第170話 疑心
新鄭を包囲して十日余りが過ぎても、漢軍は城壁の内側へ踏み込めずにいた。
曹参は南と西から攻撃を重ね、灌嬰は騎兵を北へ回して城内の兵を揺さぶったが、張良は漢軍の動きを見ながら必要な場所へだけ兵を送り、三万の守備兵を消耗させなかった。城外へ出れば七万の漢軍に呑まれるが、堅い城壁を挟んで戦う限り、兵力差をそのまま押しつけられることはない。
「このまま囲んでいれば、いずれは落とせるよ」
攻城を終えた曹参が地図を見ながら言うと、灌嬰は西へ顔を向けた。
「その『いずれ』まで待ってくれない連中が来てるけどね」
秦軍が動いたという報せは、すでに漢軍にも届いていた。
扶蘇が咸陽から五万を率いて東へ進み、王賁も閼与から三万を動かしている。両軍が到着すれば、漢軍は城内の韓軍三万を抱えたまま、さらに秦軍八万を相手にしなければならない。
その日の夕刻、陳平が新鄭へ到着した。
「思ったより持たせたな」
「簡単に言ってくれるね。中にいるのは張良なんだよ」
灌嬰が返すと、陳平は城壁を眺めながら頷いた。
「分かってる。だから、まともに壁を登るのはここまでだ。秦軍が来る前に片づけるぞ」
その後ろでは、何台もの荷車から太い木材や縄が降ろされていた。
曹参がそれを見て眉を上げる。
「投石車?」
「組み立てる。明日の朝から使う」
「城壁を崩すつもり?」
「壁を壊す必要はない。壊したいものは、その向こうにある」
陳平がそれ以上説明しなかったため、曹参も問い返さなかった。
ただ灌嬰だけが、何か嫌なことを思いついたような男の顔を見て、小さく息を吐いた。
◆
翌朝、新鄭の城外には数基の投石車が並んでいた。
城壁の上からそれを見た張良は、兵へ盾を増やすよう命じたものの、最初の石が放たれた瞬間、漢軍が城壁を狙っていないことに気づいた。
石は高く弧を描いて城壁を越え、その向こうにある家屋へ落ちた。
屋根が砕け、土埃が舞い上がり、遅れて悲鳴が聞こえてくる。二つ目は兵舎の近くへ、三つ目は倉の脇へ落ち、漢軍は壁の一点へ集中させることなく、城内の広い範囲へ石を送り込み始めた。
「城壁を攻める気がない?」
守将の言葉に、張良は城外を見たまま答えた。
「城を守る兵ではなく、城の中にいる人間を疲れさせるつもりでしょう。火の用心を徹底してください。石が落ちるたびに守備兵まで持ち場を離れてはなりません」
漢軍は梯子も運ばず、城門への攻撃も行わなかった。
その代わり、投石だけは日が傾いても止まらなかった。
夜になれば間隔こそ長くなったが、暗闇の向こうから縄の軋む音が聞こえた直後、また別の場所で重い石が屋根を打ち砕く。いつ、どこへ落ちるか分からないため、兵だけでなく民も眠れず、火災を恐れて各家の前には水桶が並べられた。
それでも城壁には大きな損傷がない。
張良にとって、それはまだ耐えられる攻撃だった。
「秦軍が到着するまでです。兵を休ませながら持ち場を守ってください」
そう命じて城内を回った張良は、宮中で別の変化が始まっていることまでは知らなかった。
◆
漢軍が韓へ侵入するより前から、陳平は新鄭へ手を入れていた。
韓王の側近、商人、地方の豪族。その全員を味方につけようとしたわけではなく、戦が長引けば自分の地位や財産を失うことを恐れている者だけを選び、密かに使者を送っていた。
漢へ早く降れば、今ある地位と財産をできる限り認める。
抵抗を続けて力ずくで城を奪うことになれば、その約束はできない。
さらに秦軍が韓を救えば、その代償として韓が秦の支配下へ置かれる可能性がある。
陳平が蒔いた言葉は、漢軍が国境を越えた直後にはほとんど力を持たなかった。だが領土の大半を短期間で失い、新鄭まで囲まれ、昼夜を問わず石が降り始めると、それまで黙っていた者たちが少しずつ韓王成の近くで口を開き始めた。
「陛下、秦軍は本当に間に合うのでしょうか」
夜半、また一つ石が落ちた音を聞きながら、側近の一人が尋ねた。
「張良は来ると言っている」
「いつでございますか」
「それは……」
韓王成は答えられなかった。
別の臣が慎重に続ける。
「漢王は、今降るのであれば陛下のお命までは求めぬと申しております。民もこれ以上の戦を望んではおりません」
「だが、降れば韓は漢に呑まれる」
「秦が来れば、韓は秦に呑まれないのでしょうか」
その言葉に、韓王成の顔が固まった。
「何が言いたい」
「趙王張耳は秦王扶蘇に従い、燕王臧荼も同じ道を選びました。秦軍八万に救われた後、韓だけが以前と同じ立場を保てるとは思えませぬ」
側近が口にした二つの国の名に、韓王成はすぐには答えなかった。
趙も燕も、王を残している。
秦に服属しながら、それぞれの国そのものは存続していた。
だから張良も、同じ形で構わないと考えていた。
だが、韓王成にとっては違った。
自分は韓の王室に連なる者だった。
秦が六国を次々と滅ぼし、王を捕らえ、国号を消し、その土地を郡県へ変えていった時代を知っている。韓は六国の中でも早く秦に呑まれ、その王家は国を奪われたまま長く沈黙を強いられてきた。
「……また秦に頭を下げろというのか」
韓王成の呟きに、周囲の臣は何も答えなかった。
答えないことそのものが、陳平の仕込んだ疑念を育てていった。
◆
翌日、張良が宮へ呼ばれた。
韓王成は寝不足の顔で座っており、その周囲にはここ数日、降伏を勧めている臣たちが集まっていた。
「秦軍は、どこまで来ている」
「扶蘇殿の軍はすでに関中を出ています。王賁殿も閼与から南下しておりますので、あと数日耐えれば漢軍はこの包囲を続けられなくなります」
「その後は?」
張良は問いの意味が分からず、韓王成を見た。
「その後、とは」
「秦軍が漢を追い払った後だ。八万の秦兵が韓へ入り、そのまま何も求めず帰ると思うのか」
「扶蘇殿は韓を併合するために来るのではありません」
「なぜ分かる」
返ってきた声には、これまでになかった険しさがあった。
張良は少し間を置いて答える。
「趙をご覧ください。張耳殿は王位を保ち、趙の政も趙人が行っています。燕王臧荼殿も秦へ服属しましたが、燕そのものを取り上げられたわけではありません。韓も同じ形を取ればよいのです」
その言葉を聞いた途端、韓王成の表情が変わった。
「同じ形?」
「はい。秦と争うのではなく、秦王との関係を結び直すのです。今の秦は、かつて六国を滅ぼした頃とは」
「同じではないと言うのか!」
韓王成の声が宮中へ響いた。
張良も、さすがに言葉を止めた。
「韓を最初に滅ぼしたのは秦だぞ。王家を追い、国を消し、我らの土地を郡に変えた。その秦へもう一度従えと、お前は私に言うのか」
「陛下。今の秦王は」
「秦王は秦王だ!」
韓王成の呼吸が荒くなっていた。
投石の音が遠くで響く。
その音に重なるように、かつて韓が秦に滅ぼされた時の記憶が、韓王成の中で蘇っているのだと張良にも分かった。
「お前は秦を憎んでいたはずだ」
「今でも、韓を滅ぼした秦が正しかったとは思っておりません」
「ならばなぜ秦王のもとにいる!」
張良は答えに詰まらなかった。
「扶蘇殿が、かつて韓を滅ぼした秦と同じ国を作ろうとしていないからです」
その返答は、韓王成には届かなかった。
「お前は変わった」
低い声だった。
「漢王のもとを離れ、今度は秦王に仕えている。秦兵を韓へ呼び込み、私にも張耳や臧荼のようになれと言う」
「それが韓を残すために必要だからです」
「韓を残す?」
韓王成は笑わなかった。
「韓を秦に売ることを、そう呼ぶのか」
宮中の空気が固まった。
張良は、しばらく韓王成を見ていた。
秦によって韓を失い、その再興のために生きてきた自分へ向けられる言葉としては、あまりにも重かった。
「……私が、韓を売ると?」
「違うというなら、秦軍を追い返せ」
「それをすれば漢軍七万がこの城へ入ります」
「漢とは話ができる。降れば王家を絶やさぬという話も来ている」
そこで張良は周囲へ目を向けた。
誰も驚いていなかった。
漢から条件が提示されていることを、自分以外はすでに知っている。
「陛下。それは誰から聞かれました」
返事はなかった。
ここ数日の降伏論、秦への恐怖を煽る言葉、そして自分にだけ知らされていなかった漢との接触。
ようやく張良にも、その糸を引いている者が見えた。
「……陳平ですか」
重臣の一人が僅かに視線を逸らした。
それだけで十分だった。
◆
漢軍の陣では、その頃陳平が城内から届いた書状を読んでいた。
「韓王と張良が激しく言い争ったそうだ」
灌嬰が呆れた顔をする。
「そこまで分かるの?」
「王のそばにいる人間から聞いているからな」
「嫌なことするねえ」
「褒め言葉として受け取っておく」
曹参が城壁の向こうを見ながら尋ねる。
「それで、本当に降ると思う?」
「もう張良の言葉を信じられなくなっている。あとは怖い方を選ばせればいい」
「怖い方?」
「韓王にとっては、目の前の漢軍より、過去に自分たちの国を消した秦の方が怖いんだよ」
陳平は投石を続けるよう命じた。
「止めるな。眠らせるな。秦軍が近づいていることも、城内へ流し続けろ」
灌嬰が眉を寄せる。
「普通は秦軍が近いって聞けば喜ぶんじゃない?」
「張良は喜ぶ。韓王は違う」
陳平はそう言って書状を畳んだ。
◆
その夜、投石はこれまで以上に長く続いた。
宮殿からそれほど遠くない場所へ石が落ち、建物の一部が崩れた。負傷者が運ばれ、民の代表までが宮門前へ集まり、これ以上の抗戦をやめてほしいと訴え始める。
張良は城壁の守備を見て回りながら、それでも秦軍が間に合うと考えていた。
城壁はまだ破られていない。
兵も三万近く残っている。
あと数日だった。
その間に、韓王成は張良へ何も告げず、漢軍へ使者を送った。
◆
翌朝、張良は投石の音が止まっていることに気づいた。
城壁へ上がると、漢軍は攻撃態勢を解き、城門前から兵を下げている。
嫌な予感がした。
宮へ戻った張良を待っていたのは、すでに正装へ着替えた韓王成と、目を合わせようとしない重臣たちだった。
「陛下。何をなされたのです」
韓王成はすぐには答えなかった。
「漢へ降る」
張良は、その言葉の意味を理解するまで僅かに時間を要した。
「……秦軍は、もうこちらへ向かっております」
「知っている」
「ならば、なぜ今なのです。あと数日持ち堪えれば」
「その秦軍が来る前だからだ」
韓王成は張良を睨んだ。
「私は二度と秦に国を渡さぬ。韓を守ると言いながら秦兵を呼び込み、私まで秦王の臣にするつもりだったのであろう」
「違います」
「何が違う!」
「私は韓を残すために秦へ援軍を求めました。扶蘇殿ならば、韓王家を残したまま漢を退けることができると考えたからです」
「だからそれを裏切りだと言っている!」
韓王成の声には怒りより、長く押し込めていた恐怖が滲んでいた。
「お前は秦を知っているはずだ。韓がどう滅びたかも、六国がどう消されたかも知っている。そのお前が秦兵を連れてくるというのなら、私にはお前が韓の臣なのか、秦王の臣なのか分からぬ!」
張良は返す言葉を失ったわけではなかった。
だが、何を言っても届かないことは分かった。
「……降伏は、もう決められたのですね」
「ああ。正午に門を開く」
張良は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
それ以上、韓王成を説得しようとはしなかった。
◆
宮を出た張良は、自分の屋敷へ戻らず、そのまま西門へ向かった。
漢軍へ降れば、自分が拘束されることは分かっている。扶蘇の軍がどこまで来ているかも知っており、その情報を持ったまま漢軍に捕まるわけにはいかなかった。
供を数人だけ連れ、まだ城門が正式に開かれる前に小門から外へ出る。
西へ走れば、どこかで秦軍と合流できるはずだった。
だが、平地へ出て数里も進まないうちに、後方から騎馬の蹄が迫ってきた。
張良が振り返ると、漢の騎兵が一直線にこちらへ向かっている。
先頭にいる女を見て、逃げ切れないことを悟った。
「散ってください。私に構わず西へ」
供の者たちを別々の方向へ逃がし、自分も馬を急がせたが、相手は灌嬰の騎兵だった。
やがて前方にも別働隊が現れ、道を塞ぐ。
張良は馬を止めた。
ほどなく灌嬰が追いつき、少し困ったような顔で馬を寄せてくる。
「久しぶりだね、張良」
「……できれば、別の場所でお会いしたかったですね」
「私もそう思うよ。でも、逃がすわけにはいかないんだ」
張良は周囲を見回した。
すでに騎兵が道を塞いでおり、突破できる数ではない。
「私が逃げることまで、陳平は読んでいたのですか」
「韓王が降ったら、西へ騎兵を出しておけって言われたよ。あんたは絶対に一緒には降らないからって」
張良は小さく目を閉じた。
宮中へ疑念を入れ、投石で恐怖を煽り、韓王成と自分を引き離し、その先で逃亡まで読まれていた。
「……見事ですね」
「本人に言ってやってよ」
灌嬰は兵へ合図した。
「大人しく来てくれる? 昔の仲間を馬から落としたくないんだよ」
張良は腰の剣を外し、近づいてきた兵へ差し出した。
その頃、背後の新鄭では韓の旗が降ろされ、城門がゆっくりと開き始めていた。
秦軍が到着するより僅かに早く、韓は自ら漢へ門を開いた。




