↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第6章 定まらぬ天下

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

166/177

第165話 広武の一矢

 項羽(こうう)からの使者が一騎討ちの申し入れを伝え終えると、劉邦(りゅうほう)は一瞬ぽかんとした後、堪えきれないように笑い出した。


「俺と項羽(こうう)が二人で戦って、それで天下を決めるって?」


「西楚王項羽(こうう)様は、天下を争う二人のために何万もの兵が死ぬ必要はないと仰せです。漢王劉邦(りゅうほう)様が応じられるならば、場所と時を定めたいとのこと」


「嫌だね。俺があの女と一対一で戦ったら、天下を取るより先に首が飛ぶだろ」


 あまりにも迷いのない返答に、傍らの夏侯嬰(かこうえい)が苦笑した。


 使者だけは表情を変えず、改めて返答を求める。


「では、お断りになると」


「ああ。俺は自分が項羽(こうう)より強いなんて、一度も思ったことはねえよ。あいつが一番得意な勝負を選んで、そこへ俺がわざわざ出ていく理由もない。そう伝えてくれ」


 使者が退出すると、劉邦(りゅうほう)はまだ可笑しそうに笑いながら、卓上に置かれていた竹簡を手に取った。


 数日前に届いた九江(きゅうこう)からの報告である。


 楚将曹咎(そうきゅう)が戦死し、一年近く南へ押し留められていた韓信(かんしん)が軍を北へ向けた。その先にある楚の後背、とりわけ彭城(ほうじょう)が危うくなることは、漢側にも容易に想像できた。


「分かりやすいじゃねえか。韓信(かんしん)が動いた途端、俺と一騎討ちしようなんて言い出した。項羽(こうう)の奴、焦ってるな」


「それは間違いないでしょう」


 陳平(ちんぺい)が答えた。


「曹咎(そうきゅう)がいなくなった以上、韓信(かんしん)将軍を九江(きゅうこう)へ縛っておくものはありません。項羽(こうう)は彭城(ほうじょう)を脅かされる前に、何らかの形で広武(こうぶ)を終わらせたいのでしょう」


「だったら勝手に帰らせればいい。背中を向けたら、その時は追えるだけ追えばいいんだ」


 劉邦(りゅうほう)にとって、一騎討ちの申し入れなどその程度の話だった。


 だが項羽(こうう)は、使者を寄越しただけでは終わらなかった。


◆


 翌日、項羽(こうう)自身が東広武(とうこうぶ)の前へ姿を現した。


 谷を隔てた向こう側でも見分けられるほど大柄な姿が馬上に立ち、楚兵が並ぶ前まで進み出る。やがて兵に伝えさせるでもなく、本人の声がそのまま西広武(せいこうぶ)へ届いた。


「劉邦(りゅうほう)! 出て来い!」


 漢兵たちの視線が一斉に対岸へ集まった。


「天下を争っているのはお前と私だろう! 一年も兵を並べて何をしている。私と戦え、それで決めればよい!」


 陣の奥で声を聞いた劉邦(りゅうほう)は、呆れたように耳を掻いた。


「本当にやってるぞ。よくあんな声が出るな」


「笑ってばかりもいられないよ」


 夏侯嬰(かこうえい)は対岸を見ながら腕を組んだ。


「今日だけなら兵も笑って見てるさ。でも、毎日やられたら話が変わる。向こうの王は自分で前へ出て、こっちの王を呼び続けてる。それなのにあんたがずっと奥にいたら、兵の中にも余計なことを考える奴が出てくるよ」


「俺に出ていって殴り合えって?」


「そんな馬鹿なこと言ってないよ。一騎討ちをする必要はないけど、何も言い返さない必要もないだろ」


 その日は劉邦(りゅうほう)も放っておいた。


 だが翌日も、項羽(こうう)は前へ出た。


「劉邦(りゅうほう)! いつまで兵の後ろへ隠れている!」


 三日目には、漢兵の中にも項羽(こうう)が出てくる時刻を待つ者が現れ始めた。面白がっている者が多いとはいえ、毎日呼びつけられているのに漢王が一度も姿を見せないという形は、夏侯嬰(かこうえい)の言う通り放置し続けるには具合が悪い。


 その夜、陳平(ちんぺい)が劉邦(りゅうほう)の幕舎へやって来た。


「そろそろ、何か言い返された方がよろしいでしょう」


「だから何を言えばいいんだよ。あいつと一騎討ちしたくないのは本当だし、腕じゃ勝てねえのも本当だぞ」


「そこは認めればよろしいのです」


「認めるのか?」


 劉邦(りゅうほう)が怪訝そうな顔をすると、陳平(ちんぺい)は持ってきた竹簡を卓へ並べた。


「項羽(こうう)は、自分が強いという一点へ話を持ち込もうとしております。ならばこちらは、強いだけで天下を勝手に扱ってよいのかと問い返せばいい。これまで項羽(こうう)がしてきたことを、兵の前で一つずつ並べてやればよろしいでしょう」


「具体的には?」


「まず、楚王心(しん)を殺したことです」


 劉邦(りゅうほう)の笑みが少し薄れた。


「項羽(こうう)は楚王心(しん)の名を掲げて諸侯を集めながら、自らが力を持つと王を軽んじ、最後には排除しました。自分を王より上へ置いたと責めればよいでしょう」


 陳平(ちんぺい)は次の竹簡へ指を移した。


「次に、楚へ背いた都市を焼き、抵抗した者を皆殺しにしてきたこと。従わない都市へ見せしめを行ったことは、兵にも分かりやすい」


「それは言えるな」


「そして、諸侯への論功行賞です。本来なら楚王心(しん)を立て、その名のもとで行うべきところを、項羽(こうう)は自ら王号と領地を分けました。誰を王にし、誰へどこを与えるかまで勝手に決めた以上、楚王心(しん)を軽んじていたことと繋げられます」


「まだある顔してるな」


「ございます」


 陳平(ちんぺい)の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。


「秦王だった子嬰(しえい)を虞(ぐ)と改め、『虞美人』と呼んで傍らへ置いていることです」


 夏侯嬰(かこうえい)が横から口を挟んだ。


「そこまで持ち出すのかい。女同士で好き合ってることまで責めても、筋が違うんじゃないの」


「好き合っていることを責める必要はありません」


 陳平(ちんぺい)は平然と答えた。


「秦を滅ぼした楚の覇王が、つい先まで秦王だった女を新しい名で呼び、自分の美人として侍らせている。そこをからかえば、兵は覚えます。項羽(こうう)本人の事情まで丁寧に汲んでやる場ではありません」


「やっぱりお前、性格悪いな」


「今さらでございましょう」


 劉邦(りゅうほう)は声を上げて笑った。


「分かった。あいつは俺を腰抜けにしたい。なら俺は、あいつが力に任せて天下を私物にしてるって言えばいいんだな」


「はい。一騎討ちなら負けると自分から認めても構いません。そのうえで、王を決めるのは腕力ではないと返せばよろしい」


「よし。それなら俺にもできる」


「順番は覚えてください」


「長いんだよ。もう一回最初から頼む」


 陳平(ちんぺい)はため息をつきながら、もう一度竹簡を手に取った。


◆


 夜半、西広武(せいこうぶ)の前に松明が並べられた。


 劉邦(りゅうほう)自らが前へ出たことで、周囲にはすぐ漢兵が集まった。対岸の楚陣でも動きに気づき、しばらくすると篝火の前へ項羽(こうう)が現れる。


「項羽(こうう)!」


 劉邦(りゅうほう)が声を張った。


「毎日毎日うるせえんだよ! いるなら聞け!」


 対岸から返ってきた声は、昼間と変わらずよく通った。


「ようやく出てきたか、劉邦(りゅうほう)。ならば降りて来い。兵を死なせ続けるより、お前と私で決めれば済む」


「断る!」


 即答すると、周囲の漢兵から笑いが起きた。


「俺はお前より弱えよ! 一騎討ちなら勝てねえし、そんなことは俺も知ってる。だから、お前が一番得意な勝負にわざわざ付き合う気はねえ!」


 今度はさらに大きな笑いが起きる。


 項羽(こうう)は笑わなかった。


「兵の後ろへ隠れる言い訳か」


「違うね。お前が腕っ節しか物差しを持ってねえって話だ!」


 劉邦(りゅうほう)は対岸を指した。


「天下を語る前に、自分が何をしてきたか思い出せ、項羽(こうう)! お前は楚王心(しん)の名を掲げて兵を集めた。それなのに、自分が強くなったら王を邪魔者扱いして、最後には殺したじゃねえか!」


 漢軍からどよめきが広がり、それに歓声が重なった。


「使える間は王として担いで、用が済んだら消す。それがお前の忠義か!」


 項羽(こうう)の表情が僅かに強張る。


 劉邦(りゅうほう)は止めなかった。


「お前に背いた町はどうした! 焼いたろ! 抵抗した奴らはどうした! 兵だけじゃなく、町ごと殺したことだって一度や二度じゃねえ! 自分に従わねえ奴がいれば、話をする前に剣を向ける。それがお前の天下か!」


 あちこちから漢兵の声が上がる。


「楚王心(しん)を軽んじたくせに、諸侯への褒美だけは自分で決めた! こいつは王、こいつにはこの土地、こっちは別の土地って、全部お前が勝手に割り振ったじゃねえか! いつからお前が楚王心(しん)より偉くなったんだ!」


 歓声がさらに大きくなった。


 劉邦(りゅうほう)も、それに押されるように声を張る。


「それだけじゃねえ! 秦を滅ぼしたって威張ってるくせに、秦王子嬰(しえい)はどうした! 名前まで虞(ぐ)に変えて、『虞美人』なんて呼んで自分の横へ侍らせてるじゃねえか!」


 漢兵の間に笑いと野次が広がった。


「女同士で惚れた腫れたは勝手にやれ! 俺はそこまで口を出さねえよ! だが、昨日まで秦王だった女を自分の美人にして連れ歩いてる奴が、天下の筋だの王の道だの偉そうに語るな!」


 武器を掲げる兵が増え、谷を隔てた東広武(とうこうぶ)まで届くほどの歓声が起きた。


 劉邦(りゅうほう)は完全に勢いに乗っていた。


「楚王心(しん)を殺して、逆らった町を焼いて、勝手に諸侯を王にして、滅ぼした国の王まで自分の美人にする。それで今度は、俺と殴り合って勝った方が天下人だって?」


 劉邦(りゅうほう)は笑いながら首を振った。


「そんなもんは天下じゃねえ! お前の腕比べだ!」


 漢軍の歓声が一段と強くなる。


「俺がお前より弱いから何だ! 王ってのは一番強い奴がなるもんじゃねえだろ! 兵に飯を食わせて、土地を守って、人を集めて、最後まで国を残した奴が勝つんだ!」


 今度は笑いよりも歓声が勝った。


 劉邦(りゅうほう)はさらに一歩前へ出る。


「俺を殺したきゃ、一騎討ちなんて言ってねえで、お前の軍を連れてこっちまで来やがれ! 一年も攻め落とせなかったくせに、今さら俺一人だけ出て来いなんて言う方が」


 その時、対岸の項羽(こうう)が近くの兵から弓を受け取った。


 漢兵たちはまだ劉邦(りゅうほう)の言葉に沸いており、東広武(とうこうぶ)で何が起きているのか気づいた者は少ない。


 項羽(こうう)は矢をつがえた。


 夜の谷を隔ててはいるものの、劉邦(りゅうほう)は松明を背にして最前へ出ており、その姿だけははっきりと見えている。


 項羽(こうう)が弦を引き絞った。


 劉邦(りゅうほう)はまだ笑いながら、対岸へ向かって口を開いていた。


 弦が放たれる。


 矢は漢兵の歓声を縫うように谷を越え、そのまま劉邦(りゅうほう)の胸へ深々と突き立った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。