第168話 韓
広武を離れて半月あまりが過ぎ、胸の傷がようやく塞がり始めた頃、劉邦は馬車に揺られて襄陽へ戻った。
城門の内側には帰還を迎える家臣や兵が並び、その先に呂雉が立っていた。久しぶりに見る夫の顔へ安堵を浮かべるでもなく、胸に厚く巻かれた布を一瞥すると、そのまま冷えた目を向けてくる。
「随分と派手に負けて帰ってきましたね」
「帰って早々それかよ。俺は死にかけたんだぞ」
「存じています。だから申し上げているのです」
呂雉は近くまで来ると、誰にも聞こえないほどに声を落とした。
「あなたが項羽の矢を受けて倒れたせいで、韓信が曹咎を破って北へ出た機会を使えませんでした。楚軍を追えていれば、今頃はもっと違う形になっていたでしょう」
「俺だって好きで射られたわけじゃねえよ」
「項羽の前へ出て、あれだけ挑発しておいて?」
「言えって言ったのは陳平だぞ」
「胸を射られろとは言っていないでしょう」
そこまで言われると返す言葉もなく劉邦は面倒そうに鼻を鳴らしたが、呂雉が本気で怒っているわけではないことも分かっていた。人前では冷たいままでも彼女の視線は何度も胸の傷へ向かっており、歩き出した劉邦の足取りが僅かに乱れた時には、何も言わずに腕を取って支えていた。
◆
その夜、寝台へ入った劉邦は昼間とはまるで違う意味で胸の傷を気にすることになった。
「まだ痛みますか?」
「押さなきゃな」
「では、ここは?」
「おい」
呂雉の指は包帯の端をなぞり、傷を避けながらゆっくりと胸元を滑っていく。いつも隙のない衣を纏っている女が今夜は髪を下ろし、薄い寝衣だけで身体を寄せてくるのだから、劉邦の視線も自然とそこへ落ちた。
「何だよ。昼間は散々怒ってたくせに」
「怒っていますよ」
「その割には近いな」
「それとこれは別です」
呂雉は淡々と答えながら劉邦の肩へ手を置いた。寝衣の襟が少し崩れて白い肌が覗いたが、本人は直そうともしなかった。
「そろそろ御子が欲しいのです」
「急だな」
「急ではありません。あなたは漢王です。今回のように矢一本で何日も目を覚まさなくなることがあるのに、そのたびに跡継ぎのいない国が揺れるようでは困ります」
「そういう話をこの格好でされると、色気があるのかないのか分からねえな」
「必要だから言っているだけです」
口ではそう言いながらも呂雉は離れず、傷のない側へ頬を預けてきた。劉邦が腰へ腕を回すと、拒むどころかその手を自分から引き寄せる。
「ずいぶん積極的じゃねえか」
「あなたが外で余計な女に目を向ける前に、必要なことを済ませておこうと思いまして」
「俺を何だと思ってんだ」
「自覚がないなら、なお悪いですね」
劉邦は笑って呂雉の髪へ顔を埋め、久しく離れていた身体の温かさを確かめるように抱き寄せた。彼女も目を閉じて身を任せ、しばらくすると寝台の上から話し声が消えた。
◆
夜も深くなった頃、呂雉は劉邦の隣に横たわったまま胸の包帯へ指先を触れた。
「項羽とは、このまま停戦しておくべきです」
「今する話か?」
「今だからするのです」
「お前、本当に色気が続かねえな」
「御子ができることと天下を取ることは、別の話ではありません」
呂雉は起き上がることもなく続けた。
「今回はあと少しで項羽を追えるところまで行きました。それを止めたのは、また扶蘇です。北から秦と趙の六万を動かされ、韓信まで退かざるを得なくなりました」
「分かってるよ」
劉邦自身も同じことを何度も考えていた。項羽は強いが、強いだけに読める時もあり、正面から来るなら受け、避けるなら避ければいい。厄介なのは勝敗が決まりかけた時に必ず別の方向から手を入れてくる扶蘇の方だった。
「楚を今すぐ滅ぼす必要はありません。むしろ項羽が残っている方が秦も自由には動けないのですから、今は楚との停戦を使って、扶蘇がこれ以上大きくなるのを止めるべきです」
「俺たちと楚を両方残して、どっちにも勝たせねえつもりなんだろうな、あいつは」
「ならば、こちらも同じことをすればよいのです」
劉邦は横目で呂雉を見て、少しだけ笑った。
「寝床でそんな顔して天下の話をする女、そうはいねえぞ」
「嫌ですか?」
「いや。そういうところも含めて、お前なんだろ」
呂雉は何も答えず、再び夫の胸へ身体を寄せた。
◆
数日後、陳平は軍議の席に一枚の地図を広げた。
楚との停戦を保つことは劉邦もすでに決めており、問題はその間にどこへ手を伸ばすかだった。
「秦を直接攻めるのは、まだ早うございます」
陳平の指が関中から東へ滑っていく。
「扶蘇は関中を押さえ、北には趙と燕を抱えております。こちらから関中へ入れば秦だけでなく周りの兵まで呼ばれましょうから、損ばかり大きくなるかと存じます」
「じゃあ、どこを取る?」
劉邦が尋ねると、陳平の指は一つの国の上で止まった。
「韓でございます」
秦と漢の間に挟まれた小さな国で、単独でどちらかと争えるほどの兵はない。韓王成はかつて項羽が送り込んだ鄭昌を追って王位を取り戻した後は楚と距離を置き、秦にも漢にも属さず両方へ貢物を送りながら、どちらにも敵と見なされないよう立ち回ってきた。
「放っておけばいいんじゃねえか。向こうから喧嘩を売ってきてるわけでもないだろ」
「今は、でございます」
陳平は地図上の韓を指先で軽く叩いた。
「韓が秦へ寄れば、秦は関中から東へ出る足場を得ます。逆にこちらが押さえておけば、秦が中原へ出る時には必ず漢の勢力圏へ触れることになりましょう」
「扶蘇を関中の奥へ押し込めるか」
「すべてとはまいりませんが、何もせずにおくよりは遥かにましかと。それに韓は大国ではございませんので、秦軍が動く前に王都を押さえれば長い戦にはなりません」
「秦が助けに来たら?」
「来るでしょう」
陳平は即答した。
「ですから先に終わらせます。扶蘇が韓を助けるかどうか迷っている間に、韓王を降らせてしまえばよいのです」
劉邦はしばらく地図を眺めていたが、やがて口元を歪めた。
「よし。やるぞ」
灌嬰を先鋒、曹参を後詰とする漢軍が編成され、その日のうちに韓へ向けた支度が始まった。
◆
漢軍が韓へ向かったという報せは、ほどなく咸陽にも届いた。
軍議の席でその名を聞いた張良は、報告を最後まで聞き終えるとすぐに立ち上がった。
「韓へ戻ります」
秦に身を置いていても張良が韓の臣であることは初めから変わっておらず、扶蘇も止めなかった。
「どれくらいで出る?」
「今日中に」
「兵は?」
「今は結構です。韓は秦の属国ではありませんから、漢軍が来たからといって最初から秦兵を国内へ入れるわけにはまいりません。まず成様にお会いして、状況を確かめます」
「分かった。ただ、無理だと思ったら意地を張るな」
「承知しております」
張良はその日のうちに咸陽を発った。
◆
韓へ戻った張良を待っていたのは、思っていたより悪い状況だった。
漢軍の動きは速く、国境近くの小城のいくつかはすでに守備兵を退かせている。韓王成は諸将を集めていたが、兵をかき集めても漢軍と正面から戦える数には届かなかった。
「漢は本気で韓を取るつもりなのですね」
成の言葉に張良は頷いた。
「おそらく狙いは韓だけではありません。韓を取れば、秦の東を塞ぐことができますから」
「だから私たちが狙われた」
「はい」
成は卓上の地図へ目を落とした。楚とはすでに縁が切れており、漢へ頭を下げれば国は残っても王位が残る保証はなく、秦へ助けを求めれば今度は秦の影響を受けずには済まない。小国の韓がこれまで保ってきた中立は、大国同士が直接ぶつからなかったからこそ成り立っていたものだった。
「単独では、どれほど持ちますか」
「城へ籠もれば時を稼ぐことはできます。ですが灌嬰と曹参が来ている以上、勝つのは難しいでしょう」
「では、どうすれば」
張良は地図の西に広がる関中へ目を向けた。
秦を滅ぼすために半生を費やしてきた自分が、その秦を再び掲げた男へ韓の命運を託すことになるとは、かつてなら考えもしなかった。だが今の扶蘇は、韓を滅ぼした頃の秦王とは違う。
「秦王へ使者を出します」
「扶蘇殿へ?」
「はい。今の韓だけでは漢軍を止められません。援軍を求めます」
張良に迷いはなかった。
その日のうちに韓王成の名を記した書状を持つ使者が西へ向かい、行き先は咸陽の秦王扶蘇のもとだった。




