第165話 広武の一矢
項羽からの使者が一騎討ちの申し入れを伝え終えると、劉邦は一瞬ぽかんとした後、堪えきれないように笑い出した。
「俺と項羽が二人で戦って、それで天下を決めるって?」
「西楚王項羽様は、天下を争う二人のために何万もの兵が死ぬ必要はないと仰せです。漢王劉邦様が応じられるならば、場所と時を定めたいとのこと」
「嫌だね。俺があの女と一対一で戦ったら、天下を取るより先に首が飛ぶだろ」
あまりにも迷いのない返答に、傍らの夏侯嬰が苦笑した。
使者だけは表情を変えず、改めて返答を求める。
「では、お断りになると」
「ああ。俺は自分が項羽より強いなんて、一度も思ったことはねえよ。あいつが一番得意な勝負を選んで、そこへ俺がわざわざ出ていく理由もない。そう伝えてくれ」
使者が退出すると、劉邦はまだ可笑しそうに笑いながら、卓上に置かれていた竹簡を手に取った。
数日前に届いた九江からの報告である。
楚将曹咎が戦死し、一年近く南へ押し留められていた韓信が軍を北へ向けた。その先にある楚の後背、とりわけ彭城が危うくなることは、漢側にも容易に想像できた。
「分かりやすいじゃねえか。韓信が動いた途端、俺と一騎討ちしようなんて言い出した。項羽の奴、焦ってるな」
「それは間違いないでしょう」
陳平が答えた。
「曹咎がいなくなった以上、韓信将軍を九江へ縛っておくものはありません。項羽は彭城を脅かされる前に、何らかの形で広武を終わらせたいのでしょう」
「だったら勝手に帰らせればいい。背中を向けたら、その時は追えるだけ追えばいいんだ」
劉邦にとって、一騎討ちの申し入れなどその程度の話だった。
だが項羽は、使者を寄越しただけでは終わらなかった。
◆
翌日、項羽自身が東広武の前へ姿を現した。
谷を隔てた向こう側でも見分けられるほど大柄な姿が馬上に立ち、楚兵が並ぶ前まで進み出る。やがて兵に伝えさせるでもなく、本人の声がそのまま西広武へ届いた。
「劉邦! 出て来い!」
漢兵たちの視線が一斉に対岸へ集まった。
「天下を争っているのはお前と私だろう! 一年も兵を並べて何をしている。私と戦え、それで決めればよい!」
陣の奥で声を聞いた劉邦は、呆れたように耳を掻いた。
「本当にやってるぞ。よくあんな声が出るな」
「笑ってばかりもいられないよ」
夏侯嬰は対岸を見ながら腕を組んだ。
「今日だけなら兵も笑って見てるさ。でも、毎日やられたら話が変わる。向こうの王は自分で前へ出て、こっちの王を呼び続けてる。それなのにあんたがずっと奥にいたら、兵の中にも余計なことを考える奴が出てくるよ」
「俺に出ていって殴り合えって?」
「そんな馬鹿なこと言ってないよ。一騎討ちをする必要はないけど、何も言い返さない必要もないだろ」
その日は劉邦も放っておいた。
だが翌日も、項羽は前へ出た。
「劉邦! いつまで兵の後ろへ隠れている!」
三日目には、漢兵の中にも項羽が出てくる時刻を待つ者が現れ始めた。面白がっている者が多いとはいえ、毎日呼びつけられているのに漢王が一度も姿を見せないという形は、夏侯嬰の言う通り放置し続けるには具合が悪い。
その夜、陳平が劉邦の幕舎へやって来た。
「そろそろ、何か言い返された方がよろしいでしょう」
「だから何を言えばいいんだよ。あいつと一騎討ちしたくないのは本当だし、腕じゃ勝てねえのも本当だぞ」
「そこは認めればよろしいのです」
「認めるのか?」
劉邦が怪訝そうな顔をすると、陳平は持ってきた竹簡を卓へ並べた。
「項羽は、自分が強いという一点へ話を持ち込もうとしております。ならばこちらは、強いだけで天下を勝手に扱ってよいのかと問い返せばいい。これまで項羽がしてきたことを、兵の前で一つずつ並べてやればよろしいでしょう」
「具体的には?」
「まず、楚王心を殺したことです」
劉邦の笑みが少し薄れた。
「項羽は楚王心の名を掲げて諸侯を集めながら、自らが力を持つと王を軽んじ、最後には排除しました。自分を王より上へ置いたと責めればよいでしょう」
陳平は次の竹簡へ指を移した。
「次に、楚へ背いた都市を焼き、抵抗した者を皆殺しにしてきたこと。従わない都市へ見せしめを行ったことは、兵にも分かりやすい」
「それは言えるな」
「そして、諸侯への論功行賞です。本来なら楚王心を立て、その名のもとで行うべきところを、項羽は自ら王号と領地を分けました。誰を王にし、誰へどこを与えるかまで勝手に決めた以上、楚王心を軽んじていたことと繋げられます」
「まだある顔してるな」
「ございます」
陳平の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「秦王だった子嬰を虞と改め、『虞美人』と呼んで傍らへ置いていることです」
夏侯嬰が横から口を挟んだ。
「そこまで持ち出すのかい。女同士で好き合ってることまで責めても、筋が違うんじゃないの」
「好き合っていることを責める必要はありません」
陳平は平然と答えた。
「秦を滅ぼした楚の覇王が、つい先まで秦王だった女を新しい名で呼び、自分の美人として侍らせている。そこをからかえば、兵は覚えます。項羽本人の事情まで丁寧に汲んでやる場ではありません」
「やっぱりお前、性格悪いな」
「今さらでございましょう」
劉邦は声を上げて笑った。
「分かった。あいつは俺を腰抜けにしたい。なら俺は、あいつが力に任せて天下を私物にしてるって言えばいいんだな」
「はい。一騎討ちなら負けると自分から認めても構いません。そのうえで、王を決めるのは腕力ではないと返せばよろしい」
「よし。それなら俺にもできる」
「順番は覚えてください」
「長いんだよ。もう一回最初から頼む」
陳平はため息をつきながら、もう一度竹簡を手に取った。
◆
夜半、西広武の前に松明が並べられた。
劉邦自らが前へ出たことで、周囲にはすぐ漢兵が集まった。対岸の楚陣でも動きに気づき、しばらくすると篝火の前へ項羽が現れる。
「項羽!」
劉邦が声を張った。
「毎日毎日うるせえんだよ! いるなら聞け!」
対岸から返ってきた声は、昼間と変わらずよく通った。
「ようやく出てきたか、劉邦。ならば降りて来い。兵を死なせ続けるより、お前と私で決めれば済む」
「断る!」
即答すると、周囲の漢兵から笑いが起きた。
「俺はお前より弱えよ! 一騎討ちなら勝てねえし、そんなことは俺も知ってる。だから、お前が一番得意な勝負にわざわざ付き合う気はねえ!」
今度はさらに大きな笑いが起きる。
項羽は笑わなかった。
「兵の後ろへ隠れる言い訳か」
「違うね。お前が腕っ節しか物差しを持ってねえって話だ!」
劉邦は対岸を指した。
「天下を語る前に、自分が何をしてきたか思い出せ、項羽! お前は楚王心の名を掲げて兵を集めた。それなのに、自分が強くなったら王を邪魔者扱いして、最後には殺したじゃねえか!」
漢軍からどよめきが広がり、それに歓声が重なった。
「使える間は王として担いで、用が済んだら消す。それがお前の忠義か!」
項羽の表情が僅かに強張る。
劉邦は止めなかった。
「お前に背いた町はどうした! 焼いたろ! 抵抗した奴らはどうした! 兵だけじゃなく、町ごと殺したことだって一度や二度じゃねえ! 自分に従わねえ奴がいれば、話をする前に剣を向ける。それがお前の天下か!」
あちこちから漢兵の声が上がる。
「楚王心を軽んじたくせに、諸侯への褒美だけは自分で決めた! こいつは王、こいつにはこの土地、こっちは別の土地って、全部お前が勝手に割り振ったじゃねえか! いつからお前が楚王心より偉くなったんだ!」
歓声がさらに大きくなった。
劉邦も、それに押されるように声を張る。
「それだけじゃねえ! 秦を滅ぼしたって威張ってるくせに、秦王子嬰はどうした! 名前まで虞に変えて、『虞美人』なんて呼んで自分の横へ侍らせてるじゃねえか!」
漢兵の間に笑いと野次が広がった。
「女同士で惚れた腫れたは勝手にやれ! 俺はそこまで口を出さねえよ! だが、昨日まで秦王だった女を自分の美人にして連れ歩いてる奴が、天下の筋だの王の道だの偉そうに語るな!」
武器を掲げる兵が増え、谷を隔てた東広武まで届くほどの歓声が起きた。
劉邦は完全に勢いに乗っていた。
「楚王心を殺して、逆らった町を焼いて、勝手に諸侯を王にして、滅ぼした国の王まで自分の美人にする。それで今度は、俺と殴り合って勝った方が天下人だって?」
劉邦は笑いながら首を振った。
「そんなもんは天下じゃねえ! お前の腕比べだ!」
漢軍の歓声が一段と強くなる。
「俺がお前より弱いから何だ! 王ってのは一番強い奴がなるもんじゃねえだろ! 兵に飯を食わせて、土地を守って、人を集めて、最後まで国を残した奴が勝つんだ!」
今度は笑いよりも歓声が勝った。
劉邦はさらに一歩前へ出る。
「俺を殺したきゃ、一騎討ちなんて言ってねえで、お前の軍を連れてこっちまで来やがれ! 一年も攻め落とせなかったくせに、今さら俺一人だけ出て来いなんて言う方が」
その時、対岸の項羽が近くの兵から弓を受け取った。
漢兵たちはまだ劉邦の言葉に沸いており、東広武で何が起きているのか気づいた者は少ない。
項羽は矢をつがえた。
夜の谷を隔ててはいるものの、劉邦は松明を背にして最前へ出ており、その姿だけははっきりと見えている。
項羽が弦を引き絞った。
劉邦はまだ笑いながら、対岸へ向かって口を開いていた。
弦が放たれる。
矢は漢兵の歓声を縫うように谷を越え、そのまま劉邦の胸へ深々と突き立った。




