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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第6章 定まらぬ天下

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第166話 停戦

 矢が胸へ突き立った瞬間、劉邦(りゅうほう)の身体が大きく傾いた。


 すぐ近くにいた夏侯嬰(かこうえい)が駆け寄って身体を支えると、周囲の兵たちも一斉に動きかけた。だが、胸元へ伸びようとした夏侯嬰(かこうえい)の手を、劉邦(りゅうほう)が強く掴んだ。


「騒ぐな」


「何言ってんだい。胸に刺さってるじゃないか」


「だから騒ぐなって言ってんだ。ここで倒れたら、全部ばれる」


 顔からはすでに血の気が失われていたが、劉邦(りゅうほう)は夏侯嬰(かこうえい)の肩へ身体を預けながら、どうにか膝を伸ばした。


 少し離れた場所から見ている兵たちには、矢がどこへ刺さったのかまでは分からない。先ほどまで歓声を上げていた漢兵たちは、漢王が射られたという事実だけを見てざわめき始めていた。


「胸を隠しな」


 夏侯嬰(かこうえい)もすぐに意図を察し、身体を寄せて劉邦(りゅうほう)の傷口を遮った。


 劉邦(りゅうほう)は一度大きく息を吸うと、谷の向こうに立つ項羽(こうう)へ顔を上げた。


「残念だったな、項羽(こうう)!」


 声を張っただけで身体が僅かに震えたが、それでも劉邦(りゅうほう)は笑うように口元を歪めた。


「当たったのは足だ! こんなもんで俺が死ぬと思うなよ!」


 漢兵たちのざわめきが止まり、少し遅れて歓声が戻ってくる。


 漢王本人が足だと言い、まだ立っているように見える。それだけで、遠巻きに見ていた兵たちには十分だった。


 夏侯嬰(かこうえい)も周囲へ向かって声を張った。


「漢王は足を射られただけだよ! 騒がないで持ち場へ戻りな!」


 そう言ってから、劉邦(りゅうほう)の耳元へ顔を寄せる。


「もういいよ。これ以上やったら、本当に死ぬ」


「ああ。俺も、そう思う」


 答えた直後、劉邦(りゅうほう)の足から力が抜けた。


 夏侯嬰(かこうえい)はその身体を抱え上げ、兵たちから胸元が見えないようにしながら後方へ運んでいく。幕舎へ入った頃には、劉邦(りゅうほう)は呼びかけにも応じなくなっていた。


◆


 矢は胸の深いところまで入っていた。


 医師たちは出血を抑えながら慎重に矢を抜き、そのまま夜を徹して傷の処置を続けた。急所そのものは外れているらしいが、失った血は多く、夜が明けても劉邦(りゅうほう)は目を覚まさなかった。


「どうなんだい」


 幕舎から出てきた医師へ、夏侯嬰(かこうえい)が尋ねた。


「今のところ呼吸は安定しております。ただ、いつ意識が戻るかは何とも申し上げられません」


「命は助かるのかい?」


「それも、まだ断言はできません」


 夏侯嬰(かこうえい)はそれ以上聞かず、眠ったままの劉邦(りゅうほう)がいる幕舎を振り返った。


 陣中には、漢王は足を射られて休んでいるとだけ伝えてある。しかし昨日まで項羽(こうう)と言葉を交わしていた劉邦(りゅうほう)が何日も姿を見せなければ、いずれ軽傷ではないと疑う者も出てくる。


 朝から陣内を回っていた陳平(ちんぺい)も、兵たちの様子が変わり始めていることに気づいていた。


「まだ大きな動揺にはなっていないが、昨日の勢いはない。このまま漢王が姿を見せなければ、足だけではないと考える者も出るだろう」


「向こうだって同じことを考えるよ。項羽(こうう)は自分で射ったんだから」


「どこに当たったかまでは見えていないはずだ。ただ、今日も出てこないとなれば、傷が浅くないことくらいは分かる」


 夏侯嬰(かこうえい)は腕を組んだ。


「それでどうするんだい。この状態で項羽(こうう)が攻めてきたら、王抜きで迎え撃つことになる」


 陳平(ちんぺい)は卓上に広げられた地図へ目を落とした。


 韓信(かんしん)は曹咎(そうきゅう)を破り、すでに北上を始めている。項羽(こうう)が広武(こうぶ)を離れて東へ戻るなら、漢軍も後を追い、南から上がってくる韓信(かんしん)と楚軍を挟む形を作れる可能性があった。


 昨日までなら、逃したくない機会だった。


 だが今は、劉邦(りゅうほう)が意識を失っている。


「こちらから停戦を申し入れる」


 夏侯嬰(かこうえい)が陳平(ちんぺい)を見る。


「講和まで決めるのかい?」


「そこまでは決めない。国境や諸侯の扱いまで決めるなら、漢王が目を覚ましてからだ。今は楚軍が退くなら追わない、その代わり楚もこちらを攻めない。それで十分だ」


「項羽(こうう)が受けると思う?」


「受ける理由はある。曹咎(そうきゅう)が死んで、韓信(かんしん)が北へ出た。項羽(こうう)も、いつまでもここに座ってはいられない」


 陳平(ちんぺい)はすぐに使者を選ばせ、東広武(とうこうぶ)へ向かわせた。


◆


 漢から停戦の申し入れが届いた時、項羽(こうう)は特に驚かなかった。


「やはり、傷は深かったか」


 昨夜の暗さでは、自分の矢が劉邦(りゅうほう)のどこへ当たったのかまでは確認できなかった。本人は足だと叫んでいたが、本当に脚の傷だけなら、翌日になっても一度も姿を見せないのは不自然だった。


 もっとも、劉邦(りゅうほう)の傷を確かめるために広武(こうぶ)へ留まり続ける余裕は、項羽(こうう)にもない。


 曹咎(そうきゅう)は死に、韓信(かんしん)は北へ向かっている。


 進路が彭城(ほうじょう)へ向けば、項羽(こうう)がここで一日を使うたびに楚の後方は危うくなる。


「条件は?」


「楚軍が東広武(とうこうぶ)から撤く間、漢軍は追撃しない。その代わり楚も漢陣への攻撃を行わないとのことです。それ以外については、改めて協議したいと」


「構わん。それで受けろ」


「国境については、今は定めないということでよろしいでしょうか」


「劉邦(りゅうほう)が寝ている間に決めても、起きた後で揉めるだけだ。まず兵を止めればいい」


 項羽(こうう)にとっても、今必要なのは広武(こうぶ)で勝敗を決めることではなく、彭城(ほうじょう)へ戻るための時間だった。


 その日のうちに双方の使者が行き来し、楚軍が撤退する間の相互不攻撃が決まった。


◆


 翌朝、楚軍は東広武(とうこうぶ)から東へ動き始めた。


 項羽(こうう)は漢軍の追撃に備えて隊列を崩さず、殿にも十分な兵を残したまま彭城(ほうじょう)へ向かう。一年近く対峙してきた漢軍が谷の向こうに残っている以上、停戦の言葉だけを信じて無防備に背中を晒すつもりはなかった。


 西広武(せいこうぶ)の高所から遠ざかる楚軍を見ていた陳平(ちんぺい)も、すぐには陣へ戻らなかった。


「今なら、まだ追えるね」


 隣にいた夏侯嬰(かこうえい)も同じことを考えていたらしい。


「韓信(かんしん)も北へ来てる。ここから漢軍が東へ出れば、向こうと一緒に項羽(こうう)を挟めるかもしれない」


「ああ」


 陳平(ちんぺい)も、その可能性は考えていた。


 停戦を破ることになるとしても、ここで項羽(こうう)を逃せば、彭城(ほうじょう)へ戻って態勢を整えられる。一方で韓信(かんしん)は曹咎(そうきゅう)を破ったばかりで、軍も大きく損なわれてはいない。


 劉邦(りゅうほう)が目を覚ますまで待つのか、それとも自分の判断で追撃を命じるのか。


 陳平(ちんぺい)が地図の上で楚軍と韓信(かんしん)軍の位置を確かめていたところへ、北からの急報が届いた。


「秦、趙両軍が南下しております」


 使者が地図の北側を指した。


「秦将楊端和(ようたんわ)、黥布(げいふ)らの軍に、趙王張耳(ちょうじ)の兵が合流。総勢はおよそ六万、現在も南進を続けており、進路から見て彭城(ほうじょう)方面へ向かうものと思われます」


 地図へ伸ばしていた陳平(ちんぺい)の手が止まった。


「……また、あいつらか」


 普段なら表情をほとんど変えない陳平(ちんぺい)が、露骨に眉を寄せた。


「本当に、あいつらはいつも邪魔をしてくれる。こちらが楚を追い詰めれば間へ入ってくる。ようやく曹咎(そうきゅう)を抜いて、韓信(かんしん)が北へ出たと思えば、今度は六万か」


 夏侯嬰(かこうえい)が地図を覗き込んだ。


「扶蘇(ふそ)の命令だと思うかい?」


「少なくとも、勝手に六万も動かしたとは思えない。漢に楚を呑ませるつもりがないんだろう」


「だったら、狙い通りってことじゃないか」


「分かってる。分かってるから腹が立つんだ」


 陳平(ちんぺい)は秦趙軍を示す駒を取り、南へ動かした。


 東へ戻る項羽(こうう)の楚軍に、南から北上する韓信(かんしん)軍。そして北からは秦と趙の六万が近づいている。


 先ほどまで見えていた挟撃の形が、秦趙軍の出現によってまったく別のものへ変わっていた。


「扶蘇(ふそ)が漢へ宣戦したわけではない。ただ、韓信(かんしん)が彭城(ほうじょう)へ向かえば、あの六万が道を空けて見送るとは思えない」


「追撃したら?」


「前には項羽(こうう)、北から秦と趙、こっちの王は意識不明だ。下手をすれば韓信(かんしん)だけが三軍の間へ入り込む」


 陳平(ちんぺい)はしばらく地図を見つめた。


 曹咎(そうきゅう)を破ったことで、ようやく楚の後方へ進む道が開いた。その機会を自分から閉じるのは惜しいが、韓信(かんしん)の軍まで失えば、それこそ取り返しがつかない。


「やめる」


 夏侯嬰(かこうえい)が顔を向けた。


「追わないのかい?」


「追わない。漢軍は広武(こうぶ)に残る」


「韓信(かんしん)には?」


「北上を中止させる。秦趙軍との接触を避けながら九江(きゅうこう)方面へ退いて、次の命を待つよう伝えてくれ」


「せっかく勝ったばかりなのに?」


「だからだ。韓信(かんしん)は勝っているし、軍も残っている。それを彭城(ほうじょう)欲しさに項羽(こうう)と秦趙六万の間へ入れて失う方が馬鹿だ」


 夏侯嬰(かこうえい)は地図を見たまま、少しだけ口元を緩めた。


「ずいぶん腹が立ってるみたいだね」


「当たり前だ。あと少しというところで、毎回必ず出てくる」


「向こうからすれば、そのために出てきてるんだろうさ」


「だから分かってると言ってるだろ」


 陳平(ちんぺい)は秦趙軍の駒を忌々しそうに見た後、使者を呼んだ。


 韓信(かんしん)へ北上中止を伝える命令は、その日のうちに広武(こうぶ)を発った。


◆


 項羽(こうう)が広武(こうぶ)を離れた後も、漢軍は西広武(せいこうぶ)に留まり続けた。


 韓信(かんしん)には北上を止め、秦趙軍との接触を避けながら九江(きゅうこう)方面へ退くよう命令が送られている。北から秦と趙が南へ進み、東では項羽(こうう)が彭城(ほうじょう)を目指していた。


 その間も、劉邦(りゅうほう)はまだ目を覚まさなかった。

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