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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第6章 定まらぬ天下

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第168話 韓

 広武(こうぶ)を離れて半月あまりが過ぎ、胸の傷がようやく塞がり始めた頃、劉邦(りゅうほう)は馬車に揺られて襄陽(じょうよう)へ戻った。


 城門の内側には帰還を迎える家臣や兵が並び、その先に呂雉(りょち)が立っていた。久しぶりに見る夫の顔へ安堵を浮かべるでもなく、胸に厚く巻かれた布を一瞥すると、そのまま冷えた目を向けてくる。


「随分と派手に負けて帰ってきましたね」


「帰って早々それかよ。俺は死にかけたんだぞ」


「存じています。だから申し上げているのです」


 呂雉(りょち)は近くまで来ると、誰にも聞こえないほどに声を落とした。


「あなたが項羽(こうう)の矢を受けて倒れたせいで、韓信(かんしん)が曹咎(そうきゅう)を破って北へ出た機会を使えませんでした。楚軍を追えていれば、今頃はもっと違う形になっていたでしょう」


「俺だって好きで射られたわけじゃねえよ」


「項羽(こうう)の前へ出て、あれだけ挑発しておいて?」


「言えって言ったのは陳平(ちんぺい)だぞ」


「胸を射られろとは言っていないでしょう」


 そこまで言われると返す言葉もなく劉邦(りゅうほう)は面倒そうに鼻を鳴らしたが、呂雉(りょち)が本気で怒っているわけではないことも分かっていた。人前では冷たいままでも彼女の視線は何度も胸の傷へ向かっており、歩き出した劉邦(りゅうほう)の足取りが僅かに乱れた時には、何も言わずに腕を取って支えていた。


◆


 その夜、寝台へ入った劉邦(りゅうほう)は昼間とはまるで違う意味で胸の傷を気にすることになった。


「まだ痛みますか?」


「押さなきゃな」


「では、ここは?」


「おい」


 呂雉(りょち)の指は包帯の端をなぞり、傷を避けながらゆっくりと胸元を滑っていく。いつも隙のない衣を纏っている女が今夜は髪を下ろし、薄い寝衣だけで身体を寄せてくるのだから、劉邦(りゅうほう)の視線も自然とそこへ落ちた。


「何だよ。昼間は散々怒ってたくせに」


「怒っていますよ」


「その割には近いな」


「それとこれは別です」


 呂雉(りょち)は淡々と答えながら劉邦(りゅうほう)の肩へ手を置いた。寝衣の襟が少し崩れて白い肌が覗いたが、本人は直そうともしなかった。


「そろそろ御子が欲しいのです」


「急だな」


「急ではありません。あなたは漢王です。今回のように矢一本で何日も目を覚まさなくなることがあるのに、そのたびに跡継ぎのいない国が揺れるようでは困ります」


「そういう話をこの格好でされると、色気があるのかないのか分からねえな」


「必要だから言っているだけです」


 口ではそう言いながらも呂雉(りょち)は離れず、傷のない側へ頬を預けてきた。劉邦(りゅうほう)が腰へ腕を回すと、拒むどころかその手を自分から引き寄せる。


「ずいぶん積極的じゃねえか」


「あなたが外で余計な女に目を向ける前に、必要なことを済ませておこうと思いまして」


「俺を何だと思ってんだ」


「自覚がないなら、なお悪いですね」


 劉邦(りゅうほう)は笑って呂雉(りょち)の髪へ顔を埋め、久しく離れていた身体の温かさを確かめるように抱き寄せた。彼女も目を閉じて身を任せ、しばらくすると寝台の上から話し声が消えた。


◆


 夜も深くなった頃、呂雉(りょち)は劉邦(りゅうほう)の隣に横たわったまま胸の包帯へ指先を触れた。


「項羽(こうう)とは、このまま停戦しておくべきです」


「今する話か?」


「今だからするのです」


「お前、本当に色気が続かねえな」


「御子ができることと天下を取ることは、別の話ではありません」


 呂雉(りょち)は起き上がることもなく続けた。


「今回はあと少しで項羽(こうう)を追えるところまで行きました。それを止めたのは、また扶蘇(ふそ)です。北から秦と趙の六万を動かされ、韓信(かんしん)まで退かざるを得なくなりました」


「分かってるよ」


 劉邦(りゅうほう)自身も同じことを何度も考えていた。項羽(こうう)は強いが、強いだけに読める時もあり、正面から来るなら受け、避けるなら避ければいい。厄介なのは勝敗が決まりかけた時に必ず別の方向から手を入れてくる扶蘇(ふそ)の方だった。


「楚を今すぐ滅ぼす必要はありません。むしろ項羽(こうう)が残っている方が秦も自由には動けないのですから、今は楚との停戦を使って、扶蘇(ふそ)がこれ以上大きくなるのを止めるべきです」


「俺たちと楚を両方残して、どっちにも勝たせねえつもりなんだろうな、あいつは」


「ならば、こちらも同じことをすればよいのです」


 劉邦(りゅうほう)は横目で呂雉(りょち)を見て、少しだけ笑った。


「寝床でそんな顔して天下の話をする女、そうはいねえぞ」


「嫌ですか?」


「いや。そういうところも含めて、お前なんだろ」


 呂雉(りょち)は何も答えず、再び夫の胸へ身体を寄せた。


◆


 数日後、陳平(ちんぺい)は軍議の席に一枚の地図を広げた。


 楚との停戦を保つことは劉邦(りゅうほう)もすでに決めており、問題はその間にどこへ手を伸ばすかだった。


「秦を直接攻めるのは、まだ早うございます」


 陳平(ちんぺい)の指が関中から東へ滑っていく。


「扶蘇(ふそ)は関中を押さえ、北には趙と燕を抱えております。こちらから関中へ入れば秦だけでなく周りの兵まで呼ばれましょうから、損ばかり大きくなるかと存じます」


「じゃあ、どこを取る?」


 劉邦(りゅうほう)が尋ねると、陳平(ちんぺい)の指は一つの国の上で止まった。


「韓でございます」


 秦と漢の間に挟まれた小さな国で、単独でどちらかと争えるほどの兵はない。韓王成(せい)はかつて項羽(こうう)が送り込んだ鄭昌(ていしょう)を追って王位を取り戻した後は楚と距離を置き、秦にも漢にも属さず両方へ貢物を送りながら、どちらにも敵と見なされないよう立ち回ってきた。


「放っておけばいいんじゃねえか。向こうから喧嘩を売ってきてるわけでもないだろ」


「今は、でございます」


 陳平(ちんぺい)は地図上の韓を指先で軽く叩いた。


「韓が秦へ寄れば、秦は関中から東へ出る足場を得ます。逆にこちらが押さえておけば、秦が中原へ出る時には必ず漢の勢力圏へ触れることになりましょう」


「扶蘇(ふそ)を関中の奥へ押し込めるか」


「すべてとはまいりませんが、何もせずにおくよりは遥かにましかと。それに韓は大国ではございませんので、秦軍が動く前に王都を押さえれば長い戦にはなりません」


「秦が助けに来たら?」


「来るでしょう」


 陳平(ちんぺい)は即答した。


「ですから先に終わらせます。扶蘇(ふそ)が韓を助けるかどうか迷っている間に、韓王を降らせてしまえばよいのです」


 劉邦(りゅうほう)はしばらく地図を眺めていたが、やがて口元を歪めた。


「よし。やるぞ」


 灌嬰(かんえい)を先鋒、曹参(そうしん)を後詰とする漢軍が編成され、その日のうちに韓へ向けた支度が始まった。


◆


 漢軍が韓へ向かったという報せは、ほどなく咸陽(かんよう)にも届いた。


 軍議の席でその名を聞いた張良(ちょうりょう)は、報告を最後まで聞き終えるとすぐに立ち上がった。


「韓へ戻ります」


 秦に身を置いていても張良(ちょうりょう)が韓の臣であることは初めから変わっておらず、扶蘇(ふそ)も止めなかった。


「どれくらいで出る?」


「今日中に」


「兵は?」


「今は結構です。韓は秦の属国ではありませんから、漢軍が来たからといって最初から秦兵を国内へ入れるわけにはまいりません。まず成(せい)様にお会いして、状況を確かめます」


「分かった。ただ、無理だと思ったら意地を張るな」


「承知しております」


 張良(ちょうりょう)はその日のうちに咸陽(かんよう)を発った。


◆


 韓へ戻った張良(ちょうりょう)を待っていたのは、思っていたより悪い状況だった。


 漢軍の動きは速く、国境近くの小城のいくつかはすでに守備兵を退かせている。韓王成(せい)は諸将を集めていたが、兵をかき集めても漢軍と正面から戦える数には届かなかった。


「漢は本気で韓を取るつもりなのですね」


 成(せい)の言葉に張良(ちょうりょう)は頷いた。


「おそらく狙いは韓だけではありません。韓を取れば、秦の東を塞ぐことができますから」


「だから私たちが狙われた」


「はい」


 成(せい)は卓上の地図へ目を落とした。楚とはすでに縁が切れており、漢へ頭を下げれば国は残っても王位が残る保証はなく、秦へ助けを求めれば今度は秦の影響を受けずには済まない。小国の韓がこれまで保ってきた中立は、大国同士が直接ぶつからなかったからこそ成り立っていたものだった。


「単独では、どれほど持ちますか」


「城へ籠もれば時を稼ぐことはできます。ですが灌嬰(かんえい)と曹参(そうしん)が来ている以上、勝つのは難しいでしょう」


「では、どうすれば」


 張良(ちょうりょう)は地図の西に広がる関中へ目を向けた。


 秦を滅ぼすために半生を費やしてきた自分が、その秦を再び掲げた男へ韓の命運を託すことになるとは、かつてなら考えもしなかった。だが今の扶蘇(ふそ)は、韓を滅ぼした頃の秦王とは違う。


「秦王へ使者を出します」


「扶蘇(ふそ)殿へ?」


「はい。今の韓だけでは漢軍を止められません。援軍を求めます」


 張良(ちょうりょう)に迷いはなかった。


 その日のうちに韓王成(せい)の名を記した書状を持つ使者が西へ向かい、行き先は咸陽(かんよう)の秦王扶蘇(ふそ)のもとだった。


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