第166話 停戦
矢が胸へ突き立った瞬間、劉邦の身体が大きく傾いた。
すぐ近くにいた夏侯嬰が駆け寄って身体を支えると、周囲の兵たちも一斉に動きかけた。だが、胸元へ伸びようとした夏侯嬰の手を、劉邦が強く掴んだ。
「騒ぐな」
「何言ってんだい。胸に刺さってるじゃないか」
「だから騒ぐなって言ってんだ。ここで倒れたら、全部ばれる」
顔からはすでに血の気が失われていたが、劉邦は夏侯嬰の肩へ身体を預けながら、どうにか膝を伸ばした。
少し離れた場所から見ている兵たちには、矢がどこへ刺さったのかまでは分からない。先ほどまで歓声を上げていた漢兵たちは、漢王が射られたという事実だけを見てざわめき始めていた。
「胸を隠しな」
夏侯嬰もすぐに意図を察し、身体を寄せて劉邦の傷口を遮った。
劉邦は一度大きく息を吸うと、谷の向こうに立つ項羽へ顔を上げた。
「残念だったな、項羽!」
声を張っただけで身体が僅かに震えたが、それでも劉邦は笑うように口元を歪めた。
「当たったのは足だ! こんなもんで俺が死ぬと思うなよ!」
漢兵たちのざわめきが止まり、少し遅れて歓声が戻ってくる。
漢王本人が足だと言い、まだ立っているように見える。それだけで、遠巻きに見ていた兵たちには十分だった。
夏侯嬰も周囲へ向かって声を張った。
「漢王は足を射られただけだよ! 騒がないで持ち場へ戻りな!」
そう言ってから、劉邦の耳元へ顔を寄せる。
「もういいよ。これ以上やったら、本当に死ぬ」
「ああ。俺も、そう思う」
答えた直後、劉邦の足から力が抜けた。
夏侯嬰はその身体を抱え上げ、兵たちから胸元が見えないようにしながら後方へ運んでいく。幕舎へ入った頃には、劉邦は呼びかけにも応じなくなっていた。
◆
矢は胸の深いところまで入っていた。
医師たちは出血を抑えながら慎重に矢を抜き、そのまま夜を徹して傷の処置を続けた。急所そのものは外れているらしいが、失った血は多く、夜が明けても劉邦は目を覚まさなかった。
「どうなんだい」
幕舎から出てきた医師へ、夏侯嬰が尋ねた。
「今のところ呼吸は安定しております。ただ、いつ意識が戻るかは何とも申し上げられません」
「命は助かるのかい?」
「それも、まだ断言はできません」
夏侯嬰はそれ以上聞かず、眠ったままの劉邦がいる幕舎を振り返った。
陣中には、漢王は足を射られて休んでいるとだけ伝えてある。しかし昨日まで項羽と言葉を交わしていた劉邦が何日も姿を見せなければ、いずれ軽傷ではないと疑う者も出てくる。
朝から陣内を回っていた陳平も、兵たちの様子が変わり始めていることに気づいていた。
「まだ大きな動揺にはなっていないが、昨日の勢いはない。このまま漢王が姿を見せなければ、足だけではないと考える者も出るだろう」
「向こうだって同じことを考えるよ。項羽は自分で射ったんだから」
「どこに当たったかまでは見えていないはずだ。ただ、今日も出てこないとなれば、傷が浅くないことくらいは分かる」
夏侯嬰は腕を組んだ。
「それでどうするんだい。この状態で項羽が攻めてきたら、王抜きで迎え撃つことになる」
陳平は卓上に広げられた地図へ目を落とした。
韓信は曹咎を破り、すでに北上を始めている。項羽が広武を離れて東へ戻るなら、漢軍も後を追い、南から上がってくる韓信と楚軍を挟む形を作れる可能性があった。
昨日までなら、逃したくない機会だった。
だが今は、劉邦が意識を失っている。
「こちらから停戦を申し入れる」
夏侯嬰が陳平を見る。
「講和まで決めるのかい?」
「そこまでは決めない。国境や諸侯の扱いまで決めるなら、漢王が目を覚ましてからだ。今は楚軍が退くなら追わない、その代わり楚もこちらを攻めない。それで十分だ」
「項羽が受けると思う?」
「受ける理由はある。曹咎が死んで、韓信が北へ出た。項羽も、いつまでもここに座ってはいられない」
陳平はすぐに使者を選ばせ、東広武へ向かわせた。
◆
漢から停戦の申し入れが届いた時、項羽は特に驚かなかった。
「やはり、傷は深かったか」
昨夜の暗さでは、自分の矢が劉邦のどこへ当たったのかまでは確認できなかった。本人は足だと叫んでいたが、本当に脚の傷だけなら、翌日になっても一度も姿を見せないのは不自然だった。
もっとも、劉邦の傷を確かめるために広武へ留まり続ける余裕は、項羽にもない。
曹咎は死に、韓信は北へ向かっている。
進路が彭城へ向けば、項羽がここで一日を使うたびに楚の後方は危うくなる。
「条件は?」
「楚軍が東広武から撤く間、漢軍は追撃しない。その代わり楚も漢陣への攻撃を行わないとのことです。それ以外については、改めて協議したいと」
「構わん。それで受けろ」
「国境については、今は定めないということでよろしいでしょうか」
「劉邦が寝ている間に決めても、起きた後で揉めるだけだ。まず兵を止めればいい」
項羽にとっても、今必要なのは広武で勝敗を決めることではなく、彭城へ戻るための時間だった。
その日のうちに双方の使者が行き来し、楚軍が撤退する間の相互不攻撃が決まった。
◆
翌朝、楚軍は東広武から東へ動き始めた。
項羽は漢軍の追撃に備えて隊列を崩さず、殿にも十分な兵を残したまま彭城へ向かう。一年近く対峙してきた漢軍が谷の向こうに残っている以上、停戦の言葉だけを信じて無防備に背中を晒すつもりはなかった。
西広武の高所から遠ざかる楚軍を見ていた陳平も、すぐには陣へ戻らなかった。
「今なら、まだ追えるね」
隣にいた夏侯嬰も同じことを考えていたらしい。
「韓信も北へ来てる。ここから漢軍が東へ出れば、向こうと一緒に項羽を挟めるかもしれない」
「ああ」
陳平も、その可能性は考えていた。
停戦を破ることになるとしても、ここで項羽を逃せば、彭城へ戻って態勢を整えられる。一方で韓信は曹咎を破ったばかりで、軍も大きく損なわれてはいない。
劉邦が目を覚ますまで待つのか、それとも自分の判断で追撃を命じるのか。
陳平が地図の上で楚軍と韓信軍の位置を確かめていたところへ、北からの急報が届いた。
「秦、趙両軍が南下しております」
使者が地図の北側を指した。
「秦将楊端和、黥布らの軍に、趙王張耳の兵が合流。総勢はおよそ六万、現在も南進を続けており、進路から見て彭城方面へ向かうものと思われます」
地図へ伸ばしていた陳平の手が止まった。
「……また、あいつらか」
普段なら表情をほとんど変えない陳平が、露骨に眉を寄せた。
「本当に、あいつらはいつも邪魔をしてくれる。こちらが楚を追い詰めれば間へ入ってくる。ようやく曹咎を抜いて、韓信が北へ出たと思えば、今度は六万か」
夏侯嬰が地図を覗き込んだ。
「扶蘇の命令だと思うかい?」
「少なくとも、勝手に六万も動かしたとは思えない。漢に楚を呑ませるつもりがないんだろう」
「だったら、狙い通りってことじゃないか」
「分かってる。分かってるから腹が立つんだ」
陳平は秦趙軍を示す駒を取り、南へ動かした。
東へ戻る項羽の楚軍に、南から北上する韓信軍。そして北からは秦と趙の六万が近づいている。
先ほどまで見えていた挟撃の形が、秦趙軍の出現によってまったく別のものへ変わっていた。
「扶蘇が漢へ宣戦したわけではない。ただ、韓信が彭城へ向かえば、あの六万が道を空けて見送るとは思えない」
「追撃したら?」
「前には項羽、北から秦と趙、こっちの王は意識不明だ。下手をすれば韓信だけが三軍の間へ入り込む」
陳平はしばらく地図を見つめた。
曹咎を破ったことで、ようやく楚の後方へ進む道が開いた。その機会を自分から閉じるのは惜しいが、韓信の軍まで失えば、それこそ取り返しがつかない。
「やめる」
夏侯嬰が顔を向けた。
「追わないのかい?」
「追わない。漢軍は広武に残る」
「韓信には?」
「北上を中止させる。秦趙軍との接触を避けながら九江方面へ退いて、次の命を待つよう伝えてくれ」
「せっかく勝ったばかりなのに?」
「だからだ。韓信は勝っているし、軍も残っている。それを彭城欲しさに項羽と秦趙六万の間へ入れて失う方が馬鹿だ」
夏侯嬰は地図を見たまま、少しだけ口元を緩めた。
「ずいぶん腹が立ってるみたいだね」
「当たり前だ。あと少しというところで、毎回必ず出てくる」
「向こうからすれば、そのために出てきてるんだろうさ」
「だから分かってると言ってるだろ」
陳平は秦趙軍の駒を忌々しそうに見た後、使者を呼んだ。
韓信へ北上中止を伝える命令は、その日のうちに広武を発った。
◆
項羽が広武を離れた後も、漢軍は西広武に留まり続けた。
韓信には北上を止め、秦趙軍との接触を避けながら九江方面へ退くよう命令が送られている。北から秦と趙が南へ進み、東では項羽が彭城を目指していた。
その間も、劉邦はまだ目を覚まさなかった。




