第169話 新鄭
漢軍が韓へ侵入してから、各地の城が落ちるまでに長い時間はかからなかった。
韓王成が動員できる兵は、およそ三万。それに対して漢軍は七万を擁し、灌嬰の騎兵が先行して街道や渡河点を押さえ、その後ろから曹参の歩兵が城を受け取るように進んでいた。
これだけの兵力差がある以上、国境から一城ずつ守っていては、新鄭へ敵が到達する頃には兵が残らない。
韓へ戻った張良は各地の守将へ使者を送り、持ち堪えられない城は捨て、兵と運べるだけの兵糧を持って王都へ退くよう命じた。
「城を守るために兵を失ってはなりません。漢軍と野で戦う必要もない。新鄭まで戻ってください」
その命令によって、漢軍が奪った城の数に比べれば、韓軍の損失は少なかった。
灌嬰も退いていく韓兵を無理には追わない。騎兵に小城の攻略をさせるより、先へ進んで道を押さえることを優先し、抵抗の残る場所は後続の曹参へ任せた。
「追わなくていいよ。あたしたちは韓兵の首を集めに来たんじゃない。新鄭までの道を開ければ、それで十分だからね」
曹参も、守備兵の少ない城へ兵を無駄にぶつけることはせず、降伏を促しながら着実に前進した。
韓の旗を降ろす城は日ごとに増えていったが、そのたびに漢軍が目にしたのは空になった兵舎と、持ち出された兵糧庫だった。
張良は土地を差し出す代わりに、兵を新鄭へ集めていた。
◆
漢軍七万が王都へ到達した頃には、新鄭の守備兵は三万近くまで増えていた。
城門は補強され、各地から持ち込まれた矢や弩、兵糧も城内へ集められている。領土の多くを奪われたにもかかわらず、韓軍の主力そのものはほとんど失われていなかった。
城壁の上から広がる漢軍の陣を眺め、成は表情を曇らせた。
「本当に七万もいるのですね」
「はい。ただし、七万すべてが同時に城壁を攻められるわけではありません」
張良は漢軍の配置を追いながら答えた。
「外へ出て戦えば数で押し潰されますが、こちらには城壁があります。敵が攻めてくる場所を見極め、必要な兵だけを動かせば、まだ守れます」
「秦からは?」
「返事はまだ届いておりません。ただ、使者が咸陽へ着いている頃でしょう」
成はしばらく黙って城外を見た。
「それまで持ちますか」
「持たせるために、ここへ三万を集めました」
その日の午後、曹参が最初の攻撃を始めた。
弓兵と弩兵が城壁を射て、盾を並べた歩兵の間から梯子を運ぶ兵が進んでくる。韓兵の矢で倒れる者が出ても隊列は止まらず、やがて何本もの梯子が南壁へ掛けられた。
「予備兵を出しますか?」
守将に問われても、張良は首を振った。
「まだです。城壁へ上がってくる兵を、今いる者だけで落としてください」
「ですが、突破されたら」
「梯子一本から上がれる人数は限られています。敵が兵を増やしたからといって、こちらまで同じだけ増やす必要はありません」
最初の漢兵が城壁へ手を掛けたところで、韓兵の槍が左右から突き出された。
先頭の兵が落ちれば、狭い梯子の上で後続も巻き込まれる。別の場所で登り切った者もいたが、数人ずつでは城壁上に足場を作れず、すぐに押し返された。
曹参は何度か攻める場所を変えたものの、夕刻になると兵を退かせた。
「外の城をあっさり捨てた理由が分かったね」
陣へ戻った曹参が城壁を振り返ると、隣にいた灌嬰も頷いた。
「最初から全部ここへ集めるつもりだったんだろうね。逃げてたんじゃなくて、こっちに取らせる城を決めてたってことか」
「明日は西も叩いてみるよ。北は任せてもいい?」
「いいよ。ただし、城壁へ馬で登れなんて言わないでよ」
「言わないよ」
翌日、曹参は南壁への攻撃を続けながら、西側にも歩兵を回した。北門の外には灌嬰の騎兵が現れ、守備兵を三方向へ振り分けさせようとする。
それでも張良は、城内中央に置いた予備五千を動かさなかった。
「西の敵が増えています」
「南にも新手が出ました」
相次ぐ報告を聞きながら、張良が見ていたのは城壁の上ではなく、遠くに立つ曹参の旗だった。
やがて漢軍本陣から一隊が動き、南へ兵が厚くなる。
「南へ二千。残り三千は北門へ回してください」
間もなく、北側でも灌嬰の騎兵が動いた。
「門を開けます」
守将が驚いて振り返る。
「打って出るのですか?」
「弩兵だけを出してください。騎兵が射程へ入ったら射ち、離れたらすぐ城内へ戻る。追撃は不要です」
門が開くと同時に韓兵が弩を構え、迫っていた騎兵へ矢を放った。
灌嬰はすぐに馬首を返し、射程の外まで下がる。
韓兵は追わなかった。
数射しただけで門の内側へ戻り、重い扉が再び閉ざされる。
「やっぱり出てこないか」
灌嬰は追撃の機会が消えた門を見ながら、苦い顔をした。
「こういうところ、昔から抜け目がないんだよね、張良は」
攻城が始まって数日が経っても、新鄭は落ちなかった。
曹参も兵力差だけを頼みに死傷者を積み上げるつもりはなく、灌嬰も城外へ誘い出せない韓兵を相手に騎兵を浪費しなかった。その慎重さを逆に利用し、張良は最小限の兵だけを動かして城壁を守り続けた。
韓軍に漢軍七万を打ち破る必要はなかった。
新鄭さえ落ちなければよかった。
◆
韓王成からの救援要請が咸陽へ届いた時、漢軍がすでに新鄭を包囲しているという報告も入ってきていた。
俺は書状を読み終えると、地図の上で新鄭と関中の間を指でなぞった。
「五万を出す。韓へ行く」
蒙恬が静かに頷いた。
「張良殿が三万をまとめておられるのであれば、まだ時間はございます。ただ、漢軍も秦の救援を予想しているでしょう。急いだ方がよろしいかと存じます」
「ああ。俺と蒙恬、それから酈商で出る」
漢軍の主力が韓へ出た以上、南西から関中へ大軍が侵入してくる危険は以前より小さい。そこで、長く漢中方面からの桟道を守ってきた酈商を呼び戻し、副将と守備兵を現地へ残すことにした。
呼ばれた酈商は、地図を見るなり笑った。
「相手に灌嬰がいるんですね」
「前に桟道で止めた相手だ。今度は城を攻める側にいる」
「なら、顔くらい見ておきたいですね。あの時は山道から追い返すだけで終わりましたから」
蒙恬が横から釘を刺す。
「今回は追い返すことだけが目的ではありません。敵を見つけたからといって、勝手に突撃してはいけませんよ」
「分かっています。私だって、いつまでも昔のままじゃありませんよ」
そう答える酈商を見ながら、少なくとも本人にはその自信があるらしい、とだけ思っておくことにした。
「私も行くわ」
軍議が終わりかけたところで、蒙凛が口を挟んだ。
「今回は残ってくれ」
「どうして? もう身体は戻ってるし、弓だって前と同じように引けるわよ」
「それは分かってる。でも俺と蒙恬が五万を連れて出るなら、咸陽にも信頼できる人間を残しておきたい」
蒙凛は納得しないまま、隣にいる母へ視線を向けた。
「だったら、蘭はおばあちゃんに任せて、私が行けばいいじゃない」
その瞬間、蒙恬の顔が変わった。
「蒙凛」
「な、何よ」
「今、何と仰いましたか?」
「だから、蘭はおばあちゃんに」
「そこではありません!」
珍しく声を荒らげた蒙恬に、蒙凛が目を瞬かせた。
「ではどこなのよ」
「全部です。まず私は扶蘇様と出陣いたします。それ以前に、あなたは母親でしょう。自分が戦へ行きたいからと、娘を母親へ放り投げるようなことを平然と言わないでください」
「放り投げるなんて言ってないでしょう。母上なら安心して任せられるって」
「そういう問題ではありません。それから、おばあちゃんという呼び方もやめなさい」
「本当におばあちゃんじゃない」
「蒙凛!」
酈商が吹き出しかけて慌てて横を向いた。
俺も口を挟む頃合いを探していたが、蒙恬がここまで娘へ怒るのは珍しい。しかも最後の一言については、本人も論点が少しずれている自覚があるらしく、頬が僅かに赤くなっていた。
「まあ、その話は置いておくとして」
「置いておかないでくださいませ、扶蘇様」
「そこを拾うと長くなるから置いておく」
俺は蒙凛を見る。
「お前が戦えることは疑ってない。ただ今回は、咸陽に残ってほしい。蘭のことだけじゃなく、兵糧や増援を東へ送る役目もある。関中の中心で判断できる人間が必要なんだ」
蒙凛は少し不満そうに唇を尖らせた。
「私だって、いつまでも子守だけしてるつもりはないのよ」
「分かってる。だから今回は、と言ってる」
「次は?」
「状況次第では連れていく」
「本当?」
「ああ」
そこでようやく蒙凛は折れた。
「分かったわ。今回は残る。でも、帰ってきたらちゃんと蘭の面倒を見てよ。最近、あなたを見るとすぐ手を伸ばすんだから」
「もちろんだ」
蒙恬もようやく表情を緩めたが、蒙凛へ向けて最後に一言だけ付け加えた。
「それと、おばあちゃんではなく母上と呼びなさい」
「蘭から見れば、おばあちゃんでしょう?」
「あなたという娘は……」
今度こそ酈商が堪えきれず、顔を背けた。
◆
同じ頃、閼与にも咸陽から急使が到着していた。
書状を読んだ王賁は、周辺に駐屯する秦軍へすぐに招集を命じた。
「三万を出す。韓へ向かうぞ」
副将が地図を広げる。
「扶蘇様は咸陽から五万を率いて東進されるとのことですが、合流なさいますか」
「道が違う。無理に合流する必要はない。扶蘇が正面から新鄭へ向かうなら、私は北西から下って漢軍の側面へ出る」
「閼与にはどれほど残しますか」
「守備に必要な兵は残す。趙にも街道を見てもらえばいい」
王賁の指が、地図上の新鄭を押さえた。
「漢が韓へ七万を入れたのは、秦が動く前に決着をつけるためだろう。なら、こちらがやることも決まっている。新鄭が落ちる前に着くぞ」
翌朝、王賁率いる三万は閼与を発った。
◆
咸陽でも、準備に長い時間はかけなかった。
三日後、東門から秦軍五万が出陣した。
俺の隣には蒙恬が馬を進め、先鋒には南西の守備から戻した酈商が立つ。後ろには歩兵と弩兵、それを支える輜重隊が続き、長い隊列が東へ延びていった。
城門の上には蒙凛が立ち、その腕には蘭が抱かれていた。
「無茶しないで帰ってきてね!」
蒙凛が声を張る。
「お前も咸陽を頼む!」
「分かってるわ。母上もちゃんと帰ってきてよ!」
「承知しております。蒙凛も、蘭をお願いいたします」
蒙凛は蘭の小さな手を取ると、こちらへ向けて振らせた。
「ほら、蘭。お父様とおばあちゃんに行ってらっしゃいして」
「蒙凛!」
城壁まで届く蒙恬の声に、周囲の兵から笑いが漏れた。
俺は笑いを堪えながら馬を東へ向け、そのまま軍を進めた。
目指す先は、漢軍七万が囲む新鄭。
そして北西からは、王賁の三万も南下を始めていた。




