第167話 帰る場所
陳平からの使者が韓信のもとへ到着したのは、軍が北への行軍を続け、ようやく彭城を窺える位置まで進もうとしていた頃だった。
届けられた命令には、劉邦が負傷して広武に留まっていること、楚軍との間で一時的な停戦が成立したこと、そして秦・趙およそ六万が南下しているため、彭城への進軍を中止して九江方面へ退くことが記されていた。
最後まで読み終えた韓信は、竹簡を持ったまましばらく地図を眺めていた。
「……また秦か」
副官が黙って待っていると、韓信は秦趙軍の進路を確認し、わずかに眉を寄せた。
「曹咎を抜くまで一年近く掛かった。ようやく北へ出たところで、今度は六万を置いてくる」
「戦われますか?」
「戦う理由がない」
答えには迷いがなかった。
「秦と趙を破っても、その間に項羽が彭城へ戻る。さらに漢王は動けない。ここで前へ出れば、楚を攻めるために秦趙軍と戦い、その後に楚軍とも戦うことになる」
韓信は不満そうな顔のまま、地図上の自軍を示す駒を南へ戻した。
「気に入らないが、陳平の判断は正しい。北上を止める」
「九江まで?」
「秦趙軍と距離を取りながら下がる。追ってこないなら、それ以上戦う必要もない」
命令を伝えるため副官が立ち去ろうとすると、韓信がその背中へ声を掛けた。
「それにしても、あの秦王はよく見ている」
副官が振り返る。
「こちらが楚を食えるところまで進むと兵を出す。自分で天下を取りに来るわけでもないのに、誰か一人が大きくなるのも許さないらしい」
そこで韓信は竹簡を畳んだ。
「面倒な男だ」
その言葉を最後に、漢軍は北への歩みを止めた。
◆
項羽が彭城へ戻った頃には、秦趙軍南下の報せもすでに届いていた。
韓信が北へ向かっていると聞いてから、項羽は帰路でも何度となく斥候を走らせていたが、北から楊端和、黥布、張耳の軍が接近していると知ると、ようやく険しかった表情を緩めた。
「六万か。随分連れてきたな」
秦趙軍が楚へ臣従するために来たわけではないことくらい、項羽にも分かっている。
それでも今は十分だった。韓信が彭城へ手を伸ばそうとすれば、その進路に秦と趙の軍が入る。それだけで、曹咎を失った直後の楚には大きな意味があった。
城門を潜った項羽は、出迎えの将兵に短く声を掛けながら宮へ向かった。
その途中で、人垣の奥に見慣れた女を見つけた。
「虞」
呼ばれた虞は、少し驚いたように顔を上げた。
項羽は周囲の目など気にせず近づくと、その身体を強く抱き寄せた。虞も最初こそ戸惑ったものの、やがて腕を回し、長く戦場へ出ていた恋人を受け止める。
「お帰りなさい、項羽様」
「ただいま」
戦場では見せない穏やかな声だった。
「随分長かったですね」
「ああ。劉邦がしぶとかった」
「それで、矢を射ったのですか?」
項羽が少しだけ視線を逸らした。
「うるさかったからな」
「理由になっていません」
「当たったのだからいいだろう」
虞は呆れたように見たものの、それ以上責めることはせず、項羽の鎧へ頬を寄せた。
久しぶりに戻った彭城で、項羽が最初に長く足を止めたのは、その場所だった。
◆
翌日、項羽は南下してきた秦趙軍の主だった者を城内へ招いた。
席についたのは楊端和、黥布、張耳の三人であり、楚側からは虞も同席していた。長く続いた広武での対陣が終わり、韓信も北上を止めたという報告が入っていたため、宴席には久しぶりに戦勝とも敗戦とも違う緩みがあった。
「よく来てくれた。お前たちが南へ動いたと聞いた時は助かった」
項羽が杯を上げると、楊端和は軽く頭を下げた。
「扶蘇様からは、楚が崩れるようであれば支えるよう命じられております。幸い、我々が戦う前に漢軍が退いてくれました」
「韓信とやれなかったのは残念だけどな」
黥布が酒を飲みながら口を挟む。
「お前は少し黙っていろ」
楊端和が即座に返すと、黥布は不満そうに杯を置いた。
「まだ何もしてねえだろ」
「何かする前に言っている」
そのやり取りを聞いていた項羽が笑った後、ふと三人の後ろへ視線を向けた。
「ところで、扶蘇はどうした?」
「咸陽へ戻られました」
答えたのは楊端和だった。
「北方の戦も長く続きましたので、一度咸陽で政務をご覧になる必要がございます。それに、娘君とも長く会えておりませんでしたから」
「娘か」
項羽の返事が少しだけ遅れた。
「……そうか。なら仕方ないな」
そう言って酒を口へ運んだが、先ほどまでより僅かに静かになった。
向かいに座る虞は、その変化に気づいていた。
扶蘇には妻がいて、その間にはすでに娘もいる。項羽自身も知っていることだったが、戦場で何度も顔を合わせていた男が今は家族のもとへ帰っていると改めて聞けば、思うところがないわけではないらしい。
項羽は杯を置くと、半ば独り言のように呟いた。
「扶蘇が婿に来てくれれば、話は早いのだがな」
虞の手が止まった。
張耳は困ったような顔をし、楊端和は何も聞かなかったことにしようと酒へ手を伸ばした。
ただ一人、空気を読まなかった男がいた。
「そいつは難しいんじゃねえか?」
黥布だった。
「何故だ?」
「だってあいつには、もう先約が」
「黥布」
楊端和の声が鋭く飛んだ。
黥布がそちらを見る。
「何だよ」
「酒が足りないのではないか。飲め」
「まだあるぞ」
「いいから飲め」
楊端和が無理やり酒を注ぎ足したことで、黥布の言葉はそこで止まった。
項羽は怪訝そうに見ていたが、深く追及はしなかった。
代わりに黥布は、注がれた酒を一息で飲み干してから別の方向へ話を飛ばした。
「そんなに子が欲しいなら、俺が抱いてやろうか?」
宴席が静まり返った。
楊端和がゆっくりと顔を向ける。
「お前は何を言っている」
「いや、俺は男が好きなんだけどよ。まあ、項羽殿なら女でも一度くらい」
項羽が立ち上がった。
「黥布」
「何だ?」
「もう一度言ってみろ」
「だから、子が欲しいなら」
言い終える前に卓が大きく揺れた。
項羽が一歩踏み出したところへ、虞がすぐ腕へしがみつき、反対側から張耳も慌てて身体を入れる。
「項羽様、宴席です!」
「離せ、虞。こいつは一度殴った方がいい」
「駄目です」
「一度だけだ」
「一度で死ぬかもしれません!」
一方、楊端和は黥布の前へ立っていた。
「お前も黙れ。今度こそ本当に黙れ」
「別に馬鹿にしたわけじゃねえぞ」
「それが分かっているから余計に困っている」
「俺なりに真面目な提案だったんだけどな」
「二度と提案するな」
黥布は涼しい顔で残った酒を飲み、項羽は虞と張耳に押さえられたまま睨み続ける。
その後、宴が以前の空気へ戻ることはなかった。
◆
客が帰った後、部屋には項羽と虞だけが残った。
先ほどまで騒がしかった卓には空になった酒器が並び、項羽は椅子へ座ったまま、まだ少し機嫌が悪そうだった。
「本当に殴るつもりだったのですか?」
「もちろんだ」
「止めてよかったです」
「何故だ。あいつは頑丈そうだぞ」
「そういう問題ではありません」
虞は向かいへ座り、しばらく項羽を見ていた。
やがて先ほどまでとは違う静かな声で尋ねる。
「子供が欲しいのですか?」
項羽はすぐには答えなかった。
楚を治める立場になってから、後継について口にする者は少しずつ増えている。今は項羽自身が健在であり、その武威に逆らえる者もほとんどいないが、それが永遠に続くわけではない。
「欲しくないと言えば嘘になる」
やがて項羽は答えた。
「私が死んだ後のことを考えれば、いた方がいいのだろう。それくらいは分かっている」
虞は膝の上で指を組んだ。
「なら、男を迎えることも考えているのですか?」
「考えていない」
今度は迷わなかった。
「子を作るためだけに、愛してもいない男を抱くつもりはない。種だけ寄越せと言うつもりもないし、相手にそういう役目だけを求めるのも嫌だ」
「養子は?」
「簡単ではないだろう。私の後を継ぐとなれば、誰を選んでも周りが勝手に意味をつける」
項羽は酒の残っていない杯を指先で回した。
「だから面倒なのだ」
虞は少しだけ俯いた。
女同士である自分たちの間に子はできない。
今さら知ったことではないが、楚という国が大きくなればなるほど、二人だけの問題では済まなくなっていく。
しばらくして、虞が顔を上げた。
「では、扶蘇は?」
項羽の指が止まった。
「宴で、婿に来てくれればと仰っていました」
「あれは半分冗談だ」
「半分は?」
項羽は答えに詰まり、少し考えた後で諦めたように息を吐いた。
「好きだ」
虞は黙って聞いている。
「強いわけではないのに、妙なところで退かない。私に怯えもしないし、戦いたくないと言いながら必要なら前へ出てくる。あいつが傍にいるなら、それは悪くないと思う」
「愛しているのですか?」
項羽は虞を見た。
それから立ち上がり、向かいに座っていた虞の腕を引いて、自分の胸元へ抱き寄せる。
「お前と同じではない」
虞が顔を上げる。
「扶蘇は好きだ。だが、私が帰ってきて最初に会いたかったのはお前だし、これからも帰る場所はここだ」
「……それでは、後継者はできませんよ」
「分かっている」
「困りましたね」
「ああ」
項羽はそう答えながらも、虞を離そうとはしなかった。
楚の先のことを考えれば、答えを出さなければならない日はいつか来る。
それでも今夜の項羽には、久しぶりに戻った彭城で、虞を腕の中から放す理由の方がなかった。




