝った気になるほど安くはない」
「十分に勝ち誇っているように見えますが」
「当然だろ。勝ったんだからな」
張良は何も返さず、示された席へ腰を下ろした。
その態度さえ、陳平には面白いらしい。
「随分と静かだな。もう少し負け惜しみを聞かせてくれるかと思った」
「何を言えばよいのです。私は捕らえられ、韓は降りました」
「そうだな。ただ、そこまで簡単に片づけるには惜しい」
陳平は杯を置いた。
「お前はよくやったよ。三万で七万を十日以上止め、城壁を守り、兵もほとんど失わなかった。曹参も灌嬰も、お前が中にいる限り正面から崩すのは割に合わないと言っていた」
「それを聞かせて、私を慰めるおつもりですか?」
「逆だ」
陳平の口元がゆっくりと上がった。
「そこまで上手くやったお前が、それでも負けた。その事実を分からせてやりたいんだ」
張良の目が僅かに険しくなる。
「今回は俺の方が上だった」
陳平は躊躇なく言い切った。
「お前は漢軍の動きを読んだ。攻める場所も、騎兵の誘いも見抜いて、城内の兵を無駄に動かさなかった。兵法だけを比べるなら、俺が城壁の外で何をやっても、お前はまだ持たせただろう」
「……それでも韓は降りました」
「そういうことだ」
勝者の余裕を隠そうともせず、陳平は笑った。
「お前は兵を動かした。俺は人を動かした。韓王の側近へ金を流し、秦への恐怖を思い出させ、投石で眠らせず、お前の言葉そのものを疑わせた。七万の兵でお前を破れなくても、一人の王が門を開けばそれで終わる」
張良には言い返せなかった。
兵の動かし方を誤ったわけではない。城壁を突破されたわけでもなく、決戦に敗れて三万を失ったわけでもない。それでも韓は漢へ降り、自分は捕虜となって、策を仕掛けた本人の前に座らされている。
しかも最後には、生涯をかけて守ろうとしてきた韓の王から、韓を秦へ売ろうとする裏切り者とまで呼ばれた。
陳平は、その傷がどこにあるのかまで理解していた。
「悔しいか?」
「……ええ」
張良は否定しなかった。
陳平は満足そうに頷く。
「その顔なら、わざわざ会わせてもらった甲斐がある」
「本当に性格が悪いですね」
「今さらだろ」
張良は視線を落とした。
「今回は私の負けです。あなたは新鄭を落とした」
「違うな」
陳平はすぐに訂正した。
「韓を落としたんだ」
その一言に、張良の表情が初めて大きく揺れた。
城ではない。
国を落とした。
それは張良が認めたくなかった部分を、わざわざ言葉にしたものだった。
「……そういう顔が見たかった」
「あなたは、私を怒らせたいだけですか」
「いや。お前より俺の方が上だったと、お前自身に分からせたかっただけだ」
陳平は杯へ酒を注ぎ直した。
「お前は昔から太公望の兵法だの何だのを大事にしていたな。兵の置き方、地の利、敵の虚実、将の用い方。今回もその通り、見事に守った」
「何が言いたいのです」
「古いんだよ」
張良の眉が僅かに動く。
「兵をどう並べるかだけで国が守れる時代なら、お前は今ここにいない。城壁の外から王の耳へ言葉を入れ、臣を買い、疑わせれば、兵を一人も城壁へ上げなくても国は崩れる」
「太公望の兵法に罪があるわけではありません。使う私が及ばなかっただけです」
「そこまで真面目に受け取るから、お前は面白い」
陳平は声を立てて笑った。
「今じゃそんな古い兵法は、男を蕩かすための指南にでも読み替えた方が役に立つんじゃないか?」
「……本当に品がありませんね」
「褒めても何も出ないぞ」
「褒めていません」
陳平はしばらく笑っていたが、そこで別のことに気づいたように張良を見た。
「しかし、そう考えると不思議だな」
「今度は何です」
「お前、長いこと劉邦の側にいた。その後は扶蘇の側にいる。それなのに、まだ男を知らないだろ」
張良の表情が固まった。
それは策の話をしていた時よりも遥かに分かりやすい反応だった。
陳平は一瞬だけ目を丸くし、次いで堪えきれないように笑い始めた。
「まさか、本当にそうなのか」
「……何の話をしているのです」
「いや、これは驚いた。劉邦と扶蘇、天下でも数えるほどしかいない男のすぐ側にいて、それで何もなかったとはな」
「扶蘇殿は、そのような方ではありません」
返答があまりにも早かった。
陳平は笑うのを止め、面白そうに目を細めた。
「俺は扶蘇だけの話をしたか?」
張良が黙る。
「秦王のことになると随分と庇うのが早いな」
「事実を述べただけです。扶蘇殿は、女性を見れば誰にでも手を出すような方ではありません」
「じゃあ劉邦は?」
今度は張良が露骨に嫌そうな顔をした。
「……嫌です」
「何が?」
「女性を見る時の、あの助平な視線が」
陳平は数瞬だけ黙った後、腹を抱えるように笑った。
「そこなのか。お前、あれだけ長く一緒にいて、ずっとそんなことを思ってたのか」
「本人には絶対に言わないでください」
「本人も自覚してると思うぞ」
「なお悪いではありませんか」
「じゃあ扶蘇には、そういう目で見られても構わないのか?」
「なぜそうなるのです!」
珍しく張良が声を強くした。
陳平は笑うのをやめ、その反応を少しの間じっと眺めていた。
「お前、扶蘇が好きなのか?」
張良は答えなかった。
否定すればよかった。
だが、その一瞬の遅れを陳平は見逃さない。
「そうか」
「何も答えていません」
「答えたようなものだろ」
「勝手に決めつけないでください」
「城を取られた時より効いてるじゃないか」
張良は唇を結んだ。
軍略で負け、韓を失い、逃げる場所まで読まれて捕まり、そのうえ自分でも整理していなかった感情まで目の前の男に拾われる。今日ほど陳平の顔を見たくないと思ったことはなかった。
対する陳平は、そんな張良の様子を隠すことなく楽しんでいた。
「いい日だな」
「何がです」
「お前に策で勝って、逃げるところまで読んで捕まえて、そのうえ面白いことまで知った」
「最低ですね」
「勝った側には、そのくらい楽しむ権利がある」
陳平は天幕の外へ声をかけた。
「誰かいるか」
兵が入ってくる。
「張良を襄陽へ送れ。護衛は多めにつけろ。少人数だと途中で何を考えるか分からないからな」
張良が顔を上げた。
「襄陽へ?」
「劉邦のところだ。お前は元々あの男の軍師で、今は秦王の客卿だ。俺がここで勝手に処分するより、漢王本人に預ける方がいい」
「私を人質にするつもりですか」
「使い道を決めるのは漢王だ。ただし、昔の軍師が自分のもとを去って秦王の側へ移った挙げ句、その秦王を好きになって帰ってくるとなれば、どんな顔をするか少し見てみたいな」
「待ってください」
「何だ?」
「それだけは絶対に言わないでください」
「どうしようかな」
「陳平!」
珍しく呼び捨てにされた陳平は、かえって楽しそうに笑った。
「今のでようやく、お前に勝った実感が湧いたよ」
張良はしばらく陳平を睨んでいたが、やがて諦めたように立ち上がった。
「次は負けません」
「そうでなくちゃ面白くない」
陳平は杯を掲げる。
「行ってこい。劉邦によろしくな」
張良は返事をせず、兵に囲まれて天幕を出た。
守ろうとした韓は失われた。
仕えていた韓王成からは裏切り者と呼ばれ、敵には策で上を行かれ、逃亡まで読まれた末に捕らえられた。
そして今度は、自分から去った男のもとへ、捕虜として送り返されることになった。
◆
同じ日の夕刻、秦軍の陣へ北から急使が入った。
「申し上げます。王賁将軍率いる三万、明日の昼までには合流できるとのことです」
「分かった。到着した部隊から休ませてくれ」
これで明日には、こちらも八万になる。
俺は卓上の地図へ視線を落とし、新鄭の位置を指先で押さえた。
韓はすでに漢へ降り、張良の消息もまだ掴めない。その状態で七万の漢軍と向かい合い、何を求め、どこまで兵を進めるべきなのか、出発した時とは戦う理由そのものが変わってしまっていた。
明日、王賁が到着する。
兵数では上回る。
それでも、八万になれば剣を抜いて終わるという話ではなかった。




