第164話 一騎討ち
曹咎敗死の報せが邯鄲へ届いたのは、戦が終わってから数日後だった。
南から駆けてきた使者が伝えられたのは、九江で楚軍が敗れ、曹咎が戦死したこと、そして一年近く足止めされていた韓信が軍を北へ向けたという事実だけだった。どのような経緯で曹咎が陣を出たのか、戦場で何が起きたのかまでは、まだこちらへ届いていない。
「北へ向かってるなら、狙いは彭城か」
黥布が地図を覗き込みながら言うと、楊端和は九江から北へ伸びる道を指で追った。
「その可能性が高い。曹咎が死んだ以上、韓信があそこに留まる理由はないからな」
曹咎が健在だった間、韓信は五万の兵を抱えながら一年近く南へ縛られていた。その障害が消えた今、楚の後背へ入るなら彭城は避けて通れない。
「扶蘇様からは、楚の戦線が崩れた時には援けるよう命じられている。ここで待っている理由はない。秦軍は南へ向かう」
「なら俺も行く。韓信って奴が来るなら、ちょうどいい」
黥布がすぐに乗ると、楊端和は横目で見た。
「見るだけにしておけ。勝手に突っ込まれると困る」
「俺を何だと思ってるんだ」
「今までのお前を見て言っている」
「ひでえ言い草だな。俺だって一人で殴りかかったりはしねえよ」
「なら問題ない」
張耳は二人のやり取りを聞きながら、すでに趙軍をどこまで出せるか考えていた。
「趙からも兵を出します。韓信が彭城を取れば、漢の勢力が一気に東へ広がります。楚だけに背負わせる状況ではありません」
秦兵と趙兵を合わせれば、およそ六万になる。
扶蘇から与えられた命令も、漢領へ攻め込んで土地を奪えというものではなかった。楚が崩れかけた時に支え、漢だけが一方的に勢力を広げることを防ぐ。そのためなら、今は動くべきだった。
「決まりだな。今日中に支度を始める」
楊端和が告げると、黥布も席を立った。
「ようやく南か。北に長く居すぎて身体が鈍ってきたところだ」
「鈍っているくらいでちょうどいい。少しは前へ出る速さが落ちるだろう」
「お前、最近俺への扱いが雑になってねえか?」
「気のせいだ」
張耳が僅かに笑いながら立ち上がる。
詳しい敗因を知るのは後でいい。今必要なのは、韓信が彭城へ迫る前に、そこへ六万を入れることだった。
◆
同じ敗報は、ほどなく広武の項羽にも届いた。
使者が曹咎の戦死を告げると、項羽はしばらく返事をしなかった。
「……死んだのか」
「はい」
「陣を出て、韓信と戦ったのだな」
「そのように聞いております。詳しい戦況については、まだ報告が揃っておりません」
項羽は使者を下がらせた。
幕舎が静かになると、頭に浮かんだのは曹咎へ送った使者のことだった。
あの衣も帛書も出来すぎていると思ったし、曹咎を裏切り者だと決めつけたわけでもない。罪を問うことさえ禁じ、ただ本人へ見せて事実を確かめるよう命じただけだった。
それでも、その使者が九江へ着いた後に曹咎は陣を出て、そのまま帰ってこなかった。
「確認しただけ、か」
項羽は自分で口にして、その言葉の軽さに眉を寄せた。
自分にとっては確認だった。
だが一年近く命令を守り、韓信を押さえ続けてきた曹咎にとって、西楚王から内通を確かめる使者が来ることがどれほど重かったのか。
ほんの僅かな疑念ですらなかったのかもしれない。それでも、自分が使者を送らなければ曹咎は陣を出なかったのではないかという考えが残った。
卓上の地図を眺めているうちに、別の顔が脳裏へ浮かぶ。
范増がまだ生きていたなら、どうしただろう。
あの衣を見たところで陳平の小細工だと切り捨て、帛書ごと火へ投げ込んだかもしれない。自分が念のため使者を出そうとすれば、その「念のため」こそ相手が望んでいるのだと止めただろうか。
確かめようがない。
范増は、もういなかった。
今さら死者に答えを求めても、これから動く軍を止めることはできない。
「韓信は?」
呼ばれた将が地図の前へ出る。
「九江を離れ、北へ向かっております。兵も大きくは減っていないようです」
「なら、彭城を狙うか」
「その可能性が高いかと」
項羽は地図へ視線を落とした。
龍且は斉におり、すぐに彭城へ戻せる位置ではない。曹咎が死んだ今、韓信が北上すれば楚の後背を直接脅かすことになる。
本来なら、自分がすぐにでも東へ戻るべきだった。
だが谷の向こうには、劉邦がいる。
こちらが軍を返した途端に追撃されれば、彭城へ急ぐ軍が背後から漢兵を受けることになる。この一年、劉邦は攻めれば守り、こちらが機を窺えば動かず、敖倉から届く兵糧を使って西広武へ居座り続けた。
このままもう一年付き合う余裕はなかった。
「使者を出せ」
近くにいた将が顔を上げた。
「劉邦へ、でございますか」
「ああ。天下を争っているのが私と劉邦なら、兵を何万も並べて死なせる必要はないと伝えろ」
将はその言葉の意味を察したらしく、表情を変えた。
「一騎討ちを申し込まれるのですか」
「そうだ。一年も向かい合ったのだ。もう十分だろう」
項羽は谷の向こうにある西広武へ目を向けた。
「私と劉邦の二人で戦えばよい。私が負ければ首を取らせる。あいつが負ければ漢軍を退かせる。それで決まるなら、これ以上兵を減らす必要もない」
「劉邦が応じるとは限りません」
「分かっている。応じるかどうかは、あいつが決めればよい」
項羽も、素直に出てくるとは思っていなかった。
それでも曹咎が死に、韓信まで北へ動いた以上、広武で同じ睨み合いを続けることはできない。
「行け。返事を聞いてこい」
命を受けた使者が幕舎を出ていった。
項羽はその背を見送った後、九江から北へ伸びる道へ目を戻した。
自分の使者が曹咎を死に追いやしたのか、その答えはまだ出ない。
ただ一つ確かなのは、韓信が北へ向かっていることだった。
ならば、その軍が彭城へ届く前に、目の前の一年を終わらせなければならない。




