第163話 離間
広武で楚漢両軍が向かい合うようになってから、すでに一年近くが過ぎていた。
大軍同士が谷を挟んで睨み合っているとはいえ、その間ずっと戦い続けていたわけではない。捕虜の交換や戦死者の収容、陣地の境を巡る交渉など、長く同じ場所に留まれば敵同士でも話を通さなければならない場面はあり、楚と漢の軍使が互いの陣を行き来することも珍しくなくなっていた。
その日、楚軍から一人の使者が西広武へ入った時も、漢兵たちはいつもの軍使と同じように取り次いだ。
ところが陳平の幕舎へ通されると、使者は予想もしなかった歓待を受けた。
「ようやく来られたか。随分待ったぞ」
陳平は相手が名乗るより早く席を勧め、酒と料理を運ばせた。軍中では滅多に口へ入らない肉や魚、果物まで卓上へ並べられ、酒も兵へ配る薄いものではなく、明らかに客を迎えるため取っておいた上等な品だった。
「遠路ご苦労だった。話は後でよいから、まずは飲まれよ」
「……では、ありがたく頂戴いたします」
「そう固くならずともよい。こちらも長く待たせていることは承知している」
何を待たせているのか分からなかったが、使者は敵陣で余計な詮索をすることを避け、勧められるまま杯を取った。
陳平は上機嫌だった。
「しかし長かったな。まさか一年近く掛かるとは思っていなかった」
「左様ですな」
「まあ、ここまで来れば焦る必要もない。時機を誤って、それまで積み上げたものを失う方が馬鹿らしいからな」
使者には話の筋が見えなかったものの、陳平は説明する気もないらしく、すぐに別の話へ移ってまた酒を注いだ。
結局、酒壺が一本空になり、料理の大半を食べ終えるまで、使者がどこから来たのかを尋ねられることはなかった。
本来の用件についても、使者が切り出せば陳平は普通に応じた。捕虜の引き渡しについて必要な条件を伝え、細かな日取りまで決めたところで話は終わり、使者が腰を上げようとすると、陳平が思い出したように手を叩いた。
「そうだ。せっかく来たのだから、これも持って帰っていただこう」
従者が運び込んできたのは、上質な木で作られた細長い箱だった。
陳平が自ら蓋を開くと、中には深い朱を基調にした女物の礼装が収められていた。金糸を使った刺繍こそ華やかだが、若い娘が好むような軽い仕立てではなく、黒い縁取りと幅広の帯を合わせた落ち着いた意匠で、長く軍を率いてきた年嵩の女将が宴席で身につけても違和感のない品だった。
「これはまた、見事なものですな」
「気に入ると思ってな。鎧ばかりでは味気ないだろう」
陳平は楽しそうに衣を広げ、縫い目まで確かめてから箱へ戻した。
「酒も肉も十分出したし、これまで持って帰れば機嫌も悪くならんだろう。曹咎殿へよろしく伝えてくれ」
使者の手が止まった。
「……曹咎将軍?」
「ん?」
「なぜ、ここで曹咎将軍のお名前が出るのでしょう」
陳平の笑みが消えた。
数呼吸の間、二人とも何も言わなかった。
「……お前、誰の使いだ?」
「西楚王項羽様の使者にございますが」
今度は、はっきりと嫌な顔をした。
陳平は卓上に残った空の皿と酒壺を見回し、それから使者へ視線を戻した。
「項羽殿の使者だったのか」
「先ほど申し上げた捕虜交換の件も、すべて項羽様より承ったものですが」
「……なら、最初にそう言ってくれればよかったものを」
「私は名乗ろうといたしました。陳平殿が先に席を勧められたのです」
「それは、まあ……そうだったな」
先ほどまで散々飲み食いさせていた相手を見る目ではなかった。
使者はその変わりようを眺めてから、木箱へ視線を落とした。
「では、こちらの衣も曹咎将軍へ贈られるおつもりだったのですな」
「渡す相手を間違えただけだ。忘れてくれ」
「それなら私が持ち帰りましょう」
「何?」
「項羽様に御覧いただいた上で、曹咎将軍へ下賜していただけばよろしい。漢から直接贈られるより、その方が将軍も受け取りやすいでしょう」
陳平はすぐに首を振った。
「その必要はない」
「なぜです?」
「必要がないからだ」
「先ほどまでは、わざわざ私に持たせようとしておられたではありませんか」
使者が箱へ手を伸ばすと、陳平は露骨に眉を寄せたものの、強引に取り返そうとはしなかった。
それを見た使者は、かえって箱を置いて帰る気を失った。
「こちらは項羽様へお預けいたします」
陳平は返事をせず、散々酒食を振る舞ったことまで惜しくなったような顔で、その背を見送った。
◆
楚陣へ戻った使者は、西広武で起きたことを最初から項羽へ報告した。
「つまり陳平は、お前を最後まで曹咎の使者だと思っていたのだな」
「そうとしか思えません。私が項羽様の使者だと明かした途端、それまでの態度が嘘のように変わりました」
「それで、これを持ち帰ったのか」
「はい。陳平は嫌がりましたが、なぜ持ち帰られて困るのかは答えませんでした」
木箱が運ばれると、項羽は中から衣を取り出した。
華やかな品ではあるが、広げた瞬間に自分のための衣ではないと分かった。女としてもかなり背が高く、身体つきの大きい項羽には袖も裾も短く、肩幅もまるで足りない。
「私には小さいな」
「曹咎将軍であれば、よく合う大きさかと存じます」
項羽は返事をせず、衣を裏返した。
裏襟には、表からは見えないほど小さく「曹」の一字が縫い込まれていた。
ただ体格が似ているだけなら偶然とも言えるが、ここまでくれば誰へ贈るために仕立てた品なのかは明らかだった。
「……随分と手が込んでいる」
項羽が衣を箱へ戻そうとすると、底板が僅かに動いた。
「待て」
中身をすべて取り出させると、箱の底が二重になっていることが分かった。
その奥から、折り畳まれた帛書が出てくる。
項羽は自ら開いた。
『先の約、違うことなし。事成れば必ず王号をもって報いる。疑うことなかれ』
末尾には漢王劉邦の名と印があった。
何を成せば王にするのかは書かれていない。
しかし、曹咎のために仕立てたとしか思えない衣の底から出てきた以上、読み手が意味を結びつけるには十分だった。
「……出来すぎているな」
項羽はすぐに帛書を卓へ置いた。
「陳平なら、この程度の芝居はやる」
「では、偽書とお考えですか」
「分からん。だが、これだけで曹咎を疑い切るほど私は愚かではない」
曹咎が韓信と決戦しないのは、項羽自身がそう命じたからだった。勝つ必要はなく、北へ通さなければよいという命令を守り、四万の兵で五万の漢軍を一年近く九江へ縛りつけている。
その働きを、怪しい衣と帛書だけで裏切りに変えるつもりはなかった。
「使者を出せ。罪を問うのではない。この衣と帛書を曹咎本人に見せ、覚えがあるか確かめろ。この一年に漢と交わした軍使や書状についても、一度整理して報告させればよい」
「承知しました」
命令を受けた使者が退出した後も、項羽は衣と帛書を片づけさせなかった。
陳平の策だと思っている。
それでも、何も見なかったことにはできなかった。
◆
項羽からの使者が九江へ着くと、曹咎は衣を見せられた時点で顔をしかめた。
「私の物ではない」
裏襟に縫い込まれた文字を見ても、隠し底から出てきた帛書を読んでも答えは変わらなかった。
「このような衣を頼んだ覚えも、漢から受け取ったこともない。まして劉邦から王位を約束されたことなど一度もない」
「項羽様も、これを真実と決めつけてはおられません。ただ、事実を確かめよとの御命令です」
「分かっている。あの方が本気で私を裏切り者と見ているなら、確認の使者だけで済ませるはずがない」
曹咎は帛書を卓上へ置き、苦々しい顔でそれを見た。
「陳平だろう」
「そうお考えですか」
「私がここを動かないからな。韓信が一年かけても陣から出せなかったから、今度は項羽様との間を裂きにきた」
策であること自体は見えていた。
問題は、見破ればそれで終わるような仕掛けではないことだった。
広武から項羽の使者が入り、主将である曹咎に漢との接触を問い、軍使や捕虜交換の記録まで確認している。理由を兵へ伏せたところで何事か起きたことまでは隠せず、数日も経たないうちに、漢王から王位を約束されているらしいという形に変わって陣中へ広まり始めた。
「放っておけばよろしいのです」
軍議の席で副将が言った。
「我々は一年近く韓信をここへ留めております。その事実だけで十分ではありませんか」
「将たちがそう思っていても、四万の兵すべてが同じとは限らん」
曹咎は地図から目を上げた。
「今までは、私が追うなと言えば皆が従った。これから同じ命令を出すたび、なぜ攻めないのかと疑われるようになれば、この守りは長く続かん」
「噂を広める者を捕らえます」
「口を塞いで、疑いまで消せるならな」
曹咎は、一年守り続けてきた陣の配置へ視線を戻した。
韓信が退いても追わず、弱みを見せても食いつかず、攻められれば必要な場所だけへ兵を送る。その戦い方が成り立っていたのは、四万の兵が主将の判断を信じていたからだった。
今や、その信頼だけが狙われている。
「決戦をするつもりはない」
曹咎は副将たちへ告げた。
「前衛を一度叩き、旗と捕虜を持ち帰る。私が漢と通じていないことを軍の前で示したら、また陣へ戻る」
「それこそ敵の望みではありませんか」
「分かっている。だから韓信の本陣には近づかず、退く敵も追わん。前にいる兵を叩くだけだ」
「曹咎将軍御自身が出る必要もありません」
「私が出なければ意味がない」
副将たちはなおも反対したが、曹咎は決定を変えなかった。
罠だと分かっている。
それでも一度傷ついた軍の信頼を抱えたまま、これまでと同じ守りを続けることはできない。
その判断まで含めて陳平に読まれているのかもしれないと思うと、腹立たしさは増した。
◆
同じ頃、韓信の陣にも広武から書状が届いていた。
送り主は陳平だった。
韓信は一度目を通すと火鉢へ放り込み、帛が燃えていく間に副将へ命じた。
「前衛を少し下げる」
「曹咎が出ると?」
「分からない。出なければ何もしない」
「出た場合は?」
「帰さない」
この一年、韓信は曹咎の守りを何度も試してきた。
攻めれば必要な場所へ予備を回し、こちらが退けばそこで止まり、多少の隙を見せても追撃してこない。正面から力で破れない相手ではなかったが、突破するために多くの兵を失えば、北へ進んだ後に戦える軍が残らない。
だから無理には攻めなかった。
「急に弱くなったように見せるな。いつもより少し押せる程度でいい」
韓信は地図上の道と低い丘を確認した。
「弩兵は左右へ伏せる。別働隊は大きく後ろへ回せ。ただし曹咎が退き始めるまで姿を見せるな。本陣に残った楚兵にも別の部隊を当てて、救援へ出られないようにしておけ」
「承知しました」
副将が去ると、韓信は地図へ目を戻した。
曹咎が陣から出なければ、それまでである。
出てくるなら、その一度を逃すつもりはなかった。
◆
翌朝、曹咎は二万余りを率いて陣を出た。
残る兵には街道と本営を守らせ、自分は漢軍の前衛だけを叩いて戻るつもりだった。戦いが始まってもその方針は変わらず、楚軍が漢兵を押し込んでも追撃を急がせず、斥候を左右へ走らせながら慎重に前へ出た。
「敵が退いても走るな。隊列を崩した者は呼び戻せ」
漢軍は交戦するたび少しずつ後退したが、不自然に崩れることはなかった。
曹咎も、それがかえって韓信らしいと感じていた。
やがて前衛の一角が大きく下がり、二本の旗を置き去りにする。
副将が馬を寄せた。
「将軍、ここまでで十分でしょう」
「ああ。旗を回収したら戻る」
目的は果たした。
兵を反転させ、元の陣へ向かわせようとしたところで、遠くから漢軍の太鼓が鳴った。
先ほどまで後退していた部隊が足を止め、左右にも新たな旗が上がった。
「やはり来たか」
曹咎は後衛をすぐに反転させた。
「前は捨てろ。陣へ戻る道を確保する」
楚軍が方向を変える。
その帰路にも、漢軍が現れた。
正面で曹咎を引きつけている間に、別働隊が大きく回り込んでいた。まだ完全に包囲されたわけではないが、時間を掛ければ左右の兵まで繋がる。
「一点を破る。散るな!」
楚兵が来た道へ向かって突撃する。
最初の衝突では楚軍が漢兵を押し込み、盾と槍の列へ食い込んだ。曹咎はそこへ予備を送り、あと少しで道が開くというところまで押し返す。
左右から太鼓が鳴ったのは、その時だった。
低い丘と歩兵の後ろに伏せていた弩兵が姿を現し、突破のため密集していた楚軍へ一斉に矢を放った。
「盾を上げろ! 足を止めるな!」
一射目を受けても、楚軍は崩れなかった。
だが二射目、三射目と続くうちに先頭から兵が倒れ、その間に退路を塞ぐ漢軍へ新しい部隊が加わっていく。別の場所へ突破口を求めれば左右の漢兵が寄せられ、楚軍が向きを変えるたび包囲は狭くなった。
さらに遠くでは、陣に残してきた楚軍も漢の別働隊に押さえられ、こちらへ兵を出す余裕を奪われている。
曹咎はそこで初めて、韓信が最初から自分を倒すためではなく、戻れなくするために兵を置いていたことを悟った。
「将軍、お下がりください!」
「ここで私が下がれば、兵が崩れる!」
曹咎は旗の近くへ出て、突破口へ兵を送り続けた。
その周囲にも弩矢が降る。
一本が肩へ突き刺さり、続いて脇腹へ入った。
「曹咎将軍!」
「私に構うな! 前を開けろ!」
副将の手を振り払い、曹咎は退路を指した。
楚軍は何度も漢軍へぶつかり、一度は包囲の一角を押し崩した。数百の兵が外へ抜けたものの、韓信はすぐに予備を送り込み、そこから道を広げさせなかった。
曹咎の周囲にも、さらに矢が降った。
「項羽様に伝えろ」
副将が血に濡れた身体を支えながら顔を寄せる。
「私は漢に降ってなどいない。最後まで、韓信を北へ通すつもりなどなかったとな」
「将軍も戻ります。一緒に来てください」
「私を担いで走れば、お前たちまでここで死ぬ」
曹咎は副将の腕を押し返した。
「残った兵を連れて行け。陣まで戻して、項羽様に伝えろ」
副将は動こうとしなかったが、周囲へ弩矢が突き刺さり、残った兵たちが次々に倒れていくのを見て、とうとう命令に従った。
包囲の薄い場所へ向かう兵たちを見送りながら、曹咎は旗のそばに残った。
肩と脇腹から流れた血が鎧を濡らし、もう自力で立っていることも難しくなっていた。
それでも、最後まで漢軍へ背を向けなかった。
一年近く韓信を南へ釘付けにし続けた楚将曹咎は、自らが守り続けた陣へ戻ることなく、その戦場で息絶えた。




